このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2013年9月30日月曜日

追憶 387

苦しいことは苦しいと、嫌なものは嫌だと、敵は敵だとわたしに教えたのは周りの大人たちである。
残念ながら、周りの大人たちがわたしに本当のことを教えることはなかった。
大人たちはそれが真実であると思っていたかも知れないが、わたしにとっては真実ではなかったのである。
苦しいことは苦しみではない。
嫌なことは嫌なことではない。
敵は敵ではなかったのだ。
もしも、わたしが母親の心の中に存在していた人影と直接向き合うことがなかったら、わたしは正義感という偏見によって敵対していたに違いない。
戦隊ヒーローのように、敵を打ちのめしていたかも知れない。
人影の抱えていた怒りや悲しみなどの苦しみを共に支えることもなかったであろう。
正義感によって人影と対立し、互いに更なる傷を負ったに違いないのである。

2013年9月29日日曜日

追憶 386

わたしはこれまで、周りの大人たちの用意する常識を飲み込む以外に方法がなかった。
出された料理がどんなに口に合わなくても、それ以外に食べるものがなかったのである。
わたしは何も知らない子どもであった。
わたしは出される料理がわたしを生かすものだと信じ込んでいた。
今でも未熟であり、何も知らないことには変わりないが、しかしながら、わたしは周りの大人たちがわたしに押し付けてきた常識を判断しようと考え始めたのだ。
わたしは自分自身の経験から、それを自分自身で考え、自分自身で判断したいのである。
わたしはこれまでに多くの偏見を教わり、多くの偏見を生み出してきた。
その結果、わたしの心は乱れ、悪事を働いていたように思える。
自分自身の行いを人のせいにするつもりはない。
わたしがやったことは、わたしの責任である。
しかしながら、大人たちが子どものわたしを作り上げたのも事実であると思えるのである。
大人たち(特に親)が責任を以て子どもを導かなければならないと、わたしは自分自身の経験から学んだのである。

2013年9月28日土曜日

追憶 385

多くの人の中に存在している常識はある種の偏見の塊である。
それは、人に歪んだ正義感を植え付けてしまい、その本質を見極める正しい心を育むことはない。
正義を守るために悪を痛め付けるのである。
悪を痛め付けることが正義なのか?と疑問を抱くのは、わたしが少しはまともになったからだろう。
幼い頃のわたしは、戦隊ヒーローに憧れていた。
しかしながら、今のわたしは戦隊ヒーローが卑怯者にさえ思える。
悪役の目的は世界征服?にあり、戦隊ヒーローはそれを阻止しようとしている。
悪役は手下を従えて戦隊ヒーローと戦うが、戦隊ヒーローが手下を打ち負かしてしまえば、一対五という構図が出来上がる。
悪役が諦めることがないことや、強敵であることを考慮しても、わたしにはそれが心地悪く思えるのである。
この世界は闘いの場所であり、物事の優劣を決めなければならないことは理解しているつもりである。
わたしの考えは甘いのかもしれない。
しかしながら、正義が悪を定め、それを痛め付けることが本当に正しいことなのか?ということを考えずにはいられないのである。

2013年9月27日金曜日

追憶 384

わたしはまだ霊に対する知識も経験も浅い。
そんなことは自覚している。
しかしながら、そんなわたしにでも理解できることはあった。
それは経験から導き出される独自の見解である。
実際に体験しなければ分からないことがたくさんあるものだと、わたしはそう思うのである。
少なからず、テレビ番組に出演していた科学者は霊体験をしたことがないのであろう。
少なからずあの自称霊能者たちは、科学的な見識から霊を捉えてはいないだろう。
どちらも互いを否定しているのだから、きっと経験が浅いのである。
自らが実際に体験することによって理解することができることはたくさん存在するとわたしは思っている。
わたしは、母親の心の中に黒い人影を見て、そこに怒りや悲しみなどの感情を受け取り、その重さを感じたのである。
誰が何と言おうとも、それはわたしが経験の中から得た確実な感覚なのだ。


