このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2014年1月31日金曜日

追憶 510

Hさんが本心を隠して、我慢しながら生きているのは、目の前の状況に対してそのように対処したからに他ならないであろう。
わたしたち人間は、目の前に起こる事象に対して、それを認識した後で対応しなければならない。
知らないものに心が反応することはないのである。
扉の中の世界は、幸福な場所であるとは思えなかった。
良いと思えないのであれば、目指してはいけないのである。
わたしたちは幸福になるために生きている。
良いと思える世界を築かなければならないのである。
Hさんにとっても、わたしにとっても、あの場所へ向かうべきではない。
目的が違っている。
行き先の違うバスに乗っても、良いことはないのである。
わたしは穏やかで優しい心を生きたいのだ。
Hさんにもそのように生きて欲しいのである。

2014年1月30日木曜日

追憶 509

わたしたち人間は、心を考えて生きなければならないだろう。
わたしたちは思考や感情という精神や意識を無視することはできない。
すべての人が心によって喜び、心によって苦しむのである。
状況や環境、そして、他人によって苦しみを得るというのは正確ではないと思っている。
わたしには兄と弟がいるが、同じような状況や環境や家族を含む他人と生きてきたが、喜びや苦しみはそれぞれが全く違うものであったと言わざるを得ない。
魂の段階や人生の目的、遺伝子の特質や持って生まれた性格…
このような先天的なもので左右されることはあるだろうが、大抵が後天的なもので決まってしまうように思う。
わたしが今のわたしであるのは、わたしがそのように感じ、そのように考え、そのように行動した結果であると言えるだろう。
それは、先天的なものとは関係のないものである。

2014年1月29日水曜日

追憶 508

人が弱さを抱えているのは当たり前のことである。
どのような人も必ず弱さを抱えている。
だから、嘘を吐かなければならないし、劣等感や嫌悪感によってその心は簡単に支配されてしまうのである。
しかしながら、それは決して悪いことではないだろう。
人は弱い生き物である。
人は完璧ではない。
人は未熟である。
人は自らの未熟さを克服するために生きていると言っても言い過ぎではないだろう。
わたしたちは、自らの弱さを知って、それを改善していく仕事があるのである。

2014年1月28日火曜日

追憶 507

Hさんの心に触れ、その問題点と改善点に気付かされた。
それは、Hさんのものであるけれど、同時に自分自身のことでもある。
人は人と接することによって自分自身を見つめることができる。
「他人は自分を映す鏡である」
このように言われているが、人は人と接することがなければ、自分自身のことすら分からないままなのである。
わたしはHさんの心と触れ合うことがなければ、人の心の中に深部を見ることもなかったであろう。
裏表があるという横の展開に気が付いただけで、縦の展開には気が付かなかったのではないだろうか。
わたしは今だに自分自身を省みることもなければ、人に対する思いやりも深めることができないでいたに違いない。
わたしはHさんの心の中に弱さを見たから、思いやりの気持ちが芽生えたのである。

2014年1月27日月曜日

追憶 506

20歳以前のわたしはいつも苦しみを感じながら生きていた。
自分自身のやりたいことを見付け、それに対して自分なりに精一杯に努めている今でもまだ、苦しみを感じながら生きている。
それは、わたしの価値観の中に今だに劣等感や嫌悪感が存在しているからである。
わたしも心の二重構造を所有しているのだ。
それらを取り除くことができないようであれば、心の中が晴れ渡ることはなく、満足感や幸福感を手にすることは難しいであろう。
本音を使って生きることができない人間が、心から楽しんだり、心から喜んだり、心から愛したり、心から感謝したりすることはできないのである。
わたしは自分自身の経験を経て、言っているのである。

2014年1月26日日曜日

追憶 505

Hさんの心の中にあった扉の奥には、嘘に成り下がってしまった本音が投げ込まれ、腐っていたのである。
わたしが遭遇した皮膚を失った人の形をしたものは、Hさんの本音であったと確信できる。
本音に対して嘘を強いることによって傷付き、あのような恐ろしい姿になってしまったのではないだろうか?
可哀想である。
トラウマを抱える人の価値観は歪んでいる。
歪んだ価値観は貧しさを選択する。
幸せになりたいと強く望み、積極的に行動している人がいる。
しかしながら、その人の価値観が歪んでいるのであれば、どのように努めても幸せを掴めないだろう。
わたしの中にも劣等感や嫌悪感などの苦しみがあるが、それがトラウマとなり、歪んだ価値観を実現している。
以前のわたしは、貧しさ以外の選択をすることができなかった。
だから、夢も希望も無い世界に生きていたのである。

