このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2014年12月31日水曜日

追憶 844

複雑に入り組んだ心を進むのは簡単なことではなかった。
進む程に胸騒ぎと不快感が増していくのである。
それでも、わたしは進む必要があった。
それは、この胸騒ぎと不快感を取り除くためである。
Tさんは何らかの形でこの感覚に苦しんでいるはずなのだ。
投げ出したい気持ちが蔦(つた)のように絡み付き、わたしを支配していく。
進む程に道は険しくなり、わたしは何度も挫(くじ)けそうになる。
しかしながら、人生には何が何でも果たさなければならない志がある。
わたしにとっては、Tさんの心を苦しめる原因とその問題を解決することがそれであるのだ。

2014年12月30日火曜日

追憶 843

ここまでは、わたしの勝手な推測である。
しかし、これは直感として受け取ったものであり、大抵の場合これが正しい。
直感に疑いをかけ、常識や価値観によって様々に考えるために、この正しい認識が歪むのである。
わたしは自らの直感を信じている。
そして、この直感の真偽をニュートラルな立場で検証する必要があるのだ。
直感は結果的に正しいことが多いだけであって、すべてが正しいという訳では無いからである。
わたしは乱雑に積み上げられた感情を掻き分けながら、胸騒ぎの理由を探るために奥へと進んだ。

2014年12月29日月曜日

追憶 842

整えられていない心は不快である。
図書館の書籍が何の脈絡もなく、ただでたらめに並べられていることを考えれば、この不快感を理解することができるであろう。
目的の書籍を探し当てるのは困難である。
わたしからすれば、Tさんの心は「困難」であった。
また、整えられていない心は正しく機能しない。
整備を怠る自動車が、正しく走行しないのと同じである。
きっと、Tさんは正しく心を使うことができてはいないだろう。
即ち、感情に翻弄(ほんろう)されて、苦しい人生を生きているに違いないのである。



2014年12月28日日曜日

追憶 841

瞼を閉じて、深く呼吸をし、わたしは心を落ち着ける。
自らの深層に存在している静寂を目指すのである。
静寂に辿り着くと、わたしは神の道具となる。
即ち、自らの意思とは別に肉体が導かれるのだ。
これによって、わたしは光の仕事を実行するのである。
大きな背中に目一杯に天使文字を描く。  
どういう原理なのかは分からないが、これによってTさんの心の扉が開き、内と外を行き来することができるようになるのであった。
Tさんの心の中には混沌(こんとん)が存在しており、様々な感情が不規則に積み上げられ、それが散らかっていた。
わたしはそこに統一性を見出すことができず、不快感を覚えるのであった。

2014年12月27日土曜日

追憶 840

無理矢理に瞼が開かれたのだ。
わたしは何かに否定されたのであろう。
それが、気分の悪さと胸騒ぎに関連していることは疑いようが無いように思える。
わたしは今回の仕事は骨を折るものになると覚悟を決めた。

大天使ミカエルは、Tさんを呼ぶように告げた。
わたしはその意思に従ってTさんを目の前の座布団に招いた。
ぎこちなく腰を下ろしたTさんの背中からは、戸惑いの印象を受けた。
その瞬間に胸騒ぎが更に高まるのも感じた。
Tさんには、これからわたしが叫んだり、倒れたりするかも知れないが心配ないという趣旨のことを伝え、気楽にしておくように頼んだ。
うなづいて見せたTさんの心の中には、不安の色が一層強くなっていた。

2014年12月26日金曜日

追憶 839

部屋に到着し、わたしは中央に置いてある虎柄の座布団を前にして座り、二人は入り口付近に腰を下ろした。
わたしは全身を覆う鳥肌と胸騒ぎが強くなっていることに気が付いていたが、それを態度には出さなかった。
二人には気楽にしているように告げて、わたしは深呼吸と共に瞼(まぶた)を閉じた。
視界には暗闇が広がっていたが、そこには何らかのネガティブな感情と気分の悪さがあるように思える。
そこはとても居心地が悪いのである。
その時、わたしは弾かれるようにして、強制的に瞼が上がるのを理解した。
秒速約30万キロで角膜を通過し、水晶体を超えて硝子体に入り、網膜から運ばれた情報を大脳が認識するのには、一瞬ではあるが、それは普段よりもコンマ数秒だけ遅れていた。
所謂(いわゆる)、目が眩んだ状態である。
そうなったのは、わたしが自らの意思で光を取り入れた訳では無いからである。

