このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年11月30日水曜日

追憶 1542

光の十字架は美しい光の残像を残して飛んだ。
光の十字架は黒い男の胸に突き刺さったが、男が抵抗する様子はなかった。
男が見上げて口を大きく開くと、そこから黒い煙のようなものが大量に吐き出された。
頭上の浮かぶ黒い煙は、男の抱える自我意識であるだろう。
男もまた、わたしと彼と同じ学びを所有していたのである。
わたしたち三人は、同じ学びを経験した。
そして、それぞれの方法によって、それを解決することができたのであろう。
頭上に浮かぶ黒い煙に光の十字架を投じ、それを光に帰した。
男は瞼(まぶた)を閉じて沈黙していた。

2016年11月29日火曜日

追憶 1541

事故とは、黒い男そのものであり、黒い男とは自我意識である。
わたしと彼の所有する歪んだ心が黒い男の正体であるのだ。
わたしは事故によって汚れなかった。
そのため、わたしは黒い男を光に帰すことができるであろう。
それは、わたしに必要ではないからである。
必要の無いものを所有することはできない。
黒い男はこれ以上、わたしと共に存在することはできないのである。
黒い男を光に帰すことは、自我意識の解放である。
事故に対して何の不満も抱かなかったわたしには、その種の自我意識は関係無いのだ。
宙空に十字を描くと、光の十字架が現れた。
わたしはそれを掴み取ると、黒い男に投じた。

2016年11月28日月曜日

追憶 1540

それは、黒い男から発せられた言葉であった。
どうやら、黒い男の計画は頓挫(とんざ)したようである。
男の計画とは、わたしを事故に遭わせることではなかったのか?
黒い男の表情と言葉から推測するに、わたしの考えが間違っているようである。
黒い男の計画とは、わたしが事故に遭うことではなく、苦しみに浸ることだったのであろう。
わたしが”普通”でない選択をしたとすれば、事故を喜んだことくらいである。
他にめぼしいことはない。
男の計画とは、彼が苦しみに浸ったように、わたしにも同じ状態を導くことであったに違いない。
しかしながら、わたしは彼のようにはならなかった。
わたしは事故を気にしなかったのである。
男の発言はそのためであろう。
そして、彼の時には姿を現さなかった黒い男が現れたのは、わたしが黒い男を打ち負かしたからであろう。

2016年11月27日日曜日

追憶 1539

黒い男はわたしを事故に遭わせることに成功した。
わたしは事故を経験した。
わたしが事故を起こしたということは、事故を起こしたい男の勝利であり、事故を避けたいわたしの敗北なのではないのか?
今回の事故は黒い男の功績なのではないのか?
男は喜んでいるはずではなかったのか?
そう言えば、彼が事故を起こしてわたしを訪れた時のことをフラッシュバックによって見た時、黒い男は不吉な笑みを浮かべていたではないか。
しかしながら、今は悲しみの表情を浮かべている。
そこを不思議に思ったのである。

”こんなはずではなかった…”

わたしの頭の中に小さく声が響いた。

2016年11月26日土曜日

追憶 1538

彼は心を汚してしまった。
そのために不安になり、不幸に陥ってしまったのだ。
そして、その苦しみを解決するためにわたしを訪れたのである。
彼は本来、不幸ではなかった。
なぜなら、わたしは彼のようには心を汚さなかったからだ。
わたしは事故によって多くの学びを得た。
そして、現在の自分の器を知った。
それはわたしにとっての幸福なのである。
わたしにも不幸になる可能性はあったが、わたしはそれを選ばなかったのである。
そのため、予(あらかじ)め不幸が導かれる段取りではなかったのだ。
事故に遭った後に、彼がそれを不幸として確立しただけのことである。
そのようなことを考えていると、黒い男が悲しみのような表情を浮かべているのに気が付いた。
わたしはそれを不思議に思った。

