このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2015年6月30日火曜日

追憶 1023

取り乱す母親を制しながら、わたしたちは後部座席に並んで座った。
わたしは視界が歪むのと強烈な吐き気によって、瞼(まぶた)を開けておくことさえ出来なかった。
しばらく沈黙した後に、Nの体調を伺った。
やはり、Nも気分が優れないと言う。
それに続けてNが呟(つぶや)いた。

「女の人がいた…」

Nは確かにそう言った。
Nの話によれば、車が衝突する直前に軽自動車の後部座席に運転手を覗き込むような姿勢の女の姿が見えたのだと言う。
しかし、事故の直後に確認したが、軽自動車には運転手の男性以外には誰も乗ってはいなかった。
それは、救急隊員も確認している。
わたしはNが嘘を吐いているとは思えない。
なぜなら、瞼の裏には真紅の口紅で飾った女の口元が、ゆっくりと引き伸ばされて笑みを作るのを見たからである。

2015年6月29日月曜日

追憶 1022

思わず掌(てのひら)で口を覆った。
これは、事故による症状の一部であろうか?
緊張した時に吐き気に襲われることがあるが、それであろうか?
不意にNが吐き気を訴えた。
それを聞くと同時に、わたしは更なる吐き気に襲われるのであった。
これは、”普通”の吐き気ではないと感じた。
先程から頭が割れるように痛いのは、事故の時に頭を打っていたからではないのか?
これも、”普通”の痛みではないというのだろうか?
思案したが、何も分からなかった。

しばらくして、母親が現場に到着した。
母親が連絡していたらしい保険の担当者も到着し、レッカー車も到着した。
慌ただしくなった現場にいては迷惑になると思い、わたしたちは母親の運転する車で、被害者の男性が運び込まれた病院へと向かった。

2015年6月28日日曜日

追憶 1021

救急車を見送り、警察官に事情を出来る限り詳細に説明した。
警察官への説明が終わり、わたしはNとガードレールにもたれ掛かって、しばらく放心していた。
警察官は、わたしたちを助けてくれた若い男性たちにも事情を聞いているようである。
わたしは事故に対しては何も恐れてはいなかった。
しかし、相手の男性に危害を及ぼしたこと、Nに怖い思いをさせたこと、そして、多くの人に迷惑をかけたことが恐ろしかったのだと思う。
それに加えて、肉体は普段使わない力を引き出した。
その反動によって、力が抜けてしまうのかも知れない。
様々なことが頭に浮かんだが、わたしにはそれ等を一つ一つ検証する余裕などなかったのである。
その時、わたしは猛烈な吐き気に襲われていることに気が付いた。

2015年6月27日土曜日

追憶 1020

救急車が到着するまでは20分くらいであろうか、わたしにはそれが何時間にも感じられた。
その間にNの様子を伺(うかが)い、両親に連絡した。
わたしにできることはそれくらいであったからだ。
しばらくして、けたたましいサイレンを引き連れた救急車が現場に到着した。
わたしは出来る限りの情報を隊員の方に伝え、一刻も早く彼が病院へ運び届けられるように祈った。
それと同じくして警察車両も到着し、事故の処理と現場検証が始まった。
緊張の糸が切れたのか、Nが泣いたので、わたしは謝りながら抱き締めた。
その時、わたしは身体が震えて力が入らないことに気が付いたのである。

2015年6月26日金曜日

追憶 1019

彼は60代に見えた。
この年齢での事故による衝撃が与える影響は、わたしには簡単に想像できた。
それは、相当身体にこたえているはずである。
小さく唸り声を漏らしながら、表情を歪めて再びシートにもたれ掛かった。
 胸を押さえている姿からは、そこを強く打ったのだと推測できる。
シートベルトによる圧迫だろうと思った。

