このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年10月31日火曜日

追憶 1850

大切なのは、当たり前の日常に対して、唯心論と唯物論を同時に持ち込むことである。
すべてを唯心論的に捉え、同時にすべてを唯物論的に捉えるのである。
例えば、日本においては、”物を大切にする”という思想がある。
これは、とても大切な思想であると思える。
物を大切にするということは、唯心論的な価値観と、唯物論的な価値観の両方を必要とする。
物とは、物質である。
それを大切にするのは精神の力である。
物を大切にするという思想によって、生活は美しくなる。
そこには、生活の形式美というものが導かれるのだ。

2017年10月30日月曜日

追憶 1849

唯心論に重点を置く人は、俗世間から離れようとする。
寺や山や特殊な場所に身や精神を置き、社会のルールや人間関係を離れて、不自然な生活を試みるのである。
当然、思想体系も偏(かたよ)る。
例えば、”神”の名を公言し、小さな世界の戒律(かいりつ)に縛られている。
それで可能性が広がるのであれば良いだろうが、大抵の場合は可能性を乏しくする。
なぜなら、結局は、誰かの決め付けを守っているだけであるからだ。
親の決め付けを守り続けた子どもは悲惨な人生を歩む。
世間では、反抗期が無いことを喜んでいる人もいるが、わたしには従順な”僕(しもべ)”を得て自尊心を保つことができた哀れな人が、愚かにも安心しているようにしか見えない。
唯心論に重点を置く人は、もう一度、この世界に生まれ落ちた意味を改める必要があると思うのである。

2017年10月29日日曜日

追憶 1848

それは、考え方や生き方にも反映されなければならない価値観であるだろう。
わたし達はこの世の富を得るためだけに生きてはならない。
財産を蓄え、子孫を繁栄させることだけに専念してはならないのである。
財産を蓄えることも、子孫を繁栄させることも良いが、この世の富を得るのが動機であるのならば、それは歪んだ結果を導くであろう。
大切なのは、この世においてあの世の富をも蓄えることなのである。
あの世の富とは、徳(とく)のことだ。
徳とは、この世においては見えない財産なのである。
見える財産を蓄えるのも良いが、見えない財産を蓄えることも忘れてはならないだろう。

2017年10月28日土曜日

追憶 1847

大切なのは、この世界が唯心論と唯物論によって支えられているということである。
肉体だけではただの肉塊に過ぎないし、霊体だけではただのエネルギーに過ぎない。
肉塊とエネルギーが互いに支え合うことによって、この世界に人の存在が許されるのである。
そのため、人は唯心論と唯物論の両方を大切にしなければならない。
肉体を肯定(こうてい)し、霊体は否定するという考えでは、世界が歪み、その捉え方は浅くなってしまうのである。
水の底を見るためには、水面が揺れていてはならないのである。
唯心論か唯物論のどちらかのみを信仰している人には、物事の本質を見極めることはできないのである。


2017年10月27日金曜日

追憶 1846

霊的な力(唯心論)から目を背ける時、人は唯物論を捕らえる。
唯心論も唯物論も、世界の捉え方に過ぎない。
それは、物理学と量子力学の違いのようなものであるだろう。
どちらも、同じ世界を捕らえているが、見え方には大きな違いが現れる。
心臓も霊的な力が働かなければ動くことはないが、それを認めようとはしない。
現時点において、分からないことは分からないし、理解できないことは理解できないのである。
しかしながら、唯心論と唯物論に二分された人たちは、自らの信じる理論によって世界を断言しようとしているのだ。

2017年10月26日木曜日

追憶 1845

すべてにおいて、霊的な力は本質であると思える。
霊的という言葉でなくても良いが、不思議な力によってすべてが活動しているのは事実である。
アインシュタインは、物理法則の中に神聖な存在(神)を見出したのであろう。
わたしも、自分なりにすべての中に不思議な力を感じるのである。
それを神と呼んでも良いだろう。
考える程に、不思議な力は不思議さを増していく。
向き合う程に、その力に驚くのである。
しかしながら、多くの人はそれを気にしてはいない。
神など存在しないと考えている人も多いのである。

