このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2019年3月31日日曜日

追憶 2366

肥大した自尊心に謙虚(けんきょ)さを与え、それを適切な大きさに調整しなければならない。
そのためには、自分自身の無力さを理解することである。
無力さを理解することによって、人は自尊心に謙虚さを与えることが出来るのだ。
大抵の人は、自分自身が正しいと思っている。
低姿勢な人も、謙虚さよりも自尊心の方が勝(まさ)っている。
目の前の状況に対して、謙虚に対応することが出来れば、それは心を汚す問題とはならないだろう。
多くの低姿勢な人も、目の前の状況に対して心を汚している。
それは、謙虚さよりも自尊心が勝っていることを示しているのである。

2019年3月30日土曜日

追憶 2365

思いやりを以(もっ)て受け入れられるものが、どうして問題なのだろうか?
問題というものは、思いやりを以て受け入れることが出来ないもののことなのである。
人生には、思いやりを以て受け入れられるものは少ない。
多くの場合、それを思いやりを以て受け入れることは出来ないであろう。
どうしても、自尊心がそれを否定してしまうのだ。
老女が足の痛みを思いやりを以て受け入れることが出来ないのは、足の痛みに対して感謝することが出来ない自尊心が存在するからである。
自分が正しいと思い込んでいるために、足の痛みを否定するのである。

2019年3月29日金曜日

追憶 2364

人生において、争いによって解決する問題というものは存在しない。
多くの人は、争うことによって、問題が解決したと思い込んでいるだけなのである。
相手を打ちのめしたとしても、怨恨(えんこん)は残る。
怨恨は、見難(みがた)いので、問題は解決したと思い込んでしまうのだ。
問題が解決するためには、それを学び終えなければならない。
それを学び終えることが、問題を解決する唯一の方法なのである。
学び終えるというのは、思いやりを以(もっ)て受け入れることである。
その問題に対して、思いやりを以て受け入れることが出来れば、それは最早(もはや)問題ではないのだ。

2019年3月28日木曜日

追憶 2363

もちろん、学びを得れば、霊はそれ以上依頼者に“取り憑いている”必要がないために、光へと帰っていく。
結果的に霊を取り除くのだから、お祓いといえばそうなのかも知れないが、一般的な悪霊との戦いのようなお祓いとは全くの別物なのである。
わたしは霊と戦わない。
なぜなら、霊は理(ことわり)を教えてくれる最高の機会だからである。
戦って学びを失うなどというのは、勿体無(もったいな)いことなのだ。
霊を受け入れ、理解することが重要である。
それによって、必要な学びを得られる。
必要な学びを得れば、霊は満たされて光に帰っていくのである。



2019年3月27日水曜日

追憶 2362

そのため、抱えている問題を解決するためには、視野を広く保ち、多角的に検討(けんとう)し、一つ一つの原因を改善していかなければならないのである。
人生というものは、地道な努力を必要とする。
お祈りやお祓(はら)いをしたくらいで結果が改善される程、簡単ではない。
しかも、お祈りやお祓いをするのは、自らの人生の原因に関与(かんよ)していない他者なのである。
お祈りやお祓いが効いたと思うのは、その経験を通じて得た安心感や自信によって、自分自身の思考や行為を改めたからであるだろう。
わたしのところにも、お祓いをしてもらおうとして多くの人が訪れてくれるが、わたしにはお祓いをすることは出来ない。
わたしに出来ることは、“取り憑(つ)いている”霊を理解し、そこから得られる教訓を学び、依頼者と霊とわたしが共に理(ことわり)を学ぶことである。

2019年3月26日火曜日

追憶 2361

老女は、自分の足(意思)で歩むことを忘れているために、足が痛むのである。
足の痛みは、老女に自分の足(意思)で歩む必要があるということを教えているのだ。
老女が自分の足(意思)で歩むことを決意すれば、足の痛みが消え去ることは無いにしても、その痛みが気にならないようになるかも知れない。
老女が自分の足(意思)で歩むことを決意しても、足の痛みが消え去ることは無いかも知れないのは、一つの結果が実現するには、多くの原因が必要だからである。
一つの原因によって、一つの結果が実現するのであれば優しいだろう。
しかしながら、現実は、様々な原因が複合的に折り重なって一つの結果として導かれているのである。
それは、まるで料理のようである。
様々な食材や調味料によって、一つの料理が完成するのである。
そのため、一つの原因を取り除いたとしても、それだけで結果が改善されることはないのだ。
この世界は、そのように簡単なものではないのである。

