このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2014年7月31日木曜日

追憶 691

自らを磨けば、それに相応しい守護者が現れる。
それは、成長したあなたが、今までよりも素敵な人たちに出会うのと同じである。
人は自らの人格に等しい人たちと共に生きなければならない。
自らの志(精神レベル)が低いのであれば、それに等しい人たちと共にいる。
悪口を吐く者は、悪口を吐く者と共にいるのである。
悪口を吐く者が、人を褒める者と共にいることは有り得ない。
人を褒める者は、人を褒める者と共にいるからである。
幸福を求め、高い志を持つ人物には、霊格の高い守護者が共にいる。
それは、その人の思いを実現するためである。


2014年7月30日水曜日

追憶 690

即(すなわ)ち、守護者を意識した上で自らを磨けば、守護者との間の絆が高まり、直感などの第六感と呼ばれる普段は使っていない力を引き出すことができるようになるのである。
別に超能力者や預言者のようになると言っている訳ではないが、守護者との協議によって自らの選択の質が一人で行う時のものよりも向上するということである。
誰かに相談すると、自分では思い付かなかった答えを得られることがあるだろう。
そのような状態が、自分自身の中だけで行えるということなのである。
そして、わたしがハクとコン(狐の神様)、白龍神(北灘湾の神様)、大天使ミカエルというように守護者の数が増え、そのレベルが上がってきたのは、自分自身が少しずつでも成長してきたからに違いない。


2014年7月29日火曜日

追憶 689

守護者とは導きである。
守護者は人が感知することができないことまで知っている。
それは、視点が違うからである。
守護者は意識的な存在である。
この世のすべての事柄が意識から物体へと変化している。
アイデアが形になるのと同じである。
どのような物も状況も、意識という原因から生じているのだ。
人は意識のレベルで事の成り立ちを見ることができない。
しかし、意識的な存在である守護者にはそれが見えているのだ。
人が自らの格を高めれば、守護者との関係性(絆)は高まる。
そうすれば、守護者からの働きかけが強化されるのである。
そして、人は守護者からの声を直感として受け取るようになる。


2014年7月28日月曜日

追憶 688

しかしながら、わたしたちの認識が及ばないところでは、守護者が様々な働きをしているのである。
それを奇跡や偶然として片付けるのは余りにも不躾(ぶしつけ)であるだろう。
人生というものは、わたしたち人間の生き方と守護者の働きによって成り立っているのだ。
そのことを忘れてはならない。
人は自分自身に対して、そして、守護者に対しての感謝の気持ちを忘れてはならないだろう。
感謝の気持ちがあれば、不満や不安などの破滅的な状態を生み出すことはないからである。
自分のために働いてくれている存在があることを忘れてはいけない。
そして、感謝の気持ちを以て生きる人は、その人格が成長する。
人が成長するなら、それを守る守護者も成長することができるのである。

2014年7月27日日曜日

追憶 687

この世に奇跡などというものは無いと思うのだ。
それは、経験上そう思っている。
原因が無ければ結果は出ない。
奇跡に見えることは起こるだろう。
しかし、それにも原因が存在しているはずなのである。
奇跡に見える結果の原因がどこにあるのかを知らないために、それが奇跡的に起こる現象なのだと思うのである。
わたしたちは奇跡が起こるのを信じて生きてはならないだろう。
わたしたちは原因が結果を導くという真理を信じて生きていかなければならないのだ。
そう考えれば、生き方が変わるに違いない。
不満に思うことも、不満のままであってはならないと思うだろう。
しかし、奇跡を信じている人は自己を省みることはない。
心の状態がどのようなものであっても、奇跡が起きて帳消しにしてくれるなどと思っているのである。



2014年7月26日土曜日

追憶 686

神が誰かを特別視することなど有り得ない。
良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こるのである。
守れば育ち、叩けば壊れるのである。
誰がやっても同じ結果になる。
それが真理である。

Cさんはこれから、白い犬という守護者を意識しながら生きていくだろう。
そして、心の状態を大切にするに違いない。
これから、Cさんは自分の力によって自己を正し、人生を豊かな方向へと向かわせることになるだろう。
しかし、それは努力が続けばの話である。

