このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年4月30日月曜日

追憶 2031

彼等の争いは、私欲に根差したものであるように思えたのである。
もちろん、それは直感としての認識でしかなく、何の根拠も無い推測(すいそく)に過ぎない。
しかしながら、わたしは彼等の争いに美しさや愛を感じることが出来なかったのである。
わたしは大天使ミカエルの力によって、霊的な存在に対して光の十字架を投じる。
それは、霊的な存在を"殺す"ことになるのだが、それは相手を救うための行為なのである。
それ以外の理由は存在してはいない。
わたしが霊的な存在と対峙する時には、私欲など思い付きもしないのである。



2018年4月29日日曜日

追憶 2030

それは、大男と大蛇が破滅的な状態にあることを伝えているのであろう。

争うことや命を奪うことを、わたしは必ずしも悪いことだとは思わない。
それは、自然界の理(ことわり)であるからだ。
この世界に生まれた命は、別の命に支えられている。
命は別の命を得ることによって、存在することが出来るのである。
命を存続するためには、別の命を得る必要があるのだ。
それは、結果的には争うことや奪うこととなるだろう。
しかしながら、それは命を守るためや存続するための行為である。
わたしが大男と大蛇の状態にネガティブな反応を示すのは、彼等の争いが自然界の理に根差してはいないものだからであろう。



2018年4月28日土曜日

追憶 2029

大男と大蛇は、理由はともかくとして、争いの渦中(かちゅう)にいるのだ。
それは、決して、高度な方法ではない。
争うことは、未熟者の方法なのである。
争う時点において、水準が知れる。
それは、決して賢明ではない。
少なくともわたしには、彼等が賢明には思えなかった。
残念ながら、わたしには彼等を尊ぶことは出来ない。
自然界はある意味において暴力的であり、争いに塗(まみ)れている。
大男と大蛇は、自然の理に叶っているようにも思えるが、そうではないのだろう。
そうでなければ、わたしが気分を害することも、ゲップを吐き出すこともないはずだからである。
わたしは耐え切れずに、黒くどろどろとしたものを吐き出した。

2018年4月27日金曜日

追憶 2028

力関係は明らかである。
黒い大蛇は成す術もなく、大男の下敷きになっていた。
大蛇は自由を諦めていないようで、どうにかこの状況を打開しようと身をよじっていたが、大男の力の前では、それも空しい抵抗に終わった。
大男は、大蛇の余力を奪うように、波打つ体を制圧しているのである。
この光景を目の当たりにして、わたしは程度の低さを感じていた。
もちろん、大男と大蛇の程度のことである。
大男と大蛇は、恐らく自然の神という霊的な存在であるだろう。
日本人なら特に、自然の神に畏怖(いふ)を抱き、崇(あが)め奉(たてまつ)るのが普通である。
わたしも自然の神に畏怖を抱き、尊(とうと)んでいる。
しかしながら、自然の神をすべて尊んでいる訳ではない。
中には、尊ぶに値しない者もいるのである。



2018年4月26日木曜日

追憶 2027

大男は、所謂(いわゆる)神という存在であるだろう。
霊体ではあるが、より格の高い存在であるように思える。
感覚では、自然の神の部類なのではないかと思われる。
大男は、全身からアニメなどの描写のように赤い闘気(とうき)を放っていた。
怒りの感情が空間を振動させ、まるで説教を受けている時のような張り詰めた空気である。
大男は何に対して気を張っているのだろうか?
わたしはその原因を探した。
すると、その答えは、大男の尻の下にあった。
見ると、大男は大蛇に腰掛けていた。
黒い鱗(うろこ)が美しい大蛇を押さえ付けているのである。