その時、一台の車が停まり、そこから30代くらいの若い四人の男性が降りてきた。
彼等は、この状況を心配して立ち寄ってくれたのである。

「救急車は呼んだ!?」

先輩格の男性がわたしに尋ねた。
そこで、わたしは自分が冷静さを欠いており、何もしていないことに気が付いた。
すぐさま携帯電話を取り出し、救急に連絡した。
すぐに救急車を向かわせるということだったので、わたしは彼等に礼を述べつつも、シートに横たわる男性に声を掛け続けた。
その間、四人の男性たちは交通整理をしてくれていたが、わたしは彼等に対して感謝の気持ちが絶えなかった。

2015年6月25日木曜日

追憶 1018

前部が大破した軽自動車に駆け寄る。
フロントガラスからは運転手がシートにもたれ掛かるように横を向いているのが見えた。
運転席側のドアは簡単に開いた。
焦げ臭いような臭いが鼻を突いた。
見ると、男が一人小さな唸り声を上げている。
わたしは彼が生きていることに一先ずは安心した。

「大丈夫ですか!?」

わたしの問い掛けに彼は答えた。

「大丈夫な訳があるか!」

彼は怒りの感情を精一杯に叫んだ。

2015年6月24日水曜日

追憶 1017

エアバッグがゆっくりと開くのを見終わると、白い煙が視界を塞いだ。
これは、エアバッグから出るものであろうか?
わたしは動揺していたと思う。
しかし、思考は現状の把握に努めていた。
わたしが初めに確認したのはNの安否であった。
助手席のNを見ると、表情は硬いものの外傷は無い。
安否を問えば、大丈夫だとの返事があったので、一先ずは安心した。
次に軽自動車の運転手である。
わたしは軽自動車の運転手は最悪の場合、死んでいるのではないかと思った。
軽自動車は古い型のものであり、わたしの車はSUVのハイラックスサーフである。
二回りも大きいような車に衝突されたのだから、それは想像を絶する衝撃であったに違いない。
ドアはすんなりと開き、わたしを追って煙が降りた。

2015年6月23日火曜日

追憶 1016

しかし、わたしの期待は簡単に打ち砕かれた。
軽自動車はあたかもそれが当然のように目前に迫っていた。
わたしは衝突することに覚悟した。
そして、次の瞬間には鼓膜を引き裂くような音が骨にまで響いのである。
身体が前方へ投げ出されるのを、シートベルトが防ぐのを認識する。
胸部に強い圧迫感を覚えて、それと同時にピラーに右の額をぶつけた。
そして、ボンネットが盛り上がるのと、フロントガラスにひびが入るのと、エアバッグが飛び出してくるのがほぼ同時であった。
タイヤが金切り声を上げ、わたしたちは後部からガードレールに突き刺さった。

2015年6月22日月曜日

追憶 1015

それは、この先のトンネルから現れたのであろう。
わたしたちはその軽自動車に向かっていた。
やはり、ハンドルは言うことを効かない。
軽自動車は構わず前進してくる。
流れる景色の中で、このままだと衝突すると思った。
そのため、どうにか軽自動車が避けてくれることを願った。
実際にはどうだったのかは分からないが、速度は余り出ていないように感じていた。
これは、危機的な状況下に置かれたわたしの脳が、情報処理能力を高めた結果として時間感覚を加速させ、それと同時に記憶の形成が詳細となり、まるでスローモーションのように状況を認識させた…ということなのかも知れないが、この速度であれば軽自動車はわたしたちを回避することができるだろうと考えていた。




2015年6月21日日曜日

追憶 1014

車全体が鋭く揺れた。
それと同時に、身体が浮かび上がる感覚を得た。
車は左前輪を擁壁に乗り上げ、弾かれるようにして方向を変えた。
わたしたちは再び道路を正面に捉えることとなる。
弾かれた先には追い越しの登り車線があり、下りの一車線と合わせて三車線の道路である。
わたしたちの進行方向は下りの一車線であったが、登りは追い越しの二車線となっていたのである。
そのことを知っていたので、この道端を使って車を停車させることができるのではないかと、淡い期待を抱いた。
もしくは、何処かに衝突したとしても、何等かの形で停まれば良いと思ったのである。
流れる景色の中で、対向車がいないことを確認した。
一瞬の安堵(あんど)を覚えたが、次の瞬間に一台の軽自動車が近付いているのに気が付いた。