2014年7月25日金曜日

追憶 685

わたしたちは真実を知って生きていかなければならない。
間違った方法では、どれだけ努力しても無駄である。
多くの人が冠婚葬祭の儀式を執り行う。
しかし、人の中にはこれだけたくさんの苦悩があり、世の中にはこれだけたくさんの破滅的な状態の霊がいるのだ。
一生懸命にお経を覚え、それを毎日飽きずに唱え、欠かすことなく行事に参加し、仏壇やお墓を買い揃え、多額のお布施をする。
その結果、人は天へと向かうのだろうか?
残念ながら、そのようなことはない。
神に祈るだけで救われるような甘い世界ではないのだ。
この世界は原因と結果という真理に従ってのみ動くのである。
それが、神の作ったシステムである。
神が人を救うのではない。
神の作ったシステムが人を救うのである。

2014年7月24日木曜日

追憶 684

間違った形の信仰は、幸福どころか不幸を招いてしまう。
今日の日本にも様々な宗教が乱立しているが、残念ながらすべてが間違った信仰であるということを言わなければならない。
宗教を否定しているのではない。
やりたい奴はやれば良いのだ。
しかし、宗教というものは所詮(しょせん)人が作ったものである。
それに、時間の経過と共に足したり引いたりして形を変えていく。
そして、宗教を引き継ぐのは神を知らない人間なのである。
自らの信仰する神を見たこともないのに、どうやってその道を説くというのだろう?
会ったことも無い人のことを自分勝手に公言する者は嘘吐き以外の何者でもないのである。
それが人の正しい道だと言うのは間違っているのだ。
偽物を偽物として売るのは良い。
しかし、偽物を本物として売るのは許されない。
偽物と知らずに売っても、偽物を売ったのであれば罪人なのである。

2014年7月23日水曜日

追憶 683

わたしは20歳を超えるまでは霊的な存在を見たこともなかった。
そのため、否定はしなかったが懐疑的な立場であった。
そのため、わたしには信仰がなかったのである。
それは、実体験としての実感がなかったからである。
どのような人も実際に体験すれば信じざるを得ないだろう。
しかし、それを体験することができないのが実情である。
それは、現時点においては体験する必要がないということなのであろう。
偽物の「神」を祭るのは間違っている。
誰が何を信じようとも、わたしには関係のないことではある。
しかし、実際に触れてみて、それがどのようなものであるのかを実感することがなければ危険なのだ。

2014年7月22日火曜日

追憶 682

この世のほとんどのことが、目には映らないレベルで進行している。
目に映るのは距離も大きさも光量も限定されたものである。
遠過ぎるもの近過ぎるものは映らない。
大き過ぎるもの小さ過ぎるものも映らない。
明る過ぎるもの暗過ぎるものも映らないのである。
人は電波や磁気が存在しているということを発見したが、それらを発見するまでは誰一人としてその事実を信じることができなかったのである。
ならば、電波や磁気が意思を持ち、霊という意識的な存在を形成しているということを知らないからといって、どうしてそれを否定することができるだろうか?
知らないからといって否定するのは浅はかであると知らなければならないのだ。

2014年7月21日月曜日

追憶 681

守護者の存在が無ければ、Cさんの苦しみはより深いものであっただろう。
守護者である白い犬のおかげで、現状で済んだと知らなければならないのだ。
しかし、多くの人はこのことを受け入れることができない。
そして、守護者に敬意を払うこともない。
それで良いのならばそれで良い。
何を信じ、どのように生きようともその人の事柄である。
強制的に何かを信じさせる必要はないのだ。
間違っていれば苦しむ。
そのようにこの世の真理が答えを教えてくれるのだ。
守護者の存在を受け入れない人は、何らかの苦しみを以てそのことに気が付くのである。

2014年7月20日日曜日

追憶 680

目に見えているものだけを追って生きるのは簡単であり、目に見えないものを追って生きるのは難しい。
そのため、多くの人は前者となる。
簡単なことにあっては得るものは少ない。
難しいことにあっては得るものは多いのだ。
目には映らない霊的な存在である守護者を意識しないで生きる人の人生は簡単である。
目には映らない霊的な存在である守護者を意識して生きる人の人生は難しい。
守護者を意識して生きる人は、人の目が届かない状況にあっても、不正を働くことができないからである。
守護者を意識することなく生きる人は、人の目が届かなければ不正を働くことを厭(いと)わないであろう。
厚かましい者は、人の目が届こうとも不正を働くのである。

2014年7月19日土曜日

追憶 679

わたしたちは真実を知らなければならない。
しかしながら、真実は隠されているのが現状である。
それは、人が「忘れて」生きるためである。
人は知っていたことを知らずに生きなければならないのだ。
それは、知らずに生きることによって、知ることが強化されるためである。
失って得る方が価値が上がるのだ。
人は霊である。
すべての人が霊的な存在として、霊的な存在と共に生きているのが真実である。
本来、すべての人がこの事実を知っていたが、信仰を増すために忘れるのである。
Cさんは白い犬のことを無意識下における霊的な感覚では認識していたはずである。
しかしながら、霊的な感覚によって生きていない状態であるため、その事実に気が付かないのである。