2013年9月26日木曜日

追憶 383

どのような主義の人であっても、自らの意識を否定することはできない。
自らの意識に対して様々な理由や名称をつけて解釈しようとしているが、それを否定することができる人はいないのである。
一昔前のテレビ番組では、幽霊など存在しないという科学者と、それを肯定しようとする霊能者の討論の様子が放映されていて、わたしもそれを楽しく観たものである。
しかしながら、どの番組のどのような出演者も、幽霊の是非を問うばかりである。
そういう趣旨の番組だから仕方がないのかもしれないが、科学者と呼ばれる人たちも、霊能者と呼ばれる人たちも、自らの意識についての議論には至らない。
霊と人間の心が同じものであるということを知らないのであるだろう。
今になってわたしは、人の意識と霊体が同じものであると理解することができるのである。

2013年9月25日水曜日

追憶 382

気分は最高に優れていた。
しかしながら、体力は著しく消耗しているようであった。
わたしは母親の心の中で体験したことを説明する余裕もなく、意識を失っていた。
わたしは眠ってしまったようである。

悩みが解決する時、人は心が軽くなる。
それは、悩みという破滅的な意識が重たいからである。
目には映らないからといって、意識が質量を持たないと決め付けてはならないだろう。
意識に数値としての重量はないかもしれないが、人はそこに重さを感じてしまう。
「気が重たい」や「気分が沈む」などという言葉に対して、あなたは何の疑問も持たずに共感し、納得することができるだろう。
頭では認めることができなくても、心では分かっているのである。
霊を信じない人は、どうやって自らの心を証明するのであろう?
思考や感情、意識をどのように理解するのだろうか?

2013年9月24日火曜日

追憶 381

わたしは、瞼(まぶた)の向こう側に淡く光が滲んでいるのを見た。
わたしはいつの間にかにいつもの「わたし」に戻っていた。
淡い光に導かれるようにして、わたしは瞼を上げた。

室内の蛍光灯の明かりがわたしの網膜には刺激的であった。
わたしは一度上げた瞼をすぐさま下ろして、身体の準備が整うのを待った。
しばらくしてゆっくりと瞼を上げると、そこには懐かしい背中と部屋の様子が広がっていた。
そこにはわたしが目を閉じる前と何ら変わらない光景があったが、それがどこか違って感じられた。
どこがどう違うのかと、具体的なことは説明することはできないが、感覚としては少し明るくなったような気がするのである。
気のせいかもしれないが、そう思うのであった。
悩みが解決した時のあの清々しさと言えば分かるかもしれない。
心を塞ぐ厚い雲が取り除かれ、からっと晴れた高い空を眺めるような、そのような心地好さなのである。

2013年9月23日月曜日

追憶 380

良いことをすれば気分が良い。
それが良いことなのか悪いことなのかは、自らの心がその気分によって教えてくれる。
それが常識としては良いことであったとしても、それをした後に気分が良くないのであれば、それが良いことであるとは言えないであろう。
わたしは天から降り注ぐ光と、それに包まれて上昇していく人影を眺めながら、自らの心が非常に満たされているのを感じていた。
それは大好きな人に会った時のような喜びをわたしに導いてくれる状況であった。
わたしはこの状況を素晴らしいと思った。
できる限りこの状況の中で、この心境で在りたいと思うのであった。
光の先に消えていく人影を見送り、わたしは大きな充足感と少しの寂しさを覚えた。

2013年9月22日日曜日

追憶 379

天から降り注ぐ光に照らされた白い人影は、まるで蛍光灯のように自身が発光するように輝いていた。
わたしはその光が美しいと感じて感動を覚えるのであった。
すると、ふと白い人影が重さを失い、わたしの腕を離れようとしているのに気が付いた。
それはまるで風船のように簡単に、わたしの腕を離れて宙に漂った。

「ありがとう」

わたしは、心の中に声を聞いた気がした。
気のせいだったかもしれない。
しかしながら、わたしの心は喜びを感じて嬉しかったのである。
わたしは良いことをしたと思う。
それは身勝手な判断であるのかもしれない。
しかしながら、心が喜んでいるのだから、わたしがしたことはきっと良いことなのである。
今はそう信じたい。
わたしはこれまでの人生で、人に迷惑の掛かる悪いことを散々繰り返してきたから良く分かる。
わたしが人影に対して行ったことは決して悪いことではないと。
それが良いことである可能性が高いことを。

