このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2013年6月30日日曜日

追憶 495

その答えを得るためには、「何のために生きるのか?」という答えが必要である。
何のために生きるのか?ということが分からない人には、幸福とは何であるのかを理解することができないであろう。
わたしはとにかく、自分という存在が何のために生きるのか?という答えを探さなければならない。
例えそれが見付かったとしても、探し続けなければならないだろう。
人には常に道(可能性)が必要なのである。
信念に従って生きる人は幸福を得る。
信念を持たず、怠けて生きる人が幸福に辿り着くことはないであろう。
わたしはこの世界の何かや誰かに貢献したいという思いが芽生え始めていた。
もちろん、思うだけでは何も得られない。
人は行動によってそれをその手に掴まなければならないのである。
わたしは自分の「好きなこと」によって、自分にできることがないか?を探していた。


2013年6月29日土曜日

追憶 494

人は自らのできることに従って、その欲求に対して建設的な方向性を与えなければならない。
欲求が建設的な方向性を持つことができなければ、苦しみに束縛されるのは時間の問題なのである。
欲求に方向性を与えるのは、自己の責任である。
欲望に根差して強欲に集めるのは、その中にある毒も集めるようなものである。
人は毒を選別しなければならない。
手当たり次第に口にしているなら、毒をも飲み込んでしまうであろう。
何が食べられるのかを知ることは大切なことなのである。
何をしなければならないのか?
何をしてはいけないのか?
自らの行いを選別することができるの人は幸福である。
幸福に従って進むのであれば、人は幸福を得る。
不幸に従って進むのであれば、人は不幸を得る。

この世界においての幸福とは何なのか?

その答えを知ることも重要なのである。


2013年6月28日金曜日

追憶 493

この世界においての幸福が、我欲から発する欲望を満たすことで得られるのであれば、そうすることが望ましい。
いや、寧ろそのようにしなければならない。
しかしながら、この世界においての幸福は我欲から発する欲望を満たすことでは得られないものなのである。
世の中には、強欲な人間ほど豊かさや幸福を得るという考えがある。
ある意味では、それは間違ってはいない。
強欲に根差して行う者は、力強く多くのものを集めるからである。
欲求が深く、それでいてそれが強い人間ほど何かを得ることができるのは、この世界の理(ことわり)であるだろう。
欲求が破滅の方向性を持てば、それは欲望となる。
この世界においては、破滅への道は簡単である。
築くことは難しく、壊すことは簡単なのだ。
そのため、多くの人は建設的な欲求よりも、破滅的な欲望を支持してしまう。
それは、簡単に多くのものを集めることができるが、後で人生が難しくなるのである。

2013年6月27日木曜日

追憶 492

わたしは自分自身の人生と同時に、世界のこと(自分以外のこと)について考えなければならなかった。
自分自身の内側と外側を良くすることで、わたしは救われるのである。
人生というものは、自分だけが良ければ良いというものではないだろう。
今までのわたしは自分が幸福ならば、それで満たされると思っていた。
しかしながら、わたしのその考えは浅はかであったと認めざるを得ない。
今までのわたしは、自分自身を満たすためだけに生きてきた。
それは、欲望に従って行う亡者の姿であった。
残念ながら、そのような生き方がわたしを救うことはなかった。
自分のことだけを考えていたわたしは、苦しみの中に生きたのである。

2013年6月26日水曜日

追憶 491

良い行いとは、貢献することである。
何かの役に立ち、この世界を少しでも発展させることが良い行いである。
人は良い行いによって世界を救うが、世界を救う人は自分自身の人生を救うことができるであろう。
自分自身のことに満足がいかない人は、力不足によって貢献することもできないので、世界を救うことはできない。
世界を救うことができない人は、自分自身の人生に満足することはできないのである。
世界を救うというのは、世界の発展に貢献することである。
人は世界の歯車である。
その歯車が良い形と良い素材であることは、良いことである。
人は自己を鍛え、更には研磨して良い人にならなければならない。
そのためには、良い行いを納める必要があるのである。