2018年4月25日水曜日

追憶 2026

吐き気に促(うなが)され、自分の意思に反してゲップが出た。
ゲップが出ると、幾らか気分は良くなる。
何かに導かれるように、わたしはゲップを繰り返した。
すると、神棚を覆っていた黒い靄が薄れ始めているのに気が付いた。
その時、階段の人影が差し出した手の指を折り、人差し指で何かを指し示した。
人影にはわたしに見せたいものがあるようである。
注視すると、そこには全身が燃えているように赤く輝く人物が座っているように見えた。
それは、昔の中国の鎧(よろい)のようなものを装(よそお)い、太い腕に見劣りしない金棒を地面に突き立て、全身に威厳(いげん)を纏(まと)った大男であった。

2018年4月24日火曜日

追憶 2025

神棚に対して意識を合わせると、すぐに気分が悪くなってきた。
そして、わたしは嫌な緊張感と吐き気を覚えた。
意思に反して胸の鼓動は早まり、胃は縮むように感じる。
それと同時に、込み上げて来るものを感じた。
張り詰めた空気が触れる。
これは、怒りの感情である。
わたしは嫌な気分になった。
それは、そこに思いやりが存在していないからである。
ここには、心を切り裂くように冷たい意識しか存在していないのである。
針の筵(むしろ)に座らされた思いであった。
居た堪(たま)れない気持ちである。



2018年4月23日月曜日

追憶 2024

心を鎮(しず)めて待つと、人影が腕を前方へと差し出した。
それは、精一杯の意思表示だったのかも知れない。
人影が指した方を追っていくと、そこには神棚があった。
人影は神棚について、わたしに何かを伝えたいのであろう。
神棚を見ると、確かに黒いものを感じる。
肉眼では分からないが、霊的に見ると黒い靄(もや)がかかっているように思えるのだ。
それは、恐らくネガティブなものであるだろう。
人影はわたしに、このことを伝えたかったのであろうか?
人影が神棚を指したことの真意は分からないが、黒い靄は処理しなければならないだろう。
わたしは神棚に対して意識を集中した。




2018年4月22日日曜日

追憶 2023

意識が集中するに従って、わたしは再び瞼(まぶた)を閉じた。
すると、脳裏には階段で見た人影が現れた。
人影は、先程よりは全体的に薄くなっているようである。
人影はわたしに何かを伝えたいのであろう。
言葉にならない思いを抱えているように感じる。
わたしは懸命に聞こうとしたが、人影にはそれを伝える力が無いようであった。
わたしはもどかしさを感じた。
何とか力になりたいと思うが、それが許されないのである。
こういう場面においては、焦りは禁物である。
わたしは経験上、待つことの大切さを理解しているつもりだ。
すべてには時があり、それを無視することは良い結果を導かないのである。
わたしは今回も待ってみることにした。

2018年4月21日土曜日

追憶 2022

すると、老女はようやく安心したのか、大きく息を吐いた。
小さな肩が上下に動いた。
そして、わたしに感謝を伝えた。
老女は、わたしを労(ねぎら)ってくれたのだろう。
わたしも楽しかったので、同じように感謝を伝えた。

体験したことを老女に説明している間、わたしは階段からの視線を感じていた。
この部屋からは階段は見えない。
しかしながら、その視線が階段からであることを理解することが出来た。
老女はわたしの話を前のめりになって聞いてくれた。
わたしの言葉の一つでも取りこぼさないように、真剣に話を聞いてくれているのである。
わたしは老女への説明を続けながらも、階段からの視線に意識が集中していることを理解した。



2018年4月20日金曜日

追憶 2021

わたしは楽しかった。
わたしは霊的な世界を体験することが好きなのだ。
外から見ると、わたしの表情や叫び声やゲップなどの行為が苦しいように映るようであるが、わたしの行為はわたしの苦しみなのではない。
それは、わたしを通じて霊の苦しみが表現されているだけなのである。
わたしは体力や気力を消耗するが、それよりも楽しみの方が勝っている。
光の仕事は、決して苦しいものではないのである。
老女はわたしに対して、文字通りの老婆心を向けていたのである。
気遣いは有難いが、心配は不要だ。
それは、わたしが楽しんでいるからである。
わたしは、老女に対して、この状況を楽しんでいることを伝えた。



