このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年8月31日水曜日

追憶 1451

わたしの頭は、Nの提案を受け入れることによって、既存のルートを進むように計らった。
頭が考えるには、それが最善である。
それは、頭がNという遺伝子を失いたくないからであろう。
頭とは脳のことであり、肉体であり、遺伝子のことである。
肉体は異性との時間を喜ぶ。
会話をしても、皮膚に触れても、脳はドーパミンを放出し興奮する。
肉体にとってはそれが目的なのであろう。
そして、遺伝子には子孫を残すという最大の目的があるため、Nを失う訳にはいかないのだ。
そのため、Nと離れるという選択肢は導かない。
あの夜、わたしにNの身体を求めさせたのも遺伝子であろう。
もちろん、それに従い、惨めな気持ちを得たのはわたしの弱さである。
ここでNの提案を受け入れることは、肉体にとっては都合が良く、わたしは中途半端な苦しみと喜びを味わうことになるだろう。
それでは、何も変わらないのである。

2016年8月30日火曜日

追憶 1450

それは唐突にわたしの心に突き刺さった。
それは、Nの”距離を置きたい”という言葉である。
一度離れて、体制を立て直そうという提案であった。
わたしには、Nの気持ちが手に取るように分かる。
わたしがNに対してしなければならない返答も分かっている。
それは、Nの提案を受け入れて距離を置き、灰がやがて土となり、再び燃ゆる炎の媒体となる樹木を育てるのを待つというものであろう。
しかしながら、これは人情の範囲での判断であることをわたしは知っていた。
わたしがしなければならないことは、大切なものを手放すことなのだろう。
中途半端なことをすれば、自分自身にもNにも中途半端な結果が導かれるに違いない。
わたしたちの魂は、そんなものは要求してはいないように感じる。
中途半端な段階から、中途半端に始めることなど求めてはいないのである。


2016年8月29日月曜日

追憶 1449

外には、何ら変わらない日常があった。
少し肌寒く感じる朝の空気が頬に当たる。
遠くに車の走る音が聞こえる。
雀(すずめ)が朝の挨拶を交わしている。
そのどれもがいつもの風景であった。
しかしながら、わたしの心だけがそれに取り残されているような気がした。
重たい空気をNの部屋に残して、わたしは振り返らずに帰路についた。

次の日、Nからの着信がわたしの鼓動を早めた。
この緊張感は”人の思い”だ。
所謂(いわゆる)、生き霊というやつである。
Nがわたしに対して何かしらの強い感情を送っているのだろう。
わたしは深く息を吐いて、携帯電話を耳に当てた。

2016年8月28日日曜日

追憶 1448

重たい朝が来た。
時間は何の配慮もなくわたしを訪ねる。
わたしは帰らなければならない。
一睡も出来なかった身体は、やはり鉛のように重かった。
しかしながら、この重みが睡眠不足によるものだとする確信は無かった。
わたし達は互いを気遣っていただろうが、言葉はほとんど無かった。
愛することに疲れたのだろう。
灰が燃えることは無い。
わたしは、Nに対する罪悪感から、出来るだけ早くここを離れたかった。
それは、今のわたしはNにとって迷惑だと感じたからである。
わたしは早々に荷物をまとめ、帰ることにした。

「ごめん…」

「うん」

「ありがとう」

「うん」

「じゃあ」

「気を付けてね…」

「うん」

Nの表情には憐れみがあった。
わたしは、重たい扉を開けた。

2016年8月27日土曜日

追憶 1447

わたしは自分自身の愚かさを恥じた。
最低の人間だと思った。
Nが独りで泣いているのを見ても、わたしは重たい身体を動かすことが出来なかった。

どのくらい経ったのかは分からないが、沈黙の中にNの呼ぶ声が聞こえた。
わたしは重たい身体を持ち上げてNの傍(かたわ)らに腰を下ろした。
その時、わたしの頬を涙が流れ、落ちた涙が微かに保っていた炭の形を壊したように感じた。
わたし達はもう終わりだ。
そう悟った。