2013年6月25日火曜日

追憶 490

その対象物が何であるのかを知るためには、その対象物に触れなければならない。
打ってみて、それが木材だと、それが鉄材だと、それが石材だと分かる。
わたしが何のために生きているのか?という答えに辿り着くためには、自らの人生を打たなければならないだろう。
人生を打ってみて、その反響によってわたしはその答えを理解しよう。
光の反射によって世界が映し出されるように、わたしは良い行いによって人生を照らし出さなければならない。
悪い行いによっては、暗闇(無知、疑心、誤解、苦悩)が増すばかりである。
暗闇は真実を覆い隠してしまう。
良い行いによってのみ、わたしはこの世界の真実を見ることができるのである。

2013年6月24日月曜日

追憶 489

わたしはこの世界の真実(真意)が知りたかった。
何のためにこの世界は存在しているのだろう?
何のためにわたしという人物が存在し、何のために人生を生きているのだろう?
わたしはどこへ行けば良いのだろう?
わたしはどうなることが正解なのだろう?
わたしとは何であろう?
この世界の真実に辿り着くことができれば、わたしは自分のことを知ることができるような気がしていた。
それは、何の根拠もない漠然とした考えである。
しかしながら、これまでわたしが苦しんできたのは、きっとこの世界のことを知らなかったからである。

「何のために生きているのか?」

この答えに辿り着くことができれば、わたしは苦しまないような気がするのである。



2013年6月23日日曜日

追憶 488

苦しみによって心が傷付くことがなければ、わたしは以前にも増して「悪い人間」になっていただろう。
苦しみによって心を痛めたからこそ、わたしはその方法が間違っていることに気が付き、自らを改めることによって「良い人間」に近付くことができたのである。
以前のわたしは苦しみというものが嫌いで仕方がなかった。
わたしを苦しめるものはこの世から無くなれば良いと思っていた。
(自分にとって)良いことだけが幸せに繋がると信じていた。
しかしながら、それは甘い幻想に過ぎなかった。
苦しみに会わない人が、自己を正しく鍛えることなどできないだろう。
それは、苦しみを知って喜びを知ることができるように、失敗を経ることによって成功に近付くことができるからである。

2013年6月22日土曜日

追憶 487

わたしはその時に心の平穏の有難さと、人を憎むことの愚かさを知った。
それに加え、小さな力の重要性を理解したのである。
しかしながら、その知識がすぐに実行されることはなかった。
わたしにはそれをすぐに成すことができるような力がなかったのである。
わたしは長い時間をかけて、友人に対する怒りの感情と闘い、それを制した。

友人に対する怒りの感情によって苦しんだことによって、わたしの価値観には大きな変化が起きたように思える。
少なからず、それ以前の自分よりは冷静であり、謙虚でいられるようになったと思っている。
わたしはできる限り、人を傷付けたくないと思った。
できるならば、人の役に立たなければならないと思えた。
わたしは自分の姿に恥じ入ったのだ。
そして、自分の未熟さに絶望したのである。
同じ過ちを繰り返してはならないと心に誓う。
わたしは「良い人間」にならなければならないと思うのであった。

2013年6月21日金曜日

追憶 486

当時のわたしには分からないことではあったが、わたしは本能か教育か別の何かによって救われた。
境界線を超えることは誰にも容易にできることであるだろう。
人が怒りの感情の犠牲になるのは簡単なのである。
それを救うのは、心の中に在る思いやりや優しさなどの温かな気持ちと、感謝や理解などの建設的な思考なのだ。
当時のわたしが紙一重で助かったのは、わたしの中に存在している温かな気持ちや建設的な思考が、諦めなかったおかげであろう。
怒りの感情に支配されていた心にとって、それ等はとても小さな力であったが、小さく打つことが全体を揺さぶることもある。
わたしが怒りの感情の支配を振りほどき、反省と改善に至ったのはこの小さな力が小さくても心を打ってくれたからなのである。
どのような状況にも諦めてはならない。
小さな力でも大きな力を制することもあるのだ。