2018年4月19日木曜日

追憶 2020

彼等が光に帰ると天が閉じて、わたしは独り暗闇の中に取り残された。
わたしはすぐに、それが瞼(まぶた)の裏側だと気が付いた。
意識は集中からの解放によって脱力している。
わたしは穏やかな心地で瞼を開けた。
すると、そこには合掌(がっしょう)し、瞼を強く結んだ老女が座っていた。
わたしには、笑いを堪(こら)えることが出来なかった。
笑い声と共に老女の名前を呼ぶと、老女は驚いたように瞼を開けた。
そして、まじまじとわたしの顔を見ている。
老女は以前にも光の仕事を体験したことがあるので、わたしの反応を見るのは初めてのことではない。
話を聞くと、申し訳なく思っていたそうだ。

2018年4月18日水曜日

追憶 2019

光の十字架は光の軌跡を残して素早く黒い顔の中に飛び込んだ。
光の十字架が光を放つと、黒い顔はそれぞれに穏やかな表情を浮かべて光に溶けた。
彼等の表情を見ていると、わたしは心の底の方から喜びが溢れてくるのを感じる。
嬉しくなったわたしは、大きな光の塊(かたまり)となった彼等を引き寄せ、愛情を込めて抱き締めた。
すると、天から光が差したが、それは彼等の道しるべであるだろう。
わたしの腕を離れた光の塊は、天の光に向かってゆっくりと上昇した。
わたしは良い気分で彼等を見送った。



2018年4月17日火曜日

追憶 2018

ゲップに比例して、頭上の黒い煙は光の粒へと変換された。
それは、軽くなり、高い所で一際美しく輝く大きな光へと引き寄せられるように上昇する。
大きな光の先には、所謂(いわゆる)天国や天界や別の次元などが存在していると思われるが、実際のところは分からない。
しかしながら、あの壮大な光を眺めていると、良い所に違いないと思える。
大きな光に向かって上昇する光の粒は、水の中に潜っている時の太陽と、息を吐き出した時の気泡を連想させた。
わたしには、それが幻想的に思えるのであった。
黒い煙が光に帰ると、沈黙する黒い顔だけが残った。
わたしは再び光の十字架を出現させ、それを黒い顔に投じた。

2018年4月16日月曜日

追憶 2017

光の十字架が放つ光によって、黒い霧の中の顔は、それぞれが悲鳴と共に黒い煙のようなものを吐き出した。
これは、黒い霧の中の顔がそれぞれに抱えている矛盾であり、破滅的な感情なのである。
黒い霧の中の顔が黒い煙のようなものを吐き出すと、それに比例して黒い霧が薄らいだ。
黒い霧が黒い煙に変換されているのであろう。

光の十字架がその輝きを失うのと、黒い霧の中の顔が黒い煙を吐き出し終えるのは同時であった。
黒い煙を吐き出し終えると、黒い霧の中の顔は沈黙した。
黒い煙は、彼等の頭上で行き場をなくしている。
わたしは再び宙に十字を描いて、光の十字架を黒い煙に投じた。
すると、強烈な吐き気に押し出されるようにしてゲップをした。
どのような仕組みなのかは分からないが、わたしの身体はゲップによって黒い煙である破滅的な感情を光へと変換する。
一度のゲップでは大量の黒い煙を光に変換することは出来ない。
そのため、わたしの身体は何度もゲップを繰り返すのであった。

2018年4月15日日曜日

追憶 2016

どのレベルの事柄においても、この世界においては、何かを始めるためには何かを終わらさなければならない。
生まれるためには死ななければならないし、死ぬためには生まれなければならないのである。
破壊しなければ、新たな創造は無いのである。
不幸を生み出した価値観を抱えたままで、現状に幸福を導くことは出来ない。
それは、食べ物を口の中一杯に詰め込んでいる状態では、新たな食べ物を口に運ぶことが出来ないのと同じことだ。
多くの人は、自分を変えることなく、人生を変えようとする。
それが傲慢(ごうまん)であり、怠慢(たいまん)であることを知らない。
両手に荷物を抱えているのに、それでも新たな荷物を欲しているようだ。
多くの人は、自分が欲深いことに気が付いてはいないのである。




