このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年6月30日木曜日

追憶 1389

これは、望遠鏡にも通じる。
わたしは自力によって達成したり、実現することができることをすることの方が先決であると思うのである。
Rにはお金を稼ぐ手段がない。
それならば、お金をかけずに楽しむ必要があるだろう。
大人はお金の力に支配されている。
それは、何をするにも資金面を計算してしまうからだ。
子どもの頃にはお金に支配されてはいない。
そのため、子どもは遊びの天才である。
その辺に落ちている枯れ枝ですら、最高の遊び道具となる。
そのような方法は想像力と創造性を育んでくれる。
例えば、お金をかけてデザインの本から学ぶよりも、山に出掛けて植物の葉のデザインを学ぶ方が良いのではないかと思うのである。

2016年6月29日水曜日

追憶 1388

ここにきて、またお金を使って楽しみを得ようというのである。
その機械は、100円を入れると宮島のことを音声によって紹介してくれるというものであった。
その知識が今のRにとって本当に必要なのだろうか?
わたしには、Rがお金を使って知識とは違う何らかの結果(暇つぶしなど)を得ることを期待しているようにしか見えない。
お金を使うことが悪いと言っているのではない。
お金の使い方を知らなければならないと思うのである。
パチンコでどれだけの利益を上げようとも、人生を考えた時には実質は損失を得ている。
パチンコに時間やお金を投資する時点において、損失は確定しているだろう。
そのような方法には知恵が無いのである。
例え100円であろうとも、100円以上の価値を導き出さなければならない。
音声案内に対する100円の投資が、今のRに対して100円以上の利益を生むとは思えないのである。
Rのことを本当に考えた時、そのような方法がためになるとは思えないのだ。

2016年6月28日火曜日

追憶 1387

Rには飽きっぽいところがある。
景色にも余り興味がない。
同じ道であっても、帰り道は別の景色となる。
わたしにとって、それは楽しみであった。
しかしながら、Rにはそのことが分からないのだろう。
すぐに飽きてしまったようだ。
わたしは樹木の名前を教えることによって知識を得させようとしたが、食い付きはいまいちである。
その時、Rが何かを発見して、わたしを呼んだ。
Rが指差したのは、100円を入れると音声案内が再生される機械であった。
わたしはうんざりした。

2016年6月27日月曜日

追憶 1386

わたしたちには時間が限られていた。
長居はできないのである。
古代文明の目新しい発見がない(見ても分からない)のと、フェリーの時間が迫っていることを理由に、わたしたちは来た道を引き返した。
Rは子ども特有の切り替えの早さを発揮して、楽しそうに前方を駆けた。

帰りのロープウェイも混んでいた。
来た時とは逆に、途中までは大型のゴンドラに大勢が詰め込まれた。
途中からは、一組ずつ小型のゴンドラに乗ることができる。
小型のゴンドラが目の前に到着すると、Rがいち早く飛び乗った。
わたしたちはそれに続いた。

2016年6月26日日曜日

追憶 1385

わたしが許さないのを理解して、Rは母親であるHに助けを求めた。
視線を交わした時、Hはわたしの意図を理解したようである。
わたしと同じように、HもRの要求を退けた。
道が断たれたことを悟ったのか、Rは大人しくなった。
それは、諦めと不貞腐れが混ざり合ったような感情であったと思う。
そこでわたしは、Rに周囲の景色を楽しんでもらおうとして話を振ったが、余り興味は示さなかった。
わたしは無理に好きにさせようなどとは思わない。
今のRには楽しむ程のスキルが無いのである。
今回は、習慣の修正に重点を置けば良い。
すぐに変わることなどできないのである。
変わるための一歩であれば良いと思い、それ以上を求めることはなかった。