2017年10月25日水曜日

追憶 1844

合理的に設計された肉塊(にくかい)がどうやって生み出されたのかも不思議ではあるが、その動力の存在はより不可思議である。
死を受け入れた肉体は、横たわる肉塊に過ぎない。
何が肉塊に過ぎないものに熱を与え、肉体として活動させているのであろうか?
そして、何が肉体に人格という心を与えているのだろうか?
わたしには到底辿り着くことのできない答えであるだろう。
科学者に命を創造することができるだろうか?
未来のことは分からないが、現状においてはできないのではないだろうか?
霊的な働きを定義することはできないだろうが、その不思議な力を無視することはできないだろう。


2017年10月24日火曜日

追憶 1843

例えば、心というものは、大きく分けて感情と思考によって形成されていると思うが、感情と思考は霊的な働きであると思える。
どうすれば、水分、脂質、塩分、糖分、たんぱく質、カルシュウム…などの物質の塊(かたまり)に過ぎない人体が、感情と思考を生み出せるのだろう?
なぜ、同じ人体であるにもかかわらず、好みがこれ程までに甚(はなは)だしく分かれるのだろう?
人体的な構造には、それ程の違いはないと思える。
しかしながら、人の個性には大きな違いがあるように思えるのだ。

2017年10月23日月曜日

追憶 1842

以前のわたしがそうであったように、友人も同じように霊的な存在に対する歪んだ教育を受けているはずだ。
誤解を招くと、その後が拗(こじ)れて面倒なことになってしまう。
それは、人の人生を観察した時には、霊的な要素が必要不可欠であるからだ。
残念ながら、人生を真剣に考える時には、霊的な要素を無視することはできない。
例えば、アインシュタインは20世紀を代表する理論物理学者であるが、彼は神の存在を信じていたようだ。
科学者だろうが、経営者だろうが、主婦であろうが、本質を目指す人は霊的な要素を必要とする。
霊的な要素を無視すれば、決して本質には辿り着けない。
それは、すべての本質が霊的な要素であるからだ。

2017年10月22日日曜日

追憶 1841

最も多い誤解が、霊的なものが恐ろしいという誤解である。
表面的に見れば、それは恐ろしいものとして映るだろう。
それは、幼い頃からの教育が、霊的な存在や現象を恐ろしいものとしていることに由来している。
多くの人は視聴率を稼ぐために制作されたテレビ番組を観ている。
視聴率を稼ぐためには、過激な表現を必要とするが、それが過剰な演出として視聴者の感情に誤解を与える。
そして、認識の浅い自称霊能力者達は、無知や愚かさや地位や名声や財産のために、霊的な存在を利用して恐怖を煽(あお)る。
その教育を受けた親は恐れを抱き、態度や言葉によって子に再教育を行う。
そのような環境で育った人間は、霊的なものを特別視することによって、誤解に陥(おちい)るのである。

2017年10月21日土曜日

追憶 1840

考えも無しに霊的な話をすることはできない。
それは、どのような話でも同じことではあるが、人にはそれぞれに許容があるからだ。
人は、受け入れることのできない話は拒絶するのである。
拒絶されると、話が拗(こじ)れてしまう。
それは、可能性を得ることを否定することに等しい。
一度、拒絶された話を続けるのは難しい。
それは、人が簡単には態度を変えることができないからである。
そのため、霊的な話は慎重に進めなければならない。
それは、勝手な誤解をされることが多いからである。

2017年10月20日金曜日

追憶 1839

後日、わたしは友人と会うために、友人の店に向かった。
駐車場に到着すると、わたしは老女のことを思い出していたが、それはポジティブな思い出となっていた。
友人はいつものように明るい笑顔で出迎えてくれた。
しかしながら、友人の雰囲気は以前よりも軽いものに感じられたが、それは、義理の母親への心配が不要になったことによるものだろう。
友人は義理の母親のことを大切に思っていたので、今回の葬儀によって肩の荷が下りたのではないだろうか?
わたしは益々、義理の母親(老女)が無事に旅立ったことを伝える必要があると感じた。

