このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年8月31日金曜日

追憶 2154

未知の可能性は、99%も存在しているのだ。
そのことを考えれば、小さな価値観の中で、小さな集団に属し、小さな世界を喜んでいる場合ではないと思えるのである。
わたし達が認識しているのは、全体のほんの一部に過ぎないだろう。
全体のほんの一部を知っていたとしても、全体のことを理解することは出来ない。
偉そうに振る舞う人がいるが、そのような人は何も知らないのである。
小さな世界を生きている人程、傲慢(ごうまん)に陥ってしまう。
"井の中の蛙大海を知らず"という言葉があるのだ。
わたし達は、井の中で偉そうに生きる蛙のようではならない。
大海を旅する鯨のようでなければならないのである。



2018年8月30日木曜日

追憶 2153

わたし達は、限られた選択肢の中から、無限の可能性を見出さなければならない。
それは、例えば、18色の絵の具を使って、この世界を描き出すようなことであろう。
人の認識することの出来る色の種類は、一般的に100〜150万色と言われており、特異な人であれば、1億色を認識することが出来るということだ。
つまり、多くの人は、1億色以上も存在している色の中から、数種類の色を使って世界を描き出していることになる。
色の組み合わせによっても、約1%の色で世界を描いているのだろう。
実際に存在する色は、人が認識することの出来る数を上回っているだろうから、わたし達は、1%以下の色で世界を描いていることになるはずである。
わたし達は、何も見えていないだろう。
何かを見えていると思い込んでいても、それは、全体の1%以下のことに過ぎないのである。





2018年8月29日水曜日

追憶 2152

様々な考え方があり、生き方があることによって、この世界には多様性が生まれる。
しかしながら、十人十色だとはいえ、人の考え方や生き方には限界がある。
誰とも異なる特殊な考え方や生き方をしている人はいないだろう。
特殊な考え方や生き方だと思うものも、少数派に過ぎない。
それは、教育によって制限されているからである。
もちろん、それは、人が共存するための自衛策でもあっただろう。
人は、助け合うことによって生き延びることが出来た。
協力しない者は、生存する可能性が低くなってしまうのである。
そのため、生き延びるために合理的な考え方や生き方が優先されるようになったのではないだろうか?
そして、それは多様性を乏しくしてしまう。
それは、霊的に成長するための機会を減らしてしまうのである。



2018年8月28日火曜日

追憶 2151

わたしは、贅沢(ぜいたく)な暮らしをして、気楽に長生きするために生まれたのではない。
わたしは、この世界の理(ことわり)を理解し、霊的に成長するために生まれたのである。
小さな集団に所属し、教えられたことを盲信(もうしん)しながらも、それに矛盾を感じるような生き方をするために生まれたのではないのだ。
天国には、良いことしか存在しないだろう。
地獄には、悪いことしか存在しないのではないだろうか?
しかしながら、この世界には、良いことと悪いことが同時に存在しているのである。
それを経験するために生まれたと、わたしには思えるのだ。
天国には、良い人しかいないだろうが、それでは学ぶことが出来ないこともあるのだろう。
地獄には、悪い人しかいないだろうが、やはり、学びは限られてしまうのであろう。



2018年8月27日月曜日

追憶 2150

残念ながら、宗教に所属し、宗教の”神”を信仰したところで、わたしは救われないだろう。
なぜなら、偏ってしまうからである。
わたしは、天使とも悪魔とも仲良くしたいのだ。
器量が許す範囲で、良いことも悪いことも含めて人生を楽しみたいのである。
人生に都合の良いことばかりだと退屈が生じてしまう。
人生が思い通りに展開すること程、詰まらないことはないだろう。
退屈程の苦しみをわたしは知らない。
人生は、良いことと悪いことが同時に存在するために面白いのである。
わたしは、パラダイスに住みたいとは思わない。
なぜなら、パラダイスが本当に良いところであるなら、わざわざこの世に生まれる必要はないからである。

2018年8月26日日曜日

追憶 2149

すべてを大切に思う気持ちが必要なのである。
それは、愛するということであろう。
偏りは、所有である。
確か、ゴータマの言葉であったように思うが、彼が好きと愛するの違いについての質問を受けた時に、"花を好きな人は摘んで持ち帰り、花を愛する人は摘むことも持ち帰ることもない"というような言葉を残してあるのをどこかで読んだ記憶がある。
うろ覚えなので、正確なことは分からないが、好きとは自分を満たす行為であり、愛するとは相手を満たす行為であることは間違いないのではないだろうか?
多くの人は、所有を目指している。
それは、全体から一部を剥離(はくり)しようとしているのである。