2015年6月20日土曜日

追憶 1013

車の後部が微かに左右に振られ、それから大きく振れた。
そして、大きく蛇行した挙句(あげく)、車体が進行方向に右の側面を見せた。
車道の左側には、見上げる程のコンクリートの擁壁(ようへき)があったが、今ではそれが正面に見えている。
わたしにはなす術が無かった。
車体を立て直そうとしたが、ハンドルは重たくて動かすことができない。
車はそのまま擁壁に向かって進んでいく。
どうしようも無かった。
わたしはNのことを守ろうとしたが、遠心力と緊張によってか、身体がシートから離れそうもない。
次の瞬間、大きな衝撃と共に車は擁壁に激突した。

2015年6月19日金曜日

追憶 1012

瞳が収縮するのを感じながらトンネルを飛び出した。
すると、そこは別世界であった。
雨粒は雨の線となり、アスファルトに繋がっている。
地面は気泡で真っ白に見えた。
まるで川のようである。
そこから道は右に緩やかに弧(こ)を描いている。
予想だにしない光景に多少驚いたが、それが胸の鼓動を高めて、集中力を発揮させた。
しかし、次の瞬間にわたしは車の異常に気が付いた。
左後部のタイヤが空転したように思えたのである。
嫌な振動がハンドルから伝わった。
次の瞬間、車は制御を失っていたのである。

2015年6月18日木曜日

追憶 1011

黒い口の中に飛び込むと、雨がわたしたちから離れていった。
スノーノイズは存在感を増し、まるで車内を支配しているようである。
見渡しても、わたしたち以外の車両を確認することはできなかった。
トンネル内を淡く映し出すオレンジ色の照明の連なりを無意識に眺めながら、わたしは真っ直ぐに運転していた。
一瞬、思考が輪郭を失い、オレンジ色の光が一つに繋がる。
それを振りほどくことで意識的に運転を続けた。
わたしとNをスノーノイズが繋げていたが、わたしたちにはそれ以外の接点は得られなかった。
やがて、オレンジ色の光が増し、その先に白い口が開いているのが見える。
それは、わたしにとっては何の変哲もないただの出口に違い無かった。
この時までは。

2015年6月17日水曜日

追憶 1010

やがて、法華津(ほけつ)峠に差し掛かった。
しばらく走ると1320mという長さの法華津トンネルが口を開いている。
それを抜けると、そこから長短九つものトンネルを通過しなければならなかった。
法華津トンネルは雨を垂らして暗く淀(よど)んで見えた。
わたしにはそれが、よだれを垂らす大きな口のようにも感じられた。
TVの電波はここまでは届いていない。
カーナビの画面には砂嵐が映し出され、車内には不快なスノーノイズが響いていた。
しかし、わたしはそれを気にも掛けなかった。
Nがどう思っていたのかは分からないが、それを指摘することもなかった。
わたしたちは沈黙の中にスノーノイズを聞きながら、黒い口を開ける法華津トンネルへと侵入した。

2015年6月16日火曜日

追憶 1009

わたしはせっかくのデートが台無しになったことに絶望感を覚えた。

「分かった。すぐに戻る」

簡単に応え、電話を切った。
わたしはNに対して事情を説明した。
Nの家も同じ養殖業を営んでいたので、それがどのようなことなのかは簡単に想像することができただろう。
残念そうにはしていたが、納得していたようであった。

車を反転させて、来た道を戻る。
ワンセグ放送で映し出されるアナログTVの中の笑顔と、騒がしい笑い声だけが車内に響いていた。
わたしたちは沈黙したままで、同じ道を重たい身体と気持ちを乗せて走ったのである。

