このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2015年1月31日土曜日

追憶 875

そして、ガブリエルはこうも告げた。

「わたしたちは人間と一つの存在です」

人間とは、簡単に言えば、魂と肉体による存在である。
魂を肉体が受け入れることによって、人間という存在が成立するのではないかと思える。
しかしながら、それだけではないというのがガブリエルの話であるだろう。
魂と肉体、そして、霊的な存在である守護者も含めて、人間という状態が存在するのではないだろうか?
ガブリエルはTさんの心の状態に影響を受けると主張した。
人生の主体は人間である。
天使はそれをサポートする客体的な存在だと言うのだ。
人間には自由意思が与えられ、複数の選択肢の中から好きに選ぶことができる。
天使であろうとも、それを操作することはできない。
良くも悪くも、それをサポートするのが天使の仕事だということだ。

2015年1月30日金曜日

追憶 874

しかし、それは目の前のガブリエルと名乗る天使の存在を信じないということではない。
自分自身で経験しているのだから、それを否定することはできないということだ。
ガブリエルと名乗る天使は、自分自身が鎖に繋がれていた悪魔であったことを告白した。
わたしは悪魔や天使に対して深い知識を持たないが故に、その説明を素直に受け入れた。
しかし、天使と悪魔は別の存在であるという程度の認識は持っていたので、その認識が覆ることは新鮮であった。
すべての場合ではないだろうが、悪魔の本質が天使であるということである。
わたしはこの理論を簡単に受け入れることができた。
それは、人間であれ、何らかの苦しみを経ることによって心の状態が歪んでしまうからである。
何らかの問題を抱えることによって、人が苦悩してネガティブな状態にあるのも、ある意味これと同じ原理なのではないかと思ったのだ。

2015年1月29日木曜日

追憶 873

麗人は自分が天使であることをわたしに告げた。
わたしはミカエルと初めて出会った時にその存在を知った。
その他の天使も出会った時に初めて知ったが、この時にはガブリエルという天使の存在は知らなかった。
後に調べて、キリスト教などで有名な天使の名前であることを知る。
しかし、名前が同じというだけであって、わたしが出会った天使ガブリエルが、キリスト教などの伝える天使ガブリエルだとは限らない。
それに、個人的にはキリスト教を始め、その他の宗教というものを信じていない。
それは、そこに人間の歪んだ思想が入り込んでいることを理解しているからである。
キリスト教もそうであるが、すべての宗教がどのように誕生したかを理解する必要があるだろう。
そのため、わたしはわたしの守護者である大天使ミカエルと、キリスト教などの大天使ミカエルが同一であるとは鵜呑みにしていないのである。




2015年1月28日水曜日

追憶 872

目の前には、光の絹で仕立てられたであろうドレスをまとった白人(アルビノのよう)が立っていた。
美しい銀髪は陽の光を映す川の流れのように優美である。
男とも女ともとれる美形の顔には、微笑が讃(たた)えられていた。
わたしはその美しさに釘付けとなり、思考すらもままならなかった。
すると、麗人(れいじん)がわたしにお辞儀をして見せた。
わたしは未だに動くことができずにそれを眺めてる。
雪のような唇が言葉を描く。

「先ずはお礼を申し上げましょう。わたしはガブリエル…」

新緑から届く小鳥の囀(さえず)りのように、その声はわたしの心の中にどこまでも深く届いた。
わたしは心を構える隙もなく、その旋律に酔い痴れた。

2015年1月27日火曜日

追憶 871

わたしは悪魔に近付き、その太ももに触れた。
悪魔は完全に沈黙しているようである。
わたしが触れた場所から体毛が白く変色を始め、やがては全身を染めた。
それは、炭が燃え尽きて灰になるようだと思った。
わたしは悪魔の顔を見上げ、そこに光の十字架を投じた。
光の十字架は真っ直ぐに悪魔の額に埋まった。
すると、白い悪魔の全身が内側からの眩(まばゆ)い光によって覆われた。
その光はわたしたちのいる空間すべてに到達し、すべてを光で埋め尽くした。
視界を奪われたわたしは、何もできずにその場に立ち尽くすのである。