2016年11月25日金曜日

追憶 1537

もちろん、わたしが事故を起こしたのも自業自得である。
霊的な存在には、人を事故に遭(あ)わせることは出来ない。
先述したように、自業自得であるからだ。
自らの意思選択によって原因が設定され、設定によって結果が導き出されるのである。
霊的な存在は人生の道具に過ぎない。
それは、鋸(のこぎり)や金槌(かなづち)と変わらない。
道具は目的の手助けにはなっても、自らが目的の達成に尽力することはないのだ。
そのため、世間における霊的な存在に対する浅はかな知識のように、霊が人を呪うことによって不幸になるなどということは有り得ないのである。
わたしと彼が同じように事故を起こしたのは(因みに、彼も右半身を負傷していた)、共通する学びを所有していたからであろう。
わたしと彼は、事故を起こすことによって、同じように学ばなければならないことがあったのである。
それはきっと、事故という状況にあっても、心を汚さない(不幸に陥らない)という学びであるだろう。

2016年11月24日木曜日

追憶 1536

すると、わたしの脳裏にイメージの波が押し寄せた。
それは、以前に交通事故によってわたしを訪れた彼との一連のやり取りであった。
彼がわたしに連絡をよこし、わたしを訪れ、光の仕事を行い、解散し、バイクで事故を起こし、それに感謝し、出荷作業と地産地消カフェでの仕事を乗り越え、湯船に浸かり、パソコンの前に座る…
ここまでの人生がフラッシュバックするのを見た。
そこでわたしは、この死神と男が彼のところから来たことを理解した。
彼が事故を起こしたのは自業自得であるが、この死神と男がそれに絡んでいたのであろう。
そして、光の仕事によってわたしに移動し、わたしが事故を起こすことに絡んだ。
ということなのであろう。

2016年11月23日水曜日

追憶 1535

無意識の内に緊張が走るのを感じた。
精神が張り詰め、身体は力んでいた。
黒い塊からはネガティブな印象を受ける。
わたしの中の自我意識がそれに反応し、無意識の内に防衛反応を示していた。
わたしは自我意識をたしなめると、緊張と力みを手放した。
すると、黒い塊はその影を弱め、次第に姿を現し始めた。
一心に見つめれば、それが西洋の死神の姿をしているのを理解した。
死神は黒いローブを頭から被り、青白い骸骨のような顔だけが浮かんでいるように見える。
鎌は持っていなかったように思うが、その出で立ちからは破滅的な力を連想させた。
しかしながら、わたしは過去に死神とは何度か共に”仕事”をしている。
この死神が死神としての役割を担っているかは分からないが、ネガティブな印象が死神から来ているようには思えなかったのである。
他に原因があるように感じていた。
すると、暗くて見えなかったが、死神の腹の位置に中年の男がいるのが見えた。
男は青白く痩せ細り、今にも死んでしまいそうな雰囲気をまとっている。
わたしはこの男がネガティブな印象の原因であることを理解した。

2016年11月22日火曜日

追憶 1534

その日の晩、わたしは湯船に浸かり、疲れた身体を少しでも癒そうと考えた。
身体は芯から温まり、疲れも痛みも緩和されるようであった。
風呂から上がると、光の天秤の記事を書こうと自室のパソコンの前に座った。
間接照明の薄暗い明かりが心を落ち着かせるようである。
心も身体も緊張から解放されて、少しの力みも所有してはいなかっただろう。
しかしながら、次の瞬間にわたしは急速に背筋が冷めるのを理解した。
風呂上がりの火照りは一瞬の内に寒気へと変わる。
反射的に振り返ると、薄暗い部屋の隅に何かがいるのを認識した。
それは、天井まで届く程の黒くて大きな塊であった。
それが寒気の原因であることは、状況的に間違いないであろう。

