このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年2月28日火曜日

追憶 1632

裏山への登山道は、裏庭の擁壁(ようへき)のために迂回(うかい)しなければならなかった。
とはいえ、小さな山である。
2〜300mも歩けば、ミカン畑から登ることが出来る。
ミカン畑は段々畑として急斜面に設けられており、作業はモノラックで行われる。
そのために、人が徒歩で山を登るための道は整備されていない。
わたしは滑り落ちないように気を付けながら、畑の横の急斜面を這(は)うように登った。
子どもの頃は何往復もして遊んだ場所であったが、20代も後半に差し掛かろうとしている肉体には簡単なものではなかった。
子どもの頃は、皆で滑り降りていたが、今では恐怖が勝るのである。
後先を考えているのである。

2017年2月27日月曜日

追憶 1631

近所の商店に尋ねると、お酒の取り扱いはしていないということだった。
わたしが残念そうにしていると、奥の冷蔵庫から個人用の缶ビールを出してくれた。

「お酒は無いけど、缶ビールならあるからただで上げるよ」

わたしは断ったが、どういう訳か聞き入れてもらえなかった。
代金を払おうとしても拒まれる。
埒(らち)が明かないので、わたしは缶ビールを貰い受けることにした。
お菓子とジュースを購入し、礼を伝えて店を後にした。
わたしは店の主人には何も話していない。
何かを察したのか、ただの好意だったのかは分からない。
不思議なこともある。
とにかく、わたしは缶ビールというお酒を手に入れることが出来た。
これで準備は整った。
後は山を登るだけである。

2017年2月26日日曜日

追憶 1630

昼頃に仕事から戻ると、わたしは裏山のお祭りに参加することに決めた。
夢の中では、今日がお祭りだと言っていた。
どのようなお祭りなのかは分からないが、とにかく行ってみれば何か分かるかも知れない。
頭の中で考えていても、何も変わらないのである。
わたしは安易な考えで、お祭りにはお酒だと思った。
それは、お酒が好きな神様もいたからである。
裏山の神様がお酒が好きかは分からないが、備えあれば憂いなしだ。
わたしはお酒は飲まないので、炊事をしていた母に上等な酒はないか?と尋ねた。
家族もお酒は飲まないために、調理酒が少しだけならあると言われたが、わたしはそれを断って、近所の商店に求めた。

2017年2月25日土曜日

追憶 1629

仕事をしていても、わたしの頭の中では夢の内容が繰り返されていた。
やはり、あの夢には何等かの意図が隠されているように思える。
ただの夢であれば、それを体系化するような面倒な真似はしないだろう。
しかしながら、わたしはそれをしたのである。
夢を忘れないように、脳裏に焼き付けたのだ。
しかしながら、わたしが意図的にそうしたのではない。
何か別の意図によって、そうさせられたのである。
わたしには、あの夢を覚えておく必要があるのだ。
しかし、何のために?
わたしは自分自身に問い掛けたが答えは得られなかった。
わたしに出来ることと言えば、裏山の”お祭り”に参加することであろう。

2017年2月24日金曜日

追憶 1628

弾かれるようにして目覚めた。
興奮しているのか、夢の中と同じように鼓動は高まっていた。
わたしが体験したのは悪夢である。
カーテンの隙間に見える窓の外は薄暗く、空は今だに眠っていた。
わたしは再び眠りに就こうと瞼(まぶた)を閉じたが、夢のことが脳裏に焼き付いているようで眠ることが出来ない。
わたしの見た悪夢には、何かしらの意図が隠されているように感じる。
そこで、わたしは夢の内容を忘れないように頭の中で整理し、その内容をいつでも想起することが出来るように自分なりに体系化しておいた。
それから、わたしは眠るのを諦め、活動することにした。


2017年2月23日木曜日

追憶 1627

白い布を解くと、そこには首が直角に折れ曲がり、白目を向いて絶命している女の姿があった。
わたしは大変なことをしてしまったのだと理解した。
わたし達が運んでいたのは生身の人間だったのである。
わたしは女性を死なせてしまった。
胸の鼓動は高まっていた。
手に汗が滲(にじ)む。
同時に、お祭りの中止を危惧(きぐ)していた。
どうするべきかを考えていると、突然に目の前の大樹の幹が歪んだ。
そこには、黒い男のような顔が浮かび、嫌らしい声で哄笑(こうしょう)した。
黒い男の声が、わたしの頭の中で反響して嫌悪を増す。
わたしは絶望を覚えて膝(ひざ)を屈した。