2013年6月20日木曜日

追憶 485

それから、わたしは友人に対する批判を改め、自らの愚かさを反省した。
それはとても難しいことであり、苦しいことでもあったが、わたしが救われるために残された道はそれ以外にはなかったのである。
自らを反省し、怒りの感情から脱しない限りはわたしは更なる苦しみに向かって進み、帰って来れなくなるような気がしたのだった。
わたしはそれを怖いことだと感じた。
これまでも良くは知らなかった「自分」という存在が、更に分からなくなるような気がして怖かったのである。
わたしは十分に不幸であったが、これより先は更なる不幸が待ち構えていることは容易に想像することができた。
キャンプ場で出会った女の霊や、その他の破滅的で黒い姿をした霊たち…
彼らはこの感情の境界線をまたいでしまったのだろう。
彼らは、「向こう」から帰って来れなくなった人たちなのである。

2013年6月19日水曜日

追憶 484

怒りの感情が心を満たして溢れると、それを抱えきれなくなった自己はひび割れて崩壊し、やがて反省に至る。
わたしは絶望感によって自己を省みて、壊れた自己の代わりに新たな自己の形成をしなければならなくなった。
これまでの古い自己では、これ以上先に進むことができないということなのである。
それはわたしにとって良いことである。
友人や恋人、それに周囲の人たちを傷付けたという事実が変わることはない。
わたしの失敗と苦悩が過去から消え去ることはないのである。
しかしながら、わたしは失敗し、苦悩することによって未来の可能性を得たのである。
愚かな自分を見て、それを改善することができるのである。
わたしが人を傷付けることで苦悩し、絶望感を味わうことがなければ、それが「悪いこと」であると理解することはできなかったのである。

2013年6月18日火曜日

追憶 483

自分という存在が分からなくなった時、わたしは怒りの感情が端から崩れていくのを感じていた。
今まで自分自身だと思っていた人間が分からなくなると、わたしは強烈な絶望感に襲われたのである。
それは、自己の否定であるように思えた。
怒りの感情が心の容量を超え、心を壊したのだろう。
わたしは自分という存在が世界から否定され、掌(てのひら)から擦り抜けてどこかへ去っていくような感覚を味わった。
それはとても苦しく、とても悲しいものであった。
人の最大の苦しみは、自分という存在を見失うことであるのかも知れない。
自分という最大の拠(よ)り所を失うことは、絶望以外の何物でもない。
人は自分という存在によって必要を満たすのである。
その自己を失ってしまうことは、必要を失うことに等しいのだ。
人生の中心は自己である。
それを見失うことなく保つことは、とても大切なことなのである。

2013年6月17日月曜日

追憶 482

彼女にまで否定されると、わたしは心の安息を完全に奪われたような気がしたた。
彼女はわたしのことを否定するつもりはなく、ただ正しいことを言っただけなのだ。
彼女が正しいのである。
しかしながら、錯乱した当時のわたしは自分自身が正しいと思い込んでいた。
感情の行き場を無くした心は、コントロールを失って暴れた。
わたしは心底怒り、心底悩み、心底苦しかった。

それから、怒りの感情が冷めることはなく、わたしは長い時間(約二週間)その苦しみを味わい続けた。
その時のわたしは何をやっても楽しくなかった。
わたしの周りにいた人たちも楽しくはなかっただろう。
わたしを煩(わずら)わしく思い、嫌っていたに違いない。
心が苦しみによって引き裂かれ、わたしは自分という存在が分からなくなった。