2016年11月21日月曜日

追憶 1533

予想通り、お店は大盛況であった。
50食分(?)のランチはすぐに売り切れ、米粉パンや惣菜などの加工品も飛ぶように売れた。
わたしは時間と身体の痛みを忘れて働いた。
達成感を感じた後に身体の痛みと重さを思い出したが、それが強くなっていることを理解した。
それは、地産地消カフェを訪れてくれた多くの人達の抱える自我意識の影響であるだろう。
これは、わたしの役割が担う仕事である。
わたしは出会う人の自我意識の抱える重さ(ネガティブな感情、黒い煙のような見え方をするもの)を代わりに浄化しなければならなかった。
それは、相手の意思に関係なく進められる。
そのため、感覚の鋭い人は、わたしに会ったり、電話やメールなどで関係を持っただけで、自我意識の抱える重さが軽くなったことを認識することができた。
わたしは自分自身の自我意識であっても、他人の自我意識であっても、それを浄化するのが好きだ。
自我意識が解放されて、本来の自分を取り戻していく過程は楽しいものである。
そのため、その楽しみを与えてくれる自我意識の重さも好きなのである。

2016年11月20日日曜日

追憶 1532

出荷場に到着すると、多くの人からの心配の声が届いた。
彼等の心配はわたしを重たくさせた。
それはわたしの自我意識に蓄積(ちくせき)され、心を重くする。
それが肩の痛みを増大させ、次第に全身に鈍く広がっていた。
わたしは肩の痛みと全身の重みを抱えたままで、なんとか出荷作業を終えた。
わたしは早々に壊れたバイクを自宅まで”歩かせた”。
わたしが早く帰らなければならないのは、先週に地産地消カフェがテレビで紹介されたことで、日曜日の今日はとても忙しくなることが予想されたからである。
肩は痛み、全身は重たかったがお店を手伝わずにはいられなかった。
わたしは素早く着替えて、地産地消カフェに向かった。

2016年11月19日土曜日

追憶 1531

彼にはわたしが強がっているように思えただろうか?
わたしは事故を楽しんでいたのだが、彼には理解することが出来なかったであろう。
わたしは自力で何とか出来ることを伝え、彼を見送った。
問題は、バイクが走るのか?ということである。
元々のハンドルは9時3時の位置であったが、事故の衝撃で8時2時の位置に歪んでいた。
タイヤが進行方向に対して真っ直ぐになるためには、8時2時の位置で運転しなければならなかったのである。
フロントフォークからはオイルが染み出していたが、何とか走行は可能なようである。
わたしはどうしようかと考えたが、出荷作業を優先させた。
わたしはそこで、皆に事故を起こしても汚れなかった心を見せようとしていたのかも知れない。
それが彼等の役に立つかも知れないと考えたのかも知れない。
とにかく、皆に笑って欲しいのと、仕事への責任感によって、歪んだバイクに火を入れて、壊れた肩を気に掛けながら、バイクを”歩かせた”。

2016年11月18日金曜日

追憶 1530

彼にとっては、それは普通の行為であるに違いない。
彼の自我意識は、わたしの状況を自分に同一視することによって不安を生み出す。
そして、その不安を共有したいと考えているのだ。
それは、自我意識が成長するためである。
人生の目的が成長にある以上、自我意識の成長も避けられない。
それは、いつの間にかに庭に生える野草や樹木のようなものである。
頼んでもいないのに野原は森となる。
それが自然の理である。
自我意識も頼んでもいないのに肥え太る。
目の前に何等かの悲劇が存在すれば、それを栄養とするのだ。
彼の抱える自我意識にとっては、事故を起こしたわたしの状況は格好の食事であったに違いない。
そして、わたしの抱える自我意識も、彼の抱える自我意識と同調したいと考えている。
彼のわたしに対する心配に、わたしの自我意識が弱音を提案するのを断った。