2015年6月15日月曜日

追憶 1008

車を走らせてしばらくすると、携帯電話がけたたましく着信を知らせた。
画面を見ると、それは父親からのものである。
車を路肩に停めて、五月蝿(うるさ)く鳴り続ける着信に応じた。
父親が連絡してくるのは、何かしらの業務連絡である。
わたしたちは、日常会話を楽しむために電話を用いることはなかった。
連絡が着た時点において、わたしはその内容をある程度予測することができた。
受話器越しの父親は落ち着いてはいたが、その言葉は緊急を伝えるものであった。
それは、大雨と山財ダムの放流によって、岩松川から大量の葦が北灘湾に流れ込んでいるので、今すぐに戻れということであった。



2015年6月14日日曜日

追憶 1007

Nは心配しながらもわたしに続いた。
空を見上げると、大粒の雨が頬を叩くのを感じた。
それは生温い雫であったが、今のわたしにはそれが心地良いものとして感じられる。
車に乗り込むと、わたしは大きく息を吐いた。
それは、重たい体を引きずってここまで来たことに疲れたからである。
わたしは体調の変化に自分でも驚いていた。
しかし、原因は分からなかった。
わたしは自力で何か霊的な問題が生じているのではないかと探りを入れてはみたが、得られるものは何もなかったのである。
仕方がないので、映画館に向けて車を走らせることにした。

2015年6月13日土曜日

追憶 1006

目を閉じると、暗闇が捻転(ねんてん)しているような感覚を得た。
それは、まるで目を回した時に目を閉じると見える世界のようであったのである。
決して気分の良いものではなかった。
しかし、目を開けてはいられない程に全身は何かの重みに耐えていたのである。
Nはわたしのことを心配していた。
しかし、どうすることもできないので、わたしを気遣いながら側にいてくれた。
わたしたちは何の会話もないまま、ただ黙って座っていたのである。
しばらく休んでいると、せっかちな性格がわたしを促していることに気が付いた。
わたしは動かなければならない。
そのように感じて、重たい身体をソファーから持ち上げた。

2015年6月12日金曜日

追憶 1005

上映時間まではかなりの余裕があった。
そのため、途中の町にある道の駅に立ち寄ることにした。
そこで少し休憩し、時間を合わせようと考えていたのである。
トイレを済ませ、即売所を物色する。
めぼしいものはなかった。
窓の外に映る雨は、強くなっているように感じる。
空には厚い雲が増しているようにも思えた。
それと比例するようにして、わたしは身体が重たくなったように感じていた。
思考は輪郭を失い、ぼやけた像を見せている。
わたしは立っていられず、Nに断ってロビーに置いてあるソファーに身体を沈めた。

2015年6月11日木曜日

追憶 1004




これは数年前の写真である。
この時は大したことはなかった。
しかし、網に詰まった葦は強固であるために、網を筏の中央に寄せて空間を作り、葦の枯れ枝を筏の外に掻き出そうとしているところである。

濁流の中に葦の枯れ枝を確認することはなかった。
そのため、わたしは余計な心配はやめて、Nとの楽しい時間を大切にすることに決めた。
しかし、わたしは自分自身の中に何かしらの違和感が存在していることに気が付いていた。
それは、遠くから嵐が迫ってきているような小さな胸騒ぎであった。
しかし、そこには何の確信もない。
自らが感じている違和感にさえ確信が持てないような状態であったのだ。
それに、微かに身体が重たくも感じる。
これは、雨の時に感じるいつもの感覚であろうか?
そんなことを考えながら、わたしはアクセルを踏んだ。

2015年6月10日水曜日

追憶 1003

葦の枯れ枝が問題であった。
岩松川の中流には、葦が群生しているが、その枯れ枝は大量である。
山財ダムの放流によって流された大量の葦は、その勢いのままに養殖用の筏にぶつかる。
養殖用の筏には、真鯛を飼育しているために目の細かい網が張ってあるのだ。
そこに葦の枯れ枝が引っ掛かる。
次々に押し寄せる葦によって、網がそのまま持ち上げられて浮かされてしまうのである。
そうすると、泳ぐ場所を奪われた真鯛は剣山のようになった葦の枯れ枝で傷付き、浅い部分の真水によって死んでしまうのである。
実際にこれで、毎年のように被害にあっていた。
その対策として、近年では網を箱状に縫い合わせて、そのまま海中に沈めるという対策を行うようにはなっていた。


