このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年3月31日金曜日

追憶 1663

わたしが学びを得るためには、刺激の少ない時間と場所が必要なのである。
それは、内部的な刺激は細(こま)やかなものであり、その奥深い趣(おもむき)を理解することは簡単なことではないのだ。
そのため、古くから多くの人たちが、自ら孤独と向き合い、内部的な刺激を学び取ろうと努めてきたのである。
インドの禅(ぜん)は偏っていて、わたしには不器用な方法に思えるが、読者には想像し易いかも知れない。
実社会の中で日常生活を送り、その中で静寂を生きることが良いだろう。
しかしながら、日常生活にも多くの外部的な刺激が溢れている。
今のわたしにはそれが”重たい”のである。
そのために、時折、山に出向いては内向することによってリフレッシュするのだ。

2017年3月30日木曜日

追憶 1662

外向的な性質が強く現れている人にとっては、山は退屈な場所に過ぎない。
それは、外向的な性質が強く現れている人は、外部的な刺激によって何かを学び取る必要があるからだ。
そのため、外向的な性質が強く現れている人は、人工物の多い場所を好む。
都会のように、色や形や音などの激しく刺激的な変化を求めるのである。
心が外部に向けられているために、穏やかで刺激の少ない場所では学び取ることはできないのだ。
わたしの心は内部的な刺激を必要としていた。
内部的な刺激を認識するためには、外部的な刺激が邪魔になるのである。

2017年3月29日水曜日

追憶 1661

心の状態は、天候のように変化に富んでいる。
今日は外向的であったとしても、明日には内向的であることもある。
心の状態は学びに従って変化するようだ。
外向的と内向的な性質は、すべての人の心に備わる自然の力である。
どちらが優れているということではない。
どちらにも、長短はある。
重要なのは、そこから学び取ることである。
今のわたしは内向的な性質が強く現れているために、孤独を愛し、静寂を楽しむのだ。
その手段の一つが、バイクでの山道の探検であった。
バイクと山は、容易にわたしに孤独と静寂を与えてくれるのである。

2017年3月28日火曜日

追憶 1660

20歳を過ぎて、霊的(自分自身と向き合うこと)な道を志してからは、内向的な性質が顕著(けんちょ)に現れたように思う。
わたしは元来、人に会うことが好きであり、騒がしく、刺激的な状況を好んでいたが、その傾向は弱まった。
人に会うことは好きではあるが、広く浅く付き合うという気持ちから、狭く深い関係を求めるようになった。
そして、静かで刺激の少ない状況を好むようになったのである。
わたしは自分自身と向き合うことに比重を起き、外の世界は、内の世界を理解するためのヒントになった。
以前は、外の世界のために内の世界があると思っていたが、今は内の世界のために外の世界があると思うのである。

2017年3月27日月曜日

追憶 1659

わたしは内向的な性質である。
内向的な性質とは、根が暗いとか、大人しいということではない。
わたしは非常に活発であり、多動が見られた。
小学生の頃は、授業を抜け出して学校の近くの山で遊んでいて連れ戻されるというような迷惑なガキであったのである。
そうかと思えば、非常にナイーブな性格であり、自分自身や他人の様々な言動によって気分が沈み、自責の念に捕らわれることがしばしばあった。
幼い頃のわたしは自らの性質に苦悩していたが、それと向き合わされることによって、外向的な性質に包まれた内向的な性質が自分の姿であると思うようになった。
わたしは外向的な性質によって問題を引き起こし、内向的な性質によって理解を深めるという作業をしているのではないかと思えるのである。

2017年3月26日日曜日

追憶 1658

山には何も無いが、多くのものがあった。
わたしにとって価値があるのは静寂である。
それは、自分自身と向き合うことや、”エネルギー”の充電ができるからである。
わたしは孤独を愛し、静寂を楽しむ。
それが山にはあるのだ。
それに、山には多くの生命が存在し、力が溢れているように感じる。
それを体感することによって、わたしは活力を得るのである。
それから、最も重要なことは、時々ではあるが、不思議な存在に出会えることである。
以前に仲良くなった山道の子どもやアメウリノミコトのように、山には不思議な存在がたくさんいる。
それ等がわたしを魅了(みりょう)するのであった。