2016年11月17日木曜日

追憶 1529

わたしは意識的な問題を解決することには成功したが、物質的な問題は山積みのままである。
わたしは横たわるバイクに歩み寄った。
ハンドルが変な方向を向いているのに気が付いた。
ミッション車であるためにエンジンは止まっていた。
横倒しになっているためにタンクからは少しずつガソリンが流れ出ており、それがアスファルトに模様を作り始めていた。
肩の痛みに耐えながら、わたしは何とかバイクを起こした。
スタンドを立てて、キーをOFFにすると、背後で車が止まる音がした。
振り返ると、知人が驚いた様子でわたしを見ていた。
彼はわたしが事故を起こしたことを悟り、気遣ってくれた。
しかしながら、彼の心配はわたしにとっては重たいものであった。
それは、わたしが既に意識的な問題を解決していたからである。
彼の気遣いは有難いが、それは彼の自我意識が行う同調圧力なのだ。
彼の自我意識は、わたしに不安を抱かせることによって、再び重たい檻の中にわたしを押し込めようというのである。

2016年11月16日水曜日

追憶 1528

わたしに自らの自我意識を認識させたのは事故という経験である。
この事故という経験を与えてくれたのはワゴン車の運転手である。
わたしにとってワゴン車の運転手は、わたしを成長させてくれる”道具”と成り得た訳だ。
自分一人では気付くことができなかったであろう内的矛盾を指摘してくれたワゴン車の運転手は、わたしの協力者であって敵ではない。
即(すなわ)ち、ワゴン車の運転手に敵意を向けるのは間違っているのである。
もちろん、わたしにワゴン車の運転手にも感謝の気持ちを贈った。
彼の功績はわたしに事故をプレゼントしてくれたことであり、わたしの功績は自らの内的矛盾を発見し、自我意識の欲する恨みに溺れなかったことである。
わたしにとって、事故は過ぎ去ったものとなり、終わったことである。
わたしが感謝しているということは、それを受け入れ、消化したということであろう。

2016年11月15日火曜日

追憶 1527

今回の事故は、言わば叱咤激励(しったげきれい)であるように思える。
わたしの中の腐った感情がいつの間にかに作り上げた檻の中で、無意識の内に不自由さに捕らわれていたわたしに発破をかけたのである。
この事故によって、わたしを捕らえていた不自由の檻の一部が破壊された。
そして、檻の存在を認識することができたのである。
この時点において、事故がわたしにとって有利に働くことは理解した。
わたしは既に、この事故に対して感謝していたのである。
そして、肩の痛みがわたしを打つ度に、肉体を通じて命を感じることができた。
それは、命がわたしに生きろと訴えているようであった。
生きるということは学べるということである。
それ以上の幸福があるだろうか?
それ以上に求めることがあるだろうか?
肩の痛みよりも、既に命の訴えへの喜びが勝っていた。
肩の痛みに対しても、わたしは既に感謝していたのである。

2016年11月14日月曜日

追憶 1526

ヘルメットの中で反響する声に愚の骨頂(こっちょう)を見た。
そこでわたしは少しでも死を感じたことに喜んでいることを理解した。
わたしはこの感覚を求めていたのである。
死を感じるということは、その相対に存在する生を感じるということでもある。
生とは自由の中に存在しているものだと考えるが、わたしは日常に対して不自由さを感じていたのである。
それはきっと、Nを失った虚無感にも似た感情があったからに違いない。
多分、わたしの中の男性性が、Nという女性性に別れを告げられたことによって自尊心を保てなくなっていたのではないだろうか?
その腐った感情(ルサンチマン)が、不自由さを感じさせ、不自由さによって生を感じることができなくなっていたのであろう。
心が死んでいたのである。
今回の交通事故は、わたしの男性性の中の腐った感情を引っ叩いたのであろう。
それを男性性を超えた”わたし”が喜んでいるのである。