それは、目の前に雷が落ちる程の衝撃であった。

2015年1月26日月曜日

追憶 870

わたしはもう一つ気が付いたことがあった。
それは、わたしの胸元まで達していた黒い水が、跡形もなく消えていたということである。
これによって、わたしは自由を阻(はば)む黒い水を気にかける必要がなくなった。
そして、目の前の悪魔は項垂(うなだ)れていて、身動き一つしなかった。
わたしは大人しくなった悪魔を見て、良い方向に進んでいると確信した。
それは、怒りの感情が消え去ったからである。
悪魔は霊的な存在であるから、生死は関係の無いことである。
霊的な存在と向き合う時に大切なことは、その状態がどのようなものであるのか?ということだけなのだ。
怒りの感情に支配されていた状態が解消されたということは、状態が展開したということが言える。
それも、穏やかな状態になったのだから、好転したということが言えるだろう。
そして、黒い水が消え去ったという状態の変化も、その理論を後押ししているのである。


2015年1月25日日曜日

追憶 869

光が去ると、わたしは悪魔の前に立ち尽くしていることに気が付いた。
あれは幻覚であったのだろうか?
しかしながら、わたしの心の中には温かいものが残っていた。
わたしはあの人たちの世界に引き込まれ、その問題を解決したので、元いた場所に帰って来たに違いない。
霊的な世界は実に不思議である。
そこには無数の世界が四方八方に、それも立体的に繋がっている。
それは、まるで球体のようでもあり、アメーバのようにも感じられる。
これは、世界観と現すのが良いであろう。
人間にはそれぞれに個性があるように、霊にもそれぞれに世界(世界観)があるのである。
わたしにはその構造を理解することはできないし、どうやって向かうのかも分からないが、霊たちに導かれるままに辿り着くのだ。
現在、わたしがいるのは悪魔の所有する世界だということである。



2015年1月24日土曜日

追憶 868


「ありがとう」

彼等のわたしに対する言葉である。

「良かったね」

わたしは心の中でそう返答した。
とにかく充実した瞬間であった。
感謝の気持ちによって、すべての苦労が報われたように思える。
わたしのやったことは、きっと良いことである。
相手が心から感謝することが、人の行う正しさなのではないだろうか?
他人に何かをしてもらえば、感謝の気持ちを送らなければならない。
そうでなければ、相手は苦労が報われることがなく、そこに充実感を得られない。
充実感が得られないのであれば、やる気は起きないのである。
多くの人は感謝という当たり前のことすらできていないが、やってもらって当たり前だとする乞食根性(こじきこんじょう)は手放すべきである。
彼等の姿が光の先に消えると同時に、天から降る光も消えた。

2015年1月23日金曜日

追憶 867

死体のように身動き一つしない彼等は、天から降る光によって持ち上げられた。
そして、そのままゆっくりと上昇を続けた。
わたしはその光景を美しいと感じ、そこに感動を覚えているのである。
彼等は光の先へと向かうのであろう。
天国という場所が存在しているのかは分からないが、光の先には何らかの世界が存在しているのではないかと思える。
彼等は苦しみから解かれて向かうのであるから、そこにはきっと何らかの建設的な世界(状態)があるのだと推測するのである。
すると、すべての人が薄目を開けた。
皆、優しい顔をしていた。
先程の阿鼻叫喚とは対照的な印象である。
彼等はわたしを見つめたが、その頬を涙が伝った。

2015年1月22日木曜日

追憶 866

目の前の物体は白色(はくしょく)の光を放っていた。
それはひび割れた壁から漏れる陽の光のようであった。
何らかの形に従って光の筋が走っている。
それをよく見ると、人の形を境界にして光が生まれているのを理解した。
たくさんの人が重なり合う中心から光が発せられているようであった。
わたしは手を伸ばして、一番手前の人に触れた。
すると、花弁が地面を目指すようにして塊から人の形が剥がれ落ちた。
それをきっかけにして、すべての人が地面に落ちたのである。
すると、天から一筋の光が降り注ぎ、倒れている人々を包んだ。
光に照らされた人々は、陽の光を受ける朝露のように美しかった。