2014年1月25日土曜日

追憶 504

高め合うという方法からは、安心や信頼の絆が生まれる。
それは、とても建設的な力である。
そのような状態であれば、人は本音に従って行動することができるだろう。
それは、とても心地の好いものなのである。
蔑み合うという方法からは、不安や疑心の絆が生まれる。
それは、とても破滅的な力である。
そのような状態であれば、人は建前に従って行動するようになる。
それは、とても不快なものなのである。
建前に従って行動するのであれば、本音が言えない(行えない)ということだ。
それは、他人や自分自身を騙(だま)すという行為なのである。
誰かを騙すためには、基本的に嘘を吐かなければならない訳であるが、嘘を吐くためには、本音をしまっておく場所が必要になってくるのはごく自然のことであるだろう。

2014年1月24日金曜日

追憶 503

苦悩の隠し場所が、Hさんの心であるならあの古びた扉の奥の暗闇の世界だったのである。
「本音を隠す」というが、人は心の中にもう一つ(もしくは複数)の世界を所有しているのだろう。
わたしも単純ながら、本音と建前という概念をいつの間にかに形成していた。
それはわたしが自主的に作りたかったものではなく、人間関係の中でいつの間にかに作らされたものであったのである。
主義主張の違う人が競合するのがこの世である。
人は誰もが競い合っている。
意識的にも無意識的にも、人は互いに競うのである。
ただし、競うということにも二通りの方法がある。
一つは高め合うという方法である。
そして、一つは蔑み合うという方法である。


2014年1月23日木曜日

追憶 502

真っ白な世界は、Hさんの明るい面の心(外面)であるというのがわたしの見解である。
それは、表面的なものであり、容易いものである。
それは、顕在意識(けんざいいしき)というものであろう。
普段のHさんは、この部分の心を多用して生活をしているのである。
しかしながら、人生には厳しい状況は付き物であるために、「普通」の人は苦悩を覚えてしまうものである。
そして、その苦悩から逃れようとして自分を正当化する。
苦悩が存在しているにもかかわらず、自分を正当化しようとすれば、苦悩をどこかに隠してしまわなければならない。
苦悩を無かったことにしなければならないのである。
それが人の心であるなら、心を二重構造にして、その底の部分に押し込んで蓋(ふた)をするのである。

2014年1月22日水曜日

追憶 501

激しい悲鳴と抵抗を経て、人の形をしたものは沈黙した。
わたしは動かなくなった人の形をしたものに近付き、胸に刺さる光の杭を押し込んだ。
そうすると、人の形をしたものの全身が輝き始め、ばらけて光の結晶となった。
気が付くと、目の前には扉が見える。
これは、わたしがここへ来る時に通ったものである。
もう一度、この扉を通り、元の場所へと戻るのであろう。
わたしは立ち上がって歩き始めた。
心境が少しだけ穏やかになった気がする。
わたしが抱えていた怒りの感情は、以前よりも薄れたのであろうか?
それは、先程の人の形をしたものに関係があるのかもしれない。
扉の向こうは真っ白な世界である。
扉に手を掛けて、一気に飛び出した。

2014年1月21日火曜日

追憶 500

前方へと突き出された右腕は、人差し指と中指を伸ばした状態で静止し、一呼吸置いてから真下に振り下ろされた。
中空に引かれた一筋の線は音もなく輝き始め、やがて金色の光を放つ杭になった。
これは、天使の力である。
光の杭を掴むと、力が溢れてくる気がした。
それは、優しさであり、勇気でもあった。
光の杭を人の形をしたものに突き刺すことが、今わたしがしなければならないことである。
わたしは人の形をしたものに対して意識を集中し、身体が光の杭を投じる姿勢を見せた時に手を離した。
光の杭は静かに、そして素早く、美しい直線を暗闇に残して人の形をしたものに突き刺さった。

2014年1月20日月曜日

追憶 499

これは優しさである。
わたしはこの人の形をしたものに対して、思いやりの気持ちを持ったのである。
心の中に優しさが広がっていく感覚は、何とも言えない有意義な感覚であった。
乾いた大地が水で潤されるような感覚である。
わたしはこの人の形をしたものを助けることができると思った。
根拠は無いが、優しさがわたしに自信を持たせるのであった。
それは、優しさという感情が、この世界において建設的な性質を持つ力であるからであろう。
自信が確信に変わる時に、わたしは右手を前方へと突き出していた。