2013年9月21日土曜日

追憶 378

その形容し難い音なのか何なのか分からないものを認識した時に、わたしは上空に光が射すのを見た。
それは、冬の厚い雲の隙間から覗く陽の光のように幻想的で美しいものであった。
降り注ぐ光を見ていると、不思議とその先へと進みたくなるような気分になる。
わたしにとってその光は、とても魅力的に映るのであった。
その先に行けば、すべてが満たされるのではないかと思うのである。
根拠はないが、降り注ぐ光を見ていると期待が膨らみ、心が高揚するのであった。
しかしながら、それよりもここにとどまらなければならないという気持ちの方が強く、わたしは後ろ髪を引かれながらも、無理矢理にその思いを断ち切った。
すると、降り注ぐ光は白い人影を捉えた。
光に照らされた白い人影は、朝日に照らされた朝露のように何の汚れもなく、ただ美しかった。


2013年9月20日金曜日

追憶 377

わたしと白い人影の間に安心感が溢れる。
それは、わたしたちのいる場所をも包み込むのであった。
わたしたちは安心感に包まれていた。
とても穏やかな気分だった。
先程までは、怒りや悲しみなどの破滅的な感情によって心を乱し、苦しんでいたという状況が幻であったかのようにも思える。
嵐の後の青空が、どこか現実味を帯びないように。
このような状況にあっては、わたしたちの心が乱されて苦しむこともないであろう。
心が穏やかに在るというのはこれほどまでに幸福なことなのである。
わたしはこの時ほど、心の平穏が大切であると感じたことはなかった。
その時、わたしは時間が終わりを告げる音のようなものを聞いた気がした。

2013年9月19日木曜日

追憶 376

すると、人影の口の中から黒い煙のようなものが溢れ、それがゆっくりと上昇して消えた。
黒い煙のようなものが消えた後、人影の胸の辺りが輝き出し、やがては全体が眩(まばゆ)い光によって包み込まれた。
光によって包み込まれた人影は真っ白な人の形をしたものになった。
わたしは、それを抱き締めたくて仕方がなかったので、自らの心に従ってそのようにしたのである。
白い人の形をしたものを抱き締めると、何とも言えない充足感を得ることができた。
安心感が溢れ、まるで暖かいベッドの中にいるようである。
この充足感は、白い人の形をしたものが感じているものであるだろう。

2013年9月18日水曜日

追憶 375

わたしは相当疲弊(ひへい)していたが、それよりも高揚する気分の方が勝っていた。
気分が高まれば、疲労は何とかなるものである。
わたしは右手を宙に伸ばして、人差し指と中指によって一筋の線を描き、そこに光の杭を生み出した。
それを掴んで人影を見る。
わたしはこれからこの杭を人影に突き刺さなければならない。
このような意思が心の中に芽生え、わたしはその意思に従って事を成した。
鈍い音がして光の杭が人影の胸を貫いた。
わたしは再度光の杭を作り出すと、それを人影に突き刺す。
それを何度か繰り返し、眉間、両胸、腹という具合に光の杭が配置された。

2013年9月17日火曜日

追憶 374

疲れた精神には意識の集中はこたえたが、このような状況で泣き言は価値を持たないだろう。
わたしは投げ出したくなる気持ちを抑えて、力を振り絞った。
湿ったタオルを力一杯に絞ると少しだけ水滴が落ちるように、わたしは限界の向こう側の力によって精一杯に人影を引いた。
すると、ぶちぶちと肉が引き千切れるような感覚を以て、人影が母親の心を離れた。
わたしは無我夢中で人影を引っ張った。
人影の身体が母親の背中に開いている穴に引っ掛かり、それを引き抜くことは大変だった。
しかしながら、わたしは力任せに人影を母親から引き抜いたのである。

呼吸が乱れ、流れる汗を気にすることもできない程疲労していた。
わたしの膝(ひざ)の上には死んだように沈黙する人影の姿があった。

2013年9月16日月曜日

追憶 373

それは、気力の闘いであった。
精神を統一し、全霊を込めなければ、人影を母親の心の中から引き抜くことはできないと感じていた。
いや、感じていたのではなく、そのような事実があったのである。
わたしの目的は母親の心の中から人影を引き抜いて、それを解放することであった。
そのためにはここで休む訳にもいかなかったし、諦める訳にもいかなかった。
わたしがここで休んだり、諦めたりしてしまえば、人影はまた母親の心の中に戻ってしまうに違いない。
それに、また同じように苦しみの感情を育み、苦しむのだろう。
それだけは阻止しなければならなかった。
だからわたしは、全霊を込めなければならないのである。