「一緒に寝よう」

Nの思いやりにわたしは心が抉(えぐ)られるのを感じた。
Nの隣に身体を離して仰向けになり、様々な思考が頭を掻き乱し、胸を引き裂くのを許した。
わたしは自分が嫌になった。
こんな結末のためにこれまでの時間、Nと一緒にいたのか?
これで良いのか?
道は無いのか?
どうしてこうなった?
様々な思考が巡る。
その時、Nがわたしの腕に身を寄せた。

”これで良い”

天から届く言葉は、わたしにはとても辛いものであった。

2016年8月26日金曜日

追憶 1446

それから、わたし達の仲は険悪なものとなっていった。
細かなすれ違いが増え、静かな喧嘩を導いた。
わたし達の絆はもう限界だろう。
あとは時間の問題である。
焼けた炭が中身の無い姿を保っているのと同じである。
指先で触れるだけで、脆(もろ)くも崩れ去ってしまうだろう。
後には燃えることのない白い灰(はい)の粉が虚しく残るだけである。
わたし達の炎は既に消え、もはや余熱を弄(もてあそ)ぶだけとなっていった。
わたしはNを抱いた。
それは、燃える炎に執着していたからかも知れない。
しかしながら、そこには渇いた灰が、まるで人形のように横たわるだけであった。
暗闇の中で、Nの頬を静かに涙が走った。

「ごめん…」

わたしは咄嗟(とっさ)にNから離れ、ソファーに身体を預けた。
それは鉛(なまり)のように沈み込み、そのまま海の藻屑(もくず)と消えたかった。
わたしは自分自身を汚ないものだと思った。

2016年8月25日木曜日

追憶 1445

Nが自らの使命を見出すためには、わたしの存在は邪魔なのであろう。
わたしのNに対する役割は終わったのかも知れない。
わたしのNに対する役割の一つの側面としては、多感な思春期に歪まないためのサポートであったように思える。
その役割は果たせたのではないかと思えるが、Nに聞いていないので分からない。
Nは既に自分の人生(道)を形成する時期にあるのかも知れない。
やはり人は、自分自身の道を進み、それぞれに与えられた使命を果たさなければならないのだろう。
人は孤独に歩まなければならないのである。
わたしの方法がNの方法の妨げになる可能性もあるのだろう。
人は独りになり、自分自身を見詰め、自分自身を理解することにより、自分の道を進む必要があるのだ。


2016年8月24日水曜日

追憶 1444

それは、わたし達が自らの使命を果たすためである。
わたしもNも、この世界の霊的な誤解を解くために生きている。
そのために、わたし達は様々な霊体験をしてきたのだ。
先述した、お経やお札、除霊やお祓いなどの方法は、それを必要とする魂の段階を得ている者達には必要なのであろうが、それよりも高度な霊的知識を必要としている人達もいる。
そのような人達が、上記の方法によって歪んでしまうことを阻止しなければならないように感じるのである。
わたしの場合は、光の仕事や光の天秤による啓発活動に辿り着いた。
Nがどのような形で霊的な仕事に携わるのかは分からないが、それを見出す必要があるのだろう。
今回の学びは、そのためのNによる社会経験なのだと思える。

2016年8月23日火曜日

追憶 1443

わたしがNを守るということの本質は、Nが様々な体験をすることを幇助(ほうじょ)するということなのだろう。
わたしがNを守るためには、Nの行く道を邪魔しないことなのだろう。
わたしはNの協力者であって、邪魔者であってはならないのである。
それが今は、Nの行く道を邪魔する存在となっているのかも知れない。
無意識ではあるが、Nの可能性を妨げているのではないか?
このような考えが生じた。
わたしは、わたし達が進むべき道を知っていた。

”愛することに疲れたみたい。嫌いになった訳じゃない”