2014年1月19日日曜日

追憶 498

それがわたしにしがみつく力を強めた時、わたしの中には憐れみにも似た感情が生まれていた。
わたしは自分自身の感情の変化に喜んだ。
わたしはこの人間を助けたいと思っているのである。
それは、この人間のうめき声がわたしに対して助けを求めるものであると、心が認識したからであるだろう。
助けを求められて助けないのは名折れである。
わたしはそのような生き方はしたくない。
助けられるかどうかはやってみなければ分からないが、それを試みずに立ち去ることなどできなかった。
その時、わたしは胸の奥が温かくなるような感覚を得た。



2014年1月18日土曜日

追憶 497

眼球がなく、皮を剥がれた人間がわたしの存在に気が付くのには、さほど時間は掛からなかった。
眼球があったであろう黒い二つの穴をわたしに向け、その存在を確かめているようである。
わたしは恐ろしさによって硬直し、その場を引くこともできなかった。
下半身が動かないのか、両脚を引き摺りながら両腕を使ってわたしに詰め寄る。
わたしは全く動くことができない。
そして、その手がわたしの足首を掴み、膝(ひざ)、太もも、腰という具合に上がってくる。
それは、言葉にならない微かなうめき声を上げている。
わたしはそれをとても苦しそうだと感じた。
抱き付くようにしてわたしにしがみつくそれは、何かを訴えているような気がしてならなかった。



2014年1月17日金曜日

追憶 496

わたしは自分自身の中に存在している恐怖の根源を探して歩き始めた。
それは、自意識ではなく、無意識の内に歩が進むのである。
暗闇の中を恐怖を頼りに進んで行く。
すると、足元に赤黒い何かを認めた。
わたしは目を凝らしてそれに注目する。
すると、それが皮を剥かれた人間であることが理解できた。
それは丸めた背中を向けて倒れていた。
わたしは恐ろしさと吐き気に襲われ、その場に嘔吐した。
すると、目の前の皮膚を無くした人間が鈍いうめき声を上げながら身をよじった。
その姿はとても苦しそうである。
次の瞬間にそれはわたしに顔を向けたが、そこに眼球は無かった。

2014年1月16日木曜日

追憶 495

ここはとても暗い場所である。
太陽の去った夜空にも銀河の輝きが存在するが、ここには一切の光が無いように思える。
ただ、黒が視界に広がっていた。
これが視界なのかも分からなかったが、わたしはただ黒を認識していたのである。
身体が鉛のように重たい。
身動きするのも億劫(おっくう)である。
その時、わたしは自らの中に恐怖が存在していることに気が付いた。
わたしは何かに対して怯えているのである。
この暗闇が怖いのだろうか?とも考えたが、目の前にあるのはただの暗闇であり、わたしを恐怖させる原因にはならなかった。
わたしは、この状況における唯一の手掛かりに対して意識を集中した。
そうすれば、この状況を打開することができるのではないかと考えたのである。


2014年1月15日水曜日

追憶 494

何度も固めたはずの覚悟が、ちょっとしたことで簡単に崩れ散る。
わたしは決断したのではないのか?
何度も自分自身に問いかける。
人の心は弱いものであるということを思い知らされ、自分自身の軟弱さに嫌気が差す。
何なのだ、わたしは。
何がしたいのだ。
恐怖に怯えて立ち止まり、更には逃げ出すことを考えている。
わたしの熱意はこの程度のものであるのか?
わたしは自分自身に対して心底情けなく思う。
しかしながら、状況は立ち止まりはしない。
わたしが考えをまとめる間に、扉の奥の暗闇から幾つもの黒い腕が伸びてきて、わたしを暗闇の中へと引き摺り込んだのである。

2014年1月14日火曜日

追憶 493

大きな音を立てて、扉は開いて見せた。
錆び付いた蝶番が抵抗したが、冷静さを用いたわたしの心に対しては、従順にならざるを得なかったようである。
扉の奥には何も無かった。
いや、暗闇が何も無いように見せていたのである。
生暖かい風が頬を撫でるのを感じた瞬間に、強烈な吐き気に襲われた。
わたしは込み上げてくるものを感じ、その場に吐き出した。
それは、赤黒い血のようなものであった。
それが何なのかは分からなかったが、破滅的な性質を持つものであるということは想像が付く。
わたしは躊躇(ちゅうちょ)していた。
ある程度の想像はしていたが、扉の中は想像以上に苦しい場所であるだろう。