2016年11月13日日曜日

追憶 1525

わたしは一瞬の間だけではあったが、死を考えた。
しかしながら、アスファルトやガソリンの匂いがわたしに生を伝えている。
わたしは死ななかったのである。
鼓動が高鳴り、それを五月蝿(うるさ)く感じた。
わたしは身体を動かさずに、どこか壊れている場所はないかと探した。
外傷は無いようである。
指先が動くのを理解し、身体を起こした。
すると、右肩に激痛が走った。
わたしは短く罵(ののし)った。
それは、右肩の痛みと、少し先に横たわるバイクと、走り去ったワゴン車の運転手にである。
わたしの短い罵りは、それだけでわたしの中からネガティブな感情を取り除いた。
すると、わたしは急にこの状況がおかしくなり、仰向けに寝転がって笑い声を上げた。

2016年11月12日土曜日

追憶 1524

砂利にタイヤが取られ、滑るようにして車体の右側がアスファルトに叩き付けられたのである。
わたしは右肩からアスファルトに叩き付けられ、同時に右の側頭部打ち、横隔膜が圧迫されて呼吸が強制的に止まるのを感じた。
車体が路面を滑る音が罵声(ばせい)のように、アスファルトに投げ出された無力な肉の人形に浴びせられた。
わたしは全身を強く打ったが、何一つとして抵抗らしいことは出来なかった。
視界の隅では、ワゴン車が走り去るのが見えた。
運転手はわたしが転倒したことに気が付いてはいないのだろうか?
残されたのは、アスファルトに横たわる壊れたバイクと、言うことを聞かない肉の塊に押し潰された人の精神だけであった。

2016年11月11日金曜日

追憶 1523

アスファルトから突き出たコンクリートの先には畑があったが、そこにはガードレールはなく、畑の先には海があった。
そして、道路と畑の間には、どういう訳か舗装していない砂利の部分がある。
その砂利がアスファルトに散乱していた。
わたしには幾つもの問題がのしかかっていたのである。
しかも、それを解決するために与えられた時間は一瞬であり、2秒間にも満たないであろう。
左に倒した身体を右に倒そうと直感した時には、前輪がアスファルトを踏んでいた。
そこで多少のバランスが崩れる。
そのすぐ先には砂利が散乱している。
砂利を越えれば畑である。
わたしの脳は一瞬の内に様々な情報を与えたが、それがバイクに伝わることはなかった。
前輪が滑り、視界が引き伸ばされ、右半身に衝撃を感じた。

2016年11月10日木曜日

追憶 1522

しかも、それに加えて運転手は携帯電話を操作していた。
ワゴン車はカーブを膨らみ、何の警戒心もなくわたしのいる狭い道に侵入して来た。
ワゴン車を運転する中年の男性は、すれ違う直前にわたしに気が付き、驚きの表情を向けたが、それがハンドル操作に影響することはなかった。
わたしは正面から衝突すると思い、咄嗟(とっさ)に身体を左に倒してワゴン車を何とか交わした。
そして、ワゴン車を交わした速度のまま広い道に侵入した。
そこまでは良かった。
広い道は元々は畑であったところを埋め立てて作られている。
どういう訳か、元々は畑と道路を隔てていたコンクリートの一部が、埋め立てられることもなくアスファルトから顔を出していた。
それは路面に1〜2cm程の段差を作っていた。
車であれば何の問題もない段差である。
しかしながら、バイクにとっては例え1〜2cm程の段差であろうとも危険に繋がる可能性があるのだ。
わたしの現状こそが、その危険に繋がる可能性であったのである。

2016年11月9日水曜日

追憶 1521

少し先に、軽自動車同士でもすれ違うことが難しい程の区間がある。
その先は片側一車線の広い道路になっている。
狭い道から広い道に掛けて右に大きくカーブしているが、山肌に沿うように作られた道は視界を不自由なものにさせた。
狭い道から見ると、対向車が急に現れるように感じるのである。
狭い道を走るわたしからは、広い道の状況はカーブミラーの情報に頼る以外に方法はなかった。
わたしは何時ものように多少の警戒をしつつ、狭い道に差し掛かった。
そして、狭い道を抜けようという時に対向車が現れた。
それは、灰色の大型のワゴン車であった。
カーブミラーによる確認が難しかったのは、ワゴン車の色によるところもあったが、第一の原因はその速度にあったと思える。
ワゴン車は広い道から狭い道に向かって走行しているために、スピードに乗っていたのである。