彼女達は、わたしを宗教に所属させることによって、全体から引き離そうとしているのである。

2018年8月25日土曜日

追憶 2148

この世界には、様々な考え方や信仰があって良いと思う。
しかしながら、偏ることで争いを生じさせることを目的としてはならないだろう。
争うことも良いだろうが、それでは面白くないのである。
目的は、理解を深めることだ。
現代は、科学や経済が幅を利かせている時代である。
多くの人達は、科学や経済を信仰することによって、”神”を軽んじるようになった。
"神は死んだ"と言った哲学者もいたが、わたし達人間にとっては、有神論と無神論の両方が大切であり、重要な考え方なのである。
”神”を信じなければならないが、科学や経済をも信じなければならない。
”神”を否定しなければならないが、科学や経済をも否定しなければならないのである。



2018年8月24日金曜日

追憶 2147

意見の異なる人は、同じものを別の視点から見ているに過ぎないだろう。
そのため、異なる意見というものは、異なる見方を示してくれる。
それは、理解を深めることに繋がるだろう。
良し悪しは別にして、何かを理解するためには、様々な角度からその対象を見詰める必要がある。
わたしは、霊や自然の神々や仏や天使に会うが、それを特別な出来事だとは思わない。
わたしは、有神論者(ゆうしんろんじゃ)にも、無神論者にも通用する説明が必要だと思っている。
”神”を信じていようと、”神”を信じていないとしても、人生を豊かに生きる方法があるはずだ。
”神”(宗教)を信仰しなければ人生を豊かに生きることは出来ないというのは間違っているし、”神”を否定することで人生を豊かに生きることが出来るとも思えないのである。



2018年8月23日木曜日

追憶 2146

残念ながら、人生には、意見の対立する複数の相手が現れる。
そのような人達は次々に現れ、決して後を絶たない。
それは、天から降り注ぐ雨を振り払うようなものである。
残念ながら、人には雨を振り払う力はない。
振り払おうとしても、その瞬間には濡れてしまっているのである。
人生には、意見の対立する相手が現れ、問題を引き起こし、壁を築き、苦悩を導く。
それを避けることは出来ないのである。
そのような人達を振り払おうとすれば、その行為が相手との間に争いを生じさせる。
それは、賢い選択ではないだろう。
そこで、離れて引き籠(こも)る選択に至るが、それも賢い選択ではないと思えるのだ。
意見の対立する相手からは、学ぶことが多い。
異なる性質であるために対立しているのである。
受け入れて学ぶことによって、それを天からの恵みとすることが出来るのだ。
その方が恐らくは賢いだろう。




2018年8月22日水曜日

2145

宗教(仏、先祖、教義)に縋(すが)る老女は、残念ながら幸せそうには見えない。
恐らく、老女は日常生活や人間関係に対して不安や不満を抱え、それから逃げ出して宗教への信仰へと辿り着いたのだろう。
彼女達も、きっと動機は同じだろう。
恐らくは、日常生活や人間関係に不安や不満を抱いて、宗教というパラダイスへと逃げ延(の)びたのだろう。
宗教という共同体の中では、恐らく皆が仲良くしているのだろう。
小さな世界で仲良くすることは決して難しいことではないからだ。
恐らくわたし達は、偏るために生まれたのではないだろう。
小さな世界で仲良く生きることは、良いことのように思えるが、人生というものを考えた時には、そこに矛盾を覚えてしまうのである。



2018年8月21日火曜日

追憶 2144

溺れている人が一人であれば良いが、助けるべき人は複数人である。
複数人を助けるためには、自分が助けようとしても無駄である。
溺れている人に対して、泳ぎ方(自力)を教える必要があるのだ。
宗教とは本来、そのようなものであったに違いないが、わたしには、今日の宗教が人を溺れさせているようにさえ思えるのである。
泳ぎ方を教えているように見えても、実状は出鱈目(でたらめ)なことを教えているのだ。
それは、机上で教えているに過ぎないだろう。
どれだけ頭に詰め込んだとしても、実際には役に立たないことが多い。
机上の理論と、実際の現象には、似ているようでも大きな隔たりが存在しているのである。
どれだけの知識を身に付けていても、自分の力で水をかかなければ、どのような人も溺れ死んでしまうのである。