2014年12月25日木曜日

追憶 838

インターホンが鳴り、わたしは玄関へと向かった。
磨りガラス越しに、闇夜を背景にして大柄の男の影が浮き上がっている。
扉を開くと、そこには緊張を笑顔で隠すTさんの姿があった。
Tさんとは初対面である。
しかし、歳は離れているが、同じ小学校の出身であり、わたしには中学生か高校生くらいのTさんのことを見た記憶があった。
その後ろに隠れるようにして、Tさんの母親であるKさんの姿があった。
大柄であるTさんの迫力に負けて、Kさんの姿に気が付くのに少し時間がかかってしまった。
このKさんは、既に何度か光の仕事に来てくれていた。
そこでも様々な体験があるが、今回は割愛しよう。
わたしたちは互いに挨拶を交わし、わたしは二人を部屋に招き入れた。

2014年12月24日水曜日

追憶 837

朝から、わたしは嫌な予感に襲われていた。
胸騒ぎが続き、どうしても落ち着かなかったのである。
今晩はTさんという男性の予約が入っている。
自分なりに胸騒ぎの原因を探るが見当が付かない。
きっと、Tさんに関係していることなのではないかと思う。
わたしは嫌な気分のまま一日を過ごした。
前日か当日、もしくは何時間か前に、その日の光の仕事で会う人の抱えている問題や苦しみがわたしに届くということは良くあることである。
これは、光の仕事というものが、霊的存在たちの間での駆け引きによる影響によって、人間であるわたしたちが動いているという事情があるからである。
それが、Tさんの場合は朝から始まっただけの話であるだろう。

2014年12月23日火曜日

追憶 836

人生は様々な苦しみによって、わたしたちに努力することの価値を教えてくれる。
人生における問題や苦しみとは、人に本当の価値や幸福というものを理解させるための教育なのではないだろうか?
そのことを理解して人生の様々な状況に向き合うことが大切であるだろう。
一見すると、その教え(問題)が何を意味しているのか分からない。
青年は胸の痛みがNに対する未練であり、わたしに対する不満であるということに気が付くことは難しいであろう。
そこには、何の繋がりも無いように思えるからだ。
だから、人は努力しなければならないのである。
目に見える範囲、認識の及ぶ範囲だけで考えてはならない。
答えはそんなところにはないのだ。
人生を深く深く見つめなければならないであろう。

2014年12月22日月曜日

追憶 835

青年は胸の痛みが無くなるまで苦しむだろう。
この胸のナイフは、青年を成長させるための役割であり、その役目を終えると消えるはずである。
その時が苦しみとの決別であり、Nに対する思いとの別離なのであろう。
苦しみを受け入れることは誰にとっても難しいものではあるが、必要なことである。
わたしたち人間は苦しみを受け入れ、それによって成長するために生まれて来たと言っても過言ではないだろう。
人生には様々なことが起こり、そこには様々な感情が導かれる。
それを思いやりや感謝などの建設的なものにしていくのが、人の仕事なのではないだろうか?
不満や恨みの感情を導くのは簡単であり、何の努力も必要としない。
しかし、大切なのは努力することであり、努力して得られるものにこそ本当の価値があるのではないだろうか?

2014年12月21日日曜日

追憶 834

人生において大切なことは、先へと進むことである。
わたしたちは様々な問題を抱えて苦しむ。
時には怒り、時には悲しみ、時には恨み、時には絶望する。
心が苦しみに捕らわれてしまうと、そこから抜け出すことは難しく、同じことを延々と考え続けるのである。
そこには心地好さはないのだ。
苦しみ続けることが幸福であるはずがないのである。
目の前にどのような問題が起きようとも、わたしたちはそれに捕らわれてはいけない。
しかし、そこから抜け出すことは容易ではない。
そのために、人生は難しく、生きることは辛いのである。

2014年12月20日土曜日

追憶 833

彼の中には、Nを思う気持ちがあるはずである。
わたしにはそれが良く分かるので、青年をかわいそうに見てしまう。
しかし、そこに必要が存在していることも知っている。
彼にはかわいそうではあるが、それぞれが成長するためには仕方のないことだったのであろう。
現時点においては、わたしを含め、Nにも青年にも、このような状況に導かれた理由は分からないであろう。
しかし、何らかの必要が存在しているためにこうなったのは理解することができるはずである。
わたしたちはその理由を探すために、それぞれの立場で受け入れなければならないのだ。
受け入れることがなければ、理由を探すことはできず、理由を探し出すことができなければ、先へと進むことはできないのである。

2014年12月19日金曜日

追憶 832

一連の経緯を聞くNの瞳は、真っ直ぐにわたしの瞳を捉えていた。
Nは不思議そうな顔ではあるが、一生懸命にわたしの話を理解しようと努めているようであった。
ナイフが無くなると、Nもわたしも胸の痛みが嘘の様に消えていた。

