このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2013年8月31日土曜日

追憶 357

真っ黒な人型の影を救うためには、人型の影が抱えている苦しみから解き放たなければならない。
わたしは自分を苦しみから解き放つ時と同じように、人型の影に対しても行わなければならないだろう。
怒りの感情によって乱される心を集中することに努める。
荒波に揉まれる小舟のように、そのコントロールは難しいものであった。
わたしは人型の影の抱えている苦しみの本質を見極めなければならない。
どこに病気があるのかを知らない医師が、患者の腹を割くことがないように、どこに苦しみの意識が存在しているのかも知らずにいては、手の施しようがないのである。
しかしながら、わたしにとっては始めてのことである。
何をどうすれば良いのか、皆目見当もつかないのであった。
いつものことではあるが、わたしは今の自分で、今の自分にできることをしなければならないだろう。
とりあえずは、怒りの感情に打ち勝って心を集中することである。



2013年8月30日金曜日

追憶 356

わたしは怒りの感情に支配されることの苦しさを知っている。
怒りの感情に支配されると、自分が自分ではなくなってしまう。
考えたくないことを考え、思いたくないことを思い、行いたくないことを行ってしまう。
自分をコントロールすることができないというのは、とても辛いことであるということをわたしは経験から学んでいる。
目の前の真っ黒な人型の影も、怒りの感情に支配されてしまい、自分をコントロールすることができていない状態にあるだろう。
きっと苦しいはずである。
わたしは現状の苦しみから抜け出したかった。
そのためには、目の前の真っ黒な人型の影が抱えている怒りの感情を解決し、その支配から解き放たなければならないだろう。
逃げ出せば、自分だけは助かるかも知れない。
しかし、逃げ出せばわたしは幸福を得られない。
目の前で苦しんでいる人?がいるのならば、その人を助けること以外に、わたしが後悔しない方法はないだろう。

2013年8月29日木曜日

追憶 355

これまでのわたしには、怒りの感情を解決することはできなかった。
わたしにできる唯一のことは、時が過ぎるのを待つことだけだったのである。
幼くて軟弱なわたしは、怒りの感情に対して抵抗することはできなかった。
それが襲来すると簡単に捕らえられ、ただ従うだけであったのだ。
わたしにとって、怒りの感情というものは途轍(とてつ)もなく強大な敵であった。
それがどこにいるのかも分からない。
どのような姿をしており、どのように対処すれば良いのかも分からない。
それは突如として暗闇から襲いかかってくる梟(ふくろう)のように、わたしを音も無く飲み込む恐ろしい存在であった。
今、わたしの目の前にいる真っ黒な人型の影は怒りの感情によって支配されている。
それは、わたしが怒りの感情に支配された時と同じようだと思ったからだ。
わたしが今感じているこの苦しみは、目の前の真っ黒な人型の影が得ている感覚に違いないであろう。

2013年8月28日水曜日

追憶 354

その時、黒い人型の影が背中を丸めるようにして頭を抱えた。
そして、地を這(は)うような唸(うな)り声をあげ始めた。
その瞬間から、わたしは強烈な頭痛と吐き気と怒りの感情に襲われた。
わたしは腹が立って仕方がなかった。
それは、水面に油が広がるように一瞬に、この怒りの感情はわたしの心に広がり、一瞬にしてわたしの心を支配してしまった。
黒い無数の手がどこからか伸びてきてわたしを掴む。
わたしは抵抗する反応も与えられずに捕らえられる。
そして、身動きが取れなくなる。
この感覚はこれまでに何度か経験したことがある。
わたしはその都度この感覚に支配され、それをどうするかなんて考えられなかったし、その選択肢はわたしには無かった。
わたしには闘うことすら許されていなかったのである。
怒りの感情は苦しいものであり、良くない結果を導くものであることは経験として知っていた。