2017年3月25日土曜日

追憶 1657

わたしが生まれ育った宇和島市津島町というのは、山と海に囲まれたような場所である。
山と海しかないと言っても過言ではないだろう。
そのため、幼い頃から自然環境には事欠かなかった。
わたしが光の仕事を始めて思ったのは、津島町はとても良い土地であるということだった。
それは、わたしにとって都合の良い土地であるとも言えるだろう。
それは、深い山には多くの山道が整備されているからである。
津島町には平地が少なく、多くの人は海岸や山間を生活の拠点とした。
それが、多くの山道を整備した理由であるだろう。
わたしにとっては、それが格好の遊び場なのである。

2017年3月24日金曜日

追憶 1656

わたしが夢の中で運んでいた白い布に包まれていた女は、アメウリノミコトだったのではないかと思う。
蛙のような何かの力によって自由を奪われていたのではないだろうか?
そして、蛙のような何かの生け贄(いけにえ)にするために運ばせていたが、途中で暴れて自殺した。
これは、アメウリノミコトがわたしに伝えた言葉であるだろう。
それは、彼女の危機感や覚悟の現れであったのではないだろうか?
このままでは死んでしまうという悲痛な叫びであったようにも思える。
もしかすると、危機感から過剰な演出になった可能性もある。
わたしには何が正しいかは分からない。
アメウリノミコトを助けたことが正しいことなのかは分からないのである。
しかしながら、”友人”ができたことは良かったと思える。
わたしに分かることは、その程度のことである。

2017年3月23日木曜日

追憶 1655

裏山では、甘瓜(マクワウリ)を見たことがない。
天瓜(カラスウリ)も見たことはなかったが、自生している可能性としては、甘瓜よりも天瓜の方が高いであろう。
それに、名前に使われている天という文字が、自然を守る神の役割には相応しいのではないかと思えるのだ。
そこでわたしは、アマウリノミコトとは、天瓜の尊なのではないかと結論付たのであった。
このような考察は何の意味も成さないとは思うが、自然環境や命を尊重し、共に生きていくということにかんしては、大切なことなのではないかと思うのである。
勿論、これは偶像崇拝に繋げるためではない。
”友人”を大切にするための考察なのである。

2017年3月22日水曜日

追憶 1654

雨を売るというのは、雨によって潤うということだと解釈したのである。
アメウリノミコトとは、”雨で潤す巫女”という意味なのではないかと頭の中で推測したのであった。
次にわたしは、インターネットを使って調べてみた。
すると、甘瓜と天瓜という植物に行き着いた。
甘瓜(あまうり)とは、マクワウリのことである。
ウリ科キュウリ属のつる性の一年草であり、メロンにも似た果実を実らせる。
日本では、縄文時代には既に食されていたようだ。
そして、天瓜(あまうり)とは、カラスウリのことであった。
ウリ科の多年草であり、鳥も食わないとされる赤い実を付ける。
わたしは実際に食べてみたことがあるが、食べられたものではなかった。

2017年3月21日火曜日

追憶 1653

わたしは身じろぎせずに、身じろぎしない雌鹿の美しい瞳と向き合った。
しばらくすると、雌鹿の姿が透き通って消えた。
わたしは雌鹿もアメウリノミコトの一つの姿なのではないかと思った。
わたしは何だか嬉しくなって、挨拶をして山を降りた。

帰宅すると、忘れないようにアメウリノミコトの名前を書き置いた。
そして、わたしはその名前の意味を考えた。
アメウリノミコトから名前を聞いた時、わたしの脳は”雨売りの尊”という変換をした。
雨は生命の源であり、山の象徴だと思ったからである。

2017年3月20日月曜日

追憶 1652

わたしはアメウリノミコトの美しさに見とれていた。
わたし達は多くの言葉を交わしたように思うが、何の言葉も交わしていないかも知れない。
ただ、彼女は別れの際に”飢えないように食べさせます”と言い残して消えた。
彼女はわたしに食料でも与えてくれるのだろうか?
それとも、霊的なエネルギー(元気や生命力?)でも与えようというのだろうか?
彼女の言葉の真意は分からなかったが、礼を伝えて腰を上げた。
下山していると、不意に目の前に大きな雌鹿が現れた。
その瞳と毛並みは美しく、野生の鹿でないことはすぐに分かった。