2016年11月8日火曜日

追憶 1520

彼と別れて数日が経過していた。
わたしは真鯛の出荷作業のためにバイクで現場に向かっていた。
夏の六時過ぎは明るい。
日の出の前の冷たい空気が心地好かった。
バイクは快調にアスファルトを蹴った。
ゆったりとバイクで走る夏の朝ほど快(こころよ)いものもないだろう。
わたしはリラックスして、一定のリズムを刻む単気筒エンジンの排気音を楽しんでいた。
わたしの住んでいる北灘(きたなだ)という場所は、山と海に挟まれた海岸線に家が並ぶ漁師町である。
大抵の道は対向車線もない細い道であるが、そこに大型のバスや活魚車も走る。
北灘街道を通り抜けるためには、途中で何度も道の譲り合いをしなければならなかった。
そして、道が狭い割には交通量が多い。
また、地元の住民は道に慣れているために怠慢な運転をする者も多かった。
わたしはバイクという立場であるために、日頃から安全運転を心掛けていたのである。

2016年11月7日月曜日

追憶 1519

しかしながら、事故を起こしたのは自分自身の自我意識が原因である。
例えば、”悪霊”が事故を引き起こすことなどない。
”悪霊”などという存在はいない。
それは、善悪は自分自身の小さな価値観の中にしか存在していないからである。
霊的な存在を守護者や”悪霊”などと決め付ける思考があるに過ぎないのである。
そのため、彼が事故の原因を”外”に探しても、それは決して見付からない。
取り越し苦労という結果を手にするだけである。
そのために、大天使ミカエルや彼の守護者は彼の頑固さを見せたのだろう。
改善するべきは自分自身であるということを理解したい。

2016年11月6日日曜日

追憶 1518

これ以上、わたしが彼に出来ることはなかった。
わたしに出来ることは、霊的な存在達の考える最善であり、わたしや彼の考える最善ではない。
わたしは仕事を切り上げて、お茶を出すことにした。
そこで彼はここへ来た経緯を話してくれた。

彼がわたしを訪ねたのは、数日前に事故を起こしたことが原因であった。
彼は車の運転中に余所見をしていて、停止している車列に追突したようである。
前の二台を巻き込む事故であり、幸いなことに誰にも大きな怪我はなかったようだ。
彼にとって、それは悲劇であったに違いない。
彼としては、その悲劇の原因を”外”に探すことで、罪悪感を小さくしたいと考えたのだろう。

2016年11月5日土曜日

追憶 1517

わたしは彼の頭の中に存在している黒い岩のようなものに光の十字架を投じ、それを後頭部から引き出した。
黒い岩のようなものの中からは、黒い液体が溢れた。
頑固さとは停滞した思考である。
それは新鮮さを失い、腐るのであろう。
腐った思考は役に立たないどころか邪魔になる。
大切に抱えていても良いことはないのだ。
ゲップと共に黒い岩と液体を光に帰し、彼には柔軟性を重んじるように伝えた。
どのような事柄に関しても、思考が停止している状態は好ましくない。
それは、信じて疑わないという状態を導く。
信じて疑わないことは良いことのように思うかも知れないが、それは向上の否定なのである。
彼の場合は、自分が正しいという正当性を主張したいのかも知れないが、自分が正しいというのは幻想に過ぎない。
残念ながら、自分が正しいという状態は存在しないのだ。
誰もが、過去の自分に恥じ入る。
それは、自分が正しくないことの証明なのである。