後日、Nがわたしを訪ねた。
Nには話したいことがあるようであった。
わたしが青年にナイフを返した翌日、Nは普段通りに登校した。
そこで、普段通りに過ごしていた。
そこに一人の男子生徒がいて、彼がNに対して「胸が痛い」と胸を摩りながら訴えていたとのことだった。
Nはこの時に、青年が誰であるのかを理解したのである。
それは、わたしよりも以前に交際していた青年であったのである。



2014年12月18日木曜日

追憶 831

しかし、思いを汲(く)んで成長することができるかは青年次第である。
いくら話して聞かせ、行って見せたとしても、それを学び取る意思がなければ成果として現れることはないのである。
結局は、自力に頼る必要があるのだ。

大天使ミカエルは、わたしに青年までの道を示した。
大天使ミカエルはこのナイフを青年に返すことをわたしに命じているのである。
わたしはナイフに思いを込めて、それを青年へと投じた。
ナイフは一直線に飛び、青年の胸に刺さった。
それを見届けて、わたしは瞼(まぶた)を上げた。

2014年12月17日水曜日

追憶 830

わたしはこの青年よりも歳上である。
従って、この青年からすれば大人なのである。
わたしはこの青年に大切なことを伝えなければならない。
この方法が間違いであると教えることができるのは、思いを向けられたわたしの仕事なのである。
わたしはこの青年が誰であるのかを知らないために、直接話をすることはできない。
わたしにできることと言えば、霊的な働きかけによって、間接的にでも伝えることなのである。
わたしは手に持つナイフを青年に返そう。
青年の元から来たこのナイフに思いを乗せて返すのである。
間接的にではあるが、思いが伝わった時には、青年はある程度の成長を実現しているだろう。

2014年12月16日火曜日

追憶 829

そのために、人は簡単に他人に対して怒りの感情を抱くし、恨むのである。
そして、自分自身を正当化することによって、これは自らの正義の戦いだと思い込むのである。
その考えは間違っていると教える大人がどれだけいるだろう?
残念ながら、わたしはそのような大人に会ったことがない。
そのために、わたしは自らの魂の汚れを取り除くことができずに、更に歪んでしまったのである。
誰もが他人を嫌い、敵がいるのだ。
わたしの両親でさえ、あからさまでは無いにしても好き嫌いはある。
人の悪口を言うような両親ではないが、幼かったわたしが人の悪口を言うことがあり、それを制することはあっても、正しい道を示すことはなかった。
わたしは両親から道徳的な教育というものを明確に受けた記憶はない。
それはエゴや常識の植え付けの回避という観点においては感謝しているが、それはプラスマイナスゼロであって、教育であるとは言えないのである。



2014年12月15日月曜日

追憶 828

何らかの理由で他人に憎まれたり、恨まれたりすることはあるだろう。
例え身に覚えのないことであろうとも、誤解や逆恨みなどということもあるのだ。
しかし、他人がどのような思いを自分に対して向けようとも、こちらはそれにネガティブな思いを返してはならないのである。
わたしたちは、他人に害されると思っているが、事実としてはそのようなことはない。
何度も言うが、この世界には因果の仕組みという誰も逆らうことのできない真理が存在している。
他人に害されていると思えることであっても、その原因は自分自身にあり、他人には無いのである。
この事実を知らずに生きている人が大半である。
今日の日本では、このようなことを教えることのできる人物はほとんどいなくなってしまったのだ。

2014年12月14日日曜日

追憶 827

わたしはこの思い(ナイフ)を本人に返さなければならなかった。
それは、因果の仕組みである。
人を呪わば穴二つという言葉があるが、自分自身の思いが自分自身を決定する。
誰かに対してネガティブに思えば、そのネガティブに思う心が原因となり、自らに仇(あだ)となるのである。
どのような思いであれ、それが返ってくる、そして、それが自分自身の原因となるということを覚えておかなければならないだろう。
人は自分勝手に思いを向けるが、それがどのような結果を導くのかを知る必要があるだろう。
誰なのかは分からないが、わたしはこの青年に対して思いを返さなければならない。
しかし、怒りの感情を抜いてきれいにした思いなので、決して災いを返すのではない。
ここが重要なのである。

2014年12月13日土曜日

追憶 826

これは、怒りの感情が抜けた人の思いである。
ナイフの形をしているのは、わたしの認識に頼るところが大きいであろう。
わたしにはナイフに見えるということである。
言葉が人の心に届き、それを癒したり傷付けてしまうように、思いであっても同じ結果をもたらす。
言葉には相手に直接的に認識させる力があるが、思いにはそれが弱い。
しかし、認識させる力が弱いからといって、影響力が弱いということではない。
Nとわたしの胸を刺し、実際の痛みを与えたように、それには確実に影響力があるのである。
人の思いには、力があることを忘れてはならないであろう。
わたしたちは思いに従って行動するのである。