2019年3月25日月曜日

追憶 2360

老女は、自分が”神”から大役を担(にな)っていることを忘れている。
そのことを忘れているから、目の前の状況に対して不平不満を吐いたり、宗教に依存するようなことになるのである。
”神”は、目の前の状況に対して不平不満を吐くことや、宗教に依存することを求めてはいない。
”神”が求めているのは、思いやりを以(もっ)て問題を乗り越え、自身の足で歩むことである。
”神”はそのように示唆(しさ)している。
それは、目の前の状況に対して不平不満を吐き、宗教に依存するよりも、思いやりを以て問題を乗り越え、自身の足で歩むことの方が気分が良いからである。
恐らく、”神”はそのように”考えている”だろう。
(本来、”神”という存在が全知全能であるのならば、考えるという行為は必要ない。”神”が考えるという表現は、未熟な人間であるわたしの未熟な表現である。)
人は、”神”の意思を理解することは出来ない。
そのため、推測(すいそく)するだけである。

2019年3月24日日曜日

追憶 2359

成長を実現するということは、すべての人にとっての大役である。
それは、”神”が求めることだからだ。
”神”は、絢爛豪華(けんらんごうか)な建造物や、仰々(ぎょうぎょう)しい儀式や、狂信的(きょうしんてき)な信仰などを求めてはいない。
もちろん、無知も愚かさも依存(いそん)も求めてはいないのである。
”神”は、それぞれの成長と、それに伴(ともな)う幸福を求めている。
そのために必要なものを喜ぶのだ。
信仰のために、特定の建造物など必要としない。
信仰のために、特定の儀式など必要としない。
信仰のための特別な方法や供物(くもつ)など喜びはしないのである。
いつどこで、誰にでも実践することの出来る思いやりこそが、“神”への信仰なのである。



2019年3月23日土曜日

追憶 2358

宗教に携わっていても、“神”を見失っている人がいる。
宗教に無関心であっても、“神”と共に生きている人がいるのである。
大切なのは、人間性を高めることであろう。
嫌なことを引き受けられるような、大きな器量(きりょう)を育むことである。
多くの人は、嫌なことが嫌いである。
それは、悪いことではないが、克服しなければならない感情であるだろう。
幼さは、大役を担(にな)うことが出来ない。
幼さは、責任を恐れるのである。
苦しみとは、“神”から与えられる大役である。
人は、苦しみを通じて成長を実現するという大役を担っているのだ。

2019年3月22日金曜日

追憶 2357

“神”のために生きることが信仰であるというのであれば、“神”が与えた困難を否定することは信仰ではないだろう。
困難は、自分自身から生じるが、それを導いて“くれる”のは“神”の理(ことわり)である。
人は困難を通じて、常に“神”と対話しているのだ。
“神”は、目の前の困難として現れる。
もちろん、すべての状況として現れるのであるが、自分にとって都合の良い状況だけに現れるのではないということである。
すべての人は、常に“神”と会っている。
特別な場所や特別な方法によって会えるというものではないのだ。
そのことを理解しなければならないだろう。

2019年3月21日木曜日

追憶 2356

心を黒く汚した状態では、”神”への信仰である思いやりを実践(じっせん)することは出来ないだろう。
思いやりというものは、心の余裕の余剰(よじょう)である。
目の前の困難に対して、心に余裕を保つことが出来る人が、更に他者に向けた気遣いが思いやりなのである。
”神”への信仰というのは、目の前の困難を乗り越えて、他者を愛するということであろう。
目の前の困難に溺れ、その苦しみから”神”に縋(すが)ることは決して、”神”への信仰などではない。
宗教に携わっている人の多くが、”神”に縋ることを信仰だと思っているのではないだろうか?
わたしには、そのように思えるのである。

2019年3月20日水曜日

追憶 2355

人生には、都合の良いこともあるが、自分にとって都合の悪いことの方が多いかも知れない。
その割合は、その人の成長具合によって異なる。
残念ながら、この世に生まれたすべての人には、克服しなければならない未熟さがある。
そのため、多くの人にとって、人生には自分にとって都合の悪いことの方が多いのである。
人は、自分にとって都合の悪いことに立ち向かわなければならない。
自分にとって都合の悪いことを認め、受け入れなければならないのである。
都合の悪いことを否定し、そこから逃れようとしても、成長を実現することは出来ない。
そのような選択は、心を黒く汚してしまうだけなのである。