2018年8月20日月曜日

追憶 2143

宗教の残念なところは、誰かを助けようとしてしまうところである。
誤解して欲しくはないが、わたしは誰かを助けてはいけないと言っているのではない。
助け方を疑問視しているのである。
泳ぎの達者な人でも、泳ぎで溺れている人を助けることは難しい。
溺れている人を泳いで助けに行くことは、最悪の場合、二人共が溺れ死んでしまうことにもなり兼ねないからである。
泳ぎに自信があるからといって、泳いで助けに行くことは賢い選択ではないように思えて仕方がないのである。
様々な要因が重なって、溺れている人を助けることが出来たとしても、二人目はより難しいだろう。
三人目は不可能に近いのではないだろうか?
そこには、知恵の働きは存在しないだろう。

2018年8月19日日曜日

追憶 2142

彼女達が自分を見失っていなければ、二度もわたしを訪ねて、執拗(しつよう)に勧誘することはないはずである。
それは、彼女達は思いやりのある優しい人達であるからだ。
本来、宗教に携わっている人には純粋な人が多いとわたしは思っている。
思いやりのある人だからこそ、誰かを助けようとするのである。
彼女達は、自分達の知っている最善の方法でわたしを助けようとしてくれていたのだろう。
様々な思惑はあるかも知れないが、根底には、そのような純粋な思いが存在しているのを感じるのである。




2018年8月18日土曜日

追憶 2141

狂気は、使命感や正義感を増大させる。
彼女達が、見ず知らずのわたしを何の約束も無しに尋ねて、自分達の信じる宗教に勧誘している様は、狂気に他ならないと思うのである。
しかも、わたしは彼女達を否定し、諭そうとしているのだ。
使命感や正義感が増大していなければ、彼女達はこのような大胆な行為に至ることはないだろう。
それは、自分を見失っているということだと思うのである。
彼女達も、老女も、宗教の教えに従うことで、自分を見失っている。
それは、自力を手放しているということなのである。
自分の身を守るのは自分である。
自分の人生を生きているのも自分であり、人生に豊かさを実現するのも自分なのである。



2018年8月17日金曜日

追憶 2140

”神”の救いがあると思い込むことによって、人は傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ってしまうのではないだろうか?
人を殺すことも、殺されることも、許しているのが戦争という状態だ。
恐らく、わたし達は命を軽んじてはならないのである。
それは、虫の命でさえ、軽んじることに心が痛むからだ。
命の重みを感じることが出来ないのは、狂気であるだろう。
”神”の救いがあると考えるから、何をしても許されるなどと思い上がってしまうのである。
宗教という狂気は、人を大胆にさせてしまう。
普段は温和な人も、狂気に触れると我を忘れてしまうだろう。
彼女達は、わたしの時間を不毛な勧誘によって奪っていることを知らない。
それは、彼女達が狂気に触れているからだろう。




2018年8月16日木曜日

追憶 2139

自分のことを自力で守ることは、自然な行為である。
彼女は、宗教の”神”を信仰していると思いながら、最終的には自力を信じていたのである。
そうでなければ、抵抗することなく、死を受け入れなければならなかったからだ。
死に対して抵抗することは、自然である。
それを否定するのは不自然であり、狂気としか思えないのだ。
例えば、戦争というのは狂気の現れである。
不自然な狂気こそが戦争を悪化させるのだ。
御国の為に死ぬことは自然な行為であろうか?
それを自然だと思わせるのが狂気なのである。
戦争を引き起こすのは、形の異なる宗教的な信仰心であり、狂気であるだろう。

2018年8月15日水曜日

追憶 2138

わたしには、わたしを勧誘してきた彼女達の煩(わずら)わしさも、老女のうんざりするような依存心も楽しめる。
しかしながら、他の人はそれを嫌い、邪険に扱うだろう。
それが、自然な反応である。
わたしは、ある意味で特殊であるだろう。
それは、宗教に携わっている人達の心理に興味があるからだ。
わたしはなぜ、人が熱心に宗教を信仰するのか?ということを知りたいのである。
しかしながら、多くの人には、そのような興味はないだろう。
宗教という狂気に従っている人達を、心の底では敬遠しているのである。
わたしはそれを悪いことだとは思わない。
それは、わたしが今日の宗教の在り方を不自然なものだと思うからである。
不自然を敬遠するのは、自然なことであるだろう。