2013年8月27日火曜日

追憶 353

真っ黒な人型の影は、上半身を水面から出してただ立っているだけだったが、わたしにはその真っ黒な人影が恨みの感情を抱いているような気がしていた。
表情も何も分からないが、冷たい刃物のような殺気を感じる。
近付く者があれば敵と見なして飛び掛かってくるのではないかと思わせる狂気がそこにあった。
わたしは最大限に警戒していた。
わたしはこの真っ黒な人型の影が怖いものだと思うのである。
野生の動物と対峙しているような感覚である。
山でイノシシに出会った時の緊張感に似ている。
真っ黒な人型の影との対峙は、少なからず、命が関わっているように思えたのである。
わたしは蛇に睨(にら)まれた蛙のように、身動きが取れないでいた。

2013年8月26日月曜日

追憶 352

わたしはその真っ黒な水溜りを眺めていた。
わたしにはそれが何であるのか分からなかったのである。
しかしながら、その真っ黒な水溜りが破滅的なものであり、禍々しい雰囲気を伝えているのは分かった。
わたしは警戒しながら真っ黒な水面を見つめていた。
すると、水面に変化が見て取れた。
水面が揺れたと思ったらそれが盛り上がり、黒い人型のものになったのである。
黒い人型のものはただ真っ黒な影のようであり、目も鼻も口も無かった。
ただ真っ黒な人型の何かなのである。
それが目の前に現れた時、わたしは不快感に襲われた。
吐き気がした。
目眩(めまい)がして倒れそうであった。
これは、危険なものである。
わたしの本能がそう叫んでいた。

2013年8月25日日曜日

追憶 351

何日も母親の心に触れることで、母親の心の中に存在している破滅的な意識を多少は取り除くことができているのではないかと思えた。
もちろん、母親が破滅的な感情によって破滅的な意識を生み出してしまえば、心の中は破滅的な状態になってしまうだろう。
それでも、母親が破滅的な感情を抱くことよりも、わたしがそれを取り除く作業の方が優れているようであった。

ある日、いつものように母親の心の中に入り込み、そこに存在している破滅的な意識を取り除く作業をしていた。
その日はいつもよりも深くに進むことができたように思えた。
感覚でしかないので確証を得ないが、そのように思えたのである。
心の深い場所には、これまでとは違う空間があった。
そこはただ真っ暗であり、ただ静かであった。
そこには真っ黒な水溜りがあった。

2013年8月24日土曜日

追憶 350

破滅的な意識(感情)を抱えているのならば、その人は破滅的な生き方をしてしまうだろう。
それは、人生の幸福の土台を自ら崩しているようなものなのである。
建設的な意識(感情)を抱えているのならば、その人は建設的な生き方をするであろう。
それは、人生の幸福の土台を積み上げ、踏み固めるようなものなのである。

人は過去に対して様々な感情を抱えている。
もちろん、未来に対してでもある。
それが建設的な感情であれ、破滅的な感情であれ、人の心はそれに束縛されている。
建設的な感情に束縛されているのであれば、それに従って幸福へと向かうことができるが、破滅的な感情に束縛されているのであれば、苦しみへと向かってしまうのである。
今のわたしにできることは、自分自身と他人の心の中に存在している破滅的な、あの気持ち悪い感情を取り除くことくらいである。
今のわたしにできることはそれくらいのものだが、それが役に立つのであればやらなければならないと思うのであった。


2013年8月23日金曜日

追憶 349

喜怒哀楽、すべての感情が余すことなく心に蓄積されている。
人は自らの感情を忘れているが、心はそれを覚えているのである。
感情というものは、自らの見解によって導き出される。
自らの捉え方や考え方がその心を築くのである。
人が感情をコントロールすることなく、心が傷付くような感情を心に蓄積するのであれば、心は破滅的な状態に傾くのであるだろう。

心の状態が人に与える影響は大きい。
人生をどのように感じるかは、その心を通して眺めた世界の感想である。
人は主体性の中で生きている。
自らの心の赴くままである。
人は心によって考え、心によって話し、心によって行う。
人(人生)は心の賜物(たまもの)なのだ。
心にどのようなものを抱えているのかによって、どのように生きるのかが決まってしまう。
人は心を成すのである。