ということである。
わたし達は、偽物の愛に戯(たわむ)れていてはならないのであろう。

2016年8月22日月曜日

追憶 1442

Nにも解決しなければならない沢山の問題があるだろう。
それを解決するためには、様々な経験を通じて心を広げ、歪みを取り除かなければならない。
実社会において多くの人の心に触れ、良い悪いに関係なく、不足を補わなければならないのである。
そうでなければ、Nは自分を救うことは出来ないだろう。
そして、Nが大切に思うものを守ることは出来ないのである。
このことを考えると、わたしがNを守るというのも歪みであることに気が付く。
わたしにはNを守ることは出来ない。
Nを守るのは、N自身なのである。
大天使ミカエルがわたしにNを守るように言ったのは、このことを教えるためだったのではないだろうか?
わたしの理解力が浅く、解釈を間違えていたのだろう。
わたしは、Nを常識的な価値観から守ろうとしていた。
それは、常識的な価値観が酷く歪んでいるように見えたからである。
それは、わたしのトラウマが導き出す歪んだ考え方なのであろう。
冷静に考えてみれば、歪みを経験するからこそ、その対極に位置するものを理解することができるのである。

2016年8月21日日曜日

追憶 1441

除霊やお祓い、お経やお札、どの方角に何を置くとか、どこへ行くとか…
そのような方法で問題が解決するのであれば、人が精神的に成長する必要などないのである。
すべての人のすべての問題が心に原因を持つ。
歪んだ心が問題を引き起こしているだけである。
その考え方や捉え方が歪んでいるに過ぎない。
そのため、心の歪みを取り除けば、すべての問題は解決するのである。
心の歪みを取り除くためには、目の前の状況に対して真摯(しんし)に向き合い、懸命に学べば良いのである。
明言しておくが、残念ながら、上記の方法など何の役にも立たない。
修行だと”言い訳”して寺にこもるのも同じである。
多くの人が抱える問題は、心を通じて実社会の中に存在している。
実社会の現実的な方法でなければ、何の問題も解決することはない。
そのため、霊能者と自称する者が実社会から離れてはならないのである。
離れた途端に腐り始めるだろう。

2016年8月20日土曜日

追憶 1440

わたしが光の仕事をしながらも養殖業をしているのは、一般的な経済感と経済力を失わないためである。
他人のことは分からないが、霊的な仕事を本業として生活している人がいる。
霊的な仕事は、社会に対しては間接的に関わっているように思える。
物を生産して販売するという普通の仕事形態ではないからだ。
そのため、霊的な仕事を本業として生活している人は、普通の経済感から離れていくであろう。
普通の生活や感覚から離れることによって、普通の生活や感覚によって生活している人の気持ちを理解することができなくなる。
そのため、多くの霊能者と呼ばれている人達は、除霊やお祓(おはら)い、お経やお札などと、”訳の分からないこと”に精を出しているのである。

2016年8月19日金曜日

追憶 1439


”私にはスタートだったの。あなたにはゴールでも”

わたしの頭の中には、再びこの歌詞が流れていた。
振り解きたかったが無駄であった。
わたしは資本主義的な考え方に活路を見出すことができなかった。
わたしの中では、資本主義的な考え方を中心とした生き方はゴールを迎えたのである。
しかしながら、Nにとってはここからがスタートなのであろう。
これから、社会に携わることによって資本主義的な考え方を学び、様々な経験を通じて人間としての成長を実現しなければならないのであろう。
それは、現代の資本主義社会において生きる術を身に付けるためには必要な考え方なのかも知れない。
多くのお金は必要ないだろうが、多少のお金は必要である。
それは、国に生きる以上は、法律によって税金を収めなければならないからである。
そのため、戸籍を持つ以上は、お金から完全に切り離された生き方を得ることは不可能なのではないだろうか?
どのような人生を生きるにしても、まずこの国の法律の中で生きる術を身に付けなければならない。
目の前に資本主義が広がっているのであれば、最低限の経済力を身に付けていなければ、選択肢を得ることも出来ないのである。