2017年10月19日木曜日

追憶 1838

わたしは、自分が経験したことを、それに関わる人達と共有したいと考える。
光の天秤は、その考えを現しているだろう。
そのため、わたしは老女と黒い人影達のことを友人に伝える必要があると考えていた。
友人はそんなことに関心を示さないかも知れないが、わたしには役に立つ学びであったのだ。
わたしに役に立つことは、きっと他人にも役に立つはずである。
役に立つかどうかは、役立たせるかどうかということだ。
情報をどのように扱うのかはその人次第ではあるが、情報を所有していることによって選択肢は広がる。
そのことを考えて、わたしは自分の体験を友人に伝えることにしたのである。


2017年10月18日水曜日

追憶 1837

老女と黒い人影達が生まれ変わり、新たな人生を生きるかは分からないが、もしもそうなれば、今回の人生の経験が役に立つはずである。
どのような形で役に立つかは分からないが、無駄な経験でないことは確かなことである。
その時は、過去世の記憶として、わたしとの経験も思い出すかも知れない。
そう考えると心が躍(おど)った。
しかしながら、わたしにはそれを確認する術は無い。
それは、それが他者の人生だからである。
だから、わたしは二度と会えないかも知れない老女と黒い人影達の幸福を願った。


2017年10月17日火曜日

追憶 1836

人生とは、過去世の成果である。
すべての人の魂には、過去世の経験値が蓄積されているのだ。
それを引き出すことができれば、人生に豊かさを導くことができるだろう。
しかしながら、多くの人はそれを引き出す術を知らない。
そのため、問題に捕まってしまうのである。
しかしながら、問題は悪いものではない。
問題は、あなたに魂の蓄えである過去世の経験値を思い出させようとしてのいるのだ。
そのため、すべての人は問題と向き合う必要がある。
問題こそが過去世の扉を開く鍵なのである。

2017年10月16日月曜日

追憶 1835

しかしながら、それはゼロからのスタートではない。
例えば、前世の体験や体系化した価値観は引き継がれる。
それは、記憶として反映されるようなものではないが、性格や関心などの特徴として所有するのである。
老女や黒い人影達は今回の人生において、どうすれば死後に炎に焼かれて苦しむのかを知った。
それは、次の人生に利用することができる財産として魂に蓄積される。
それを引き出せば良いのである。
しかしながら、銀行の口座にどれだけの預金があっても、それを知らなかったり、引き出さなければ得られないのである。

2017年10月15日日曜日

追憶 1834

死とは終わりである。
しかしながら、それは同時に始まりでもある。
すべての終わりは始まりに繋がっている。
それは、夜と昼が繋がっているようにである。
すべての始まりは、終わりによって導かれるのである。
そのため、現状を終わらせなければ、新たな可能性を得ることは出来ないのだ。
多くの人は存続を喜ぶが、同じ状態が続いてはならないのである。
生命は死を得る。
それは、新たな生を得るためである。
わたしは過去に死を得て、今に別の人生を得た。
今回のわたしは、松岡 真として生きているが、過去の人生においては別人として生きていたのである。
別人としてのわたしが死を得ることによって、新たな可能性として、松岡 真という人生が始まったのである。

2017年10月14日土曜日

追憶 1833

もちろん、霊的な存在であっても不自由な存在はいる。
老女や黒い人影達は不自由の中に存在していたのである。
わたしがいうのは、守護者や天使などの柵(しがらみ)を離れた存在のことである。
人は、感情的な柵の中に存在している。
そのために不自由なのである。
感情的な柵の中で生きるというのは、不自由の中に生きるということだ。
自由を得るためには、感情的な柵を手放さなければならないが、それは感情的な柵の中で死を得るということなのである。