2018年8月14日火曜日

追憶 2137

イエスやゴータマが実在していたかは、わたしには分からない。
宗教とは、後の人たちの作り上げた信仰体系であるために、後の人たちの願望や理想が盛り込まれているに違いないだろう。
そのため、宗教の教義や教典を鵜呑みにしてはならないと思うのである。
しかしながら、イエスやゴータマが実際していたのであれば、彼等は、”神”の純粋な道具であったのではないだろうか?
”神”とは、恐らく理(ことわり)のことだろう。
彼等は、理に従って生きたのではないかと思うのである。
しかしながら、宗教に携わっている人たちが、理に従っているようには思えない。
宗教に携わっている人たちは、ある種の狂気に従っているように思えて仕方がないのである。

2018年8月13日月曜日

追憶 2136

例えば、実際に”神”と対話することの出来る人がいたとして、その人が宗教を信仰するだろうか?
プロレーサーが、自動車教習所の教科書に従って、自動車を運転しているだろうか?
イエスは、キリスト教を作らなかったし、ゴータマも、仏教を作らなかった。
宗教を作ったのは、後の人たちなのである。
そこには、政治的な背景や、恐怖心が見え隠れするように思えて仕方がない。
例えば、イエスもゴータマも、偶像礼拝や贅沢を否定したのである。
彼等は、命や財産などに対する執着を捨て、”自分”をも捨てよと説いた。
しかしながら、今日の宗教の有り様は、どのようなものであろう?
それは、あなたの想像に任せることにしよう。

2018年8月12日日曜日

追憶 2135

知識だけを詰め込んだ人と、実践の中に身を置く人とでは、その知恵の質に雲泥(うんでい)の差がある。
知識だけを詰め込んだ人の知恵には、残念ながら命が宿っていない。
それは、知恵と呼ぶことも憚(はばか)られる代物であるだろう。
ただ並べただけの知識を知恵とは呼べないのである。
知恵とは、関連性のないように思える材料を組み上げて、新たな価値を生み出す力のことだ。
知識を得ただけでは、新たな価値を生み出すことは出来ないのである。
実践の中に身を置く人の知恵には、命が宿っている。
それは、力強く生きており、知恵と呼ぶに相応しいものだ。
実践の中に身を置く人は、様々な材料を組み上げて新たな価値を生み出すことが出来るのである。

2018年8月11日土曜日

追憶 2134

そのためには、輪廻という仕組みが必要なのである。
輪廻というものは、宗教的な概念であるが、わたしは宗教的な概念を否定しているのではない。
それに携わる人達の利己的な解釈と歪んだ行為を否定しているのである。
わたしは、輪廻を信じているが、それは宗教を通じて教わったからではない。
輪廻という概念は、宗教を通じてどこかで知ったものだろうが、知識を得た時点においては、わたしはそれを疑っているのである。
わたしは、自身の霊的な体験を通じて、知識に過ぎなかった輪廻という概念を実感し、それがこの世界の理(ことわり)の一部であると考えるようになった。
また、わたしの体験を通じて得た知識が、宗教の教えと通じることを発見することもある。
残念ながら、宗教に携わっている人に共感することは難しい。
それは、教科書で単なる知識を学んでいる人に過ぎないからだ。
それは、自動車の運転技術のことなら、教習所の教官よりも、プロレーサーに聞く方が優れていることと同じである。

2018年8月10日金曜日

追憶 2133

残念ながら、人生には良いことしか存在しない。
なぜなら、どのような経験も、人生の目的である成長へと繋がるからだ。
人間的な感覚で考えてしまえば、人生には悪いことが存在してしまう。
それは、人間的に都合の悪いことである。
例えば、誰かに殺されるという経験は、人間的に考えれば悪いことになってしまうだろう。
しかしながら、輪廻(りんね)を繰り返す魂として見れば、それすらも良い経験だと思えるのである。
残念ながら、人は愚かな存在である。
愚かであるために生まれなければならなかったのだ。
人は、愚かであるが故(ゆえ)に学び、成長しなければならないのだろう。