2015年1月21日水曜日

追憶 865

迷いなく飛んだ光の十字架は、見事にそれに突き刺さった。
すると、全身から黒い煙のようなものが立ち昇り始めた。
それと同時に猛烈な吐き気を覚え、わたしは大量の黒い煙のようなものを吐き出した。
わたしの口から吐き出される黒い煙のようなものは、ゆっくりと上昇したが、その過程での変化はまるで美しい光の粒のようである。
光の粒は上昇を続け、やがて見えなくなった。
目の前の物体から黒い煙のようなものが出尽くすと、わたしの口から吐き出される黒い煙のようなものも無くなった。
わたしはこれをとても苦しいと感じたが、それに勝る清々しさを覚えていた。

2015年1月20日火曜日

追憶 864

血の涙がわたしの足元にまで達する頃、先程聞いた阿鼻叫喚(あびきょうかん)が鼓膜を揺さぶった。
目の前の物体がそれを発していたのだ。
泣きながら叫んでいるのである。
わたしは深い悲しみを理解した。
目の前の物体は不気味な姿をしているが、その本質である原因や理由は悲しみの感情であるだろう。
そこまで理解すると、わたしは人差し指と中指が空(くう)に十字を描くのを見た。
光の十字架は闇を押し退け、涙の血溜まりをも消し去った。
わたしは目を細めて光の十字架を掴んだ。
これを目の前の物体に投じれば良いのだろう。
慈悲の心が目の前の物体への道を示した。
わたしは愛情という名の引き金を引いた。

2015年1月19日月曜日

追憶 863

すると、目の前に黒い塊が現れた。
それを良く見ると、無数の人間の眼が全体を覆っている不気味な姿であった。
一つ一つの眼は不規則な方向を示していた。
わたしはその物体に対して、何よりも悲しみの感情を抱いてしまう。
わたしは哀(あわ)れんでいたのである。
どのような結果にも、それに相応しい原因や理由がある。
目の前の物体が何であるのかは分からないが、その異様な姿からは破滅的な印象を受けてしまう。
そこには、何らかの苦しみがあったに違いないのだ。
わたしが心の中でこのように思うと、一つ一つの眼から涙がこぼれ落ちた。
それが地面に触れると、血の様な色に変わった。

2015年1月18日日曜日

追憶 862

とにかく悲しかった。
わたしは絶望を抱えて、一歩も歩めなかった。
鉛(なまり)のような身体は、その重みで自らを黒い水に沈める。
鼻と口から大量の水が流れ込み、わたしは意識を失った。

気が付いた時には、わたしはどこか別の空間にいた。
辺りは微かな光も許さない漆黒の闇で覆われている。
わたしは咄嗟(とっさ)に水を吐き出そうとしたが、何も飲み込んではいなかった。
幻覚だったのかと無理矢理に状況を納得させた。
不意に寒気を感じ、全身が総毛立った。
わたしは本能が警戒するのに気が付いて、根拠も無いままにとにかく身構えた。


2015年1月17日土曜日

追憶 861

光の十字架に射抜かれた黒い煙のようなものからは、阿鼻叫喚(あびきょうかん)が届いた。
地獄というものが存在するのであれば、まさにこれがそうなのではないかと思えた。
わたしは気分が悪くなるのを感じて、その場に膝(ひざ)を崩しそうになるのを必死で耐えた。
途切れそうになる意識を、気合いで繋ぎとめているのである。
光の十字架に射抜かれた黒い煙のようなものは、動くことができずにいた。
わたしは必死で手を伸ばし、それを掴んだ。
その瞬間に、わたしの中に様々な悲しみが流れ込んだ。
わたしは世界の果てに独りで立って、何も無い虚空を眺めている気分になった。

2015年1月16日金曜日

追憶 860

それは、悪魔が苦しみから解放されるためのファンファーレであった。
光の十字架による痛みは、苦しみから解き放つための治療なのである。
痛みを以て、この苦しみは終結するのだろう。
叫び声が増したのは、わたしが更に光の十字架を投じたからである。
わたしは計四本の光の十字架を投じた。
それは、額と胸と両肩と腹に突き刺さった。
一際大きな叫び声と共に、悪魔の大きく開かれた口と目からは、周囲の暗闇よりも更に深い闇の塊が、まるで煙のような形を以て飛び出した。
これは、悪魔を苦しめている元凶に違いない。
わたしは逃げ出すかのように飛び去ろうとする黒い煙のようなものに対して、光の十字架を投じていた。