2017年2月22日水曜日

追憶 1626

荷物が腕を離れるのに時間は掛からなかった。
荷物は母親を通り過ぎ、急斜面を素早く滑り落ちた。
わたしは急いで後を追ったが、到底追い付くことなど出来なかった。
荷物の先には、抱え切れない程の大樹があったが、わたしの予想を裏切らずに、鈍い音を立てて衝突し、そこでどうにか止まったのである。
わたしはとんでもないことになったと慌てた。
駆け寄ると、大樹に衝突した荷物の先端の布が解けていた。
そこからは、女の黒い髪のようなものが飛び出していた。

2017年2月21日火曜日

追憶 1625

裏山は標高が40mくらいの比較的小さなものである。
それでも角度が急なことに加え、崩れ易い足元に難儀した。
半(なか)ば辺りに差し掛かった頃、突然、担いでいた荷物が暴れ始めた。
祭りと聞いていたので、わたしは道具のような無機物を運んでいるのかと思い込んでいたが、わたし達が運んでいるのは、予想を超える何かである可能性が高まった。
わたし達が担いでいるそれは、少しずつ暴れ方が酷くなっていった。
予期せぬ事態に、わたしは母親を気遣う余裕もなく、荷物を落としてはいけないと思う一心で必死に踏ん張った。
それは、担いでいる荷物が祭りに必要な神聖なものだと思い込んでいるためである。

2017年2月20日月曜日

追憶 1624

白い布で包まれた何かをわたしが前で担ぎ、母親が後ろで担いだ。
それは、とても重たい荷物であった。
わたし達は二人でこれを山頂まで運ばなければならなかった。
わたしは母親を心配していた。
ただでさえ、裏山は急な斜面である。
整地された道などなく、木々に掴まりながら登って行くような自然の山なのだ。
そんな場所を登ることでさえ大変に違いないのに、こんな重たい荷物を担いだ状態で進めるはずがないと思ったのである。
しかしながら、わたしの中には妙な忠誠心のようなものがあって、どうしてもこの荷物を山頂へ届けなければならないという強い感情があった。
わたしは母親を心配しつつも、懸命且つ慎重に歩を進めた。

2017年2月19日日曜日

追憶 1623

物理世界では不可能だと思うが、台所では、祖母がお祭り用の料理を作っている様子が見えた。
どういう訳だか、そこで、わたしはこれが夢であることを忘れてしまうのであった。
いつの間にかに、母親の隣には誰かがいた。
それは、黒い男性の影だったと記憶している。

”これを担いで山頂に向かうんだ”

そう言って、2m程もある白い布で包まれた何かをわたしと母親に渡してきた。
わたしは白い布で包まれた何かに嫌悪感を抱いたが、その指示に従った。

2017年2月18日土曜日

追憶 1622

今ではきっと、あのウバメガシも陽を得られずに枯れているだろう。
だから、わたしは夢の中であろうとも、懐かしさに心が踊っていた。
布団から起き上がると、わたしはいつの間にかに裏庭にいた。
隣には母親がいて、一緒に裏山を見上げている。

「今日は山のお祭りだから、早く準備してね」

母親はそう言ったが、そんな祭りがあったろうか?
わたしは記憶を辿ったが、どこにも見当たらなかった。
しかしながら、夢の中のわたしはそれを妙に納得しているのである。

2017年2月17日金曜日

追憶 1621

夢を見ていた。
それは、不思議な夢であった。
わたしは夢の中で目覚めた。
ここは、わたしが中学生の頃の世界だ。
布団の中で寝ていても、裏庭の景色が見て取れた。
現在は崖崩れを懸念して、見上げる程の擁壁(ようへき)が築かれてはいるが、元は様々な花木(かぼく)を植えた、裏庭から続く美しい裏山だった。
今では見る影も無く、何の風情も無いお粗末な灰色だけが淡々とそびえ立っている。
幼い頃は山登りをして遊んだものである。
半懸崖(はんけんがい)に自生した巨大なウバメガシに腰掛けて、何時間もぼんやりと過ごしたものであった。