2016年6月25日土曜日

追憶 1384

蓄積されたエネルギーを受けることは簡単なことではない。
それは、誰にとっても苦しいことであろう。
しかし、人を育てるためには欠かせないことであるのも事実である。
今回の否定に対しても、Rからは何かしらの抵抗があることが予想された。
わたしの言葉を受けたRは、自らを正当化してどうにか望遠鏡を覗こうと工夫したが、それは感情的な方法ではなく、冷静に望遠鏡を覗きたい理由を説明しているようであった。
わたしは嬉しく思った。
成長を感じられるからである。
100円を渡そうかと考えた。
しかし、わたしはその”甘い”思考を否定した。
ここで主張を曲げれば、何の説得力も無くなってしまうのである。
目的には一貫性がなければならない。
子どもは大人の真意を必要としているのである。
それが揺らぐのであれば、子どもはどう学べば良いのか判断することができないのである。
教師となるのか?
反面教師となるのか?
その判断が曖昧(あいまい)となってはならないのだ。

2016年6月24日金曜日

追憶 1383

わたしとHは、Rが納得するまで諭(さと)し続けた。
Rが自らの過ち(約束を破ったこと)をどうにか受け入れることができたのは、約三時間後のことであった。
わたしはRに負ける訳にはいかなかった。
それは、Rがお腹の中にいる時に約束したからである。
生前、Rはわたしに教えて欲しいと願い、わたしはそれを承諾(しょうだく)した。
わたしは約束を破りたくない。
だから、諦めないのである。
これは、教育としての目的が主体であったが、わたしにはもう一つの目的があることに気が付いていた。
それは、Rの内に蓄積されたエネルギーの解放である。
幼い頃のわたしもそれを持て余していた。
わたしの場合は悪事として現れた。
それは、誰かに迷惑をかける行為であったが、わたしの抱えるエネルギーを正しく導くことができる大人がいなかったのである。
Rの周りにもいない。
そのことに気が付いたので、わたしはエネルギーを受けてやろうと思ったのである。



2016年6月23日木曜日

追憶 1382

わたしがRの主張を退けると、当然のように自らを正当化しようと努めた。
子どもの得意な否定と質問の嵐である。
教育とは根気ではないかと思える。
以前、ショッピングモールでRが約束を破ってゲームを続行しようとしたことがあった。
わたしとHはそれを咎(とが)めた。
それは約束を破ったからである。
すると、Rはショッピングモール内で一時間以上もの間大声で泣き続けた。
周囲の反応は想像の通りである。
金額でいえば200円程度、時間でいえば5分とかからない。
しかしながら、わたしはそれを許さなかった。
父親のYであれば、それを許しただろう。
その腹積もりでRは泣き喚(わめ)いたのである。
駐車場まで無理矢理に連れて行き、車に押し込めて帰路に着いたが、そこでも一時間泣き喚いた。


2016年6月22日水曜日

追憶 1381

Rはわたしがお金を出し、いつものように望遠鏡を覗けると思っている。
それが普通だったからだ。
しかし、わたしは決してそれを許さない。
表面的な人間になって欲しくないからである。
そんな人間は詰まらないのである。
様々なことを経験することは良いことだと思う。
全身で体験した後に望遠鏡を覗くのも良いとは思う。
しかし、わたしには両立することができないと思えるのである。
特に、子どもの感性は両方を得ることができないだろう。
多くの人は多くを欲しがる。
あれもこれもと欲を出す。
その結果、深く進むことができないのである。
全身で体験した後に望遠鏡を覗けば、今のRには習慣によって優位にある、望遠鏡の体験、記憶が勝るのは必至であろう。
結果として、全身で体験したことは何処か遠くへ追いやられてしまうのである。
それは、将来的にお金で楽しみや幸せを手に入れようとする行為に繋がる可能性が高い。
それが、父親であるYの生き方から生じる無意識の教育なのである。
このままでは、Rが使命を忘れ、父親のように”普通”に生きていくことになるだろう。
そのため、どちらかを断つ必要があるのだ。
当然、わたしは望遠鏡を断つのである。