2014年7月18日金曜日

追憶 678

守護者は未熟な人が経験を積み、成長を実現するためのサポート役なのである。
子どもが立派に成長するためには、親がその失敗を許し、大きな心で見守ることが大切である。
親は子の過ちを許し、代わりに謝るのが仕事であるのだ。
親が子をかばうのは当たり前のことなのである。
守護者は守護の対象の親のようなものである。
白い犬はCさんの霊的な親であるのだ。
白い犬はCさんのことを精一杯に守った。
その結果、闇に覆われてしまったのである。
世間では、これを悪霊だと言ったり、祟(たた)られているなどと言うが、わたしにはこのような守護者を責めることなどできない。
真実を知れば、誰も彼らを非難することなどできないのだ。

2014年7月17日木曜日

追憶 677

白い犬はCさんの守護者であるため、その幸福を望み、そのために努めていたに違いない。
しかしながら、様々な経験を通して生まれ出るCさんの感情がネガティブなものであるのならば、その心は闇に覆われて不幸を導いてしまう。
それを防ぐために、白い犬は心の闇を自らの中に取り込んだのだろう。
そして、黒い獣の姿になったのである。
しかしながら、それが悪いということはない。
わたしたちは未熟であり、学んで成長するために生きているのである。
未熟であるのだから、失敗するのは当然である。
寧ろ、失敗しない方が不自然なのだ。

2014年7月16日水曜日

追憶 676

守護の対象の代わりに破滅的な意識を取り込むと、水の中に黒い絵具を垂らすようにして染まる。
破滅的な意識の量によって、その濃度が変わるのだ。
黒い絵具の量が多ければ水は黒色に近付くのと同じである。
黒く染まった水は水ではなくなる。
それは、全くの別物だと言えるだろう。
破滅的な意識に染まってしまった守護者は、本来の性質や仕事とは異なる存在となる。
守護者の本来の目的が守護の対象の幸福であるなら、破滅的な意識に染まってしまった後の目的は、守護の対象の不幸という具合に真逆の状態となってしまうのだ。
光が闇に変わり、喜びが苦しみに変わるのである。


2014年7月15日火曜日

追憶 675

守護の対象は未熟な人間である。
未熟な人間は、人生の問題に対して思い煩(わずら)う。
怒りや悲しみなどの感情は破滅的な意識として心に蓄積する。
破滅的な意識は黒く、冷たくて重いのである。
「心が暗い」「気分が沈む」「気が重たい」という表現は、心の状態を現したものである。
心を害した人は、その心に光を失うことによって苦しむ。
守護者はその人の成長と幸福を求めている。
そのため、心に破滅的な意識が生じると、それを身を以て制するように努める。
その時に、守護の対象の代わりに破滅的な意識を蓄えることはできても、それを浄化するということはできないのである。(人の守護者の大抵が、そのレベルにない)

2014年7月14日月曜日

追憶 674

守護者(守護霊、守護神、守護天使…)という存在は霊であり、言わば心(意識)である。
その人の心の中にいる存在であり、その心と一体である。
守護者はその人の心を守り、その人が豊かな心で幸福な人生を歩めるように努めている。
しかしながら、人生とはそれを生きる人のものであり、守護者といえども脇役に過ぎない。
守護者がその人の代わりに人生を選択して築くのはタブーであると言えるだろう。
失敗しようが、窮地(きゅうち)に立とうが、それを学べるように守るのが守護者の仕事なのである。
守護者とはその名の通り保守的な存在なのだ。
守るために存在しているのであって、攻撃して攻めるためには存在していない。
そのため、それが破滅的な意識でさえ受け入れなければならないのである。

2014年7月13日日曜日

追憶 673


「ありがとう」

そう聞こえた。
わたしの心には、白い犬からの感謝の気持ちが幾つも届いているのである。
あまりに執拗(しつよう)に御礼を繰り返すために、わたしは居心地が悪かった。
そのため、わたしは白い犬を制するのであった。
すると、白い犬は聞いてもいないのに自らの身の上を話し始めた。

この白い犬はCさんを守る役割を担う、言わば守護者である。
世間では、守護霊と呼ばれる存在である。
白い犬がいつの頃からCさんを守護していたのかは分からないが、最近までは自らの役割を果たせていなかったのは事実であろう。
そこには、守護者(守護霊)としての仕方のない事情があったのである。