2013年8月22日木曜日

追憶 348

瞑想によって自らの心に対峙し、母親の心に触れることによって他人の心に対峙した。
その中で少しずつではあるが、人の心というものを何と無く理解するようになってきた。

人の心というものは、その人の方針である。
人は自分自身の心の声を聞いている。
多くの人はそのことを認識してはいない。
それはとても自然であり、昔からやってきた習慣だからであろう。
心の声が楽しいものであるのならば、その人は楽しいことを探し、楽しいことを思い、楽しいことを話し、楽しいことを行う。
心の声が苦しいものであるのならば、その人は楽しいこととは逆のことをする。
人は気分によって変わるということである。
自分自身も母親も、心の声である気分によって行動を決めているのではないかと思えるのである。

心は、感情の溜り場である。
人は経験の中で様々な感情を生み出している。
その感情がその経験をどのようなものにするのかを決めているのだが、どのような感情も心の中に蓄積されている。

2013年8月21日水曜日

追憶 347

破滅的な意識を取り除く作業を続けていると、わたしは自らの体力と精神力に限界を感じた。
その時、わたしの意識が強制的に?母親の意識から切り離されるのであった。
わたしは酷く疲れて瞼(まぶた)を開いた。
一瞬、部屋の明かりが眩しかったが、母親の心の中に存在している破滅的な意識の中にいたわたしは、当たり前のそれを愛おしく感じるのであった。
母親に実験の終了と、わたしが体験したことを簡単に告げ、その後解散になった。
わたしはそのまま横になって眠ってしまった。

母親に対して、わたしは明確な説明をすることができなかった。
それは、わたしが体験したことが、わたしには理解することができなかったからである。
状況の報告はできるのだが、それの説明にはいたらない。
わたしには母親の心の中で体験したことを母親に対して説明する責任があるだろう。
その責任を果たさなければならないと思うのである。
それから、わたしたちは毎晩のように実験を試みた。


2013年8月20日火曜日

追憶 346

それは、母親の心の中から取り込んだ破滅的な意識であった。
ゲップによって多少の破滅的な意識が取り除かれると、気分の悪さが少しではあるが改善されたように思えた。
これは、瞑想の時に自分自身の破滅的な意識を取り除く状況と酷似している。
この時、わたしは自分自身に成すことも他人に対して成せるのではないかと思い、それを続けてみることにしたのであった。
母親の心の中から流れ込んでくる破滅的な意識をできる限り受け入れる。
それが目一杯になると(自然と)ゲップが出て少しではあるが気分が楽になる。
この作業を何度も繰り返した。
この作業はとても骨の折れるものであった。
わたしは精神的にも、肉体的にも消耗するのを感じていた。

2013年8月19日月曜日

追憶 345

掴めそうで掴めない。
見えそうで見えない。
そのように思い通りに行かないのは、何であっても腹立たしいものである。
その時、わたしは胸に強い衝撃が加わるのを感じて驚いた。
瞼(まぶた)が開かないので視覚による確認はできなかったが、どうやらわたしの左手が自らの胸を平手で叩いているようである。
左手がわたしの胸を何度か叩いた時に、わたしは胸の奥から込み上げてくるものを感じ、それに抵抗することはできなかった。
わたしは大きなゲップをしていた。
その時は、不思議なことにわたしの肉体は口を閉じた状態でゲップをしているにもかかわらず、意識のわたし?は口を目一杯に開いて虚空を見上げているのである。
そして、その開かれた口からは黒い煙のようなものが大量に吐き出され、上空へと舞い上がっているのだった。

2013年8月18日日曜日

追憶 344

わたしが感じたことを母親に伝えることによって、母親の心が破滅的な意識(苦しみ)から離れることができれば良いのである。
しかしながら、そうはいっても、わたしには母親の心の中に存在している破滅的な意識の全容が見えなかった。