2018年4月14日土曜日

追憶 2015

しかしながら、わたしにはそうは見えない。
苦しいから良いというものでもないのだろう。
それは、どの分野の記録も次の平和な世代に塗り替えられているからだ。
要は、苦しみと平和のバランスが重要なのだ。
何かに打ち込んでいる人は、必ずスランプに陥(おちい)る。
誰にとっても、上手くいかない状態が訪れるのである。
それは苦しいことではあるが、その状態から抜け出すことによって、更なる成長が実現するのである。
スランプを抜け出すためには、スランプを諦めなければならない。
スランプというものは、自分の中に存在している考え方や価値観によって生じているのである。
要は、執着することを諦め、自分を殺さない限りは、新しい自分に生まれ変わることが出来ないということである。



2018年4月13日金曜日

追憶 2014

光の十字架は、自らの放つ光によって、黒い霧の中の顔を"殺している"のである。
多くの人は死という状態を恐れるが、死を恐れる必要はない。
何故なら、死とは終わりであり、終わりとは始まりだからである。
黒い霧の中の顔には、この状態は相応しくないのである。
彼等は現状を終わらせ、次の状態を始めなければならないのだ。
それは、老女にも同じことが求められている。
新たな状態を始めなければならないのは、既に学び終えたからに違いない。
ある程度の学びを得れば、人は次の学びを必要とするのである。
黒い霧の中の顔は、必要なだけ苦しんだのであろう。
老女も、同じように必要なだけ苦しんだに違いない。
苦しみを経験することによって成長し、既に現状には相応しくない自分になっているということであるだろう。
しかしながら、わたしは、苦しいことが良いと言っているのではない。
苦しいことが良いのであれば、苦行僧や戦争や飢えを経験した世代の人達は優秀であるはずである。



2018年4月12日木曜日

追憶 2013

わたしは、部屋中に充満している黒い霧の中の顔に対して、感謝の気持ちを告げた。
老女は実感してはいないだろうが、今まで老女と遊んでくれたのである。
何かしらの学びを与えてくれているはずだ。
わたしが感謝の気持ちを伝えると同時に、わたしの右手が虚空(こくう)に十字を描いた。
すると、十字の形に空間が裂け、そこに光が生じた。
それは光の十字架となった。
光の十字架を掴むと、わたしはそれを黒い霧に向かって投じた。
光の十字架は黒い霧の中にとどまり、強い光を放って輝いた。
すると、光に呼応(こおう)するように、黒い霧の中の顔が一斉(いっせい)に叫び声を強めた。
それは、断末魔(だんまつま)の叫びというのだろうか?必死になって叫んでいるような声であった。



2018年4月11日水曜日

追憶 2012

部屋中に充満している黒い霧の中の顔は、老女の友ということである。
当然のように、老女は彼等を友とは認めないだろうが、この世界において時間を共有している相手は、それがどのような人物であろうとも、皆、友なのである。
憎しみ合っている人達がいるが、彼等は相手が友であることを知らない。
彼等は互いに憎しみ合うという"遊び"を行い、そこから学んだことで成長するのである。
老女と黒い霧の中の顔は、幸福を求めて不幸を実現させるという"遊び"を一緒に行なっている友なのだ。
一緒に遊んでくれている相手を敵視するのは無礼であるということを理解しなければならないだろう。
一緒に遊んでくれる相手がいなければ、人が学びを理解することは難しいのである。
一緒に遊んでくれる相手に感謝するのは、当然のことなのである。