2014年12月12日金曜日

追憶 825

わたしは力一杯に胸に刺さるナイフを抜いた。
それと同時に、わたしは大量の破滅的な意識をゲップによって吐き出すのであった。
破滅的な意識を吐き出すと、気分の悪さと体調の不調が嘘のように消えた。
気分の良さに喜びを感じて、わたしは心の中で感謝を紡いだ。
ナイフを見ると、刃の部分が赤黒い光を放っていた。
これは、不快なものである。
怒りの感情がそうさせるのであろう。
わたしは人差し指と中指を伸ばして、宙に線を引いた。
するとそこには一筋の金色の光が生まれ、それは光の杭となるのである。
光の杭を掴んで、ナイフに突き刺した。
すると、甲高い悲鳴のようなものが響き、刃の部分の赤黒い光が失われ、それは何の変哲もない銀色のナイフとなった。

2014年12月11日木曜日

追憶 824

わたしにできることと言えば、この方法が間違っていると教えることくらいだろう。
わたしには彼の心を操作する力は無いし、それは彼の仕事なのである。
わたしには誰の心も変える力は無いし、他人を救えるなどと思ったことはない。
わたしに救えるのは自分自身だけである。
人は自分以外を救うことなどできないであろう。
他人を救えると考えるのは思い違いであり、思い上がりである。
この青年を救えるのは、青年自身だけなのだ。
わたしはナイフを掴む指に力を込めた。
すると、気分が悪くなるのを感じて、ゲップと共に黒い煙のようなものを吐いた。
それは苦しかったが、わたしの愛の方が勝っていた。

2014年12月10日水曜日

追憶 823

わたしはこの青年を理解しようと努めた。
そうすると、胸に刺さるナイフが深く食い込むように感じた。
わたしは痛みを気にすることなく、慈しみによって青年を見つめていた。
青年は敵意を向けてきたが、それは苦しみから生じた一種の不器用な方法だったのである。
この青年を子どものように感じたし、昔の自分自身を見ているような気持ちになったのだ。
わたしの仕事は、この青年を間違った考えや感情から引き抜くことであるだろう。
どのようなことがあろうとも、苦しむことは間違っているのである。
ましてや、人を恨んだり、敵意を向けるなどという行為が人の道として正しいはずがないのだ。
わたしは人生の先輩として、この青年に大切なことを伝えなければならない。
人の生きる道において大切なことを教える必要があるだろう。

2014年12月9日火曜日

追憶 822

この痛みは、切なさであった。
愛する者を失った時の辛さである。
わたしは久しく忘れていたが、ようやく思い出すことができた。
その時、わたしは自らの心に同情が生まれていることに気が付いたのである。
わたしもこの痛みに苦しめられたことがある。
どうしようもなく辛いのだ。
わたしはこの思いをかわいそうに思った。
この辛さを自分自身に置き換えて考えることができるのである。
その時、わたしは人影を見た。
それは十代の青年であった。
顔の作りまでは認識することができないが、なぜかそう思うのである。
わたしはこの青年が苦しみの原因であるということを直感的に理解した。
間違っているかもしれないが、それ以外には考えられないのである。
青年からは怒りの印象を受けるが、その中には悲しみが溢れていると感じるのであった。

2014年12月8日月曜日

追憶 821

わたしは瞼(まぶた)を閉じて、この鳥肌の原因に対して意識を集中した。
すると、すぐに敵意を見付けることができた。
その敵意を手繰り寄せていると、どこからともなく小さな声のような音が微かに聞こえてくる。
集中して聞いても、何を言っているのかを聞き取ることはできなかったが、それは何かを悔しがっているように思えた。
敵意と共に、悔しいという感情が伝わってくるのである。
それが発せられる場所に近付いて行くほどに、わたしは胸を引き裂かれるような痛みを感じていた。
これ以上は進みたくないと思ったが、進まなければならないという気持ちが勝るのである。
わたしはこの痛みの中に何か懐かしさを感じていた。

2014年12月7日日曜日

追憶 820

それは明らかな敵意であった。
わたしは胸の奥が激しく脈打つのを感じた。
血圧が上昇し、身体が臨戦態勢を整えたようである。
わたしは自らの感覚が研ぎ澄まされるのを感じていた。
これは無意識の反応である。
わたしの中の防衛本能が反射的に働いたに違いない。
わたしはこの状態が好きではない。
緊張し、疲れるからである。
わざと深く呼吸をして、身体に対して冷静になるように告げる。
深呼吸を繰り返していると、鼓動の高鳴りは徐々に収まっていった。
しかし、全身を覆う鳥肌は収まりそうにはなかった。