全身に入り込んだ破滅的な意識は苦痛以外の何ものでもなかった。
先程から強烈な頭痛と吐き気がわたしを苦しめていた。
わたしは何と無く、それらの感覚を気に掛けるようにして意識を合わせてみた。
すれと、胸の奥から何かが込み上げて喉元に詰まるような感覚があった。
喉元に詰まる何かがわたしを更に不快にさせた。
出そうで出ないくしゃみのように、喉元に詰まるそれはわたしを焦(じ)らした。

2013年8月17日土曜日

追憶 343

破滅的な意識というものは、人の心にとっては苦しいものである。
破滅的な意識は、人の心の毒である。
それは心の健康を蝕(むしば)み、やがて破壊する。
しかしながら、わたしがそうであったように、多くの人は破滅的な意識に対して危機感を抱いていないのが実情であるだろう。
それは、破滅的な意識によって傷付く心の痛みに気が付かないからである。
もしくは、その痛みに慣れてしまい、感覚が麻痺するからであろう。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったものである。
わたし自身も、自らの心に触れようと試みなければ、破滅的な意識が心に与える影響について気に掛けることもなかったであろう。
わたしの心は破滅的な意識に犯され、やがて破壊されていたに違いない。
母親が自らの破滅的な意識に対してどのような見解を所有しているのかは分からないが、この苦痛をダイレクトには感じていないだろう。
わたしはこの苦痛を母親に伝える必要があるのではないだろうか…

2013年8月16日金曜日

追憶 342

母親の心の中に存在している破滅的な意識を受け入れることを決意すると、それが一層多くわたしの中に雪崩れ込んでくるのを感じた。
それは吐き気を催(もよお)すほどのものであった。
破滅的な意識はわたしの胸に向かい、そこで溜まる。
胸の次に頭に至る。
その次に腹に溜まる。
そして、全身に行き渡るような感覚があった。
紙に水が染み渡る様にして、破滅的な意識はわたしの中を徐々に蝕んでいく。
わたしは自らの心と身体が鉛(なまり)の様に重たくなるのを感じた。
思考が働かない。
精神が幾つもの槍で貫かれ、そのまま十字架に張り付けられるようである。
わたしの中の嫌悪感は、いつの間にかにその姿を苦痛へと変えていた。

2013年8月15日木曜日

追憶 341

母親の心に触れることによって、わたしは母親の心が抱えている破滅的な意識に触れる。
破滅的な意識に触れると、それがわたしの中に流れ込んでくるのが分かった。
それは、無理矢理に腐った水を飲まされているような不快な感覚である。
わたしはそこに嫌悪感を感じていたが、そんなことよりも母親の心の中に存在している破滅的な意識を取り除くという目的意識の方が勝り、その嫌悪感を拒絶しようとは考えなかった。
寧ろ、その嫌悪感をより深く味わう必要があるのではないかと感じていた。
それは、破滅的な意識をより深く理解するためである。
拒絶や否定から理解が導かれることはない。
どのようなものにしても、それに触れる時間が長い程に理解も深まるであろう。
わたしは嫌悪感を抱えながらも、母親の心の中からより多くの破滅的な意識を受け入れることに努めた。

2013年8月14日水曜日

追憶 340

母親(他人)の心に触れることによって、わたしは自分自身に対する偏見を少しではあるが取り除くことができたのである。
それは、人の心に対して、以前にも増して深く侵入することができる可能性をわたしに見せるものであった。

母親の心に触れることによって得られる嫌悪感に対して、わたしはそれを問題であると認識している訳であるが、それを問題であると認識しているからこそ、それをどうにかして改善したいと思っていた。
わたしは自分自身の心の中に存在している破滅的な意識を改善することが、自分自身の心に平穏をもたらすことを知っていた。
わたしが母親の抱えている破滅的な意識を取り除くことができたなら、母親の心には何らかの平穏が導かれるのではないかと踏んでいるのである。

