わたしは決定のために使われたに過ぎないだろう。
	誰に使われたのであろうか?
	わたしの憶測では、山道の子どもに使われたのではないかと思っている。
	すべてが憶測の域を脱することはないが、建設的な意識である天狗と、破滅的な意識である大蛇とを司っているのが山道の子どもなのではないかと考える。
	天狗と大蛇の争いに心を傷めていたのではないだろうか?
	それは、親心にも似た想いだったのかも知れない。
	わたしには、天狗と大蛇が”玩具”を取り合う幼い兄弟のように見えたのだ。
	両者は、思惑を有する幼い魂なのではないだろうか?
	彼等が自然の神や精霊なのかは分からないが、未熟であることは分かった。
	今回は大蛇が咎(とが)められたが、建設的な意識と破滅的な意識は協力しなければならないはずだ。
	大蛇は破滅的な性質によって争いを仕掛け、天狗は建設的な性質によって争いを仕掛けられたのであろう。
	それは、両者の未熟さが招いた問題であるに違いないのである。
	
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