2017年2月16日木曜日

追憶 1620

わたしは、原始的な生活を理想としているのではない。
目には見えないが、きっと誰にでも感じることができる何かを大切にして欲しいのである。
そうすれば、幸せになれるかは分からないが、豊かさへと近付くことができるのではないだろうか?
わたし達は、物質主義を基盤とした資本主義に傾倒し過ぎているような気がしてならない。
わたしは真鯛の養殖を生業(なりわい)としているが、真鯛をただの金儲けの道具として考えたことはない。
わたしは真鯛の命を奪う業(ごう)を背負い、感謝を忘れずに苦しみながら生きるのである。
精神の存在を忘れてしまうのであれば、肉体は滅びに向かうだろう。
精神と肉体は一つの存在なのである。
霊的な存在を信仰する必要はない。
信仰とは、一方的なものであるからだ。
一方的な信仰は、人の弱さを媒体(ばいたい)として、やがて宗教的な儀式に向かうからである。
わたし達は、肉体と精神、苦しみと喜び、そして、死と生と共に生きるのである。

2017年2月15日水曜日

追憶 1619

当時のわたしには、白人も黒人も幸せそうには見えなかった。
ブラジルには、生活に何の不自由もない白人も黒人もいるだろう。
もちろん、生活に不自由な白人も黒人もいるだろう。
彼等はそれを幸せだと感じているかも知れないし、苦悩しているかも知れない。
わたしの視点など、何の意味も無いが、わたしには誰一人として幸せそうには見えなかった。
当時のわたしには、日本の方が幸せそうに見えたのである。
それは、ブラジルに生きる人達よりは、日本に生きる人達の方が、人間同士や自然環境と共生しているように見えたからであろう。
一神教の宗教的な背景もあるのだと思える。
ブラジルの文化に比べると、日本の文化の方が自然環境と共生しているように思えたのである。
しかしながら、それから約10年の歳月は、わたしに様々なものを見せた。
わたしの見たものなど大したものではないだろうが、今のわたしには日本人も幸せそうには見えないのだ。

2017年2月14日火曜日

追憶 1618

ただ生きるだけなら、すべての命を犠牲にして、衣食住を満たせば良い。
しかしながら、そのような方法はすぐに限界を迎えてしまうであろう。
現に、今日の物質主義に根差した資本主義の在り方が自然環境を破壊しているのである。
わたしは今日の日本を豊かだとは思わない。
そして、それを決して幸福だとは思わないのである。

わたしは高校生の頃に、ブラジルに10日間程滞在したことがあった。
塀(へい)に囲まれた白人の街と、山にへばり付くように密集したスラム街。
信号待ちで駆け寄って来ては、勝手に窓掃除を始める貧しい黒人の子ども達。
街中を歩いていると、どこからともなく現れて、わたしを案内することによって日銭を稼ごうとする黒人の少年。
塀に囲まれた街の中の綺麗な庭付きの家に住み、塀に囲まれた学校を案内してくれた裕福な白人の子ども。
寝起きのわたしに、フルーツの盛り合わせの朝食を用意してくれた優しい白人の母親。
当時のブラジルには、日本では考えられない世界が広がっていた。



2017年2月13日月曜日

追憶 1617

人は知恵を生かして、自然界と共生しなければならない。
それは、動植物と共生するということでもあるが、そこに存在する意識的な存在との共生も意味しているのである。
目に見えることだけを大切にするのであれば、乏しさを選ぶであろう。
それは、すべての存在が、目に見える部分と目には見えない部分とで成り立っているからに他ならない。
人は目に見える肉体だけではなく、目には見えない精神も存在している。
それ等が共生することによって、人生の豊かさが実現するだろう。
動植物だけの繁栄を願うだけでは足りない。
生きることは理由の半分に過ぎないのである。
生きることに加えて、どう生きるか?ということが必要だということを忘れてはならないだろう。

2017年2月12日日曜日

追憶 1616

もちろん、争いだけが人類の歴史ではない。
争いの歴史が表立っているだけである。
人は、自らの内に存在している内戦を静めなければならない。
そして、誰かや何かに対して、争いを仕掛けてはならないのである。
自らの建設的な意識と破滅的な意識を共生させ、豊かさを実現しなければならないのであろう。
争えば、滅びるのである。

大蛇はいても良いだろう。
寧(むし)ろ、いなければならない。
大蛇は光に帰ったが、異なる形で再び生じるか、意識の一端を切り取ったに過ぎないだろう。
自然界には、鳥も蛇も存在している。
鳥と蛇が直接的に交わることはないが、間にいろいろなものを差し込むことによって、共生することができるのである。
天狗と大蛇の間にわたしが差し込まれたように、自然界には人類が、心には知恵が必要なのである。