2013年6月16日日曜日

追憶 481

怒りの感情に犯されてしまったわたしの心が生み出すものは、更なる怒りであった。
怒りが積み重なると、それを自分自身の力(理性)では抑えきれなくなる。
わたしは怒りの感情の虜(とりこ)になり、心の中では一日中友人を罵倒していた。
怒りの感情に支配されたわたしの心が楽しみを見出すことはなかった。
わたしはすべてのことが楽しくなかった。
すべてのことに感情的になっていて、まともではなかった。
当時、付き合っていた彼女は正論によってわたしを導こうとした。
友人に対して腹を立てるのは良くないことだと…
わたしは彼女がわたしを擁護(ようご)してくれるものだと思っていた。
わたしは裏切られた気分であった。

2013年6月15日土曜日

追憶 480

高校三年生の頃、わたしは小さくどうでも良いことで友人に腹を立てた。
当時のわたしにはそれは大きなことであり、どうしても許すことができなかったのである。
わたしはそれから、その友人が心底嫌いになってしまった。
保育園からの付き合いのある友人だった。
しかしながら、わたしは自らの感情をコントロールすることができなかったのである。
わたしは冷静さを欠いていた。
何が大切であり、何が無用なのかを正しく判断できずにいたのである。
わたしは友人を嫌い、汚い言葉を使って争った。
わたしの心の中には友人に対する怒りが渦巻き、それは一日中わたしを苦しめた。
それは日を増す度に大きな黒い炎となり、わたしを焼くのであった。

2013年6月14日金曜日

追憶 479

自分が正しいと思い込み、付け上がることで醜(みにく)く歪み、滞って濁(にご)り、腐って苦しんでいたのだ。
わたしはこの苦しみを断ち切らなければならない。
今までのわたしは本能(感情)に従い、快楽などのその場を繕う一時凌(しの)ぎの価値求めて手を伸ばしていた。
自らの未熟で歪んだ心が求める快楽がわたしと人生を豊かにする訳はなく、そこには様々な代償としての苦しみを導いていた。
わたしは自らの汚れた行為によって得られる代償に苦悩し、絶望した。
自分自身が嫌いであった。
自分の人生が最悪だと思っていた。
なぜにわたしはこの様に間違え、いつも苦しむのか?
すべての楽しみは一瞬で消え去り、それはすぐさまわたしに対して苦しみを以て反撃する。
自らの方法が間違っているとしか考えられなかった。


2013年6月13日木曜日

追憶 478

人生に後悔を残さないためには、先ずは自分自身が正しくなければならない。
今までにわたしの身の回りに起きたことは、思い返してみるとそのすべてが自分自身の行いから生じた当然の結果であることが理解できる。
それがどのような理由であろうとも、それはわたしが行ったのだ。
わたしが未熟であろうが、人の指示であろうが、悪気が無かろうが関係ない。
人生は自らの行いを評価し、それによってもたらされるのである。
しかしながら、わたしはそのことを知らなかった。
いや、知っていても認めなかったのかもしれない。
それに、それを実際に改めるための覚悟も努力もしなかったのだろう。
わたしは自分自身を正当化してきた。
自分が正しいのだと思い込み、そのように思い上がっていたのだ。

2013年6月12日水曜日

追憶 477

そうは思っていても、実際にそれを成すのは難しい。
理想は手に入れたが、現実を手に入れるには時間と労力がかかるのである。
わたしは未熟であり、その心には汚れが渦巻き歪んでいるが、必ずやそれを正してみせる。
正しく清らかな心(自己)を手に入れることがなければ、きっと良い人生は歩めないであろう。
これまでのわたしは自らの人間的な弱さと汚なさに思い煩(わずら)い、多くのことに後悔してきた。
世の中に「悪」が存在していると信じて争い、人を敵と見なして傷付けたり、裏切ってしまったことも何度もあった。
後悔をもたらす過ちを、わたしはどれだけ重ねてきただろう。
わたしはこんな自分自身が嫌いで仕方なかったのである。