2019年3月19日火曜日

追憶 2354

宗教の本来の目的は、自分自身を磨くことである。
心身を磨き、霊を磨き、魂を磨くことを目的とした集団が宗教であったのではないだろうか?
しかしながら、今日(こんにち)の宗教は、そのような高尚(こうしょう)な目的は忘れているだろう。
宗教関係者は、自身の抱える弱さに負けて利益を優先するようになった。
お金を集めるために信者を集めるようになり、教えは浅く、薄くなった。
天国と地獄という概念(がいねん)を生み出して、"飴(あめ)と鞭(むち)"の方法で信者を洗脳する。
信者は、希望と恐怖に縛られて、自分自身で考えて行動することが出来なくなる。
そこに、浅く、薄くなった教えが与えられる。
信者は、自分に都合の良いことを求めるようになり、自分に都合の悪いことを否定するようになる。
そのような考えが、宗教の教えと似ていると錯覚して、信仰するようになるのである。



2019年3月18日月曜日

追憶 2353

原因のすべてが自分自身である。
人生は、とても単純なものであることを理解しなければならないのだ。
傲慢(ごうまん)によって、人生には問題が引き起こされ、それに対して苦しみを覚える。
傲慢とは、原因を外に探す行為のことなのである。
人は、謙虚(けんきょ)によって原因を内に探すことが出来る。
原因を内に探す人だけが、結果を改めることが出来るのだ。
なぜなら、外を変えることなど出来ないからである。
内である自分自身を変えることもなく、外の他者や環境を変えようとするのは傲慢であることを理解しなければならないだろう。
外を変えることが出来るのであれば、問題も苦しみも生じることはない。
外を変えることが出来ないからこそ、自分にとって都合の悪い問題や苦しみが生じるのである。

2019年3月17日日曜日

追憶 2352

傲慢(ごうまん)に進もうとしても、決して進むことは出来ない。
人は、自己中心的な考えを手放さない限り、先へと進むことは出来ないのである。
大きな荷物を背負ったままで、険しい山頂へと辿り着くことは出来ないだろう。
険しい山頂へと辿り着くためには、必要最低限の荷物以外を持ち込むことは出来ないのである。
山頂へと近付く程に、余計な荷物は手放さなければならない。
それは、傲慢を手放さなければ、豊かさへと辿り着くことが出来ないことと同じであるだろう。
”普通”の人は、原因を様々なものに見出す。
しかしながら、それは、余計な荷物(考え)なのである。

2019年3月16日土曜日

追憶 2351

しかしながら、現実には、そのような自分に都合の良いことは起こらないだろう。
どのような人物も、自己を中心とした考えを貫(つらぬ)くことは出来ないのである。
自己を中心とした考えを振りかざしていると、多くの問題が生じてしまう。
それは、潮の流れや風向きなどの自然の力を考えずに大海を渡ろうとする無謀(むぼう)な考えに似ている。
どれだけ性能の良い船であっても、自然の影響力を無視することは出来ない。
船は、自然の力を利用して進まなければならないのである。
船が自然の力に勝っていると考えるのであれば、簡単に沈没してしまうだろう。
なぜなら、船は自然の力に及ばないからである。

2019年3月15日金曜日

追憶 2350

良い親が子を叱(しか)るのはなぜだろうか?
良い親が子に対して、最低限の援助しかしないのはどうしてか?
それは、子の甘えを拭(ぬぐ)い去り、自立させるためである。
子の代わりに親が何もかもに手を出していたなら、子は甘えを手放すことが出来ない。
そのように育てられた子どもは、傲慢(ごうまん)に溺れてしまうのである。
親に叱られたことのない子どもは、自分中心の考え方よりも広い視野を得ることは出来ないだろう。
それは、我が儘(まま)が許されたからである。
何も知らない子どもは、自己を中心とした考え方が通れば、それが正しいと思ってしまうのである。

2019年3月14日木曜日

追憶 2349

しかしながら、わたしが老女に同情することはなかった。
"普通"に考えると、老女は可哀想(かわいそう)な人である。
しかし、霊的に見れば、老女は恵まれている。
そのため、わたしには、老女に同情するという考えはない。
寧(むし)ろ、祝福したいのだ。
そのため、わたしは老女に対して、自らの半生に向けて感謝することを勧(すす)める。
様々な苦しみを通じて、傲慢(ごうまん)さは幾(いく)らか和らいでいるはずである。
苦しみの経験がなければ、老女は自らの傲慢さに押し潰され、生前にも死後にも光を得ることは出来ないだろう。