2018年4月10日火曜日

追憶 2011

つまりは、老女は黒い霧の中の顔と同じことを考えているのである。
"類は友を呼ぶ"という言葉があるが、同じ思想や意識の段階の人達が集まるようなことが、霊的なレベルでも行われているのである。
相手の言動を考察すれば、どのレベルの霊的な存在と共にいるかを知ることが出来る。
それは、その人の言動は、その人に関わる霊的な存在と同じレベルのものだからである。
しかしながら、霊的な存在が悪いということではない。
お互いが同じ学びのレベルであるために寄り添(そ)っているのである。
類は敵を呼ぶのではなく、友を呼ぶのである。

2018年4月9日月曜日

追憶 2010

わたしは瞼(まぶた)を閉じて、黒い霧の中の顔に意識を合わせた。
すると、それが部屋中に充満しているのと、それが老女の頭の中に続いているのが見えた。
老女の頭の中は、黒い顔で埋め尽くされていたのである。
黒い顔は、霊的な存在と、人の意識が混じり合ったものであろう。
これは、幸福を求めて、恐怖を得た人達の死後の姿と、そのような生き方をしている人達の意識である。
それが、空間を移動して、同じ状態を抱える老女と繋がったのであろう。
老女には、この状態が見えてはいない。
頭の中に黒い顔が充満しているのであれば、それ等と同じ意識の状態に固定される。
人は、頭の中に存在している意識のことを考えているのである。



2018年4月8日日曜日

追憶 2009

黒い霧の中の顔からは、強い恐怖の感情と、幸福を求める矛盾のようなものを感じるのである。
幸福を求めるのであれば、幸福を求めれば良い。
恐怖を求めるのであれば、恐怖を覚える状況が導かれるのは当然のことなのだ。
宗教に携わっている人達には、この矛盾が存在している。
頭の中では幸福を欲していながらもら、心の中では知らず識(し)らず恐怖を求めているのである。
人生においては、頭の中で考えることよりも、心の中に抱えていることの方が優先される。
そのため、宗教に携わっている人達が、"神"や教義に縋(すが)るだけで自分自身を改めることがなければ、どのように励(はげ)んだとしても、幸福を得ることは出来ないのである。
黒い霧の中の顔からは、宗教的な感覚を得た。
これは、宗教に携わっている人達と会った時に覚える感情である。



2018年4月7日土曜日

追憶 2008

恐れに支配された人生や人格は詰まらない。
恐れを支配し、人生や人格は自由である方が楽しいのである。
甘やかされ、苦しみに立ち向かうことが無かった人の人生や人格には自由が乏しい。
苦しみに立ち向かう経験を持たない人の言葉には、深みや重みといったものが無いのである。
知識だけを蓄積し、何かを分かった気になっている人がいるが、そのような人の言葉には説得力が無いのである。
それは、出汁を取らない料理のようなものだからである。
詰まらないお店であっては、それでも許されるだろう。
詰まらないお店に訪れる人は、詰まらない料理を納得しているからである。
しかしながら、中にはそれに納得しない人もいる。
そのような人は、自分が詰まらない人格であるにもかかわらずに、楽しい人生を望んでいるのである。
料理を作り、見ず知らずの他人に提供したこともないくせに、店の料理を批判しているようなものなのだ。



2018年4月6日金曜日

追憶 2007

前向きな魂や天使に会う方が楽しいに決まっている。
その方が心地好いし、楽である。
気の合う人達と共に過ごす方が心に優しいことは明白なのである。
しかしながら、人生というものは、そういう訳にもいかない。
人生の目的は苦しむことである。
それは、理解を深めるためには、苦しみが必要不可欠な要素であるからだ。
それは、出汁(だし)のようなものであるだろう。
料理に興味の無い人は、出汁の重要性を理解しない。
出汁を取ることを手間だと思ったり、必要ないとさえ思うのである。
しかしながら、出汁の入っていない料理には、奥行きのようなものを感じることが出来ないだろう。
人生においては、苦しみを通過することがなければ、人格に奥行きを得ることが出来ない。
苦しみが無ければ、影を描かない絵画のように、詰まらない人生や人格になってしまうのである。