2017年2月11日土曜日

追憶 1615

山道の子どもは、わたしに学びを与えたのではないだろうか?
わたしの中には建設的な意識である天狗も、破滅的な意識である大蛇も存在している。
わたしの中でも天狗と大蛇は争っているのである。
互いが別々の大義を掲げ、それぞれの理想を実現しようとしている。
それは人の世の在り方であるかも知れない。
しかしながら、それは不自然なことなのであろう。
自然とは、共生することである。
どのような命も、奪うために存在しているのではない。
すべての命は与えるために存在しているのである。
奪うために争っているが、それは滅びの道なのだ。
不自然な人類だけが、自然環境を破壊してきた。
人は不自然なのである。
自らの内に争いを抱え、外に争いを生じさせる。
内戦と戦争こそが人類のこれまでの歴史であるだろう。

2017年2月10日金曜日

追憶 1614

わたしは決定のために使われたに過ぎないだろう。
誰に使われたのであろうか?
わたしの憶測では、山道の子どもに使われたのではないかと思っている。
すべてが憶測の域を脱することはないが、建設的な意識である天狗と、破滅的な意識である大蛇とを司っているのが山道の子どもなのではないかと考える。
天狗と大蛇の争いに心を傷めていたのではないだろうか?
それは、親心にも似た想いだったのかも知れない。
わたしには、天狗と大蛇が”玩具”を取り合う幼い兄弟のように見えたのだ。
両者は、思惑を有する幼い魂なのではないだろうか?
彼等が自然の神や精霊なのかは分からないが、未熟であることは分かった。
今回は大蛇が咎(とが)められたが、建設的な意識と破滅的な意識は協力しなければならないはずだ。
大蛇は破滅的な性質によって争いを仕掛け、天狗は建設的な性質によって争いを仕掛けられたのであろう。
それは、両者の未熟さが招いた問題であるに違いないのである。

2017年2月9日木曜日

追憶 1613

バイクを走らせながら、わたしは体験を整理していた。
天狗は恐らく、あの土地の建設的な意識だろう。
それは、自然を豊かさへと近付ける力なのではないだろうか?
命を育み、拡大する力である。
大蛇は恐らく、あの土地の破滅的な意識だろう。
それは、自然を乏しさへと近付ける力だと思われる。
命を滅し、縮小する力である。
天狗は生を司り、大蛇は死を司る。
そして、その力関係によって自然の営みが決定されるのではないだろうか?
天狗の力が勝れば、あの土地は豊かさに近付き、大蛇の力が勝れば、その土地は乏しさに近付く。
わたしはそれを体験し、理解するために呼ばれたのだと思われる。
体験としては、わたしの役割が状況を決定したように見えるが、そのようなことは有り得ないだろう。
わたしは道具に過ぎない。
自分の意思では何の力も使えないのである。

2017年2月8日水曜日

追憶 1612

これ以上、わたしがここにいる理由はない。
霊的な存在は、人間のように不毛な議論には力を使わない。
非常に合理的な存在なのである。
それは、人間のように役割を迷ってはいないからだろう。
霊的な存在は、自分がどう在るべきなのかを知っているのではないだろうか?
自分がどう在るべきなのかを知らない人にとっては、それを冷徹に感じるかも知れない。
人間的な感覚とは、ある意味ではプログラムのバグのようなものだと言えるかも知れない。
役割がなければ、理由もない。
踵(きびす)を返すと、倒れている狐の人形が気になり立たせておいた。
枝を振り解きながら進むと、背後で山道の子どもが楽しそうに駆けた。
わたしはそれを山道の子どもからのお礼と受け取った。

「じゃあね」

わたしは背後に向けて言葉を放り、山を降りた。


2017年2月7日火曜日

追憶 1611

動かなくなった大蛇を抱き締めると、それはわたしを離れた。
大蛇だったものは、高い場所に輝く光に帰りたいのだろう。
わたしはそれを許し、見送った。

テレビのチャンネルを変えるように視界が入れ替わるのに気が付いた。
どこからか、楽しそうな鳥の歌が聞こえてくる。
どうやらわたしは、普段の騒がしい世界に戻ったようであった。
疲れているのか、身体を重く感じた。
きっと、あの世界と比較しているのだろう。
一つ息を吐いて、周囲を見渡す。
胸騒ぎも無く、穏やかなものである。
わたしは役割を果たしたのだろう。

2017年2月6日月曜日

追憶 1610

それは、光る十字架となった。
わたしはそれを”争い”に投じた。
悲鳴によって、わたしの身体は揺さぶられた。
光の十字架は、大蛇の胴体に突き刺さっていたのである。
大蛇は天狗に絡ませた太い胴体を器用に外すと、光の十字架に噛み付いて球体を作った。
内側からの光で大蛇の身体からは黒い煙のようなものが追い出されていた。
光によって、大蛇の中の毒気(破滅的な感情)が浄化されているようである。
黒い煙のようなものが頭上の集まると、そこに再び光の十字架を投じた。
それは光の煙となり、高い場所に輝く場所へと帰った。
そして、大蛇は動かなくなった。