2016年8月18日木曜日

追憶 1438

すべての人は自らの学びに従って生きる。
わたしがどれだけ良いと思えるものを施(ほどこ)しても、それがNにとっての良いと思えるものでなければならないのである。
今のNが求めているのは、実社会の中に幅を利かせている考え方(常識)なのであろう。
わたしは生まれてからの約20年間の暮らしで、常識に対して嫌気が差している。
わたしは、この数年間をわたしの中の革新的な考え方や価値観を手にするために生きてきた。
自殺を考え直したあの日から、わたしは自分自身の生きる道を探し続けて来たのである。
わたしが常識的な人生(生き方)に戻ることはない。
あの道は苦しいのである。
わたしとNの求める道は、正反対と言っても過言ではないだろう。
そのため、わたしたちが離れていくのは当然の結果なのである。

2016年8月17日水曜日

追憶 1437

時間の力は強力である。
Nの心(考え方や価値観)が次第にわたしから遠ざかるのを感じる。
少しずつ、常識に犯されていく。
それは、わたしとの時間が減り、常識を信仰する人達との時間が増えたからである。
わたしが正しいということを言っているのではない。
すべての価値観が正しく、すべての価値観が間違っているのである。
わたしの立場としては、Nには常識に染まって欲しくない。
それは、常識に染まったわたしは、21歳くらいの頃に自殺を考えたこともあるからだ。
わたしにとって、常識的な考え方や価値観は苦痛に違いないのである。
その経験から、わたしはNをその道へ進ませたくはないのだ。
しかし、これはわがままであろう。
わたしは常識的な考え方や価値観に触れてみて、それがどのようなものであるのかを学んだ。
Nはまだ、それを学んでいないのである。
そのため、学ぶ必要があるのだ。
それを学ぶためには、わたしの考え方や価値観からは離れなければならないだろう。

2016年8月16日火曜日

追憶 1436

Nの育てようとしている種は、苦い実を結ぶものであると感じてしまう。
それがNの学びであるのならば、それを避けることはできない。
お金に対する様々な価値観や考え方に触れ、その本質を理解する必要があるのだろう。
わたしはお金に対する興味関心が薄い。
恐怖や不安など感じない。
それでは、Nが必要としている学びを与えることができないのだろう。
わたしでは与えられないものは、他人から受け取る以外に方法はない。
Nはわたしの所有しないお金に対する価値観を、奥さんから教えてもらわなければならないのである。
それは、良いことだと思えた。
そのため、わたしは奥さんから学ぶように伝えた。
しかしながら、その価値観がネガティブな性質を持つものであることも伝えた。
しかしながら、今のNには奥さんから教えてもらう価値観や考え方に魅力を感じているだろう。
バランスを崩し、突き進むことが頭に過(よぎ)るのであった。

2016年8月15日月曜日

追憶 1435

お金に対する欲求が悪いというのではない。
わたしには多くのお金が必要ないというだけである。
わたしには、必要な分だけあれば良いのだ。
しかしながら、多くの人はそのようには感じず、多く所有する方が安心するようである。
実際にはNの話す奥さんに会ったことが無いため、すべては推測の域を脱しない。
そのため、わたしがここで話している内容は一般的にはとても失礼なものであることは自覚している。
しかしながら、このように書かなければならないのは、Nの思想がわたしの思想からは離れてしまった事実が存在しているからなのである。
Nは価値観の中にお金に対する種を蒔(ま)いた。
それは、奥さんからもらった種であろう。
わたしはNとの価値観の違いに戸惑った。
わたしには、今のNが世俗的な普通の人に見え、純粋さを失っていくように思えた。
一人暮らしを始めてから、Nが世間の汚れに汚されていくように思えたのである。