2013年9月15日日曜日

追憶 372

わたしは自分自身が何をするべきなのかを知っていた。
それは、知識でも、推測でも、想像でもない。
男が女を抱く時にどうすれば良いかを本能的に知っているように、わたしの精神と肉体は自らの必要を理解しているのである。
わたしは何も考えなかった。
ただ、状況がわたしを必要へと運ぶ。
母親の背中にぽっかりと空いた穴の中に右腕を突っ込み、わたしは人影に触れた。
そして、人影を力一杯に掴み、そのまま力一杯に引いた。
見た目とは違い、人影は地に根を下ろした樹木のように頑丈であり、簡単には動かなかった。
わたしは気合いを以て疲れた身体(精神)に全霊を込めた。
びくともしなかった人影が僅(わず)かに動く。
それを見て、わたしは更なる力を振り絞った。

2013年9月14日土曜日

追憶 371

母親の心の中にいる人影は完全に沈黙し、そこには何の嫌悪感も感じなかった。
わたしは目を閉じたままで右手を差し出し、人差し指と中指によって母親の背中に大きく円を二周描いた。
わたしの指の軌跡は金色の光を以て輝き、母親の背中を眩しいほどに照らした。
光の眩しさに(目は開いていないけれど見えるため)わたしは目を細めた。
しばらくして光が収まると、母親の背中と心の間には何の隔たりも無くなってしまった。
背中にぽっかりと穴が空いているような状態である。
それは、肉体を超越し、心の中に直接繋がるトンネルのようだった。
わたしと人影の間には、肉体と意識の壁のようなものが存在していた。
人が自らの心に触れることができないのは、肉体と意識の間に見えない壁のようなものが存在しているからである。
そのため、わたしの肉体では母親の心の中にいる人影に触れることはできなかった。
しかしながら、今の状態であればそれができるような気がしていた。
手の届く範囲に人影が見えるのである。

2013年9月13日金曜日

追憶 370

そのような思いに至った時、わたしは自らの身体が自分自身とは違う意思によって導かれるのを感じていた。
わたしがそのように考えなくても、右手は人差し指と中指を差し出し、宙に一筋の線を描いた。
それは暗闇を照らす蝋燭(ろうそく)のように優しく、また、暗闇を切り裂くハロゲンランプのように力強い光によって杭が生み出された。
わたしは光の杭を掴むと、それを目の前の人影に対して再度投じた。
それは迷うことなく一直線に人影を射抜いた。
それによって人影が何かの反応を示すということはなかった。
人影は完全に沈黙しているようである。
わたしは腕を伸ばして人影を掴んだ。
次の瞬間には意識が切り替わり、わたしは目を閉じたままで現実の世界に戻っていた。
五感が目覚め、母親の背中に触れている実感を得る。
目は開かない。
目を閉じたままでもわたしには母親の心の中が見えた。
そして、わたしは母親の心の中にあの人影の姿を認めた。



2013年9月12日木曜日

追憶 369

どのようなことも、この世界では豊かに育まれる。
それは、人の考える善悪では決めることができない。
世界からすれば、すべてのことが大切な役割を所有しているからである。
そのため、人が考える悪いことでも、この世界では豊かに育まれる。
母親の心の中に存在している苦しみの価値観(黒い人影)を放っておけば、それはまた同じようにやがては大きくなってしまうのである。
この世界では、物事が豊かに育まれることを防ごうと考えれば、それを根絶やしにするしかないのである。
原因が存在しなければ結果は存在しない。
そこに僅(わず)かでも原因が存在しているのであれば、それはやがて結果に結び付くのである。
わたしは鉛のように重たい頭で考えた。
今ここで目の前の人影が所有している苦しみの価値観を根絶やしにしておかなければならないのである。

2013年9月11日水曜日

追憶 368

黒い煙のようなものを吐き終えると、わたしは気分が楽になったことを感じた。
目の前の人影が気になって見やると、それはうなだれる様にして立ち尽くしているようであった。
黒い人影からはこれ以上の嫌悪感を感じなかった。
黒い人影は完全に沈黙しているようである。
状況を見て安堵(あんど)した次の瞬間、わたしは身体が鉛のように重たくなるのを感じた。
とにかくしんどかった。
わたしは疲れ果てていたのだと思う。
できることなら、このまま倒れてしまいたかった。
しかしながら、わたしにはやるべきことがあると確信していた。
それは、目の前の人影をどうにかしなければならないのである。
このまま放っておくのは良くないだろう。
この人影がこのまま母親の心の中に存在していれば、更なる苦しみをもたらしてしまうと思えるからである。