2017年10月13日金曜日

追憶 1832

死は、可能性の限界ではない。
わたしは寧(むし)ろ、死によって可能性は広がると思っている。
それは、わたしが幾つかの前世の記憶を持っていることや、霊的な存在達と対峙した経験によって導き出した答えである。
わたしには、霊的な存在達の方が自由に映る。
人は皆、不自由な存在であると思うのだ。
小さなことにいつまでもくよくよと思い悩み、自分を何かに縛り付けている。
そのような人間の態度を、わたしは不自由に感じてしまうのである。
霊的な存在達には、人間が抱えている不自由さは感じない。
誰もが、自らの役割りを理解し、それに従っているように思えるのである。

2017年10月12日木曜日

追憶 1831

既に身体を支配していた重さは無い。
気分の悪さも去り、心地の好い気分だけが残っていた。
わたしは昼寝から目覚めた時の充足感に似た気分に促(うなが)されて瞼(まぶた)を開いた。
フロントガラス越しの青空を眺めながら、老女と黒い人影達のことを思い返していた。
わたしは可能性を掴んだ彼等を羨(うらや)ましく思っていたのである。
それは、幼い頃のわたしが、友人が買い与えられた新しい玩具(おもちゃ)を羨ましく思い、わたしも新しい玩具が欲しいと願う心の働きと同じであるだろう。
わたしも、彼等のように新しい可能性を欲していた。
それは、新しい可能性が楽しみであることを知っているからである。

2017年10月11日水曜日

追憶 1830

現状に文句を吐いているようでは、あの光に到達することは出来ないであろう。
現状に文句を吐いているのであれば、人は炎に焼かれてしまうのである。
わたし達はできる限り、現状に可能性を見出し、文句を吐かなくても良いように自らを整えておく必要があるだろう。

光り輝く彼等は、天の光に溶けるようにして去った。
そして、天の光が閉じると同時に、わたしは視界を失った。
わたしは暗闇の中に独り取り残されたが、それが瞼(まぶた)の裏であることは容易に理解することができた。

2017年10月10日火曜日

追憶 1829

しかしながら、それは現実逃避ではない。
どちらかといえば、わたしは現実的な価値観に従って生きている。
多くの人は”奇跡”を求めているが、わたしはそのようなものは信じていない。
”神様”が救ってくれるなどとも考えない。
人生は、考えたようにしか成らないし、行ったようにしか成らない。
そのため、より良い生き方について考え続けているのである。
わたしは死後の豊かさを実現するために、生前の豊かさを探し求めている。
生前に豊かさを実現することができない者には、死後の豊かさを実現することはできないと考えるからだ。
目の前には、常に可能性が存在しているが、それを見出すのである。

2017年10月9日月曜日

追憶 1828

何かを始めた者は、必ず何等かの可能性を掴む。
それがどのような状況や結果を導こうとも、それは紛れもない可能性なのである。
天に輝く光の先には、彼等にとっての大きな可能性が存在しているに違いない。
あの美しい光を見て、何の可能性も感じない人はいないだろう。
わたしはあの美しい光の先には、この世界では得ることのできない大きな可能性があると確信している。
あの美しい光を見る度にそう思うのである。
そのため、わたしはいつも死にたいと思っている。

2017年10月8日日曜日

追憶 1827

すると、老女と黒い人影達は光を放ち、やがて全体が光に覆われた。
それぞれが光の塊(かたまり)となり、光り輝いている。
それは、春の柔らかな日差しのように、希望に満ち溢れた光であった。
これから、彼等は春の芽吹きのように、エネルギーに満ち溢れ、様々な可能性を見出すだろう。
今の彼等ならば、苦しみに立ち止まることなく、先へ進むことができるはずである。
光を放つ彼等は、軽くなってわたしの腕を離れた。
そして、天に輝く光へと上昇していった。
それは、一つの大きな可能性である。

2017年10月7日土曜日

追憶 1826

わたしは胸に空いた光の扉に腕を差し入れ、老女と黒い人影達を掴んだ。
そして、それを力一杯に引き摺(ず)り出したのである。
沈黙を得た彼等は、何の抵抗も示さず、素直にわたしの行為に従った。
彼等を腕に抱えたままで光の扉に対して十字を描くと、それは掌(てのひら)で溶ける雪のように優しく消えた。
わたしは静寂を喜んだ。
老女と黒い人影達は何の反応も示さないが、彼等からは穏やかなエネルギーのようなものを感じ取ることができる。
それも喜びとなった。
わたしは彼等が救われることを願って、愛情の赴(おもむ)くままに抱き締めた。