2016年8月14日日曜日

追憶 1434

Nがバイトに慣れ始めた頃、バイト先の経営者の奥さんの話をするようになった。
Nは奥さんのことを尊敬しているような話しぶりである。
その頃から、Nの考え方が奥さんの価値観に傾倒しているように感じられた。
わたしはNから奥さんの話を聞いた時に寒気を感じた。
それは、黒い靄(もや)に覆われているような感覚であり、お金に対する欲求のようなものを強く感じたのである。
世間には良くいるタイプの人間であろう。
しかしながら、わたしとは正反対のタイプである。
お金に対する不安やトラウマを感じさせた。
わたしは生まれてこのかたお金に困ったことがない。
必要としなかったのもあるだろうが、とにかくお金を拾うのである。
どこに行ってもお金が落ちている。
財布を拾うことも度々あるが、それは近くの目立つ場所に置いておく。
本当はいけないことだが、現金だけが落ちており、周囲に落とし主がいない場合は使っている。
つい先日も川の上流からお金が流れてきた。
わたしには、お金の価値が理解できない。
それを求める気持ちが小さいのである。

2016年8月13日土曜日

追憶 1433

Nがバイトを始めてから、わたしたちの絆に生じたひび割れが加速した。
それは、音を立てて走るようであった。
Nはとても疲れているように見えた。
肉体的にも疲れているだろうが、精神的な疲れを感じるのである。
これは、Nが初めて触れる経済という名の世界を生きることによって生じる疲れなのではないかと思える。
これまでは、経済活動とは無縁の人生を生きてきた。
それに加え、他人との社会生活というものに触れたのも初めてだろう。
これまでの人生で接することがあった他人というものは、間接的な知人であることが多かったであろう。
親を知っている他人や、共通の知人を持つ他人などの小さなコミュニティの中で生きていたのである。
何の関わりも無い様々な人の考え方や価値観に触れ、自身の考え方や価値観にも変化が生じたのであろう。


2016年8月12日金曜日

追憶 1432

わたしに会うことによって、変化に支障をきたすこともあるのだろう。
新しいものを得るためには、古いものを手放さなければならないのである。
Nにとっての古いものが、わたしなのであろう。

新生活に落ち着きを得た頃、Nはバイトを始めた。
Nは日曜日にバイトを休み、わたしのために時間を用意してくれた。
バイト先でも様々な出会いがあったのだろう。
わたしはNの微妙な心境の変化に気付いていた。
そして、以前にも増してNの身体や心には、黒い粘着質のものがまとわりついていることにも気が付いていた。
目の下の隈(くま)が色白の肌に目立っていた。

2016年8月11日木曜日

追憶 1431

ある時、Nがわたしに言った。

”疲れてるだろうから、毎週会いに来なくても良いよ”

それはNなりのわたしに対する気遣いであったのかも知れない。
それは、独りの時間や友人との時間が欲しいという訴えであったのかも知れない。
わたしはNの言葉について自分なりに懸命に考えて、次の週末は会いに行くことを辞めた。
わたしの心の中には、Nと一つに成りたいという思いがあった。
思い付く方法は、共に時間を過ごすことによって、理解を深め合うというものであった。
そのため、わたしがNに会いたいという気持ちを抑えることは簡単なことではなかった。
Nの心は変化の中にあったが、わたしを否定するものではなかった。
新しい状況や環境に対して、一生懸命に順応しようとしているように思える。
それに力を使っているために、わたしに対しては以前のように力を使えないでいるように感じる。
Nは”大人”に成りつつあるのだろう。