2014年7月12日土曜日

追憶 672

わたしは精一杯の愛情を以て白い犬を抱き締めた。
すると、白い犬が眩い光を放ち、その毛並みを更に白く染める。
わたしはその光が眩しくて瞼(まぶた)を閉じた。
腕が軽くなった感覚を得て顔を上げると、目の前には白く立派な犬が座って真っ直ぐにこちらを見ているのである。
その目には確かに力がみなぎっていた。
強い意思を伝えるその目を見ると、この状態が獣の本当の姿であると理解することができた。
わたしは嬉しくなって笑みを浮かべた。
すると、表情に違いはなかったが、白い犬も笑ったように感じた。

2014年7月11日金曜日

追憶 671

光の杭を作り出し、抱えている獣の身体に突き刺した。
すると気分が悪くなって、ゲップと共に黒い煙のようなものが出る。
そんなことを何度か繰り返すと、わたしは獣を強く抱き締めたくなり、腕に力を込めた。
すると、黒い獣が白い光を放って輝き始める。
わたしはそれを嬉しく感じて、更に強く抱き締めるのであった。
強烈な光に包まれて姿が見えなくなって、しばらくして光が収まると、そこには白い毛並みの立派な犬がいた。
腕の中で眠る白い犬を眺めていると、わたしは狛犬(こまいぬ)を連想するのであった。

2014年7月10日木曜日

追憶 670

光の杭が獣の身体を貫くと、耳をつんざかんばかりの悲鳴が辺りに響いた。
黒い獣が、その身体よりも更に黒い血反吐のようなものを吐きながら倒れた。
それが出た時、わたしは安心して胸を撫で下ろした。
あの黒い血反吐のようなものが獣の中の汚れであると理解することができたからだった。
根拠は無いが、そうだと思えるのである。
わたしは手を伸ばして、倒れて動かなくなった獣を抱えた。
姿はまだ黒いままであり、本来の姿も想像することはできない。
獣を眺めていると、更に光の杭を突き刺すべきだと強く感じ、わたしは空中に手を伸ばした。

2014年7月9日水曜日

追憶 669

赤黒い汚れを何度も何度も吐き出し、それがそれ以上は出なくなった時、わたしは疲れ果てていた。
全身が重たく、何とか立っているような状態であった。
息を切らしながら獣を見ると、黒い姿はしているものの、倒れ込むようにしている状態を見ると、わたしに向けられた殺意が薄れていることが分かる。
汚れを取り除いたから、殺意も薄れたのだろう。
わたしは一旦安心した。
とりあえずは、獣は強烈な殺意からは解放されたからである。
疲れ果てていたが、そのようなことを気は掛けず、右手は空中に差し出された。
人差し指と中指を振り下ろし、光の杭を生み出す。
光の杭を掴み、それを黒い獣に向かって投じた。
光の杭は一直線に飛び、黒い獣に突き刺さった。

2014年7月8日火曜日

追憶 668

吐き気に従って、赤黒い大量の液体を吐瀉(としゃ)した。
血のように見えるそれは、意識の膿(うみ)であるように思える。
意識がネガティブで破滅的な状態を得て、腐敗してしまったのだと確信したのだ。
これは、黒い獣から出たものである。
わたしは獣の持つ意識の汚れを代わりに取り除こうとしているのである。
獣は尚もわたしに対して殺意を抱き、それを惜しげも無く向けていた。
この獣はどれほどの汚れを溜め込んでいるのであろう?
赤黒い汚れた意識を大量に吐き出しても、その姿は黒いままなのである。
今のわたしにできることと言えば、獣が抱える汚れを取り除くことだけであろう。
わたしは純粋な心で、獣の汚れが取り除かれることを願った。

2014年7月7日月曜日

追憶 667

わたしが近付くと、獣の発する殺意が濃くなった。
全身の毛を逆立てて必死に威嚇(いかく)する野良猫のように、獣はわたしに対して最大限の敵意を以て迎え受けようとしていた。
わたしは怖くはなかった。
わたしは光である。
恐れはないのだ。
それに比べて、目の前の獣はわたしを恐れているようでならない。
わたしのことが怖いから、必死に威嚇しているのだろう。
野良猫は人間が怖いから威嚇するのである。
この黒い獣もわたしのことを恐れているに違いない。
弱い犬程よく吠えるという言葉があるが、あれは真理を現している的確な言葉なのではないだろうか?
黒い獣に手が届きそうな距離まで近付いた時、わたしは強い吐き気に襲われた。