2013年9月10日火曜日

追憶 367

光の杭をその身に受けた人影は悶え苦しんでいた。
その光景を見ていると、わたしは猛烈な嫌悪感に襲われた。
強烈な吐き気がして、黒い煙のようなものが口から大量に出てきた。
それはとても不気味なものだと感じる。
傷口から膿(うみ)が出るように、わたしの体内からは大量の黒い煙が溢れ出ているのであった。
しかしながら、その黒い煙を止めようなどとは考えなかった。
傷口からは膿が出た方が良いように、わたしの体内からは黒い煙のようなものが出た方が良いと思えるのである。
その作業は嘔吐を繰り返す時のように辛く苦しいものではあったが、吐き終わると気分が楽になるのと同じことをしているのではないかと思える何かがあった。
わたしはその抽象的な確信に向かって歩みを進めるのである。

2013年9月9日月曜日

追憶 366

感じている苦しみに対して、わたしの気持ちが嫌悪感から希望や期待に変わった時、母親の心の中に存在している苦しみの中にその本質的な部分が見えた気がした。
感覚的なものであるため、それが何であるのかは具体的には分からなかったが、今のわたしにはそれで十分であったのかもしれない。
苦しみの本質的な部分を見た気がした次の瞬間に、わたしは人差し指と中指を突き出して、宙に一筋の線を描いた。
それは、夜空を切り裂く流れ星のように母親の心の闇を切り裂いて、光の杭を形成した。
それを掴むと、わたしはすぐさま目の前の黒い人影に対して投じた。
光の杭は迷うことなく一直線に飛んでいき、人影の胸に突き刺さった。
鈍い音がした。
人影は光の杭に反応して身を縮める。

「ぐっ…ぐぎぎぃぃぃぁぁあ」

耳をつんざくような悲鳴を上げて人影は苦しそうに仰け反った。

2013年9月8日日曜日

追憶 365

その可能性がどのようなものであるのかは、わたしには分からない。
しかしながら、その先には今までとは違う何かがあると確信することができるのである。
どのようなことであっても繰り返しはだめだ。
ただ同じことを繰り返すだけなら何の進歩もないからである。
すべては常に変化を求めて進み続けなければならないのだ。
わたしは苦しみに対しての価値観を変化させる必要がある。
苦しみから逃げるのはもう嫌なのである。
わたしは苦しみに立ち向かう。
そして、その苦しみを乗り越える。
そして、その先に存在している可能性を掴み取る…
そう決意するのであった。

2013年9月7日土曜日

追憶 364

わたしが霊を見たいと思った日から、この苦しみに会うことは既に決まっていたのである。
意識(な存在)に向き合うということは、そこに存在している苦しみや危険と向き合わなければならないということは当たり前のことなのである。
これはわたしが自分自身によって決めたことである。
この状況は、わたしが求めた結果なのである。
そのことを思い出した瞬間に、わたしの中では何かが変わったように思えた。
現状の苦しみに対しては拒絶ではなく、期待や可能性を感じるようになっていた。
わたしの心は躍動し、震えていた。
この苦しみの中には、わたしを喜びに駆り立てる何らかの可能性が存在しているということを考えると、胸の高鳴りを抑えることができなかったのである。

2013年9月6日金曜日

追憶 363

この考え方は素直ではない。
苦しいと感じるものは苦しいのである。
しかしながら、それを苦しいと感じるということですら思い込みなのである。
しかも、破滅的な思い込みである。
それは改善すべきものであるのだ。
それは人からの教育や自らの経験などによってもたらされる価値観である。
その価値観が破滅的な場合は、自らの心に対して苦しみを導いてしまう。
破滅的な価値観は改善しなければならない。
既に築かれた価値観を変えるためには、新たな価値観の形成が必要だ。
新たな思い込みや決め付けによってのみ、人は新たな価値観を得ることができるのである。
わたしは母親の心から迫り来る苦しみに対して、それを楽しもうと心掛けてみた。
この苦しみの中に楽しいと思えるものはないかと探した。
その時、わたしは思い出した。
わたしは以前より、このような状況を待ち望んでいたことを。


2013年9月5日木曜日

追憶 362

苦しいことをただ苦しいと表面的に捉えるのではなく、その中に存在している苦しみ以外の感覚に気が付くことが重要なのである。
ただし、それが持つ本質的な部分を捉えたことで、それを好きになることができるかどうかは分からないことだ。
学生の頃のわたしには、マラソンはどうも好きになることができなかったからである。