2013年6月11日火曜日

追憶 476

もちろん、人生は自己責任であるから、周りの誰かや何かが悪い訳ではない。
しかしながら、子どもは自力を持たないのである。
環境に影響を受けるのは仕方のないことなのである。
だからわたしは、今になって自らの未熟さと汚れに苦しみ、それを精一杯に改善しようと努めているのである。
これからは、周りの誰かや何かのせいにはできない。
わたしに関することは、すべてわたしから生み出される事柄なのである。
どのような自分に成り、どのような人生を生きるのかは、わたし次第なのだ。
自力が重要である。
これからは、不満を捨てよう。
諦めを捨てよう。
言い訳を捨てよう。
怠慢を捨てよう。
弱さを克服しなければならないのだ。
わたしは自分と自分自身の人生を諦めてはいなかった。
うだつの上がらない人生はごめんである。
わたしは誇り高く、この世界に貢献するために生きたいのである。

2013年6月10日月曜日

追憶 475

泥水をすくっては笊(ざる)に漉(こ)し、そこに残る小さな小さな砂金を探す。
ほとんどがただの砂と土であり、砂金を探すのは至難の技である。
わたしの自己は酷く汚れていた。
約20年間の汚れは、わたしの心を黒く濁(にご)らせていたのである。
人の中にあっては心が汚れ、自己は歪む。
それは、人が自らの人生の意味と意義、それにこの世界のことを知らないからであろう。
推測でしかないが、少なからずわたしの周りの大人たちはそのことを知らなかった。
誰も幼いわたしに人生の意味と意義、それにこの世界の理(ことわり)を教えてくれなかったからである。
そのために、わたしの自己は汚れ、歪んだのであろう。



2013年6月9日日曜日

追憶 474

先に述べたように、わたしが自分の名前を好きになり、そこに誇りを持つようになるのはこれよりも何年か後になるのだが、そのための作業をわたしは始めていたのである。

瞑想による自身の意識の探究は、仕事の合間を縫っては毎日続けた。
わたしは自己の探究が楽しくて仕方がなかったのである。
しかしながら、20年間怠けていた自己の探究である。
決して簡単なものではなかった。
まず、自己というものが何なのか分からない。
それがどこに存在し、どのような方法によって得られるのかも分からないのである。
どのような状態が正解であり、達成なのかも分からない。
誰もわたしに答えを示してはくれない。
誰もわたしを助けてはくれない。
少なからず周りの大人たちは誰も、わたしに教えられないのである。
わたしがやっていることは、泥水の中に砂金を探すようなものであるように感じられた。





2013年6月8日土曜日

追憶 473

わたしは自分の名前が好きではなかった。
「まこと」という発音が嫌いだったのである。
しかしながら、今のわたしはその名前が好きで仕方がない。
それは、わたしの志す道に合致しているからである。
わたしの人生において、「真(まこと)」という名前ほどその生き方や志に適合するものはないであろう。
と、自分では思っている。
名は体を表すのか?体は名を表すのか?は分からないが、そこには何らかのドラマチックな策略があるように感じる。
わたしは「真司」ではなく、「真」としてこの人生を生きる必要があったのだろう。

2013年6月7日金曜日

追憶 472

わたしは後に自分の名前に関する面白い話を母親から聞くことになる。
それは、ここより何年も後のことであったが、わたしの名前とわたしの人生が関連性を持っているようでならないので、このタイミングで記すことにする。

わたしが生まれた時、両親はわたしに「真司」という名前を与えた。
そして、二人して町内の役場に出生届を出すために出向いた。
子の氏名には「松岡 真司」と記入されていた。
そして、それを提出する時、隣りにいた夫婦が提出しようとする出生届の子の氏名には「◯◯ 真司」と記されていた。
二人はそれを見て、名前を変えようと思い立った。
一度下がり、二人で思案した結果、真司の司るという漢字を除いて「真」の一文字を残し「まこと」と名付けた。
その瞬間から、わたしは「しんじ」ではなく「まこと」として人生を生きることになったのであった。