2015年6月9日火曜日

追憶 1002

国道56号線を岩松川に沿って走る。
前日からの雨の影響で、川には濁流(だくりゅう)が渦を巻いていたが、水位はそれ程のものではなかった。
わたしには一つ気掛かりがあった。
それは、岩松川の上流には山財(さんざい)ダムがあり、大雨や台風の時には放流するのである。
その放流量が90tを超える辺りから、川原に群生している葦(あし)を根こそぎ押し流すことがあったのだ。
時には、杉の大木がそのまま流れてくるということもあった。
その他に、猪などの動物も流れてくるし、不法に投機された冷蔵庫や洗濯機などの粗大ゴミまで流れてくる始末である。
その時には、北灘湾は激流となった。
それは、小さな船外機では沖に浮かべてある養殖用の筏(いかだ)に船が着けられない程である。

2015年6月8日月曜日

追憶 1001

Nの家の前に着くと、それを見越してかNが雨を避けるようにして車に駆け寄った。
わたしはその当たり前の光景をドラマチックだと感じ、雨も良いものだと思った。
Nの明るい挨拶の声にわたしの心は晴れた。
Nと楽しい雰囲気を乗せて、わたしは映画館に向けて車を走らせた。

激しい雨がアスファルトを叩いていた。
途中には岩松川という二級河川がある。
これは、横吹渓谷より津島町を縦断し、わたしの住む北灘湾に注いでいる。
以前には、愛媛県の天然記念物にも指定された大鰻(おおうなぎ)も生息していたが、環境の悪化によって今ではその姿を見なくなった。
冬期には白魚漁やアオサ漁が盛んに行われている。
しかし、これも今日では以前の勢いは失われている。




2015年6月7日日曜日

追憶 1000

空は相変わらず太陽を嫌っていた。
わたしは雨も好きである。
水面に広がる波紋は芸術的であるし、雨音は穏やかな気持ちにさせてくれる。
しかし、気圧のせいなのか身体が重たく感じるのは、どちらかと言えば好きではなかった。
別段、気に掛けることでもないのではあるが…

時折ルーフ打ち付ける雨音が、わたしに雨粒の大きさを教えた。
わたしはハイラックスサーフという四輪駆動の比較的大きな車でNを迎えに走っていた。
自宅からNの家までは約1.5kmというところである。
2〜3分もあれば到着する。
わたしはいつもNを迎えに行った。
それが楽しみでもあったのである。

2015年6月6日土曜日

追憶 999

その日は、前日の雨雲を引き摺(ず)った天候であった。
分厚い雲に覆われた空は、時折大きな雨粒を降らしている。
それでも、わたしたちには貴重な時間であったので、このような天候であっても遊べる場所を探していた。
その時は、映画でも観るかということになり、車を一時間程走らせた場所にある映画館に向かっていた。
宇和島市には映画館が無かったのである。
わたしが知っているのは、東映とシネマサンシャインという二つの映画館である。
中学生の頃に東映が潰れ、高校生の時にシネマサンシャインが潰れた。
少子化とインターネットの普及、そして、景気の悪化により、映画館の必要性が無くなったのであろう。
採算が取れなければ撤退するのが資本主義の掟(おきて)である。
そのため、映画を観るだけで、宇和島市の人達は車を一時間程も走らせなければならないのであった。