2017年3月19日日曜日

追憶 1651

女性は語った。

”わたしはアメウリノミコト。長くこの場所に住む者です。最近、どこからか流れて来た者が暴れていたのです。その者は多くの苦しみを抱えており、何とか助けようとしましたが及びませんでした。そこで手助けを頼んだのです。これでようやく、この場所にも安楽が戻るでしょう。”

そう語ると、目の前に天女のような女性が現れた。
彼女は軽やかに宙を舞い、か細い腕に透き通るような羽衣(はごろも)を遊ばせていた。
その姿はまるで、優美で気高い風蘭(ふうらん)の花ようであった。

2017年3月18日土曜日

追憶 1650

わたしは久しぶりの裏山を楽しもうと思い、そこでお菓子を食べることにした。
お菓子を食べながら、静かに瞑想する。
擁壁(ようへき)によって大きく景色は変わっていたが、そこには懐かしい空気が存在していた。
わたしは、ぼんやりと滲(にじ)む視界の中で幼い頃を懐古(かいこ)するのであった。
すると、どこからともなく声が聞こえてきた。
それは、清らかな女性の声であり、暖かな春の日差しのような言霊(ことだま)を感じる。
わたしは何と無く、女性が語るその声を聞いた。

2017年3月17日金曜日

追憶 1649

光の粒は上昇を続け、やかで大きな光の中へと消えた。
それを見届けると、自然に瞼(まぶた)が開いた。
森の中は、以前よりも明るくなっているように思える。
先程まで漂っていた重たい空気は無くなり、鳥のさえずりが聞こえる爽やかな風が届いている。
地面に置いたビールは、地面に深く差し込んだにもかかわらず倒れていた。
蛙のような何かが食べたのかも知れない。
わたしは缶を逆さにして、中身を空にした。
手向(たむ)けのつもりである。

2017年3月16日木曜日

追憶 1648

屍になった蛙のような何かを膝(ひざ)に抱えると、わたしの右手は再び光の十字架を創造した。
それを掴むと、そのまま蛙のような何かに突き刺した。
すると、蛙のような何かの影が消え去り、全体が光を放ち始めた。
光量と共にその姿が砕けていく。
水面に輝く光の粒のように、蛙のような何かは分解された。
この光の粒が、蛙のような何かの口の中で苦しんでいた彼等なのではないかと思える。
そう考えると、わたしは安堵(あんど)するのであった。

2017年3月15日水曜日

追憶 1647

目の前には、沈黙して動かなくなった蛙のような何かがあった。
最早(もはや)、そこに破滅的なエネルギーを感じることはなかった。
彼等は枯れ木のように魂を失った存在として、空虚を生きているようである。
人差し指と中指で前方の空間に円を描くと、金色に輝く輪が現れた。
これは、次元を繋ぐ扉のような役割をしている。
これによって、わたしの肉体が霊的な存在に触れることが出来るようになるのであった。
金色の輪に右腕を差し込むと、蛙のような何かを掴んで引き抜いた。
蛙のような何かからは、何の感情も匂いもしなかった。
それは、ただの屍(しかばね)であったのだ。


2017年3月14日火曜日

追憶 1646

光の十字架は、蛙のような何かの口に吸い込まれるようにして消えた。
すると、そこから強烈な光が発せられ、逆光によって彼等の姿が見えなくなった。
たくさんの悲鳴のような不快な音が聞こえた。
それは、彼等の抱えている苦しみの姿だったのではないだろうか?
不快な音は吐き気を連れて来た。
わたしは吐き気に促(うなが)されて、黒い煙のようなものを吐き出した。
それは、目の前の空中でとどまり、苦悶(くもん)の表情を浮かべる人の顔のような姿をとった。
わたしは再び光の十字架を作ると、黒い煙のようなものに投じた。
光の十字架によって、それは光の粒となり、高い場所で輝く大きな光の中へと消えた。

2017年3月13日月曜日

追憶 1645

蛙のような何かに飲み込まれた彼等が光を得るためには、先ずは影を得なければならなかった。
それは、暗闇の中でこそ光を知ることが出来るからである。
光の中では、光を認識することは出来ないのだ。
それに、光の意味を理解することも出来ないであろう。
そのために、影を得る必要があるのだ。

光の十字架を握ると、光に照らされた暗闇のように、わたしの心からは悲しみの感情が消え去った。
悲しみの代わりに、喜びが溢れていた。
わたしは喜びの感情に従って、光の十字架を蛙のような何かに投じた。