2018年8月9日木曜日

追憶 2132

そのため、宗教が追い求めている”神”という存在は、残念ながら根源的な”神”ではないであろう。
宗教という限られた一部の思想に執着している時点において、それは全体の中の一部の何者かを信仰しているということなのである。
そのため、わたしは宗教を信仰することが出来ない。
わたしは、全体と一部を同時に信仰しているのである。
宗教に携わっている人達の価値観は、限られたもののように思えて仕方ないのだ。
それは、とても幼い認識に思えて仕方がない。
理想論が先行し、浮き足立っているようにしか見えないのだ。
現実には、多くの苦しみが存在している。
それは、苦しみという感情が、自分の未熟な認識の中に存在しているに過ぎないが、多くの人は、目の前の現実に苦しみが存在すると誤解しているのである。

2018年8月8日水曜日

追憶 2131

一部を全体と考えてしまえば、踏み誤ってしまうだろう。
全体を一部と考えても同じことである。
”神”という存在は、全体であり一部なのである。
わたしは”神”という存在を特別視してはいない。
それは、”神”という存在が自然だからである。
わたしは、不自然は特別視することは出来るかも知れないが、自然を特別視することは出来ないだろう。
それは、自然には気が付かないからである。
わたしにとっての”神”とは、例えば、心臓を動かしている不思議な力のことである。
心臓の鼓動は、とても不思議な現象ではあるが、大抵の人はそのことに気が付かないでいる。
大抵の人は、心臓の鼓動に対して、ごく自然に接しているのである。
心臓が動いているのは、考える程に不思議な現象であるにもかかわらず、多くの人はそれに何の疑問も抱かない。
それは、心臓の鼓動というものが一部であり、同時に全体であるからだろう。
命とは、個であり、全体であるということだ。
わたしには、”神”というものが、そのような存在だと思えるのである。



2018年8月7日火曜日

追憶 2130

物質的な視野だけで合理的に生きている人には、豊かな人生は得られない。
意識的な視野だけで理想的に生きている人も、豊かな人生は得られない。
心臓は、目には見えない不思議な力によって動いているのである。
物質的な心臓と、意識的な心臓が同時に存在することによって、心臓は鼓動しているのだ。
物質的な足があっても、歩くことは出来ない。
意識的な足が無ければ、足は萎(な)えたままなのである。
"頭"だけで豊かに生きることは出来ない。
心だけでも豊かに生きることは出来ないのだ。
宗教だけでも、物理学だけでも、経済だけでも、医学だけでも、文学だけでも、芸術だけでも豊かに生きることは出来ない。
わたし達は、様々な教育の柱によって支えられることで、豊かに生きることが出来るだろう。



2018年8月6日月曜日

追憶 2129

病を治すのは、自分自身である。
医療行為も”神”も、病を治すことはないのだ。
大切なのは、本質を見失わないことである。
人生というものを本質的に考えるのであれば、宗教との関わり方も変わってくるだろう。
人生を本質的に考えるのであれば、宗教というものに頼る必要がないと理解することが出来る。
宗教というものは、教育の一部に過ぎないのである。
宗教というものがすべてではない。
宗教というものを人生と考えず、宗教学としての認識にとどめておくのが良いだろう。
そうすれば、宗教が長い歴史を通じて培ってきた知恵を、人生を支える一つの柱として利用することが出来るのである。
人は、宗教だけを信仰して豊かに生きることは出来ない。
わたしの知る範囲では、宗教に携わっている人の人生ほど、豊かには見えないのである。



2018年8月5日日曜日

追憶 2128

楽な道を選ぶことは、決して悪いことではない。
しかしながら、それも過ぎれば、やがては自らの首を絞めることになるのだ。
自らの首を絞める前には、誰かの首を絞めなければならないのである。
多くの人は、豊かな生活のために、自然環境の首を絞めている。
自然環境を破壊すれば、生活は成り立たないのである。
”神”に救いを求めることは、楽な道である。
悪事を働いても、”神”が救ってくれるのであれば、こんなに都合の良い話はないだろう。
”神”の救いが存在する、因果の存在しない世界を生きることはとても楽なのである。
しかしながら、そのような世界は存在しない。
それは、妄想(もうそう)の中だけに存在しているのである。
因果を無視する人達は、病を薬や手術などの医療行為で治せると考えている。
一時的に症状を和らげることは出来るかも知れないが、薬や手術などの医療行為などでは、病を完治することは出来ないのである。
そのような楽な方法などあるはずがない。
自分に都合の良いことなど、この世界に存在するはずがないのである。

