このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2019年5月31日金曜日

追憶 2427

自我意識は、歪(いびつ)な形をしている。
それは、生まれる前からの形である。
人は、歪んだ自我意識を整えるために生まれるのだ。
そのことを理解しなければならないだろう。
しかしながら、多くの人は苦しみを避け、自分にとって都合の良い状態を願っている。
それは、自我意識にとって都合の良い状態を実現するのである。
歪な形をしている自我意識を整えるためには、苦しみを与えなければならない。
打つことによって、石や木は角を落とす。
それは、石や木にとって都合の良いことではないが、石や木の形を整えるのである。

2019年5月30日木曜日

追憶 2426

自我意識を整えることが、人生における最善であるだろう。
苦しいことばかりでは、自我意識を攻撃し過ぎてしまう。
それでは、自我意識は砕けてしまうのである。
それでは、精神に異常を来してしまうだろう。
目的は、自我意識を整えることであり、否定や破壊ではないのである。
それは、石や木などの素材を、ある形に整形するようなことなのだ。

2019年5月29日水曜日

追憶 2425

彼は、腰の痛みや不自由な状態に耐えることが出来ずにわたしを訪(たず)ねた。
それは、"普通"の行為であるが、この世の"普通"とは、自我意識の導きなのである。
苦しみから逃れることは、最善の選択であるとは言えないであろう。
なぜなら、人は苦しみから学ぶことの方が多いからである。
喜びから学ぶこともあるが、苦しみから学ぶことの方が多いだろう。
なぜなら、喜びとは、自我意識を喜ばせる状況であり、苦しみとは自我意識を苦しませる状況であるからだ。

2019年5月28日火曜日

追憶 2424

何かを失おうとすることも、自我意識がマイナスに偏(かたよ)っている状態であるだろう。
不健康な生活態度や、自傷行為や自殺願望などがそれに当たるであろう。
自我意識に従(したが)わずに生きることは、何を得ても、何を失っても構わないという心境を生きることである。
自我意識は、何かを得ようとするプラスの方向性と、現状維持や何かを失おうとするマイナスの方向性を抱えている頑固(がんこ)な意識だ。
一度偏ってしまえば、簡単には動かせない。
現状を受け入れることによって、人は、自我意識を手放すことが出来るが、頑固な意識の状態では、現状を受け入れるのは難しいことなのである。

2019年5月27日月曜日

追憶 2423

発見、気付き、恥、努力、改善、感動、感謝という工程は、現状を否定することである。
現状を否定するということは、変化を受け入れるということなのだ。
現状を否定し、変化を受け入れることは、自身を削られるということである。
自我意識は、それを恐れている。
自我意識に従っている人は、何かを失うことを恐れる。
現状維持や、向上発展こそが恐怖を退ける方法だと考えるのだ。
これは、自我意識がプラスに偏(かたよ)っている状態のことである。
自我意識がマイナスに偏っている場合には、何かを得ることを恐れるという状態を得るだろう。

2019年5月26日日曜日

追憶 2422

良心は出来るだけ手放した方が良い。
他者や他の生命のことは、優先しない方が良い。
他者や社会に貢献(こうけん)するように装(よそお)う方が良い。
無理をして競争し、奪い合う方が良い。
出来るだけ多くを手に入れる方が良い。
自我意識は、そのように訴(うった)え続けているのである。
自我意識の本質は、恐怖である。
自我意識に従うというのは、自らの内に巣食う恐怖に従わなければならないということだ。
自我意識は、恐怖によって自分を守ろうとするのである。
多くを集め、多くを所有しなければ、恐怖心が満たされることはない。
万全の体制を整えなければ、自我意識は満足しないのである。

2019年5月25日土曜日

追憶 2421

自我意識の介入の痕跡(こんせき)と、その存在は、目を凝(こ)らせば見付かるが、目を凝らさなければ見付からないのである。
多くの人は、目を凝らすことがない。
細かいところまで見ようとは思わないのである。
なぜなら、それが楽であるし、先に進んでいるように思えるからだ。
石橋を叩いて渡るようなことは、今日の利益追求型の社会においては難しいことなのである。
ある種の利益(経済的な利益や、快楽や欲望を貪ることの出来る状態)を得るために都合の良い状態が好まれる。
ある種の利益を得るためには、自我意識に従って生きることが都合良いということなのだ。

2019年5月24日金曜日

追憶 2420

それは、自我意識が自身を削られることを嫌うからである。
自我意識も、独自の意識によって存在している。
すべての人は、自我意識という別の人格と共に生きているのである。
多くの人は、自分自身で考え、行っているように思っているが、大抵の選択に自我意識が介入(かいにゅう)している。
それは、とても自然な介入なので、気が付くことは難しい。
自我意識の介入に気が付くためには、自分自身を疑わなければならない。
それは、森の中で、擬態(ぎたい)している昆虫や動物を見付け出すようなものなのである。