2014年7月6日日曜日

追憶 666

この獣が黒くなったのには理由があるはずだ。
Cさんの童心が傷付いて歪んだのに理由があったのと同じ原理によって、獣は黒くなってしまったのだと推測されるのである。
Cさんの心の中にいた少女が故意に苦しんだ訳ではないように、この獣も現状は不本意であると思える。
ならば、この獣の心の傷と歪みを取り除くことができれば、Cさんの心の中にいた少女のように、本来の穏やかさを取り戻すことができるのではないだろうか?
わたしは獣の心の中の洞窟を進むために、愛情という名の灯火(ともしび)を絶やさないように努め、目の前の黒い獣に歩み寄った。


2014年7月5日土曜日

追憶 665

わたしは心を強く保った。
闇に屈するのであれば、わたしはCさんのことを救うことなどできるはずがないのである。
誰かを助けるためには、それだけの覚悟が必要だということである。
恐れて立ち尽くしている者に誰かを守ることなどできない。
守ることができない者には、救うことなどできるはずがない。
人は強くなければならないのだ。
わたしたち人間が強くあるためには、自分が何者であるのかを思い出せば良い。
自分が光の子であると思い出すのであれば、恐ることなどないのだ。
光は温かい。
それは、愛情なのである。
わたしが光の子であるということを思い出した時、心には黒い獣に対する愛情があった。

2014年7月4日金曜日

追憶 664

急に目の前のことが馬鹿らしくなったのだ。
なぜわたしが、たかだか獣一匹に怯えなければならないのか?
冷静に考えれば分かることである。
人間様を舐めてもらっては困るのだ。
わたしの守護は天使であり、光なのである。
光は闇を照らし、闇を包み込んで光に変える。
光の前ではどのような闇もその性質を保つことはできない。
それがこの世の道理であると、わたしは知っているのだ。
わたしが光であるなら、闇をまとうこの獣がわたしに勝ることなど有り得ない。
恐ることなどないのである。
いつの世も光が勝る。
そのために、世は発展してきたのだ。
世が衰えることは有り得ない。
それは、光が闇に負けることは有り得ないからである。

2014年7月3日木曜日

追憶 663

それは、闇に覆われていた。
目鼻は認識することができない。
まるで水墨画のようである。
しかし、わたしに向けられた悪意は理解することができる。
わたしに対する強烈な殺意を感じるのだ。
わたしは胸が萎縮するのを認識した。
胃が痛くなるのではないかと思えるほどに緊張している。
全身の毛が逆立ち、理性が投げ捨てられる。
次の瞬間、わたしは自分自身の叫び声で我に返った。
わたしは自分自身を鼓舞するように雄叫びを上げていたのである。
これは無意識の行動ではあるが、そのおかげでわたしは理性を取り戻した。
冷静さを取り戻したわたしは、この状況が可笑しくてたまらなかった。
笑いが込み上げてきて、わたしは高らかに声を響かせた。


2014年7月2日水曜日

追憶 662

わたしは再び、瞼を閉じなければならなかった。
そして、右手がCさんの背中に天使文字を描き、それを背中に押し込む。
すると、Cさんを背後から眺める視点に辿り着いた。
そこでわたしは、Cさんの頭に絡み付くようにしている黒い動物の姿を見たのである。
吐き気に襲われて黒い煙のようなものを吐瀉(としゃ)した。
これは悪意であると理解することができる。
わたしはまた心が乱れ、怒りの感情が湧いて出るのを認識するのであった。
その時、黒い姿をした動物のようなものがわたしに気付き、いやらしい視線をわたしに向けたのが分かった。
しかし、その瞳を捉えることはできなかった。

2014年7月1日火曜日

追憶 661

少女の存在と成り立ち、そして彼女から得た教訓と新たな方向性。
これ等の必要をCさんに伝え終わると、Cさんの反応を見る前に強烈な頭痛に襲われた。
釘のような鋭利なものでこめかみに穴を開けられるような感覚である。
わたしはそれに驚くのと同時に、頭の中に強制的に流れ込む映像を見た。
それは、黒い姿をした動物であった。
一瞬のことであったので、影のようなシルエット以外に認識することはできなかったが、それは狐のような姿をしていた。
それは禍々(まがまが)しいオーラを放ち、わたしの危機感を煽(あお)ってきた。
わたしの心はこの危機感に対して高揚した。
頭の中ではアドレナリンが爆発しているようであった。