2017年10月6日金曜日

追憶 1825

胸に二回、わたしの右手が円を描いた。
それは、わたしの胸に金色に輝く”穴”を開けた。
それは、わたしと老女と黒い人影達を繋ぐ光の扉である。
光の扉を介(かい)すると、わたしは霊的な存在に触れることができた。
わたしは老女と黒い人影達をいつまでもとどめておくことはできない。
可能性を見た彼等は、それを得なければならないのである。
そのためには、わたしの中にいつまでもとどまっていてはならないのだ。
可能性を得るために、彼等は彼等なりに歩き出さなければならないのである。

2017年10月5日木曜日

追憶 1824

黒い煙が去った後、わたしの中には沈黙と、老女と黒い人影達が残った。
彼等はもう、炎に焼かれてはいない。
彼等はもう、苦しみを手放したのである。
それは、光の十字架が彼等に対して、何等かの可能性を見せたからであろう。
可能性を見た彼等は、これ以上苦しむ必要がなくなったのである。
死んだように動かなくなった彼等を見て、わたしは胸を撫(な)で下ろした。
これ以上、彼等の苦しむ姿は見るに堪えないし、彼等の悲鳴は聞くに堪えないからである。
わたしは心から、彼等が歪んだ感情を手放し、苦しみの炎から解放されたことを喜んだ。

2017年10月4日水曜日

追憶 1823

真実は、人の心の数だけ存在している。
天国と地獄の議論があるが、人は信じているものしか見ないし、受け入れない。
天国と地獄は存在しているかも知れないが、それを信じていない人には見えないし、辿り着くことも出来ないのである。

わたしはゲップと共に、黒い煙のようなものを吐き出した。
それは、老女と黒い人影達の抱えていた破滅的な感情である。
わたしの右手は再び宙に十字を描いた。
そして、黒い煙に光の十字架を投じた。
すると、黒い煙は光の十字架によって光の粒となり、軽くなって天に輝く光に向かって昇っていった。

2017年10月3日火曜日

追憶 1822

悪夢に実体は無いが、それを体験している人はそれを鮮明に感じている。
悪夢には実体が無くても、そこに生じる感情には実体が存在するのである。
人は感情の生き物だと言われるが、思い込みによって生きているのが実態であるだろう。
思い込みとは、感情の導きである。
人は、感情による思い込みに従って生きる。
老女と黒い人影達は、自らの抱える感情によって、今もなお苦しんでいるのだ。
光の十字架は、彼等の執着する感情を打ち砕(くだ)くための道具なのである。

2017年10月2日月曜日

追憶 1821

ブレーキを弱めるためには、思い込みを手放さなければならない。
それは、苦しみが存在するという思い込みである。
老女も黒い人影達も、苦しみが存在しているという思い込みを所有している。
苦しみは破滅的な感情を強める原因となる。
苦しみが存在していると考えている人の足取りは重たいのだ。
苦しみとは、それを苦しいと考えている人だけに引き起こされる感情である。
同じ状況を得ても、それを楽しいと考える人には苦しみは訪れない。
そのため、苦しみとは単なる思い込みに過ぎないのである。
それは、悪夢にうなされるようなものであるだろう。

2017年10月1日日曜日

追憶 1820

黒い炎に焼かれている彼等は、ブレーキを強く踏んで停滞しているような状態である。
それは、炎天下にエアコンの効かない車で停車しているようなものだろう。
文字通り焼かれているのである。
エアコンが効かなくても、走っていれば快適に過ごすことが出来る。
人生もそれと同じようなもので、立ち止まってしまうと苦悩することになるのだ。
ブレーキを弱めなければ、前進することは出来ない。
光の十字架は、彼等にブレーキを弱めるように促しているのである。