2019年5月23日木曜日

追憶 2419

この工程を経なければ、人は成長を実現することは出来ない。
成長を実現することがなければ、人生の目的を果たすことは出来ないのである。
人生の目的は、人それぞれに異なるものであるが、それを果たすには成長する必要があるという一点においては同じなのである。
成長を実現することがなければ、人生の目的を果たすことは出来ない。
歪んだ自我意識を抱えたままでは、人生の目的を果たすことは出来ないのである。
苦しみによって自我意識は整えられるが、大抵の人は苦しみから逃れてしまう。

2019年5月22日水曜日

追憶 2418

病に会うことで苦しむのは、そのような価値観や考え方を克服(こくふく)するためである。
病に会う度に苦しんでいるのであれば、精神の歪みを取り除くことは出来ないのだ。
なぜなら、苦しみとは、学びの放棄であるからである。
真剣に学んでいるのであれば、苦しみという状態にとどまってなどいないのである。
苦しみとは、第一印象に過ぎない。
学びを少しでも突き詰めるのであれば、何かを学び取ることが出来る。
そこには、発見、気付き、恥、努力、改善、感動、感謝という工程が存在するのである。

2019年5月21日火曜日

追憶 2417

病とは、歪んだ精神への処方箋(しょほうせん)である。
人は、誰もが精神を歪めているために、病に会う。
すべての人は未熟に生まれる。
それは、すべての人が病を避けることが出来ないということなのである。
人は、病によって苦悩するが、それは必要なことなのである。
人は、病によって苦悩しなければならないのだ。
なぜなら、病によって苦悩することしか出来ないからである。
多くの人は、病によって苦悩を選択するような価値観や考え方を所有しているということなのだ。

2019年5月20日月曜日

追憶 2416

霊体が傷付けば、肉体も傷付く。
霊体と肉体は繋がっているのである。
肉体は肉体だけで存在している訳ではない。
肉体は、霊体と重なって存在しているのだ。
それは、肉体に精神が宿っているようなものである。
肉体に精神が宿っていることを否定する人は恐らくはいないであろう。
精神とは、霊体の働きのことである。
精神的なストレスで、胃に穴が開いたり、体調不良が引き起こされる。
病というものは、精神の歪みによって引き起こされると言っても過言ではないだろう。
精神が健全である人は、病に苦しむことはないのである。
病に会う人は、何かしらの精神の歪みを抱えているということなのだ。

2019年5月19日日曜日

追憶 2415

彼の腰に手を触れながら、わたしは再びゲップを繰り返した。
やがて、腰を覆(おお)っていた黒いものが消えると、刀のようなものが突き刺さっているのが見えた。
もちろん、これは霊的な刀であり、肉眼で確認することは出来ないものである。
それは、根元の方まで深く差し込まれていた。
見ているだけで痛々しい状態であった。
腰の痛みを引き起こしている要因の一つは、この刀に違いないだろう。
どのような理由で、刀が彼の腰に突き刺さっているかは分からないが、刀は彼の霊体の腰の部分を傷付けているのである。

2019年5月18日土曜日

追憶 2414

彼がどのような人物なのか?わたしには分からないが、自我意識がマイナスに偏(かたよ)っているのではないかと思える。
もちろん、人である以上は、傲慢(ごうまん)さも抱えていることだろう。
どちらにしても、彼は歪んだ自我意識を整えなければならないのである。
そのための腰の痛みであることは間違いないであろう。

彼の中から黒いものを吐き出すと、腰に手が伸びた。
彼の腰に触れると、わたしの腰にも鋭(するど)い痛みが走った。
そして、再び気分が悪くなるのである。

2019年5月17日金曜日

追憶 2413

一見すると、彼は気の優しい温和な性格の人である。
優しいからといって、人格が優れているとは限らない。
気の弱さや卑屈(ひくつ)や自己憐憫(じこれんびん)を抱えているからこそ、優しく見えているだけであるかも知れないのである。
自我意識は、何も"プラス"に偏(かたよ)る訳ではない。
自我意識は、"マイナス"にも偏るのである。
自我意識がプラスに偏れば、傲慢(ごうまん)や利己主義という現れ方をするであろう。
マイナスに偏れば、卑屈や事勿(ことなか)れ主義という現れ方をするのである。