2013年8月13日火曜日

追憶 539

人は自分自身を正当化するものである。
この卑怯な思いに捕らわれない人は恐らくはいないだろう。
人は自らの思いや行いに思い付く限りの言い訳を用いて、罪悪感を感じないように努めているのである。
わたしが母親の心に対して自分自身のものよりも大きな嫌悪感を感じたのは、そこに自分自身を正当化することによって真実を覆い隠す「嘘」が存在していないからであろう。
客観視においては、「嘘」は役に立たないと推測する。
普段、わたしは瞑想によって自分自身の心に向き合ってはいるが、どこかでまだそこに自らを正当化するための「嘘」が存在しているということを忘れてはならないだろう。
無意識の内にでも、人は自分自身を正当化しているものである。
母親の心に触れたことによって、わたしは自分自身に対する客観視を得ることができた。
これは素晴らしいことである。

2013年8月12日月曜日

追憶 538

様々な方向から、様々な感情が襲ってくる。
怒り、悲しみ、恐れ、怠け…
それらは、すべて破滅的な感情であった。
わたしはこの状況に恐怖した。
それは、この状況にはわたしが受け取りたくない感情しか存在していなかったからである。
わたしは破滅的な感情の刃に身体を切り裂かれているようだった。
このプレッシャーを心地好いとは思えなかった。
わたしは素直に「ここにいてはいけない」と思った。
この破滅的な感情の中にいれば、わたしの精神が崩壊しそうである。
わたしは人の感情に対して鈍感だったのだと知った。
自分自身に対しても、他人に対してもである。
それは、母親の中に存在している破滅的な感情と、わたしが抱えている破滅的な感情にはそれ程の違いがあるようには思えないからである。
しかしながら、自らが意識として人の心に触れた時には、その感覚は何倍にも膨れ上がり、妙にリアルなものになる。

2013年8月11日日曜日

追憶 537

わたしはこの苦しみを繰り返してはならないであろう。
同じ道を選択しても、結果は同じことである。
情けない自分とは決別すると心に決めた。
後悔はしたくないのである。
人は苦しいことにも向き合わなければならない。
幸福というものは、気楽の中に存在しているのではないだろう。
勇気を出して苦しみに立ち向かった者だけが得ることのできる楽しみである。
わたしは、わたしの中の「安全弁」が制止するのを無視して、母親の背中に触れた。
次の瞬間、わたしは目眩(めまい)を感じる。
いきなり暗闇の淵に突き落とされた様な感覚だった。
方向感覚を失った自己がすがるものを探して暴れる。
わたしは必死だった。

2013年8月10日土曜日

追憶 536

母親の背中に右手が触れる直前になって、わたしは吐き気を感じた。
緊張感と共に吐き気が襲うのである。
この嫌悪感を感じて、わたしの心には母親の背中に触れるべきなのであろうか?という思いが生じた。
わたしの中の「安全弁」がわたしを消極的にさせる。
危険なことや苦しいことに首を突っ込むなと諭す。
わたしはその通りだと思った。
しかしその一方で、わたしに目的を果たせと投げ掛ける勇気があった。
わたしは自分の求めているものがどの道の先にあるのかを思案した。
わたしは安全策を取って、(自分にとって)安全な道を進むべきなのであろうか?
それとも、それが危険であり、苦しいということを知っていながら、険しい道を進むべきなのであろうか?
葛藤がわたしを苦しめた。
わたしは今までの人生において、この道の選択という場面に苦しんできた。
わたしは今までの人生において、安全な道を進むことを優先してきた。
嫌なこと、苦しいことからは逃れてきた。
その結果、わたしは苦しんだのである。



2013年8月9日金曜日

追憶 535

わたしには人の心がどこに存在しているのか分からないが、そこから発せられているであろう破滅的な意識は認識することができた。
それを辿って行けば、きっと心に行き当たるであろう。
わたしはとにかく、目の前の破滅的な意識を取り除かなければならなかった。
とは言っても、どうすれば良いのか分からなかった。
わたしは思案して、大天使ミカエルに聞いてみることにした。
自らの内側に存在している静寂に意識を傾け、そこに存在しているであろう小さな声を探す。
意識的な存在の声は小さい。
人の心の声が人の耳には届かないようにである。
それは容易に聞き取れるものではなかった。
わたしは心を落ち着けて、静寂の中でただ待った。
すると、わたしの中に欲求が芽生えるのを感じた。
それはとても自然な欲求であり、何の違和感も躊躇(ちゅうちょ)も無かった。
わたしは母親の背中に対して右手を伸ばしていた。