2014年12月6日土曜日

追憶 819

ある日のこと、Nが学校からの帰りに立ち寄った。
わたしの自宅は、Nの自宅と学校の間にある。
わたしは笑顔で迎え入れたが、Nは複雑な表情を浮かべていた。
気になって尋ねると、胸が痛いのだと言う。
その時に、わたしも胸が痛くなるのを感じた。
何か鋭い物が胸に刺さるような感覚である。
見てみると、わたしの胸にナイフのようなものが突き刺さっていた。
驚いて、その柄(え)を掴み抜こうとした時に、全身に鳥肌が走るのを認識した。
それと同時に、そこに強烈な人の意思を感じるのである。

2014年12月5日金曜日

追憶 818

これは、わたしに対する気持ちが迷いを振り切ったということを示しているのではないだろうか?
わたしは自然とNの手を取っていた。
後に聞いたことではあったが、Nがわたしを訪れた時には、交際をしていた彼とは別れていたそうである。
理由は分からないが、Nはわたしと共の時間を生きることを選択してくれたのであった。
Nの心が晴れたように感じたのは、わたしと元交際相手との間で不安定に揺れていた状態から解き放たれたからだろう。
Nにとっては大きな問題であったに違いない。
それは、痛みにも似た悩みであっただろう。
わたしはこの状況を喜んだが、それは素直なものではなかった。
Nの元交際相手のことを気にしていたのである。



2014年12月4日木曜日

追憶 817

Nは返事をしなかった。
わたしも答えを求めてはいなかった。
ただ、わたしは大天使ミカエルの意思に従えたことを嬉しく思うのであった。

Nからの返事が無いままに、しばらくの時が過ぎた。
ある日、Nから会いたいという趣旨のメールがあり、Nが自宅に遊びに来ることになった。
仕事以外で、それもNが一人でわたしを訪ねるのは初めてのことであった。
わたしたちは普段通りに楽しく過ごしたが、そこでわたしはNの心がいつもとは違うのではないかと思ったのである。
比喩(ひゆ)することは難しいのだが、何か心が晴れたような、純粋さが増したような、そんな感覚であった。

2014年12月3日水曜日

追憶 816

それにこの時、Nには交際している相手がいたようだ。
詳しくは知らないが、わたしにはそれを壊す権利はないと思えたのである。
大天使ミカエルの意思は、何かしらの必要を満たすためのものであるだろう。
しかし、それは絶対というものではないと思える。
わたしたち人間には「神様」から自由意思が与えられ、守護者の意思を受け入れないという選択肢もあるのだ。
大天使ミカエルがわたしを叱咤(しった)したのは、先述したように、これはわたしが自分自身の意思によって志した道であるからである。
わたしが自分自身の意思によって志すことがなければ、大天使ミカエルはわたしのことなど気に留めてはいないのだ。
もちろん、Nにも自由意思が与えられており、それを大天使ミカエルやわたしが歪めることなどできるはずがないのである。

2014年12月2日火曜日

追憶 815

Nに対して気持ちを伝えるのは、Cさんに対するものよりも幾らか気楽なものであった。
わたしはNにことの顛末(てんまつ)を正直に伝えた。
恋愛感情も無いままに交際を申し込むのは、わたしの常識からは外れているが、これはNにとっても同じであるだろう。
わたしは申し訳ない気持ちを感じていた。
必要なことを伝え終わると、わたしは返事を急いではいないことも付け加えた。
この場で返事をすることなど到底無理だと考えたからである。
大天使ミカエルと直接話したわたしでさえ、今だに混乱しているのだ。
Nに理解できるはずがないのである。

2014年12月1日月曜日

追憶 814

しかし、Cさんの口を吐いて出た言葉は、またしてもわたしの想像を裏切った。

「良いんじゃない」

それは、またもやわたしの意思を肯定する言葉だったのである。
今度は、すべてを丁寧に説明した。
しっかりと理解した上での発言である。

「恋愛に歳は関係ないと思うよ。わたしだって旦那とは10歳離れているし、(わたしとNの歳の差が)9歳なら大丈夫よ。お互いが好きなら応援するよ」

このように付け加えてくれた。
わたしは嬉しく思い、感謝を言葉に乗せた。
しかし、ここまでは自分勝手な話である。
Nの気持ちは全く反映されていないのである。