2018年4月5日木曜日

追憶 2006

良い結果を導くためには、その道の嫌なことにも向き合わなければならない。
異なる道の嫌なことに向き合う必要はないと思うが、自分が進むと決めた道の嫌なことを避けることは出来ないのである。
良いことばかりを選択しても、道を進んで行くことは出来ない。
時には、歩き難(にく)い道を進む必要もある。
道の無いところに道を切り開かなければならない時もあるのだ。
道なりに進むことは楽なことではあるが、それでは、思い掛けない景色や経験を得ることは出来ない。
思い通りに進むのは良いことのように思えるが、それでは楽しくないのである。
安全であったとしても、楽しくないことを続けることは苦痛なのである。

2018年4月4日水曜日

追憶 2005

意識を集中することによって、わたしは黒い霧の中に様々な人の顔を見た。
その時には、世界から老女の声は消えていた。
それ等の顔は皆、悲鳴や怒号を上げていた。
わたしはそれに、強い嫌悪感を感じる。
わたしは大きな音や、不協和音が苦手である。
彼等の声は聞くに耐えないものであった。
しかしながら、わたしはそれを聞かなければならない。
なぜなら、理解を深めるためである。
人は嫌なことを拒絶する。
それも一つの方法であるだろう。
嫌なことを拒絶するのは、決して悪いことではない。
しかしながら、感情に従ってただ闇雲に拒絶するのは芸がないであろう。
嫌なことに対する理解を深めることも、一興(いっきょう)であると思えるのである。
そこには、新たな発見や、思いも寄らない結果が導かれるからだ。

2018年4月3日火曜日

追憶 2004

わたしが意識を集中するのは、受け取るためである。
見ようとすれば、見たいものを見てしまう。
自分が見たいものを見たところで、どうしようもないのである。
わたしは、そこに存在するものを見なければならない。
自分が見たいものを創造するのであれば、世界を歪めてしまうことになる。
それは、正しく学びを得ることが出来ないということを意味しているのである。
自分が見たいものを見ているのであれば、誤解と偏見を強めることになるだろう。
大切なのは、素直に受け取ることである、
自分で"色"を塗らず、ありのままを受け入れることが大切なのだ。

2018年4月2日月曜日

追憶 2003

わたしは老女の言葉を遮(さえぎ)って、見えない何かに対して意識を集中した。
しかしながら、これは、見えない何かを見ようと集中しているのではない。
多くの人は霊的な能力を誤解している。
多くの人は霊的な能力を能動的なものだと思い込んでいるが、本来ならば、霊的な能力というものは受動的なものである。
霊的な能力とは、預言だと言えるだろう。
多くの人は、宗教やテレビや漫画や無知な人の影響で、霊的な能力によって、特別な影響を与えることが出来ると思っていることだろう。
"お祓い"や呪詛(じゅそ)という呪術(じゅじゅつ)というものが認識されているが、残念ながら、人はそのような力を扱うことは出来ない。
それは、霊的な能力ではなく、ただの意志による因果の仕組みの発動である。
それは、日常的に行われている自然の力なのだ。
"お祓い"や呪詛などというものは、誰もが日常的に行なっている。
そのようなことに霊的な能力は必要無いのである。

2018年4月1日日曜日

追憶 2002

人生を豊かに生きるのに、特定の儀式は必要ないだろう。
人生を豊かに生きるのに、"神"に頼る必要はないのである。
多くの人が"神"に頼るのは、目の前に悪いことが起きていると認識しているからである。
しかしながら、この世界には悪いことは存在しない。
すべての事象には、自らを成長させ、人生を豊かにするヒントが内在されている。
それを自分で探せば良いのである。
どうしても分からない時には、誰かに尋(たず)ねても良いだろう。
人生を豊かに生きる方法は、人が見付け出すべきなのである。
"神"に尋ねたとしても、残念ながら教えてはくれない。
それは、この人生が、"神"に頼ることがなくても豊かに生きることが出来るように作られているからである。