2013年8月8日木曜日

追憶 534

しかしながら、それを知識として理解していても、それを実際に行うのは難しいことである。
車の原理を理解していても、それを実際に作るのは難しいようにである。
人が幸福を得るためには、心が苦しみの束縛を離れて穏やかになれば良いと思っていても、それを実行するのは難しい。
鍋にこびり付いた汚れを取り除くことの難しいように。
知識を体系化しなければならないが、その見当さえも今のわたしには付かないのである。

心には手が届かない。
本人であっても届かない。
他人なら尚更である。
医者のように身体を切り開いて、病に犯された患部を取り除くことができれば良いが、心に対してそれは不可能であろう。
心というものは人の意識として確実に存在しているが、それがどこに存在しているのかを人は知らないからである。

2013年8月7日水曜日

追憶 533

人がその苦しみの束縛から逃れるためには、心を落ち着けていなければならないであろう。
何事にも動じない器量が必要なのである。
心が混乱して慌てふためくのであれば、人が心を患うのは当たり前のことである。
楽しいことに在って人は心を乱してはいない。
その時、人は幸福を感じている。
苦しいことに在って人は心を乱している。
その時、人は不幸を感じている。
どのような状況に対しても心を乱さないのであれば、人は幸福を得ることができるであろう。
どのような状況に対しても心を乱すのであれば、人は不幸を得る。
わたしは20年間という時間をかけて人というものを観察し、このことを悟った。
わたしが楽しむことに苦しむ人がいて、わたしが苦しむことに楽しむ人がいるのである。
そのことから、人にとっての幸福というものは個人的なものであると理解することができる。
幸福を得るのも、不幸を得るのも、すべては各自のことなのであろう。

2013年8月6日火曜日

追憶 532

こんなことを考えているわたし自身でさえ、多くの苦しみによって束縛されている。
過去と現在と未来の苦しみによって束縛されているのである。
わたしが成すべきことは、人をこの苦しみの束縛から解放する方法を探すことである。
その方法によって、人は幸福に向かうであろう。
わたしは母親の心の中に存在している黒くて重たい破滅的な意識から、その心を解放してやりたかった。
そう思った時に、わたしはどうすればその問題が解決するだろうと考えた。
そもそも、問題が生じる状態というのは、心が乱れて破滅的な状態にある時ではないかと思える。
混乱して焦ったり、不安に思って心配したり怒りを覚えた時には、状態が問題を抱えているであろう。




2013年8月5日月曜日

追憶 531

わたしがそうであるように、多くの人は苦しみというものをコントロールすることができていないであろう。
苦しみに対する認識も感情も行動も、大抵は野放しの状態にあるのだ。
多くの人は苦しいことに在って苦しみを感じている。
それは、苦しみというものをコントロールすることができていない証なのである。
すべての認識や感情や行動がコントロールされるなら、すべての人は幸福に向かう。
自己をコントロールすることによって、失敗が成功に導かれるようにして、苦しみは喜びに導かれる。
そのためのコントロールが必要なのである。
しかしながら、人は過去のトラウマによって束縛されているため、そのコントロールは容易なことではないのだ。
多くの人はそれが当たり前だと思っているし、変わることなどないと思っている。
何故だか、諦めているのである。
それを本人が自覚していないこともあるので、苦しみからの束縛を断つことは難しい。


2013年8月4日日曜日

追憶 530

わたしたちは人類史上、最も優れた文化と教育の中に生きている。
教科書に書かれてある歴史のことならある程度は知っているが、過去の文化や教育などの事実は知らない。
口頭や書面、絵画や映像によって伝えられるが、そこには何らかの価値観が侵入しているだろう。
しかしながら、人が過去から学ぶ生き物であるのならば、現在が最も優れた時代であると推測するのである。
しかしながら、それでも人は苦しみを抱えながら生きている。
苦しみに耐え切れずに自らの命を自らの手で手放す者もいる。
それは、最先端の文化ですら、苦しみを除き去ることには失敗しているからであろう。
人という生物からは苦しみという陰の部分が消え去ることはないだろう。
それは、命を所有して自然界で生きていく以上、恐怖の感情は必要不可欠であるからである。
苦しみを除き去ることはできないかもしれないが、それを原動力に変える方法はあるはずである。
苦しみをコントロールすることが、苦しみを苦しみとして存在させない方法なのではないだろうか?