2016年11月4日金曜日

追憶 1516

わたしは彼の(自我意識の抱える)期待には応えられそうにもなかった。
つまり、わたしは”復讐”には手を貸せないのである。
彼の考える理想を否定し、本来の心の在り方を伝えなければならないのである。
それは、どのような問題や苦悩を抱えていても関係ない。
問題や苦悩に対応することではなく、自らの心に向き合うだけのことである。
だから、彼の問題や苦悩の原因を知る必要はない。
大切なのは自分がどうあるか?ということなのだ。
何をするか?ということに集中すれば、疑似餌に釣り上げられる魚のように、苦悩を増すのである。
彼が何に対して苦悩しているかは分からないが、今の段階では感情を自分自身の未熟さに向けるのが最善であろう。
自己反省こそが、今の彼を救う唯一の方法なのである。
それは、彼を見ても、黒い煙のようなネガティブな感情以外には何も確認することができなかったからだ。
わたしは大天使ミカエルや彼の霊的な守護者からのアドバイスを伝え、彼等の示す心の在り方を教えた。
彼が納得することは簡単ではないだろうが、少しずつそこに近付いていくはずである。

2016年11月3日木曜日

追憶 1515

彼が克服しなければならないのは、自らの抱える頑固さである。
それは、”真っ直ぐに物事を見ない”ということを受け入れることであろう。
柔軟性が求められているのである。
彼は強過ぎる正義感によって、物事を真っ直ぐに見過ぎている。
彼は、自分の思い通りの状況を求めているのだろう。
気持ちは分かるが、思い通りの状況を求めているのは自我意識でしかない。
人生を俯瞰(ふかん)すれば、思い通りにいかなくても良いということを理解することができるが、物事を真っ直ぐに見過ぎている今の彼には、そのことは理解することができないのである。
彼は何かが思い通りにいかないためにわたしを訪ねたはずだ。
それは、人(自我意識)は思い通りにいかないことを苦悩するからである。
わたしを訪ねたのは、思い通りにいかないことを霊的な力によって理想に近付けるためだと思える。
彼は心の在り方を学びに来たに違いないが、根底には自我意識の抱える理想への願望を抱えているのである。

2016年11月2日水曜日

追憶 1514

わたしは彼を以前から知っている。
彼には良く言えば強い信念があり、悪く言えば気が短いところがあった。
正義感が強いのである。
自分の気に入らないことに関しては譲ることをせず、争ってしまうような性格の持ち主であった。
その性格のために、以前に勤めていた会社の上司との間でいざこざを起こし、上司を殴って裁判にまで発展するという過去を持っていた。
彼の行為は褒められたものではないが、彼の名誉のために言うと、彼は善意の人である。
しかしながら、その強過ぎる正義感から社会(資本主義)の抱える矛盾や、人間の抱える汚れ(ルサンチマン)に耐えられない不器用さを抱えていた。
それが内的な矛盾として苦悩を生むのである。
それが、彼の頭の中に存在している黒い岩なのであろう。

2016年11月1日火曜日

追憶 1513

瞼(まぶた)が開くと、わたしは肉体に帰ったのだと実感した。
すると、頭痛と同時に頭に重さを感じた。
視線を送ると、彼の頭の中に大きな黒い岩のようなものが見えた。
それは、物質的な視点と意識的な視点が同時に映るような感覚である。
透けて見える訳では無い。
彼の後頭部と、頭の中の黒い岩が同じ視点で見えるのである。
それは、書籍の文字を目で追いながら、同時に物語の風景を思い浮かべているような感覚である。
黒い岩が頭を締め付け、痛みを与えるのであろう。
これは、多くの人が所有している頑固さである。
わたしが対峙する多くの人の頭の中には、この黒い岩のようなものが存在しているのだ。
これは、思考が凝り固まったものではないかと思える。
頑固な人を石頭と表現するが、この言葉を編み出した人には同じようなものが見えていたのかも知れない。
彼は頑固さを抱えているのだろう。
具体的には分からないが、彼の抱えている苦しみの原因がここにあるのではないかと思えた。