2016年6月21日火曜日

追憶 1380

それが両親からの教育である。
父親であるYは、仕事が休みの日にはパチンコを楽しんでいるようであった。
家にいる時には、もっぱら携帯電話でゲームを楽しんでいるようである。
課金というシステムによってゲーム内でのアイテムを買っているような熱の入れようであるという。
子ども達の相手はHに任せ、ゲームを楽しんでいるのが日常であるということであった。
驚いたことに、Rの妹のMが2歳になっても、ご飯を食べさせたことが無いというのである。
そのような教育の結果、Rの口をついて出る言葉は「ゲームがしたい」「インターネットの動画を見せて」というものばかりになってしまった。
ゲームを楽しむのも、インターネットで動画を楽しむのも良いとは思う。
しかし、目の前のリアリティを蔑(ないがし)ろにしてまで楽しむ価値があるとは思えない。
今では、車で走行している時にもゲームをしたがるほどになっている。
景色を眺め、人々の生活の違いを感じることの方が重要であると思うのである。
ゲームの思い出も良いが、時代の思い出が無いのは悲しいと思うのである。

2016年6月20日月曜日

追憶 1379

次にRの発する言葉は予想できる。

”望遠鏡が(で)観たい”

であろう。
まだ、離れているが、Rは望遠鏡を隈(くま)なく触っていた。
わたしたちが近付くと、Rは満面の笑みで「これ(望遠鏡)が観たい」と言った。
予想通りである。
見ると、100円と書かれていた。
それで何分間か使えるのだろう。
どこにでもある普通の光景である。
わたしはRを諭した。
目で観て、耳で触れて、肌で感じて、心で受け取れば良い…と。
しかし、Rは納得しなかった。
どうしても、100円を出して望遠鏡が使いたいというのである。
普通ならば、わたしの言葉が理解できないのは、子どもだからだと考えるだろう。
知能の未発達によって理解すること、受け入れることができないと…
しかし、本当にそうであろうか?
子どもだからといってわたしの言葉が理解できないのだろうか?
価値観の凝り固まった大人には難しいことかも知れないが、子どもには容易であると思うのである。
Rにはきっと、わたしの言葉の意味がある程度は分かっているだろう。
しかし、それよりも強力な価値観が存在しているのだ。

2016年6月19日日曜日

追憶 1378

自分の人生を他人のせいにするのは間違っている。
周囲の人間はわたしに対して良い教育をしてくれていたかも知れない。
しかし、それに気が付けない弱さが自分の中に存在している。
未だに気が付けないでいるのは、わたしの弱さか、圧倒的な反面教師としての教育を受けたからであろう。
成人に判断することが難しいのであれば、子どもでは尚更である。
人間には、教師としての教育と反面教師としての教育が必要だと思う。
作用と反作用のどちらかが欠けても、バランスは崩れてしまうのである。
わたしは今回、わたしの中では教師的だと思える教育をしようと考えた。
それは、Rの状態とHとYの教育を客観視した上で導き出した判断である。
しかし、それがRにとってどうなのかは分からない。
皆、そうであろうが、自分が正しいと思うことをするのである。
わたしはわたしの考える正しいことをする。
そう心に決めた。

2016年6月18日土曜日

追憶 1377

今のRには、両親の言動を教師とするか?反面教師とするか?を判断することはできないだろう。
両親の言動のすべてが、Rにとっては教師としての教育と”なる”のである。
それは、子どもが疑問に思うことであったとしても、大抵の両親は自分の主張を押し通すことによってそれを教育という形で正当化するからである。
もちろん、わたしはこれを悪いことだとは思わない。
そのような方法しか用いることができないからだ。
それに、反作用が存在しなければ、作用も存在しないからである。
弓は弦(げん)を引かなければ、矢を放つことはできない。
強く引く程に矢は遠く、真っ直ぐに飛ぶであろう。
両親や周囲の人間の(多くの場合悪意の無い)歪んだ教育のおかげでわたしは苦悩し、少しでもまともな人間になれたように思える。
彼等が正しい教育を施していたのであれば、わたしは苦悩を受けることも無かったであろう。
そして、わたしの場合はいつまでも甘えていたかも知れないし、自分で考えることもしなかったのではないだろうか?