2013年8月3日土曜日

追憶 529

「神様」が助けてくれるなんてことは、宗教が信者とお金を集めるための戯言(たわごと)である。
なぜなら、神を謳(うた)う彼らは、実際に神に会ったこともなければ、神がどのような「奴」かも知らないのである。
会ったこともなければ知りもしないのに、無償の愛がなんたら、四十九日や何回忌がなんたらと言っているのである。
自分自身が実際にそれを見て、体験して公言するのであれば良いと思うが、ただ、そう言われているからといって利用するのは考えものであるだろう。
話を戻すが、人は他人の言っていること、その価値観や風習を無条件に正しいと信じているところがある。
もちろん、すべての人がそうではないし、すべての事柄についてそうではない。
世論も伝統も風習も大切だと思うが、改めて自分自身がそれの診査をしないのはおかしいと思う。
わたしたちは当たり前を当たり前とし過ぎている。
子どもの頃の教育を引き摺り、その過ちに気が付かずに苦しみによって束縛されているのである。
母親の中に黒くて重たい破滅的な意識が存在しているのは、母親が周りの大人たちの教育や当たり前の風習を疑問に思わなかったからであろう。

2013年8月2日金曜日

追憶 528

例えば、人生が初めから決まっているのならば努力なんて必要ない。
思考や感情や判断などの自我など必要ないであろう。
しかしながら、わたしたち人間は誰もが自我に目覚め、それに従って人生を築いている。
わたしはこの短い20年間の人生において、人の努力が成果に繋がることを嫌程思い知らされた。
わたしが努力しなかったのは、人生が初めからそのように決められていたからであろうか?
そんな馬鹿げたことはない。
それならば、努力して成果を得た人は報われないではないか。
努力したのも、怠けたのも、本人が自分自身の意思によってそう決めたのである。
わたしは努力することもできた。
実際、周りの大人たちはわたしに対して、子供ながらにうんざりするほど努力を促していた。
それは、明らかな選択肢であったのだ。
それを選ばなかったのは自分自身に他ならないのである。
自分の良いと思う方を自分自身で選んだのである。
わたしは努力しない方を良いと思い、それを自分自身で選んだ。
それは、誰かに仕組まれた訳ではない。
「神様」は何十億という人の中の、わたしという一匹の甘ったれた子羊にかまっているほど暇ではないだろう。


2013年8月1日木曜日

追憶 527

母親の心の中に認められるこの黒く歪んだ価値観は、その心を苦しみに対して束縛しているように思えた。
それはまるで、鍋に焦げ付いた汚れのように強固で離れ難いものである。
人は様々な苦しみ(経験や憶測によってもたらされる偏見)に対して束縛を受けている。
わたしたち人間が豊かさや幸福というものを認識しながら生きていくためには、この苦しみからの束縛を切り離さなければならないであろう。
物事を苦しみと見なすような歪んだ価値観が心の中にある以上、状況をそのように捉えてしまうのは必至である。
どのような人物であっても、世界を主観によって捉えているのであるから、その感想が自らの価値観(物の見方)に従うのは当たり前のことなのである。
人は自分自身によって人生(状況)を判断し、それを築いているに他ならない。
占い師や宗教家と呼ばれる人の中には、人生というものが初めから決まっていて、それには逆らうことができないと主張しているが、心が違えばどうであろうか?
それでも、人生は変わらないであろうか?
占いや宗教を否定する訳ではないが、そのような考え方は人生の可能性を摘み取ることに他ならないと思うのである。