人が心に抱えている苦しみは決め付け(思い込み)によって得られるものである。
人が苦しむのか?楽しむのか?は、それをどのように決め付けて、どのように思い込むのかである。
わたしは母親の苦しみや、自らの感じている苦しみに対して、それが苦しいからという理由によって拒絶するのは間違っていると思えるのだ。
だから、わたしはこの苦しいと感じている状況の中に、それ以外の感覚を探さなければならないのである。


2013年9月4日水曜日

追憶 361

苦しみながらも走り続けていると、その状態が苦しくなくなるという瞬間が訪れる。
それはランナーズハイと呼ばれる現象であるが、わたしの中では走ることに対する苦しいという感覚が苦しいという感覚として限定されることはなかったのである。
最後の方は走ることが楽しいとさえ思えていたのである。
わたしには苦しいことが苦しいことだけで成り立っている訳ではないと思えるのである。
物事の中には、人が決め付けているもの以外の性質も含まれている。
もしも、苦しいことが苦しみだけによって成り立っているのであれば、それを苦しみ以外の感覚によって感じることはできないであろう。
それに、人それぞれに苦しいことが違うという矛盾にも対応することができなくなってしまうのである。
結局は、「ものの見方(価値観)」というものがそれを自分にとってどのようなものであるのかを決めるのである。
それを苦しいと思い込めば、それは苦しいものである。
それを楽しいと思い込めば、それは楽しいものなのである。
人は思い込みをコントロールすることが重要なのである。

2013年9月3日火曜日

追憶 360

わたしはマラソンは嫌いである。
何のために人はただ走るのか分からないからである。
マラソンに対して明確な目的を見出すことができるのであれば、わたしはマラソンを好きになることだってできるかもしれない。
しかしながら、わたしにその目的を見出すことは難しそうである。
学生の頃、体育の授業で嫌嫌ながらもマラソンをしていた時に、わたしは一つだけ大きな学びを得たことがあった。
人というものは習慣に対して好意を持つという性質があるように思える。
それが嫌嫌ながら始めたことであるにしても、それを続けている間に楽しくなる、好きになるということがあるだろう。
初めは興味の無い、もしくは嫌っていた相手であっても、共に過ごす時間が増えることによって、相手に対して何らかの好意を持つということはある。
人というものは苦しみの中にあっても、それに慣れることができると思うのである。
マラソンは初めは何の苦しみもないが、走っていると精神的にも肉体的にも苦しくなってくる。
しかしながら、その苦しみに耐え、次第にその状態に慣れてくると苦しみは消えて楽しさが溢れてくることがある。

2013年9月2日月曜日

追憶 359

初めて対峙する他人の心、そして、怒りの感情の中で自らの心は翻弄(ほんろう)される。
わたしは集中することだけに努めた。
それ以外のことに気を取られたら、集中することすらできないであろう。
しかしながら、刃のように突き刺さる怒りの感情を気に掛けないというのは、わたしにとってはとても難しいことであった。
耳元の蚊ですら気に掛かるのである。
全身にまとわりつくこの苦しみが気にならないということはなかった。
わたしは、どうすればこの苦しみから抜け出して集中することができるだろうかと考えていた。
苦しみを苦しいと感じている間は、苦しみは永遠にわたしのものである。
苦しみを苦しいと感じることがないのであるなら、わたしは苦しみを所有することはないであろう。
その時、わたしはマラソンを思い出していた。


2013年9月1日日曜日

追憶 358

普段の瞑想によって静寂に至る時のように、わたしは自らの心を静めるように努めた。
静寂を探して進んで行くが、すぐさま怒りの感情によって引き戻されるということを繰り返していた。
怒りの感情の支配下にある時には、心のコントロールは途轍(とてつ)もなく難しいものである。
人の心にとって、怒りの感情というものは大敵であるといえるだろう。
心を乱す感情の中でも、怒りの感情というものは特別な力を持っていると思えた。
怒りの感情によって、心のコントロールが全くもって思い通りにならないのである。
普段、わたしは自らの心の中に存在している静寂に対して、ある程度の確立で入り込むことができていたし、そのコツを掴んでいると思っていた。
しかしながら、それは、穏やかな海で舟を接岸するように優しいものだったと、わたしはこの時になって気が付いた。
「あんなもの」はただの練習に過ぎなかったのである。