2015年1月15日木曜日

追憶 859

わたしが行うべきは、光の十字架によって悪魔を苦しみから解放することである。
その目的を掲げると、わたしの身体はわたしの意思を離れて勝手に動いた。
光の十字架を振りかぶり、力一杯に悪魔に投じた。
一筋の光が尾を引く。
引き裂かれた暗闇は、まるで天の川のように美しく輝いていた。
わたしはその光景に見惚れていたが、次の瞬間、地の底から響くような低音の叫び声に対して、わたしは全身が震えるのを感じた。

2015年1月14日水曜日

追憶 858

それはまるで、光る十字架であった。
しかし、その光は目が眩むほど強いものとなり、わたしは強過ぎる光に苦痛さえ感じた。
片手で光を遮(さえぎ)りながら、十字架に手を伸ばす。
手探りの指先が十字架に触れた瞬間、わたしは雷に打たれたような衝撃を覚えた。
しかし、それはとても温かな衝撃であったのだ。
そして、光る十字架は光の杭に比べものにならない程に、わたしの掌に馴染んでいた。
強烈なエネルギーを感じる。
これは、今までにはない感覚である。
このエネルギーに勝る闇は無いのではないかと思えるほどの、愛のエネルギーがそこにはあった。
わたしは新たな力を手にしたのである。
これならば、悪魔の抱える強大な闇にも対抗することができるかもしれない。
わたしは文字通り、希望を手にしたのである。

2015年1月13日火曜日

追憶 857

今では、悪魔を哀(あわ)れんでいる自分がいた。
もう、少しも怖くはない。
ただ可哀想だと思うだけである。
わたしはこの時、自分の中の愛の形が変わったように思えた。
何と言うか、一皮剥けたような感覚である。
わたしは新しく芽生えた愛に従った。
すると、人差し指と中指によって空中に線が引かれたが、それは今までの直線ではなく、十字を描いていたのである。
真っ暗な空中に、黄金に輝く十字が現れた。
それは、これまでの光の杭とは比べものにならない程の輝きを放っていた。

2015年1月12日月曜日

追憶 856

わたしはとても悲しくなった。
なぜなら、自分自身の過去を振り返った時に、自分自身が悲しかったからだ。
わたしは悪魔から流れ込んできたTさんの心と自分自身の心を重ねて見たのである。
この時点において、わたしは悪魔に対する恐怖と警戒を完全に手放していた。
わたしは悪魔に同情し、何としても助けたいと思うようになっていたのである。
これは「愛」というものであろう。
自分のことなど省みずに、相手を助けたいと思う気持ちがようやく芽生えたのだ。
問題を解決するためには、これが大切である。
この気持ちが無ければ、どのような小さな問題も解決することはないだろう。

2015年1月11日日曜日

追憶 855

様々な情景がわたしを追い越した。
それ等はとても悲しく、辛いものであった。
これは、Tさんの記憶であるだろう。
それはいつもどこか影を背負っており、わたしはそこに懐かしさと苦しみという共感を得た。
幼少のわたしは、Tさんと良く似ていると感じた。
心の中にはいつも孤独と苦しみが存在し、それが多くの場面で語りかけてくるのである。
その言葉に導かれて、自己を喪失(そうしつ)する。
自己を喪失すると、自分の意思ではない意思によって行われる行為に、酷(ひど)い罪悪感を覚える。
自分自身の意思による行為ではないが、大人からはその責任を追及される。
そうして、心を歪め、閉ざしていく。
わたしは、この一連の流れが形を変えて、Tさんの心の中に存在しているということを、悪魔を通じて理解することができた。