2016年6月17日金曜日

追憶 1376

それは、教育を受けるということである。
Rにとっては、両親という存在は教師となり、また反面教師ともなるだろう。
自分には無いものを学び、比較することによって成長していくことができるのではないだろうか?
ただ、反面教師としての側面に気が付かず、それを模範としてしまうことがある。
多くの人が多くの場合、そのような状態にあるのだ。
親の引いたレールに乗って生きる。
教えられた常識に沿って生きる。
周囲の目を気にして生きる。
本当にやりたいことを我慢して生きる。
(これ等とは反対の状態として現れることもある)
このような状態というのは、反面教師としての側面を反面教師的な学びであることに気が付かないことによって実現しているのである。

2016年6月16日木曜日

追憶 1375

Rはそのような家庭、両親を自ら選んで生まれて来たのではないだろうか?
生まれる前に自らの中指を寄付するような魂である。
(一つの側面として)HとYの抱える問題の解決に手を貸し、二人の成長を実現するために尽力する役割を持つ魂なのではないかと思うのである。
しかしながら、Rはまだ子どもである。
子どもはこの世界のことを知らない。
自力で生きていくことはできない。
それは、何かに影響されなければならないということである。
Rがどれだけ力のある魂であろうとも、肉体に入れば力をコントロールすることはできない。
天界?ではできていたことでも、地上ではできないのである。
RはHとYの子どもとして生まれた。
それは、HとYに従わなければならないということなのである。

2016年6月15日水曜日

追憶 1374

そのような観点から、HとYは魂の段階としては”若い”と考えるのである。
HとYは、魂として同じ段階にあるために結婚したのであろう。
もちろん、それだけの理由ではないと思う。
しかしながら、最も大きな理由はそこにあるのではないかと思えるのである。
例えば、金儲けが好きな段階の魂は、金儲けに興味のない段階の魂とは一緒にいられないだろう。
それは、財産に価値観を見出す若人(わこうど)と、財産以外のものに価値観を見出す老人が一緒にいることが難しいのに似ている。
Yは酒、タバコ、パチンコ、借金、複雑な家庭…
わたしから見れば、問題を抱えている人である。
それが悪いと言っているのではない。
そのような問題に向き合わなければならない段階の魂であるということである。

2016年6月14日火曜日

追憶 1373

思春期の人間の選択肢は、思春期特有のものに傾倒する。
価値観、興味関心、思考法、感情処理、行動パターン…
思春期の人間には共通点があるだろう。
それが、肉体的な段階ならば一貫性は乏しい。
十代でも二十代、三十代のような考えや生き方を持つ人もいる。
しかし、それが精神的な段階、魂の段階ならば一貫していると言えるのだ。
何歳になっても愚かな人間がいる。
子どもや年下の立場から見ても、哀(あわ)れに思える”大人”がいるだろう。
そのような人間は、肉体的には成長していたとしても、精神的には幼いままであると言えるのである。
肉体的な見た目、地位や財産に惑わされずに観察すれば、その人が魂の段階としどのような位置付けにあるのかを知ることもできるだろう。

2016年6月13日月曜日

追憶 1372

人それぞれに価値観が違うのは自然である。
それは、生後(人生、地球、物質、現次元)に形成される精神的、肉体的な経験値が違うこともあるが、生前(前世、天界、意識、別次元)に形成される魂の段階や魂の目的が違うことに原因があると思える。
例えば、若人と老人では、趣味嗜好(しゅみしゅこう)は全くと言って良いほどに異なる。
世代によって意見が違い、協力することが難しいのは、生後の精神的、肉体的な経験値の違いや、生前の魂の段階や目的に違いがあることによる選択肢の違いによるところが大きいと言えるのではないだろうか?
Rの両親であるHとYは、魂の段階としては”若い”ように思える。
そのため、選択肢には全体的な幼さを感じてしまう。
彼等の人生がそれを物語っているのである。
彼等の抱える問題や苦悩は、人間の一生として表現すれば、思春期までに経験するようなことばかりなのである。

2016年6月12日日曜日

追憶 1371

頂上には展望室を兼ねた駅があり、外には展望台が見える。
山頂にも関わらず、多くの人がいるのに違和感を覚えたが、その違和感の原因の一つが自分であることに口惜(くちお)しさを感じていた。
Rが駆ける。
小さくなる背中に対して、微笑ましさと他人に迷惑を掛けないようにとの思いを込めた。
ガラス越しに見るRの背中は、陽の光を受けて眩しく感じた。
わたしはH達と山頂に降り立った。
わたしたちはRの軌跡を辿って、望遠鏡が設置してある展望台に辿り着いた。
Rは既に望遠鏡に興味を抱いている。
子ども心は理解しているつもりだ。
わたしも子どもの頃には望遠鏡を覗きたかった。
しかし、わたしには解せないこともある。
それは、肉眼で見ることや肌で感じ取ることをする前に望遠鏡を使おうとしていることにである。

