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自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年6月18日土曜日

追憶 1377

今のRには、両親の言動を教師とするか?反面教師とするか?を判断することはできないだろう。
両親の言動のすべてが、Rにとっては教師としての教育と”なる”のである。
それは、子どもが疑問に思うことであったとしても、大抵の両親は自分の主張を押し通すことによってそれを教育という形で正当化するからである。
もちろん、わたしはこれを悪いことだとは思わない。
そのような方法しか用いることができないからだ。
それに、反作用が存在しなければ、作用も存在しないからである。
弓は弦(げん)を引かなければ、矢を放つことはできない。
強く引く程に矢は遠く、真っ直ぐに飛ぶであろう。
両親や周囲の人間の(多くの場合悪意の無い)歪んだ教育のおかげでわたしは苦悩し、少しでもまともな人間になれたように思える。
彼等が正しい教育を施していたのであれば、わたしは苦悩を受けることも無かったであろう。
そして、わたしの場合はいつまでも甘えていたかも知れないし、自分で考えることもしなかったのではないだろうか?



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