2019年3月13日水曜日

追憶 2348

原因を辿(たど)ると、最終的には自分に辿り着く。
老女が足を痛めたのは、自身の抱える傲慢(ごうまん)さからである。
老女は、夫と息子夫婦を亡くし、70歳を過ぎて一人暮らしをしている今でも、過去の"恨(うら)み"に執着(しゅうちゃく)している。
夫との馴れ初めや、嫁入り後の生活など、わたしは老女の半生を幾度となく聞かされたが、それは、不平不満を主体とした恨み節なのであった。
老女の名誉の為に言っておかなければならないが、老女はどこにでもいる気は強いが、心の優しい女性である。
誰が聞いても、老女に同情するような半生を送った人であった。
わたしも"普通"の考えで生活していれば、老女に同情し、慰(なぐさ)めていただろう。

2019年3月12日火曜日

追憶 2347

老女は、働き過ぎで足が痛んだのだと考えている。
それは正しい。
老女には事情があって、若い頃から人一倍働き続けなければならない人であった。
昼夜を問わず、肉体を酷使(こくし)した結果、足が痛んでしまったのだろう。
しかしながら、働き過ぎたという状態も、結果に過ぎない。
働き過ぎるための原因が存在しているのである。
何かしらの原因によって、働き過ぎなければならなかったのだ。
そして、足が痛まなければならなかったのである。
それは、家庭の事情であったかも知れないが、家庭の事情も結果である。
結果を辿(たど)り、より本質的な原因へと辿り着かなければならないのだ。

2019年3月11日月曜日

追憶 2346

老女は、足の痛みに心を汚している。
足が痛むので、余裕がないのである。
足が痛いのは辛いことかも知れないが、それに対してどのような選択をするかは自己責任である。
勘違いしている人が多いが、人生は自分で決めることが出来るのだ。
元より、足が痛むのは自分自身の選択の結果である。
老女は、足が痛む原因を所有していたのである。
なぜなら、足が痛んでいるのは老女自身だからだ。
当然ながら、わたしには足の痛みはない。
それは、わたしには、老女のように足が痛む原因が存在しないからである。

2019年3月10日日曜日

追憶 2345

”神”を信仰するということは、思いやりを以(もっ)て生きることである。
ただ、それだけのことなのだ。
しかしながら、思いやりを以て生きることは、容易なことではない。
なぜなら、人は未熟に生まれるからだ。
未熟に生まれた者にとって、思いやりを以て生きることは至難(しなん)である。
それは、未熟であるが故(ゆえ)に、問題を引き起こしてしまうからだ。
問題を引き起こせば、余裕が奪われてしまう。
余裕のない状態において、それでも思いやりを継続することは難しいのである。
”神”を信仰するということは、思いやりを以て生きるだけのことである。
それは、とても単純なことであるが、それが難しいということを理解しなければならないだろう。

2019年3月9日土曜日

追憶 2344

”神”は、すべての人を救い、誰一人として救わないのである。
”神”が、特別扱いをすることはない。
”神”は、すべての人を平等に扱う。
”神”は、すべての人の扱いを理(ことわり)に任せている。
理は、因果の仕組みによって、その人にとっての必要を実現するだけである。
そのため、”神”を信仰しているという理由では、誰一人として救われることはない。
人が救われるためには、理を重んじなければならないのである。
何よりも、大抵の人は、”神”を信仰していると思い込んでいるだけである。
特に宗教に携わっている人の誤解は甚(はなは)だしいものだ。

2019年3月8日金曜日

追憶 2343

わたしは不自然と共に生まれた。
そして、不自然を手放すことがわたしの目的である。
それは、余計を手放すということだ。
余計なことを手放すことによって、人は不自然を手放し、自然へと近付くことが出来る。
自然とは、理(ことわり)のことである。
それは、無駄のない状態のことだと理解すれば良いだろう。
”神”への信仰に、厳しい修行は必要ない。
難しいお経や、長い祈りも必要ではない。
”神”は、宗教儀式など求めてはいないのである。
どうして”神”が、特定の者だけを救うのだろうか?

2019年3月7日木曜日

追憶 2342

それは、わたしのことである。
わたしは、厳しい修行をしたことがない。
難しいお経も、祈りの言葉も知らない。
そして、宗教儀式の知識もない。
権力など、あるはずもないのである。
わたしは劣等感の中に生まれ落ち、罪悪感を食べて成長した。
わたしは、誰よりも愚(おろ)かな存在なのである。
しかしながら、わたしの人生は喜びの中に存在している。
わたしにも辛いことや苦しいことはある。
嫌なこともやりたくないこともあるのだ。
しかしながら、それでも人生は喜びの中に存在している。
それは、”神”に対する信仰が、不自然よりも自然の方が優っているからではないだろうか?