2016年8月10日水曜日

追憶 1430

”箱”を壊すということは、現状を壊すということでもある。
現状とは、現状の心境が作り出した心地好い場所なのだ。
自らのトラウマと向き合わないようにしてようやく手に入れた安定なのである。
Nがわたしに心の安定をもたらしたことは事実である。
わたしはNに救われている。
それは大切な心の支えであり、重りでもある。
現状のわたしは、Nの協力を得て安定していると言えるだろう。
それを取り除くということは、心の安定を手放すということであり、簡単なことではないのである。
わたしはNとのフィーリングの中に自分自身を見ていた。
前世の記憶では、わたしはNと同じ時代に生きていた。
そこで、様々な立場を経験し、様々な感情を知った。
わたしはNを自分であるかのように思っているのである。
漠然とではあれ、Nの魂とわたしの魂は元は同じものであったような感覚がわたしの中には存在しているのである。

2016年8月9日火曜日

追憶 1429

今のわたしにとっての最大の苦しみは、Nを失うことであろう。
それ以外の苦しみというものは想像することができない。
わたしに内在する”箱”を壊し、その中身をぶち撒けるためには、そのくらいのショックを必要としているのであろう。
しかしながら、誰にとってもこの”箱”には触れたくないという思いがある。
それは、その中身が苦しみそのものだからである。
そこには、過去のトラウマの原因である自分自身の汚れが収められているのだ。
これに向き合うには大きな勇気が必要である。
それには、最愛のNを手放すに等しい勇気が必要なのである。

2016年8月8日月曜日

追憶 1428

わたしはNと別離することによって、過去のトラウマと弱さを克服しなければならないのであろう。
それによって、わたしは自分自身を成長させることができるのである。
人が成長するためには大切に思うものを失い、苦悩を受けることによって自らと向き合い、それを乗り越えていく必要があるのだ。
苦しみに会わなければ成長することはできないのである。
それは、”毒素”を取り除くためには深くに存在している”箱”を壊さなければならないからである。
この”箱”は簡単には開かない。
これは、強烈な苦しみによってのみ開くのである。

2016年8月7日日曜日

追憶 1427

それは、過去のトラウマから導かれる無意識の拘りであるだろう。
わたしが10代後半から20代前半までの約4年間の交際をした女性がいた。
その女性とも、東京と愛媛という遠距離の末に離別した。
基本的には、いつもわたしが別れを告げられる。
当時のわたしは交際相手の女性に対して、自分自身では愛情だと思う感情を向けていた。
それがいつの間にかに依存心や保守的な考え方などの心の弱さを育んでいたのであろう。
別れを告げられた時、わたしは世界が崩れ去るような絶望感に襲われたのである。
その経験がわたしのトラウマとして心のどこかに残っていても不思議ではない。
今回の学びは、そのトラウマを克服することにあるのではないだろうか?
その女性と離別した後に、何人かの女性と縁があって交際したが、どれも長続きしなかった。
それは、その女性達に少しずつわたしの”毒素”を取り除いてもらうためではなかったか?と今では考えている。
もちろん、この考えはわたしの立場からの視点であり、彼女達にも何等かの学びや”利益”があったと信じたい。

2016年8月6日土曜日

追憶 1426

わたしは、近い将来にNと別離すると悟った。
しかしながら、5年半という過去の時間が、わたしにそれを受け入れさせなかった。
わたしは心に葛藤を抱いていた。
それは、大天使ミカエルとの約束を守ることができないことへの不甲斐なさにである。
わたしはNを一生守るという青い約束をした。
そのような気持ちで自分なりには向き合ってきたつもりである。
しかしながら、至らないことは承知していることであり、懸命に努めても足らないことは理解している。
わたしは大天使ミカエルの言葉を誤解しているのだろうか?
Nを一生守るという形への制約は無かった。
大天使ミカエルはわたしに、Nを一生守れと言っただけである。
その言葉はどのようにも解釈することができるのである。
わたしが勝手な解釈によって、例えば、恋人や夫婦という既成概念に捕らわれているだけなのではないか?
わたしは、自分自身の過去に拘(こだわ)っているのではないのか?
そのような考えが頭をもたげた。