2013年6月6日木曜日

追憶 471

今のわたしが成すべきこと、それは自己の探求である。
自己を知ることがなければ、必要な力は得られない。
わたしは自己を知らないであろう。
知っているつもりである自己は、嘘と偽りにまみれている。
今まで見てきた「わたし」という存在を一度リセットし、真実の目によってそれを見極めなければならない。
嘘と偽りによって形成された自己であっては、成すべきことは決して成されないからである。
わたしの名前は「真(まこと)」である。
わたしはその名が示すように真実を得なければならない。
嘘と偽りに打ち勝つ人にならなければならないのである。

2013年6月5日水曜日

追憶 470

人と争うのであれば、人は救えない。
霊と争うのであれば、霊は救えない。
己と争うのであれば、己を救うことはできないのである。
力を身に付けるということは、争いから解脱し、思いやりに至るということであろう。
大人は子どもに比べて力がある。
それは余裕として現れる。
余裕は物事を穏便に運ぶ。
それはスマートで、確実なものである。
大人は問題を解決するが、子どもは問題に潰される。
わたしは未熟である。
小さな子どもである。
甘えも感情も抜け切れない存在であると自覚している。
それを改善しなければならない。
それを成さない限り、わたしは豊かに生きることはできないと確信するのであった。

2013年6月4日火曜日

追憶 469

わたしは女と争う気はなかった。
しかしながら、結果的にそこには争いがあった。
力が足りないということは、不本意な結果を導くということなのである。
必要を満たすためには力が必要である。
力不足が争いに発展する。
力が足りない者は醜(みにく)く争う。
それは、子どもが駄々をこねるようなものである。
未熟で力が足りない子どもは、怒りなどの破滅的な感情によってしか、物事を運ぶ手立てを知らないのである。

2013年6月3日月曜日

追憶 468

わたしは目的を果たすため、大切なものを守るために自らを向上させることを改めて決意した。
それは、キャンプ場で出会った女の霊に対する罪悪感と、神だと思われる存在への憧れからもたらされる感情なのであった。
あの時、わたしは女を傷付けて遠ざけた。
それは、友人を守るためには必要なことであったと確信している。
あの時のわたしにできる精一杯がそれだったのである。
わたしには女と争い、傷付け、遠ざけることしかできなかった。
それは、未熟な振る舞いであったと思っている。
わたしが未熟でなければ、女と争う必要はなかったのである。
争わなければならないのは、力が足りないからであるだろう。

2013年6月2日日曜日

追憶 467

わたしにとっては、意識的な力を極める道がそれであったのだ。
目指したいと願う道がどのようなものでも構いはしない。
それは、人それぞれに違うものであろう。
大切なのは、それがそこにあるということなのである。
どのような道であっても、それを極めんと欲する気持ち、それに付き従う情熱が重要なのではないかと考える。
わたしはその理論に従って、自分自身を磨かなければならないのである。
わたしは未熟な自己を研磨し、知性を高め、強くなる必要を感じていた。
力がなければ目的は果たせない。
力がなければ大切なものを守ることはできないのである。

2013年6月1日土曜日

追憶 466

わたしには一つの道が見えていた。
それは、意識的な力によって世界や人(霊)に貢献することである。
わたしは自らの心が求めるその強い欲求を満たさなければならなかった。
わたしが初めて持つことのできた、人生の目標なのである。
求人誌の中にも、周りの大人たちの中にも、わたしが目指したいと強く願う理想は存在しなかった。
わたしが探していたのは、自らの心を満たすことのできる道なのである。
それは、人それぞれに違うものであるだろう。
しかしながら、自らの心を満たすことのできる道はどこかに必ず存在しているのである。
それを心の底から極めたいと思うほどの情熱が溢れる道があるはずだ。
人はそれを探し続けなければならないだろう。