2015年1月10日土曜日

追憶 854

わたしは重心を後ろに置くことをやめた。
もう、どうにでもなれである。
わたしは悪魔にできる限り近付き、その巨大な太ももに触れた。
冷たい感覚と怒りの感情がわたしを襲う。
そこに恐怖を感じたために咄嗟(とっさ)に手を離そうとしたが、理性によって思い止まった。
ここで離してしまえば、覚悟の意味が無くなってしまうのである。
悪魔から流れ込んでくるものは不快以外の何物でもなかったが、それを受け入れることをしなければ、わたしが心を開いたことにはならないのである。
悪魔は暴れていたが、わたしは瞼を閉じて、掌(てのひら)から伝わる情報の解読に神経を集中させた。

2015年1月9日金曜日

追憶 853

この時、わたしは「他人は自らを映す鏡」というどこかで聞いた言葉を思い出していた。
そして、わたしは自分自身が悪魔に対して心を開いているのだろうか?と考えた。
わたしが悪魔に対して心を開いていないのに、悪魔にだけ心を開けというのは身勝手な行為だと思い至ったのである。
わたしは間違ったのだろう。
間違ったので、思うような結果を得ることができていなかったのだ。
人生は自分自身で築くものだと思っているが、それは対人においても同じことである。
相手に対する配慮が無ければ、相手が自分に対して配慮することなどない。
心理とはそういうものだろう。
悪魔であっても、人格を持った存在であることは、天使や霊と向き合う経験から理解することができる。
わたしは悪魔を壱人格として丁重に扱わなければならないのである。
わたしは差別的な意味での考えは待ち合わせていなかったが、恐怖という感情は、相手に対する配慮であるとは考えにくいのである。

2015年1月8日木曜日

追憶 852

わたしは悪魔と話し合うことが大切だと思い、足を踏み出した。
悪魔は抵抗することを諦めずに、どうにか鎖の拘束を解こうとしていた。
わたしは悲鳴を上げて軋(きし)む鎖を頼り切ることができずに、多少の恐怖と警戒を抱えていた。
悪魔に捕まらないように、いつでも身を引く構えをしていたのである。

「お前はどうしてここにいるんだ?」

わたしは大声で問い掛けた。
悪魔は答えなかった。

「お前は何者なんだ?」

叫ぶようにして、再び問うた。
しかし、悪魔が答える様子は無い。
悪魔には、わたしと心を通わせるつもりが無いのだと悟った。
それは、人間を信用することが出来なくなった野良犬の様だと思うのであった。

2015年1月7日水曜日

追憶 851

暴力で解決することがあるだろうか?
わたしは今までに何度か暴力に頼ったことがあったが、それが良い結果を導いたことなど、これまでに一度も無かった。
悪魔は鎖に繋がれており、わたしに対して何の手出しもできないであろう。
わたしが鎖に繋がれた悪魔を退治すことは難しいことではあるが、不可能ではないだろう。
しかし、退治することに何の意味があるのだろうか?と考えてみた時に、何の意味もないように思えるのである。
次に繋がらないと思うのだ。
病気になったからといって、病原菌を退治することが目的であるのならば、そこには何の学びも成長もないだろう。
大切なのは、病原菌を憎むことではなく、何故病気になったのかを考え、自己反省と創意工夫によって成長することにある。
よって、悪魔を退治することは間違った方法であると言いたいのだ。
わたしがしなければならないことは、悪魔が何故ここで鎖に繋がれ、何故苦しんでいるのかを理解し、それを解決することにある。
それ等を実現するためには、話を聞くことが大切であるだろう。
相手を理解することなく、問題が解決することなど有り得ないからである。

2015年1月6日火曜日

追憶 850

黒い水は、恨みの感情に違いない。
悪魔は何かを恨んでいることは、その姿を見れば分かることであった。
そして、ここはTさんの心の中なのである。
悪魔の恨みの感情は、破滅的な影響力を以てTさんに作用するはずだ。
黒い水を吐き出し続けるのであれば、Tさんが苦しみを受けることは明らかである。
わたしがしなければならないことは、悪魔を鎖と恨みの感情から解放することであるだろう。
そして、Tさんが自覚しているのかは分からないが、思考や感情を破滅的な状態から解放し、人生の喜びを享受(きょうじゅ)する手助けをすることなのである。
そのために、わたしはここまでやって来たのだ。
目的を果たすのである。