2017年3月12日日曜日

追憶 1644

簡単に言えば、この世界においては、すべての存在は苦しまなければならないということである。
人は苦しみによって甘えを手放す。
甘えを手放すことによって、無知を改善する。
無知を改善することによって、誤解が解ける。
誤解が解けることによって、矛盾が消滅する。
矛盾が消滅することによって、苦しみが成長という意味を成すのである。
苦しみを受けることがなければ、この過程は存在しないであろう。
苦しむことがなく、ただ満たされるのであれば、何も成さずに安堵(あんど)することになるだろう。
多くの人はただ安堵することが出来れば満足かも知れないし、苦しみから成長までの過程に価値を見出すことが出来ないかも知れない。
結果を求めはしても、過程は蔑(ないがし)ろにする。
そのために、次に同じ問題が生じた時には、同じように苦しまなければならないのである。

2017年3月11日土曜日

追憶 1643

人生においては、理想と現実が一致することはまず無いだろう。
理想が実現したと主張する人もいるだろうが、記憶に対して多かれ少なかれ修正が施されているのである。
もしくは、単純に偽っているか、説明が面倒なだけであろう。
人生においては、計画通りに進むことなどは無く、理想は実現しないのが自然である。
彼等の理想は”光”であった。
しかし、実際に手にしていたももは”影”であった。
しかしながら、彼等は影を手にする必要があったのであろう。
そうでなければ、学ぶことが出来ないからだ。
飢えに苦しむことによって、飢えの本質を理解する可能性が高まる。
しかしながら、初めから光を得ることによって満たされていたのであれば、何も学ぶことは出来ないのである。
理想が実現することなく、それとは異なる現実を手にすることによって、学びを得ることが出来るのだ。

2017年3月10日金曜日

追憶 1642

蛙のような何かの口の中で蠢いている者たちの声を聞いていると、悲しみが胸を締め付けた。
わたしには彼等に対して、哀(あわ)れみ以外の感情は抱けなかったのである。
彼等を助けたいと、わたしの深いところで”光”が叫んでいた。
右手が空中に十字を描く。
それは、光の十字架を生じさせた。
光の十字架の放つ光によって照らされた彼等は言葉を失い、先程までとは打って変わって沈黙している。
何かを悟ったかのように動かなくなってしまった。
そこでわたしには、彼等が本当に求めていたものが”光”であることを確信したのである。
彼等は光を求めて暴れていたのであろう。
わたしは更に悲しくなった。
彼等が不憫(ふびん)でならなかったのである。

2017年3月9日木曜日

追憶 1641

蛙のような何かが喰らっているのは、光とは真逆の”影”である。
影とは、破滅的な意識の中に含まれているエネルギーのことである。
 それは、絶望や苦しみと言っても良いだろう。
絶望や苦しみを多く含んだ意識は、暗闇に包まれているように見えるのである。
蛙のような何かは、飢えを満たそうとしたのだろう。
しかしながら、飢えているために、自分に相応しい飢えている意識しか喰らうことが出来なかったのであろう。
飢えている意識が飢えている意識を喰らう。
霊的な世界では、同じ性質のものが集まるのである。


2017年3月8日水曜日

追憶 1640

満足度は、品質に比例している。
粗悪な品物では満足度は低いだろう。
精巧な品物では満足度は高いだろう。
品質とは、要求に対しての意味も含んでいる。
要求に対しての品物によって、満足度が左右するのだ。
肉体の飢えを満たしたければ、栄養価の高い食物を摂取することである。
それは、必要な栄養を得ることが目的であるからだ。
腹一杯に食物を押し込んだとしても、必要な栄養を得ることが出来なければ、飢えを満たすことは出来ない。
心の飢えを満たしたければ、”光”を多く含む意識を得ることだ。
光とは、建設的な意識の中に含まれているエネルギーのことである。
それは、熱意や喜びと言っても良いだろう。
わたしには、熱意や喜びを多く含んだ意識は、輝いているように見えるのであった。