2019年3月6日水曜日

追憶 2341

宗教儀式というものは、残念ながら、不自然なものである。
残念ながら、宗教という形の中に自然を探すことは難しいだろう。
それは、決められたことを模倣(もほう)しているだけだからだ。
自然は、それぞれに個性を与えた。
人は、それぞれに異なっているのが自然なのである。
人生の歩み方に正解がないように、”神”への信仰にも正解はない。
例えば、厳しい修行に耐(た)え、難しいお経を覚えることや権力を手にすることが正解とは限らない。
そのような人物が歪み、苦しみの中に存在していることを知っている。
厳しい修行をせず、難しいお経を知らず、何の権力も持たない者が、喜びの中に存在していることを、わたしは知っているのである。

2019年3月5日火曜日

追憶 2340

もしも、自発的に考えるのであれば、宗教という形は成立しないのではないかと思える。
信仰の中に儀式はなくなり、それぞれの考える愛の形が表現されることになるだろう。
死者を葬(ほうむ)るのに、長いお経やお祈りなど必要ない。
堅苦しい衣装や、特別な道具など必要ないのである。
先祖供養は、子孫が自分達の考えた形で行えば良いし、どうしても必要とは限らないようにも思える。
わたしは、個人的には、先祖供養はしたことがないし、必要があるとも思えない。
わたしが先祖の立場であれば、子孫に供養して欲しいなどとは思わないだろう。
わたしは自発的には墓参りにも行かないし、法事にも興味はない。
なぜなら、それは宗教儀式であり、自然な行為ではないからだ。



2019年3月4日月曜日

追憶 2339

日本人であれば、労働時間が長いことや、睡眠時間が短いことを自慢し合うかも知れない。
それ等は冷静に考えてみると苦しみであると思えるが、"奴隷の鎖自慢"の状態にある人達においては、その苦しみも喜びと錯覚してしまうのである。
宗教というのは、罪深いものである。
信者には苦しみを強(し)いながら、幹部は甘い汁を吸っている。
奴隷が奴隷であることを疑問に思わないことが、主人の願いであるだろう。
宗教の幹部達の願いは、信者が信者であることを疑問に思わないことであるだろう。
信者は、何も知らない"子羊"であることが理想なのである。
何も考えず、恐怖に震え、依存(いそん)することが都合の良い状態であるだろう。

2019年3月3日日曜日

追憶 2338

身体は発熱することによって、白血球の働き易い環境を整え、風邪の原因となるウイルスを死滅させる生体防衛反応を引き起こしている。
発熱は、身体を守るための手段なのである。
しかしながら、発熱は精神的には苦しみであるだろう。
そのために、多くの人が解熱を試みる。
解熱によって精神的には楽を得ることが出来るだろうが、風邪の症状は却(かえ)って長引いてしまう。
それは、新たな苦しみを生じさせてしまうだろう。
下手をすると、その苦しみに慣れてしまい、体調不良を普通の状態だと思い込んでしまうかも知れない。
それでは、苦しみを苦しみと認識することが出来ない状態が継続する可能性があるのだ。
"奴隷の鎖自慢"という言葉がある。
多くの人は、苦しみを苦しみとは認識していないだろう。

2019年3月2日土曜日

追憶 2337

苦しめば、破滅的な意識が生じる。
それは、黒い煙のように見える、冷たくて重たい感情のことだ。
人が苦しみ、破滅的な意識を生じさせるのには理由がある。
それは、化膿(かのう)した傷口から膿(うみ)を絞り出すようなものだ。
腹に悪いものを嘔吐(おうと)することにも似ている。
人は、苦しみによって、破滅的な意識を吐き出しているのである。
表面的に見れば、それは悪いことのように思える。
しかしながら、それは決して悪いことではない。
例えば、風邪をひいた時に、身体が発熱するのはなぜか?ということを考えてみれば良いだろう。

2019年3月1日金曜日

追憶 2336

それは、先天的な経験が、後天的に強化されることによって、トラウマという形で心に根差した感情の歪みである。
すべての歪みは、誤解から始まる。
すべての人は、誤解を抱えて生まれて来る。
それは、理(ことわり)を理解し、崇高(すうこう)な意識の状態を得るためだ。
誤解による抵抗が無ければ、人は崇高な意識の状態へと歩みを進めることが出来ないのである。
その過程を得るために、人は心の中の憧れとトラウマに従わなければならないのだ。
そのため、人は人生において苦しむ(苦しいと思い込んでいるだけ)のが自然である。