2015年1月5日月曜日

追憶 849

全身を冷気が通り抜けた。
わたしの心は恐怖を覚えているようであるが、理性によってそれを制する。
しかし、わたしは余りにも強力なプレッシャーに動けずにいた。
その時、悪魔がわたしに気付いた。
顔を上げてわたしに向けられた目には、眼球が無かった。
正確には、瞼すらも無かったのである。
目があった場所には漆黒の洞穴が存在しているが、その奥からは憎しみの風音が響いていた。
悪魔が大きく口を開いて叫ぶと、そこからは黒い水が大量に吐き出された。
それが水位を押し上げているようである。
悪魔はわたしを殺そうとして暴れたが、鎖に阻まれて引き戻された。
その度に口からは黒い水が吐き出され、身体と足元を染めた。

2015年1月4日日曜日

追憶 848

進む程に音は大きくなった。
それは、わたしが音の原因に近付いていることを現しているのだろう。
しばらく行くと、暗闇の中に更に黒い人影が見えた。
わたしは胸の辺りにまで達した黒い水を掻き分けながら、そこへ向かった。

それは鎖に繋がれた悪魔であった。
全身を覆う黒く短い毛。
異様に細く長い手脚。
小さな頭。
チンパンジーを思わせる者の背中には、まるでコウモリのような羽が折り畳まれていた。
この姿を形容するのであれば、悪魔という表現が妥当であるだろう。
それが膝(ひざ)を崩して項垂(うなだ)れ、手首を鎖に縛られて上方に引き上げられていた。
悪魔は見上げる程に大きいので、黒い水は彼の膝を隠す程度であった。


2015年1月3日土曜日

追憶 847

わたしは自分でも認識していないレベルの覚悟を強めた。
すると、足元が水であることに気が付いた。
それは黒い水であり、墨汁のようだと思った。
それまでは気が付かなかったが、わたしの気持ちが変わることによって状況も変わったのではないだろうか?
しばらく、水の上を歩いた。
少しずつ水位が増しているのが分かる。
水位が腰の辺りにまで達した時に、どこからともなく大きな金属音が届いた。
それは、金属と金属を打ち鳴らすような激しい音で、わたしはそれを不快に感じた。
この音を聞いていると意識が遠くなるような感覚に襲われる。
このまま聞き続けているのであれば、精神が正常を保つことができないのではないかと思うほどであった。

2015年1月2日金曜日

追憶 846

諦めそうになる気持ちを振りほどきながら進むと、一層暗い空間が目の前に現れた。
それは宇宙空間に浮かぶブラックホールの様に、光を拒絶して存在している。
これが簡単でないことは、触れるまでもなく分かりきったことであった。
今にも、この深い闇の中から魔物が飛び出して来て、わたしの喉(のど)を掻っ切るのではないかという想像が巡るのである。
足が止まるのは、わたしの心が止まるからだ。
わたしは恐れていたのである。
この先の未知に対して恐怖の感情が勝っていた。
躊躇(ちゅうちょ)しているのは、覚悟が足りないからである。
わたしは自らの覚悟を試されている。
この暗闇の中に入る資格があるのかを審査されているのである。

2015年1月1日木曜日

追憶 845

覚悟を決めると、大抵のことは簡単である。
わたしたちが失敗するのは、覚悟が足りないことに大きな原因があるのではないだろうか?
わたしは光の仕事をする時には、自分のことなど何も考えていない。
破滅的な霊や荒ぶる神と向き合っているために、一歩間違えればそこには死が待っているのである。
人が死ぬことなど簡単なのだ。
わたしは必死になって命の綱渡りをしている。
わたしは命懸けで仕事をしているのだ。
これは、自分のこと(命)が大切であり、それよりも大きな志を持たない者にはできない仕事なのである。
霊能力があるなどということは当たり前であり、それには何の価値もない。
霊能力が弱くても、覚悟を以て相手を助けようとする者でなければならないのである。
わたしは胸の中に、目一杯の覚悟を詰め込んで進んだ。