2016年6月11日土曜日

追憶 1370

小さなゴンドラを降りると、人の列があった。
大きなゴンドラに乗るために人数を集めているのである。
わたしたちの後ろに、新たな人の列ができた。
次から次に人を吐き出す小さなゴンドラは、食料を運ぶ働き蟻のように見えた。
時間になって、わたしたちは大きなゴンドラに詰め込まれた。
空調が稼働している気配はない。
季節は仲夏(ちゅうか)である。
わたしは長袖のシャツを着用していたが、湿気に対して心地の悪さを感じていた。
ゴンドラが動き出すと、少しだけ外気の流れるのを感じて、心地の悪さは少しだけ薄れた。
見下ろすと、大きな岩があちらこちらに見え隠れしている。
松柏(しょうはく)の緑によって、本来の姿を隠しているのだろう。
登山道を行けば、或(ある)いは巨石の足元に辿り着けるかもしれない。
自然石なのか、人工石なのか?わたしに判断することは難しいだろうが、直に触れてみたいと思いながら見送った。

2016年6月10日金曜日

追憶 1369

厳島神社に参拝して、山に登ることにした。
緩やかな山道の新緑を楽しみながら進むと、ロープウェイの施設があった。
子ども達を連れて登山するのは難しい。
今回は、簡単に頂上を目指そうと考えた。
ロープウェイは二つの区間に分かれていた。
初めの区間は、四人乗りくらいの小さなゴンドラであった。
わたしたちはそれに乗って上空からの眺めを楽しんだ。
しかし、Rは冷静に景色を眺めている。
景色には興味が無いようであった。
一つの区間が終わると、次は30人くらいが乗れる大型のゴンドラで頂上に向かうようである。

2016年6月9日木曜日

追憶 1368

Rが6歳になり、わたしは訳あってHとRと3歳の妹を連れて、広島県の厳島神社への一泊二日の小旅行を楽しんでいた。
事の発端は、Hがどこかに連れて行けというリクエストがあったからである。
彼女には息抜きが必要だったのだろう。
わたしは元々、Rと遊ぶ目的でHの家に泊まるつもりで着替えを準備していたこともあり、Hの思い付きをすぐに実行したのである。
わたしの目的は宮島の巨石群にあった。
空海の何たらかんたら…
そんなことはどうでも良い。
宮島の巨石群は古代文明の名残であると推測し、何かしらの発見があると踏んだのである。
Hは子ども達を連れて旅行に行きたい。
わたしは古代文明の調査(笑)がしたい。
互いの利害が一致したのである。
Rは、保育園帰りの急な展開に、驚きながらも大喜びであった。

2016年6月8日水曜日

追憶 1367

わたしには、Rの言葉が深いところから出たのではないかと思えた。
深いところというのは、思考よりも潜在的な何かからである。
それは、魂とでも言うのだろうか?
例えば、雲の上で中指を寄付したRから出た言葉のように感じたのだ。
何気無い言葉ではあるが、わたしの心にはそれが届いたのである。

「本当に…良い日だね」

わたしはRの輝く瞳に向かって言葉を返した。
わたしたちは満足して、覆い被さってくるような入道雲に思いを馳せた。

2016年6月7日火曜日

追憶 1366

様々なことを回想していると、Rが話し始めた。
わたしは揺れる葦の葉先を遠くに眺めながら、Rの話に耳で触れた。
Rはたどたどしく言葉を並べる。
四歳の子どもが語彙(ごい)に乏しいことなど分かっている。
わたしはRの心を理解しようと努めた。
彼は、今の気分をどうにか言葉にして、わたしに伝えたいようであった。