2017年2月5日日曜日

追憶 1609

わたしは迷っていた。
当たり前の行動は、当たり前ではないからだ。
わたしの当たり前と思う行動は、過去に起源しているだろう。
それは、誰かや何かの影響を受けて導き出される判断に過ぎないからだ。
人は未熟である。
そのため、無意識の内に誰かや何かの影響を許している。
それは仕方のないことである。
それが悪いということでもないだろう。
今まではそれで良かった。
しかしながら、これからもそれで良いとは限らない。
わたしの立場から見れば、天狗を助けることが正しい行動に思える。
しかし、大蛇を助けることが正しい行動であるとする立場もあるだろう。
ここでわたしは、思考に捕らわれていることに気が付いた。
いつの間にかに、わたしは心を乱していたのである。
考えているから傍観(ぼうかん)しているのである。
わたしは思考とそこから導き出そうとしている判断を手放した。
すると、右手が前方の空間に十字を描いた。

2017年2月4日土曜日

追憶 1608

しばらく攻防を観察していると、天狗が山道の子どもに見える瞬間があった。
それは闇夜に浮かぶ灯台の灯りのように一瞬ではあれど、確かに届くのである。
何度目かに届いた時にわたしは確信した。
この天狗はわたしの友である。
友が助けを求めているのだ。
わたしは天狗に呼ばれてここまでやって来たに違いない。
争いにどのような経緯があれ、わたしは喧嘩両成敗だと思うし、この世界には悪(正義も含めて)は存在しないと思う。
わたしは山道の子どもと方向性が似ているに過ぎない。
それを友と呼んでいる訳だが、それは陰陽の役割に属しているに過ぎないのである。
大蛇からは破滅的な力を感じるために、方向性は違っているだろう。
だから、友にはなれないと思われる。
状況からしても、わたしが天狗を助けることは定石(じょうせき)であるだろう。

2017年2月3日金曜日

追憶 1607

大蛇が巻き付いているものは”天狗”であった。
それは、天狗のような人型の何かである。
大蛇は天狗の四肢に絡み付き、その自由を奪っていた。
天狗が苦しみに悶(もだ)えていることはすぐに理解することが出来た。
大蛇と天狗は何等かの理由によって争っているのだ。
しかしながら、大蛇が一方的に天狗を襲っているようにも思えた。
互いはわたしに目もくれず、それぞれの目的を果たそうと努めていた。
大蛇は天狗を倒そうとしており、天狗は大蛇を振り解こうとしているのである。
わたしにはその光景を傍観(ぼうかん)する以外に方法はなかった。

2017年2月2日木曜日

追憶 1606

山の奥から、地鳴りが響く。
それは遠くからわたしに近付いているようであった。
目を凝らせば、青黒い何かが波打っている。
それは、怪しい光を放つ鱗(うろこ)に覆われた大蛇の胴体であった。
胴体は山頂の老いた赤松のようであった。
それは、力を込めているかのように、ゆっくりと身を捻転(ねんてん)させている。
何かに纏(まと)わり付いているのだろう。
次にわたしは、大蛇の頭を見た。
その眼は欲望に満ちていた。

2017年2月1日水曜日

追憶 1605

次にわたしは敵意を探した。
しかしながら、自発的に探しに行く訳ではない。
敵意が届くのを待つのである。
それは、見えない水中に釣り糸を垂らすようなものである。
自発的に敵意を探すという行為は、下手をすれば敵意の原因を勝手に作り出してしまう可能性が高いのだ。
銛(もり)を持って水中に潜れば、大抵どの魚でも狩ることが出来るだろう。
しかしながら、釣りではそうはいかない。
仕掛けによってある程度の選別は出来るものの、何が釣れるのかは基本的に魚次第なのである。
霊的なアプローチで重要なのは、無意識の内の願望を対象に投影しないことなのである。
多くの霊能力者と自称している人達には、このことが分からない。
恐れている人は、恐れに起源する状態で霊を見る。
怒りや悲しみを抱えた霊を作り上げるのである。
しかしながら、そのことは知らないので、霊が怒っている、霊が悲しんでいると思うのである。
霊的なアプローチの精度を高めるためには、想像力を働かせないことである。
ただ、受け取ることに専念し、素直であることが重要なのだ。