2014年1月13日月曜日

追憶 492

穏やかな心によって状況を眺めると、見えてくる景色も変わってくる。
状況に対して冷静に考えを巡らせることによって、自分自身がどうすることが最も合理的であるだろうか?という思考が芽生えるのである。
怒りの中にある心には、このような思考は築けない。
怒りの中にある心には、問題を解決する力は無いのである。
水に溺れないためには、慌てずに口を閉じることである。
ただ、それだけで良い。
目の前の状況に対して、わたしは冷静さを取り戻していた。
大きく息を吸い込み、それをできる限り時間をかけて吐き出した。
扉に掛けた手が以前にも増して力強く感じた。
わたしは力一杯に扉を引いた。

2014年1月12日日曜日

追憶 491

破滅的な感情の渦の中で、わたしは自らに言い聞かせた。
それは、「この扉を開くことがわたしの仕事(目的)であり、幸福である」ということであった。
わたしは破滅的な感情に負けないようにするためには、自分自身に言い聞かせる以外に方法は無いと考えていたのである。
わたしの幸福とは、Hさんに対する仕事の完成である。
今のわたしにできることは小さなことかもしれないが、今のわたしにできることが十分に行われなければならないのである。
わたしの持てる力が最大限に発揮されることが重要なのだ。
破滅的な感情に対して、建設的でポジティブな言葉を投げ掛け続けると、心の中に平穏が広がり始めるのを理解した。



2014年1月11日土曜日

追憶 490

しかしながら、葛藤に従って立ち往生していてもどうしようもない。
人生は決断である。
どのような結果を得るとしても、変化に勝る成功は存在しないであろう。
何をするにも、前進することに意味がある。
わたしは葛藤と闘いながらも、扉を開くという決断をした。
元々、扉を開くつもりであったのだけれど、破滅的な感情によって決心が鈍っていたのである。
怒りなどの破滅的な感情が溢れてくる心を静めるように努める。
それは、とてもしんどいことではあったが、何とかできそうである。

2014年1月10日金曜日

追憶 489

扉をこじ開けようとするほどに、わたしは心を乱していった。
扉の封印が解かれるのに比例して、わたしの心がまるで破滅的な性質に対して傾いているようである。
わたしは自らの心の状態に苦しんでいた。
そして、扉を開こうとする行為に対して疑問が生じていた。
扉を開こうとすると苦しみが増しているように思える。
苦しみが増してしまうのに、これ以上扉を開く必要があるのだろうか?
扉の奥には更なる苦しみが存在しているのではないか?
何のために、わざわざ危険を犯すのか?
わたしの心の中には、扉を開きたいという欲求とそれを止めようとする葛藤が渦巻いていた。



2014年1月9日木曜日

追憶 488

気が付くと、わたしを取り囲んでいた高揚感は一切消え去り、静まり返った空間にわたしと古びた扉だけが取り残されていた。
わたしは冷静に状況に対して向き合っていた。
扉を開くことに対して意識を集中させる。
力を込めて扉を引くがわずかにも動かなかった。
わたしはこの時、この扉が一筋縄ではいかないということを思い知った。
精一杯の力を込めて、力尽くで扉をこじ開けようと努めた。
しかしながら、全く変化のない状況に対して、わたしは苛立ちを隠せずにいた。
扉を開きたいという思いが募るのに反するように、状況は悪化していくのである。



2014年1月8日水曜日

追憶 487

わたしは意を決して、自らの中に膨れ上がった感情を解放することにした。
その場に跪(ひざまず)き、両手を伸ばして扉に触れた。
感触だけで、その扉が重たいものであると理解できる。
錆び付いて、埃(ほこり)にまみれているこの扉を開くのは簡単なことではないだろう。
しかしながら、わたしにはその扉を開く義務がある。
なぜそう感じるのかは分からないが、わたしにはそうしなければならない責任があるような気がしてならないのである。
それは、わたしがこの扉の目の前にいるからであろう。

2014年1月7日火曜日

追憶 486

わたしの中では、扉に対する懸念が一層大きくなっていく。
一度、心配事を意識してしまうと、時間の経過と共にそれが膨張し、最終的には心配だけが心の中に残ってしまう。
わたしは扉に対する懸念が大きくなるに従って、それが心地の好い気分を破壊するのではないかと考えて怖かった。
時間の経過によって、わたしは自らの嫌な予感が現実味を帯びていくことに恐怖した。
心地の好い気分と心配の比率が徐々に差を詰め、やがては逆転した。
わたしは既にこの状況を楽しんではいなかった。
心配で、不安で、恐ろしくてならなかった。
目の前の扉のことで頭がいっぱいである。
どうにかしなければならないという焦燥感に苛(さいな)まれ、それは無視することのできないものとなっていた。