2017年3月7日火曜日

追憶 1639

生臭い息と、彼等の声を聞かされていると、腹の中に黒いものが蓄積していくような感覚を得た。
腹の中に蓄積していく黒いものによって、わたしは餓鬼を思い浮かべるのであった。
蛙のような何かは既に黒いものを大量に喰らっている。
しかし、それでは満たされないのである。
蛙のような何かの喰らっているものには”栄養”が無いのであろう。
”栄養”が不足しているために、満足することが出来ないのだ。
満足することが出来ないために、更に求めるのである。
飢えの連鎖が生じているのだろう。
下劣なものばかりを喰らっているために、満たされないのだ。

2017年3月6日月曜日

追憶 1638

蛙のような何かは飢えているのであろう。
食欲に支配されて、命を食べ漁っているのであろう。
蛙のような何かは霊的な存在であり、口の中で蠢(うごめ)いているのは、様々な動物や人の霊体だと思われる。
彼等は生前か死後に霊体を喰われたのであろう。
理由は、同じように飢えていたからに違いない。
蛙のような何かは、同じように飢えている霊体を喰らうことによって膨張し、更に大きな飢えを抱えて歯止めが効かなくなった状態なのではないだろうか?
そして、次はわたしを喰らおうと迫っているのである。

2017年3月5日日曜日

追憶 1637

それは、すぐ後ろに迫っていた。
わたしは意識の中で振り返った。
すると、そこにはわたしを一飲みにすることが出来る程の大きさの蛙(かえる)のような姿をした何かがいた。
それは、大きく口を開けている。
その口が生臭いのである。
そして、良く見ると、口の中には血にまみれた様々な動物の身体の一部が詰め込まれていた。
その中には人間の頭もあった。
それ等の頭が口々に声を発しているのである。
喰われている頭が、喰いたいと発するのは不自然であり、不気味であった。
わたしは全身が泡立つのを感じた。

2017年3月4日土曜日

追憶 1636

わたしは確実に、背後に気配を感じたのだ。
嫌らしく絡み付く視線のようなものを感じたのである。
吐き気がそれを裏付けているのではないかと思える。
再び、強い吐き気に襲われた時に、瞼が強制的に閉じた。
すると、先程よりも強く気配を感じた。
生暖かく、生臭い息が首筋に触れた。
すると、微かに声のようなものが聞こえた。

「喰いてぇ…喰いてぇ…喰いてぇ…」

それは、幾つもの声色(こわいろ)で聞こえた。
まるで何人もの人達が、耳元で囁(ささや)いているようである。

2017年3月3日金曜日

追憶 1635

それは、荷物が暴れたくらいの場所だったかも知れない。
何かを感じた気がした。
わたしはそこに決めた。
ビールを開けて斜面に突き刺した。
その横に腰を下ろし、ただ静かにしていた。
風が枝葉を揺らすと、木漏れ日が遊んだ。
わたしはそれを美しく感じたが、いつの間にかにどこからか漂ってくる生臭い匂いも感じていた。
それは少しずつ強くなっているように感じられた。
不快感が明らかになったのは、吐き気に襲われたからである。
背後に気配を感じて振り返る。
しかしながら、そこには何もいなかった。

2017年3月2日木曜日

追憶 1634

日差しが遮(さえぎ)られるだけで、空気が変わる気がする。
ミカン畑に比べると閉鎖的な空間に足を踏み入れたからであろうか?
息苦しささえ感じるように思えるのである。
わたしは瞼を閉じて、感じるものを待った。
お祭りを探しているのである。
しかしながら、何も感じることは出来ない。
しばらくそうしていても結果は同じであった。
そこで、夢の中で通った道を下ってみることにした。
少し下っては瞼を閉じて静かに待つことを繰り返した。

2017年3月1日水曜日

追憶 1633

それでも、景色を過去と照らし合わせながら楽しく進んだ。
ミカン畑は山頂まで続いている。
山頂に辿り着くと、拓かれたミカン畑からは裏山の鬱蒼(うっそう)とした手付かずの天然林が暗い影を落とし、どことなく不気味さを感じさせた。
わたしは今朝の悪夢を思い出していた。
ミカン畑と天然林の境界に立ち、瞼(まぶた)を閉じて静かに呼吸をする。
そこでわたしは、鼓動が高まっていることを知った。
これは登山による息切れではない。
ワクワクしているのである。
目の前の天然林に足を踏み入れれば、悪夢の答えがあるかも知れないと考えると、楽しくなってしまうのであった。
わたしは焦る気持ちを静め、そっと暗い影を踏んだ。