2019年5月16日木曜日

追憶 2412

ゲップを繰り返すことによって、吐き気が少しずつ弱まっていく。
それに伴(ともな)って、彼を覆う黒い影が薄れていく。
わたしは、黒い影が薄れたことによって、彼が黒い影に覆われていたことに気が付いた。
一目で黒い影に覆われている人も多いが、彼の場合は気が付かない程に薄く覆われていたようである。
黒い影は薄いにも関わらず、不思議な程にゲップの量は多い。
わたしは、この矛盾には何か強いメッセージが込められているのではないかと考えた。

2019年5月15日水曜日

追憶 2411

問題によって当たり前は崩壊する。
当たり前の崩壊に伴(ともな)って、自我意識や価値観も変化するのである。
それは、より良い変化であるだろう。
しかしながら、多くの人はそのことを受け入れることが出来ない。
当たり前を良いものだと思い込んでいるからだ。
残念ながら、当たり前は決して良いものではない。
それは、末梢的(まっしょうてき)だからである。
当たり前に対する美化を手放せば、変化によってより本質的な状態へと近付いたということが理解出来るであろう。
彼は腰を痛めることによって、自らの傲慢(ごうまん)に気が付くことが出来るはずだ。
そして、それを手放すことによって、より本質的な人格を手にすることが出来るはずなのである。



2019年5月14日火曜日

追憶 2410

当たり前と共に、大きな衝撃を受けて自我意識も崩れる。
それは、山中の大木が倒れるようなものであろう。
倒れた大木は、動物や昆虫の住処(すみか)や食料となる。
そして、やがて朽(く)ち、茸(きのこ)や新たな樹木の苗床となるのだ。
そこには、大木という形は存在しないが、多くの命を支える"柱"としての形が与えられるのである。
大木という形が崩れることで、多くの命を支える"柱"としての形を得たのだ。



2019年5月13日月曜日

追憶 2409

当たり前は簡単に崩れ去ってしまう。
一度崩れ去ってしまった当たり前には、もう二度と戻ることはない。
どのように切望しても、どのように努めても、それを再び手に入れることは出来ないのである。
どのようなことも、崩れ去ってしまったところから新たに始めなければならないのだ。
取り戻そうとするのではなく、新たに手に入れようとしなければならないだろう。
それは、当たり前と一緒に、自我意識も形を変えているからである。

2019年5月12日日曜日

追憶 2408

当たり前のことが当たり前に行えないのは、誰にとっても辛いことであろう。
更に、彼には妻子がいるようである。
仕事をしなければならないし、妻子を支えなければならない立場にもある。
それが余計に辛いのであろう。
腰を痛めるだけで、彼は当たり前を奪われてしまった。
当たり前というものは、脆(もろ)く儚(はかな)いものである。

2019年5月11日土曜日

追憶 2407

彼は、20代後半から30代前半くらいの歳に思える。
彼が腰を痛めたのは、彼の中の傲慢(ごうまん)を削り落とすためである。
腰を痛めることによって、自力では何も出来ないという状況を学ぶのだ。
彼にとっては当たり前の歩くということすら、今は自力では行うことが出来ないのである。
立つことすら難しい状況に追い込まれることで、彼は強制的に人に助けてもらわなければならない状況に置かれる。
それは、屈辱(くつじょく)なのである。



2019年5月10日金曜日

追憶 2406

人は、老化に伴(ともな)って自我意識が薄れていくのが自然である。
自然に従えば、人は徐々に"丸く"なるのだ。
不自然な人は、歳を重ねても自我意識の勢いが収まらず、余計に偏屈(へんくつ)になっていく。
そのような人物は、人生における様々な問題に対して、自己を正当化してきたのであろう。
"普通"、導かれる問題は、自我意識の"角(かど)"を削る。
問題によって角が取れるから丸くなるのである。
歳を重ねる程に自我意識が弱まるのは、それだけ問題を経験したからなのである。

2019年5月9日木曜日

追憶 2405

すべての人が、この世界を経験するに従って汚れを増す。
それは、山を登り、山頂へ到達した後に下るような汚れ方をする。
その曲線は、自我意識の盛衰(せいすい)に等しいだろう。
どのような人物であろうとも、自我意識を抱えて生まれる。
それが汚れの本質であるともいえるのではないだろうか?
自我意識とは、利己的な意識であり、破滅的な性質のものである。
その本質は恐怖である。
恐怖によって、人は利己的となり、不満や不安を覚えるのだ。
自我意識は、生まれてから徐々にその勢いを増す。
人によって異なるが、その勢いが頂点に達したところから衰(おとろ)え始める。