2016年8月5日金曜日

追憶 1425

それは、Nの愛情であったのかも知れないし、霊的な存在からの愛情であったのかも知れない。
わたしには理解することができない形の愛情が存在し、それがわたしとNの関係に見た目はともあれ建設的な変化を与えようとしているのであろう。
ここまで見せられると、鈍感なわたしにも理解することができる。
わたしはNとの交際を解消しなければならない。
それが、これからのわたしとNの進むべき方向性なのだろう。
このまま一緒にいれば、成長が阻害されるはずである。
一緒にいることによって、意図的ではないにしても、依存心や保守的な考え方などが芽生え(てい)る可能性があり、その弱さがわたしたちを苦しめるのであろう。
それは、人生の目的に反している。
人が誰かと共にいる理由は、高め合うことで成長するためなのである。
それ以外の理由によっては、誰かと共にいるべきではないと、知らせているのではないだろうか?

2016年8月4日木曜日

追憶 1424

この時点において、Nはわたしのことを愛してはいないだろう。
愛の形にもよるし、男女の間に愛が存在するかは初めから疑問ではあるが、Nの中ではわたしとの恋愛という形での興味は枯渇(こかつ)していたか、枯渇する寸前であったのではないかと思える。
一般論を用いれば、失礼なNの言葉に対して、わたしは怒るべきなのかも知れない。
しかしながら、そのような考えは全く起きなかった。
わたしの男としての小さなプライドは傷付いたが、そんなわたしにも、Nの言葉がNから出たものではないということを知っていたからである。
それは、Nの口を介して出た言葉ではあるが、それが霊的な存在からのものであることをすぐに理解したのである。

2016年8月3日水曜日

追憶 1423

ここ最近、頭から離れない。
わたしは二つの楽曲をよく口ずさんでいた。
Nに聞かせたが、その歌詞に凄く共感しているようであった。
少しずつ、ひび割れは進行していた。

ある日、わたしはNを乗せて車を走らせていた。
その時、Nが何気無く放った言葉は絆を強く叩き、ひび割れを進行させるものであった。

”いろんな人と付き合ってみたい”

Nは話の流れの中で、ごく自然にまるで友達に話すように、そう言ったのである。
それは、Nの心の中に存在している真実であり、成長のために必要としている学びなのであろう。
わたしは自分のことを考えて一瞬だけショックを受けたが、Nのことを考えるとそれが最善であると思えた。
Nは様々なことを学ばなければならないのである。
ひび割れは、隠し切れないものだと悟った。

2016年8月2日火曜日

追憶 1422

ある日、わたしは頭の中に音楽が流れていることに気が付いた。
それは、松山千春という歌手の恋という楽曲と、THE JAYWALKという歌手の何も言えなくて・・・夏という楽曲のフレーズが交互に再生されているのである。
わたしはどちらの楽曲も一部を知っているだけで詳しくはなかった。
子どもの頃にテレビか何かで聞いて耳に残っていたのだろう。
有名な楽曲であることは知っていたが、気になったので調べてみた。

”愛することに疲れたみたい。嫌いになった訳じゃない”

”私にはスタートだったの。あなたにはゴールでも”

わたしの頭の中に繰り返し再生されるフレーズである。
わたしは二つの楽曲が気に入ったので、スマートフォンにダウンロードして毎日のように繰り返しては聞いていた。

2016年8月1日月曜日

追憶 1421

ポテトは、白の毛並みをしたホーランドロップイヤーという種類のウサギである。
掌(てのひら)に収まる程の大きさであり、とても愛らしかった。
わたしたちはポテトによって癒しを与えられたことで喜び合った。
わたしはNの寂しさを紛らわすためにポテトを買い与えた。
そのため、ポテトの世話はNがするものだと思っていたが、一人暮らしであるために話し合いの結果、わたしが世話をして、土曜日に連れて会いにいくことに決めたのである。
ポテトはわたしたちの疲れを癒し、ひび割れも目立たなくなったように思えた。
しかしながら、ひび割れは目に見えない形で進行していたのである。