わたしが学びを得るためには、刺激の少ない時間と場所が必要なのである。
	それは、内部的な刺激は細(こま)やかなものであり、その奥深い趣(おもむき)を理解することは簡単なことではないのだ。
	そのため、古くから多くの人たちが、自ら孤独と向き合い、内部的な刺激を学び取ろうと努めてきたのである。
	インドの禅(ぜん)は偏っていて、わたしには不器用な方法に思えるが、読者には想像し易いかも知れない。
	実社会の中で日常生活を送り、その中で静寂を生きることが良いだろう。
	しかしながら、日常生活にも多くの外部的な刺激が溢れている。
	今のわたしにはそれが”重たい”のである。
	そのために、時折、山に出向いては内向することによってリフレッシュするのだ。