2019年5月8日水曜日

追憶 2404

どのように誠実な人も、汚れを離れることは出来ない。
美しければ、この世界に生まれることは出来ないのである。
生まれたての赤子でさえ、汚れを抱えている。
わたしは様々な乳幼児に会ったが、皆それぞれに汚れを抱えていた。
生まれたての赤子でさえそうなのだから、この世界に生きている大人の汚れは計り知れない。
大抵の人は、生きている間に汚れを増してしまうのである。

2019年5月7日火曜日

追憶 2403

これは、彼の抱える破滅的な意識である。
わたしには、それが黒く重たいものとして認識されるのだ。
それは、気持ち悪く、吐き気を誘う。
そして、濡れた衣服のようにへばり付いて離れない。
これがあると、思考や感情は簡単に乱れてしまうし、多く溜まると、怪我や病気や不仲や不運などといった様々な問題を引き起こしてしまう。
わたしを含(ふく)めたすべての人が、これを所有している。
わたしは今までに、破滅的な意識を所有していない人間に会ったことがない。
人間である以上、破滅的な意識を所有しなければならないのである。
なぜなら、すべての人が未熟に生まれるからだ。

2019年5月6日月曜日

追憶 2402

瞼(まぶた)を閉じて心を静める。
すると、導かれるように右手が彼の背中に伸びて、人差し指と中指を使って、文字のような線を描く。
それを直線で四角に囲うと金色の光を放つ。
光る文字に両手で触れると、吸い込まれるようにして彼の背中の中に消えた。
すると、気分が悪くなってくる。
吐き気にも似た感覚によって、ゲップが自然と出てくるのだ。
それは、続け様に出てくるので、呼吸をするのがいつも大変であった。
自分の意思ではゲップを食い止めることが出来ないのである。



2019年5月5日日曜日

追憶 2401

自力で歩くことの出来ない成人男子を運ぶのは大変なことである。
彼の腰の痛みも考慮(こうりょ)しなければならないからだ。
玄関から部屋に向かうと距離があるので、勝手口から入ることにした。
母親に彼の履物を玄関に運ぶように頼み、狭い勝手口から大人三人で入室した。
その後、父親も玄関へと向かった。
なんとか部屋に到着すると、彼を中央に座らせる。
座るといっても、真っ直ぐに座ることは出来ない。
匍匐前進(ほふくぜんしん)の第三匍匐のような姿勢で座るのが精一杯のようであった。
それ程に痛みが激しく、辛いものなのである。
わたしは挨拶(あいさつ)もそこそこに、仕事に取り掛かった。



2019年5月4日土曜日

追憶 2400

約束の時間になると、再びスマートフォンが鳴った。
彼女が息子を連れて到着したのだという。
わたしは、息子が自力で歩けないことを聞いていたので、手を貸そうとして表に出た。
すると、そこには両親に両脇を抱えられた息子が苦しそうに息をしながら、腰の痛みと闘っている姿があった。
彼はとても辛そうである。
わたしも、寝返りを打つのも難しい腰の痛みを何度も経験しているので、彼の痛みを他人事だとは思えなかった。
わたしは彼女と交代して、父親と共に息子を部屋まで運んだ。



2019年5月3日金曜日

追憶 2399

ある日、スマートフォンに呼ばれて画面を見ると、以前にわたしを訪ねてくれた人の名前があった。
応答すると、彼女は申し訳なさそうに話しを始めた。
聞くと、息子が腰を痛めて立ち上がることもままならず、仕事にも行けないから困っているのだという。
そこで、わたしに何かしらして欲しいということであった。
彼女に対して、わたしには他者の病や怪我を治す能力は与えられていないことを伝えたが、それでも会わせたいと言って譲らない。
出来れば今晩にでも会いたいというのである。
予定を確認すると空いている。
わたしには、彼の腰を治すことは出来ないが、何かしら手助けになれば良いと思って承諾(しょうだく)した。

2019年5月2日木曜日

追憶 2398

老女は、わたしが足の痛みを取り除いてくれるという期待を抱いているが、わたしには老女の足の痛みを取り除く力はない。
人生は、自分のものである。
老女の人生に対して、老女にどれだけ頼まれても、わたしには少しでも介入(かいにゅう)することは出来ない。
わたしがどれだけ自分の人生に対して、誰かに介入を頼んでも同じである。
老女は、自分自身の成長や因果によって、足の痛みを手放さなければならないのである。
一つ面白い体験を思い出したので記しておこう。



2019年5月1日水曜日

追憶 2397

老女は、足の痛みを手放すことは出来ない。
それは、何か深い理由なのであるが、そのことを老女は知らないのである。
わたしに出来ることは、老女に自らの足の痛みと共存するための価値観を植え付けることである。
老女の希望に沿(そ)って、足の痛みを取り除くことではない。
わたしが従うのは、老女の深いところに存在する何かに対してなのである。