「今日は、良い日だね」

Rは空を見上げて言葉を紡いだ。
わたしは何かが胸を打つのを感じた。

2016年6月6日月曜日

追憶 1365

わたしたちは、浅瀬に作られたコンクリート製の砂防に腰を下ろした。
コップにお茶を注ぎ、Rに手渡した。
それを一気に流し込むと、わざとらしく大きく息をして見せた。
わたしもそれを真似て、お茶を飲み終わると大きく息をして見せた。
わたしたちは笑い合い、お菓子を分け合った。

川面を撫(な)でる風が青々と茂る葦(あし)の群生を揺らす。
足首から体温を奪われる心地好さは、文明の利器など及ばなかった。
隣に座るRは、足で水を蹴っている。
わたしは幸せを感じながら、Rが生まれる前のことを一人で回想していた。

2016年6月5日日曜日

追憶 1364

ある日、わたし達は二人だけで近所の川へ泳ぎに行った。
遠くには大きな入道雲があったが、頭上には晴れ渡る青空が広がった暑い日だった。
わたしたちは虫取り網と虫かご、お菓子と水筒をぶら下げて、川へと向かった。
トンボを追い掛けながら田んぼの畦道(あぜみち)を越え、住宅街を抜けると川に到着した。
わたしたちは貸し切りの川遊びを楽しんだ。
わたしはRのおかげで、童心に帰ったようで嬉しかった。
唸(うな)るような暑さも、川の水には無意味である。
わたしたちは水を散らして魚を追い掛けた。
しばらく遊び、疲れたので休むことにした。

2016年6月4日土曜日

追憶 1363

わたしはHのお腹の中でRと交わした約束を忘れていない。
Rは人生で学びたいと主張した。
わたしは未熟者であるが、それでも何か伝えられることがあればそうしたいと思っている。
そして、Rに教えて欲しいとも思っている。
Rは不思議なところがある子どもであった。

彼が4歳になった頃、良く霊体験を話してくれた。
それも、かなり具体的な内容で話をする。
質問しても、彼なりに真剣に答えている様子を見ても、虚言には思えなかった。
初めは、幼児特有の空想かと疑ったが、Rの主張するようにその霊はいた。
わたしはRから話を聞く度に、霊を光へと導いた。
Rはわたしを使って”仕事”をしているのではないかと思える。

2016年6月3日金曜日

追憶 1362

しばらくして、短い文章が返った。
そこには、手術中であることに加えて、感謝の気持ちが書かれていた。
励(はげ)ましの言葉を送り、わたしは仕事に戻った。

Rの手術は無事に成功した。
それと同じように、Hの心にも変化が現れていた。
彼女は自分を責めることをやめていた。
自分のせいでRが中指を失ったのではないことを知って、自責の念は消え去ったのである。
Rは自分の意思によって、自分よりも困っている誰かに中指をプレゼントしたのだ。
今まではこれを誇りに思わずに、恥と思っていたのである。
全く逆の考えによって、本来とは全く逆の結果を得ていた。
しかし、今は正しい考えてを所有している。
そのため、結果は以前とは逆のものとなって導かれたのである。
今、Hは中指の無いRを誇りに思っている。

2016年6月2日木曜日

追憶 1361

わたしはすぐに携帯電話を取り出した。
船のエンジンを止め、波の赴(おもむ)くままに任せた。
先程の体験(幻視)を忘れないうちに文章化し、それを送ろうと思ったのである。
Rの中指のことで、Hも家族も苦しんでいる。
理由を知れば、幾らか苦しみは取り除けるはずだ。
なぜなら、苦しみとは誤解から生じているからである。
原因を知れば誤解は解け、正しく認識することができる。
そうすることで物事を前向きに考えることができるようになるのだ。
出来る限り簡潔(かんけつ)に文章をまとめ、素早く送信した。

2016年6月1日水曜日

追憶 1360

船のエンジン音を煩(わずら)わしく思い、水を切る音が鮮明に聞こえた。
わたしは戻っていた。
日差しが身体を焼き、額に滲(にじ)む汗を海風が抑えた。
少しだけぼんやりと考えたのは、先程の光景についてである。
わたしには、中指を寄付した赤ちゃんがRだと確信していた。
根拠は、Rの肉体に中指が無いことである。
それ以外はただの直感に過ぎない。
奇(く)しくもその日は、Yの手術日であった。