2018年8月4日土曜日

追憶 2127

癌(がん)や糖尿病などの現代病を始め、精神疾患(せいしんしっかん)や奇形児の出産率の背景にも、欲に従って楽を求めるという考え方があると、わたしは考えている。
例えば、病は自分自身の考え方や行為の修正のために導かれる。
人は、病によって苦しむことで、自分自身を改善しなければならない。
病というものは、決して悪いものではないし、意味や価値の無いものでもないのである。
人は、病を経験することによって、自分自身の歪みに気が付き、より良い人格を築くのである。
病の目的は、人格の修繕なのだ。
それは、決して楽な方法ではない。
人は自分自身の愚(おろ)かさを認めることが難しいのである。



2018年8月3日金曜日

追憶 2126

人が楽をして金を稼ぎたいという欲は、人力を工業化し、更にそれをIT化へと変化させ、更にはAI化へと歩を進める道筋を構築した。
それは、より楽で、効率的であり、合理的な道を選択した結果である。
その結果、金持ちの割合は増えた。
一部の人は、以前にも増して贅沢に暮らせるようになったのである。
今日の日本では、世界的に見て、貧しい生活をしている人の割合は少ないだろう。
お金や時間の自由が少ないという問題を抱える人は多いだろうが、自らが拒絶しない限りは、誰もがある程度の文化的な生活を送ることが出来るのである。
それは、とても恵まれたことであろう。
しかしながら、その一方で、多くの人が豊かさを奪われたのも事実であるだろう。
多くの人が、自然と共存する豊かな人生を失い、不自然と共存する乏しさの中で生きることになってしまったのである。
それは、人が欲に従ってより楽に、効率的、合理的に自然から奪い取るようになったからである。
人が楽を求めることによって、自然環境は悲鳴を上げているのだ。
全人類が楽に生きるためには、地球がいくつ必要だろうか?
どれだけの自然環境を破壊しなければならないか?ということを考えなければならないだろう。

2018年8月2日木曜日

追憶 2125

人は、地道に一歩一歩を踏み締めなければならないのである。
わたしが小学生の時には、車での送迎がとても嬉しかった。
車での送迎を体験すると、徒歩で登下校することを辛く感じてしまう。
それは、欲が出るからだ。
現代社会においては、楽(効率的、合理的)を美徳としたい人が多いようである。
どこを見ても、楽をして金を稼ぐことを勧める怪しい広告ばかりである。
多くの人は、金持ちに憧れる。
多くの人は、贅沢に暮らしたいのである。
金持ちに成る為には、多くの場合、不労所得を得なければならないだろう。
時給や月給という考え方で、時間や労力をお金に変えている(勤労所得)のであれば、いつまで経っても金持ちには成れないのである。
残念ながら、不労所得を得なければ、金持ちには成れないのだ。
もちろん、金持ちにも多くの苦労はあるだろうが、それは、楽(効率的、合理的な仕事法)な道であるだろう。

2018年8月1日水曜日

追憶 2124

不平不満や嘆(なげ)くことをやめた時、あなたは救われる。
それは、自力によって他力に働き掛けることで、人は自分を救うのである。
人は、”神”にではなく、自分自身や他者に救われると考えておいた方が良いだろう。
それは、自力と他力を無視して、”神”に救いを求めるような発想は、特別な力に頼るような現実離れの期待に行き着いてしまう可能性があるからである。
人が特別な力に頼る時には、自力や他力を軽んじてしまうだろう。
それは、一部の信仰宗教のように、反社会勢力として世に仇(あだ)なす結果になり兼ねないのである。
人は、自力や他力を軽んじることによって、自分自身や他者の良心に耳を傾けなくなってしまうのだ。
残念ながら、人生における救いというのは、地道な努力の積み重ねのことである。
イソップ寓話(ぐうわ)に、"うさぎとかめ"や"蟻とキリギリス"という話があるが、それを時代に沿わない古い話だと切り捨ててはいけないだろう。