2015年6月5日金曜日

追憶 998

日曜日は、Nとのデートの日である。
学校が休みなので、Nに予定がなければいろいろと連れ出していた。
わたしは出来る限りNを連れ出し、いろいろな場所に行きたかったし、そこで何かしらの経験ができれば良いと思っていた。
高校生では簡単に体験することができないことを、わたしなりに出来るだけさせてあげたいと思っていたのである。
わたしたちは10歳の年の差があったので、車を所有しているわたしはある程度自由に移動することができた。
わたしが住んでいる宇和島市は、市ではあっても田舎である。
車がなければ買い物も簡単ではないような環境であった。
高校生の移動手段の基本は自転車かバスである。
わたしはこの環境が長閑(のどか)で好きだが、若者はこれを不便と感じ、また変化の少ない生活を退屈であるとも思うだろう。
東京の生活に比べれば、やはり愛媛の生活は退屈なものである。
そのために、出来る限り様々な場所に出向いては、埋め合わせをするのであった。


2015年6月4日木曜日

追憶 997

結局、人生というものは、自分自身との対峙だと思う。
自分自身を知ることが、人生の目的なのではないだろうか?
そのためには、様々な経験をする以外に方法はないだろう。
失敗せず、有利に事を運ぶことが、自分自身を知ることにはならないように思えるのである。
失敗を恐れる気持ちは良く分かる。
失敗を避けようとするのが心理だからだ。
そのようにも教育されている。
しかし、わたしたちは失敗しなければならないのである。
それは、新たなものを生み出すための挑戦でなければならないと思うのだ。
話が飛躍してしまったが、占いを含めて”当たり前”としていることに、わたしたちは翻弄(ほんろう)されてはならないし、その体系に疑問を持たなければならないのである。

2015年6月3日水曜日

追憶 996

大切なのは、自分自身がどうあるのか?ということなのだ。
わたしは占いについて批判的に書いたが、占い自体を批判しているのではない。
わたしには知り得ない、未来を的中させる計算式というものはあるだろう。
占い師という肩書きによって、人々を正しく目覚めさせている人もいるはずである。
問題なのは、受け手の力量であると言えるのではないだろうか?
個人的な欲望による企(たくら)みによって占いを扱う者は褒められたものではないが、それを見極めることができない受け手も褒められたものではない。
個人的な欲望のままに占いを扱う者を崇(あが)めるようであっては、多くの人達が間違った道に進むことは明白なのである。
そこには多くの悲劇が生まれている。

2015年6月2日火曜日

追憶 995

Nの友人達はきっと、それを遊びとして利用したに過ぎないだろう。
しかし、中にはこれを本気にする者もいるのである。
占いに依存することによって、自分自身で判断することや決断することができなくなっている者も少なくはないのである。
芸能人でも自称占い師や霊能力者による洗脳騒動があるが、多くの人達が自覚しないままに自力を奪われているということはあるだろう。
残念ながら、宗教の類(たぐ)いは総じて同じようなものである。
現代の”葬式仏教”などはその典型であると言える。
お経を読み書きさせ、墓の土地代、墓石代、戒名代、葬式代、供養代…
何回忌まであるのかは知らないが、死後まで金を取り立てに来るのである。
それが何になるのだろうか?
占いに頼ることで過度な期待や落胆を覚える者がいる。
それは、現実逃避と言っても差し支えないだろう。
どの方角が良いとか、何色が良いとか、レイアウトがどうとか、名前がどうとか、その日やその年が良いや悪いなど、そんなくだらないことはどうでも良いことなのである。


2015年6月1日月曜日

追憶 994

未来を知りたいというのは、多くの人が持つ願望である。
それは、誰もが事を有利に運びたいからだ。
失敗しないように、苦しまないようになどと考えているだろう。
振り返ってみると、わたしたちは生まれた時には泣き声を上げることしかできなかった。
しかし、今ではこのような文章を読解することもできるのである。
人生を始めた頃に比べると、それは凄まじい成長であると言えるだろう。
初めは泣くことしかできなかったわたしたちが、ここまで成長することができたのはなぜだろうか?
それは、多くの経験を重ねてきたからである。
失敗を積み重ね、やがて小さな成功を上げる。
そして、再び失敗を積み重ね、成功を手に入れる。
このような経験を積み重ねた成果が、現在のわたしたちを作っているのである。