2014年1月6日月曜日

追憶 485

Hさんの明るい面の感情に触れていると、わたしは何とも言えない高揚感に包まれた気分であった。
幸せとは、このようなことを言うのかもしれない。
わたしは満たされていた。
この気分をずっと味わっていたかったが、一つどうしても気になるものがあった。
それは、わたしの足元の床にある扉であった。
それは観音開きの古びた木製の扉である。
木材は歴史を重ねて黒ずみ、取っ手や蝶番(ちょうつがい)などの金属製の装飾は赤茶色に錆びていた。
それは、古い寺の門を小さくしたような作りであった。
楽しい気分の片隅では、その扉に対する注意があった。
わたしにはそれが責任として感じられる。
それは、外出先で家の鍵を閉め忘れたのではないかと思い始めた時のような感覚なのである。


2014年1月5日日曜日

追憶 484

わたしが何をすべきであるのかは、天使文字の中に記されているのかもしれない。
とは言え、わたしにはそれを解読することはできなかった。
わたしにできることは、導かれるままにこの身を委(ゆだ)ねることくらいであるだろう。
わたしは地道にコツコツと自分のやるべきことを探していくつもりである。
天使文字が入り込んだHさんの心の中に入り込んだわたしは、そこで得られる感覚はないかと意識を集中していた。
すると、わたしにはHさんの明るい面の感情が感じ取れた。
楽しい、嬉しい、優しい、温かい…
このように、Hさんに対する良い印象が次々にわたしの中に流れ込んでくるのである。

2014年1月4日土曜日

追憶 483

意識が静寂に至ると、わたしは自らを導く大きな意思に従って進む。
わたしの意思とは違う力に導かれて、わたしはHさんの背中に手を伸ばした。
滑らかに運ばれる指先が天使文字を綴(つづ)り、それが金色に輝くのを確認して背中に押し込む。
背中に押し込んだ天使文字によって内部の破滅的な意識が押し出され、ゲップによってわたしはそれを認識する。
天使文字はカルテのようなものであるのかもしれない。
天使文字が心の中に存在する時には、状況に対する理解が深まるような感覚があるのである。

2014年1月3日金曜日

追憶 482

どのような問題を解決する場合も、その原因を解明し、改善することが求められる。
目の前に出された料理がどのようなものであるのかをできる限り鮮明に理解するということが必要なのである。
わたしを不快にさせる破滅的な意識の原因はどこにあるだろう?
それはHさんの心の中に存在しているはずであるが、わたしはそれを特定しなければならない。
そうでなければ、わたしは目眩と吐き気を完全に取り除くことはできないであろう。
それに、あの胸の高鳴りの意味も分からないままである。
わたしはこの状況に意味を見出すためにゆっくりと目を閉じた。




2014年1月2日木曜日

追憶 481

その喜びに付き従って進むことが重要である。
喜びや楽しみなどの建設的で良い気分に従って進むことが、仕事を成功させるのではないかと思える。
わたしは苦しみから逃れるために仕事をしている訳ではない。
わたしは喜びに至るために仕事をしているのである。
破滅的な意識が取り除かれるのは心地の好いものである。
Hさんの心に触れて重くなった気分も、破滅的な意識をゲップによって吐き出すことによって大分改善された。
しかしながら、これは温かい料理から立ち昇る蒸気のようなものであり、それを取り除いたからといって何かかが変わるということはないだろう。
蒸気の元である料理を食べ切らなければ、お皿は洗えないのである。

2014年1月1日水曜日

追憶 480

わたしは皆に胸の高鳴りを悟られないように気を使い、努めて冷静に仕事に取り掛かった。
意識をHさんの心に対して向けた瞬間に、わたしは目眩(めまい)と気分の悪さに襲われた。
脳に酸素が足りないような感覚に捕われ、わたしは平常心を失った。
猛烈な吐き気がわたしを冷静の中にどうにか引き止めている。
どのような人の心の中にも、破滅的な意識が存在している。
Hさんも例外ではない。
それは、Hさんの心の中にも不満や不安といった感情が存在しているということを示唆(しさ)していた。
わたしの状態は酷いものであった。
その時、わたしは胸から込み上げてくるものを感じ、それはゲップとなって表現された。
それは黒い煙のようであるけれど、アメーバのように粘液状のものにも見えるものである。
それは決して心地の好いものではないけれど、ケップによって吐き出せば爽快感を得ることができた。