このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年9月30日日曜日

追憶 2184

現在、寺には住職しか住んでいない。
恐らくは、ミカン畑に対してラジオを聞かせているのは住職であろう。
わたしは疑問を抱えながらも、お墓へと通じる坂道を進むことにした。
すると、住職の"奇行"の原因だと思われるものを見付けた。
それは、所々が崩れた畑の石垣であった。
これは、猪による被害であるだろう。
良く見ると、畑も耕されたように全体的に土が盛り上がっている。
ミミズでも探したのであろうか、草が根ごとひっくり返っているのである。
恐らくは、猪除けのためにラジオをつけているのだろう。



2018年9月29日土曜日

追憶 2183

建物の死角で、誰かが会話しているのだろうか?
歩を進めるにつれて、会話がラジオから流れる音であることに気が付いた。
誰かが聴いているのだろうと思って建物を曲がってみたが、そこには誰の姿もなかった。
不思議に思い音源を追ってみると、見上げた先の窓が開いており、そこにラジオが外向きで置かれているのが見えた。
ラジオは部屋の中ではなく、外に向けられているのである。
わたしは不思議に思って、音の向かう先を見るが、そこには山の斜面を切り開いて作られたミカン畑の残骸が確認出来るだけである。
それは、人の手を離れて何年も経過したような荒れた畑である。
ミカンの木は大半が枯れ、ちらほらとぶら下がるオレンジ色の果実はとても小さく、痩せて今にも干からびそうであった。
ラジオは、ミカン畑の有り様とは対照的に、明るい話題を振り撒いていた。



2018年9月28日金曜日

追憶 2182

住職の読経(どきょう)が終わった。
その瞬間に、わたしは一人席を外し、急いで外へ向かった。
それは、深呼吸がしたかったからである。
廊下に出て、胸一杯に外の新鮮な空気を吸い込んだ。
そして、肺の中の"スモッグ"を力一杯に吐き出した。
そのせいか、少しだけ気分が良くなった気がした。
後ろでは、祖母が住職と話す声が聞こえる。
わたしはそれを無視して靴を履いた。
この後に、寺の裏山にある祖父の墓に参ることを知っていたからである。
わたしは皆よりも一足早く、一人で祖父の墓に向かうことにした。
鐘を横目に、本堂に隣接する住職の住宅を抜けて、墓へと通じる坂道へと近付いた。
すると、どこからともなく、人の話す声が聞こえてきた。
耳を澄ますと、建物の陰になっている墓へと通じる坂道から聞こえてくるようである。



2018年9月27日木曜日

追憶 2181

それは、所有によっては満たされることはなく、それが苦しみを生み出すことを知ったからであろう。
ゴータマのように生きることは容易ではない。
彼のように生きろとも言うつもりはない。
しかしながら、人は、自分のことだけではなく、相手のことも考える必要があると思うのである。
欲に根差して生きることは、決して幸福をもたらさない。
なぜなら、欲の原因は恐怖だからである。
住職は、外道であるだろうが、彼を外道としたのは、自らの抱えている乗り越えることの出来ない恐怖心であったに違いないだろう。
住職は、自らの抱える恐怖心に敗北し、それの言い成りになっていると思えるのである。



2018年9月26日水曜日

追憶 2180

駐車場に三角コーンを置くことには、思いやりを感じることが出来ない。
明確な理由を知らないために、すべては推測であり、偏見と誤解を脱することは出来ないが、駐車場内に車庫を設けていることで、どうしても住職の所有欲のようなものを感じて仕方がないのである。
所有欲から来る縄張り意識のようなものだと思うのだ。
そうでなければ、駐車場を使わせない理由が見当たらないのである。
ゴータマもイエスも、所有よりも与えることを好んだように思える。
ゴータマは釈迦族の王子であり、何不自由ない生活を与えられていただろうが、それでは満たされないことを知った人である。
ゴータマは必要以上を所有することを約束されていたが、彼は自らの意志によってその立場を手放したのである。

2018年9月25日火曜日

追憶 2179

今日の宗教における実力というものは、もしかすると、人の不安を煽(あお)り、恐怖心を植え付け、権威(けんい)や教義に従うことに従順な人を集めたり、育てたりする力になっているのではないだろうか?
宗教の在り方が歪んだ以上、実力の測り方も歪んでいるはずである。
今日の宗教は、実力が増す程に地位や財産を増していく。
それは、ゴータマやイエスが否定したことであるが、宗教の実力者である程にその傾向が強まるように思えて仕方がないのである。
わたしには、宗教というものが、悪魔の管理下にあるように思えるのだ。
今日の宗教が行なっていることは、理の対極であるだろう。

2018年9月24日月曜日

追憶 2178

今日における宗教の目的は、その集団に属する一部の人達が贅沢な暮らしをするためであるだろう。
どの世界でも同じであるだろうが、人の作る集団というものは、大抵が序列(じょれつ)を形成する。
集団に序列は仕方のないことだとは思うが、全体が支え合う体系であれば良いが、一部がその他の大部分から搾取(さくしゅ)するという体系は良い結果を導かないだろう。
しかしながら、今日の宗教はそのように働いているのである。
今日の宗教は、恐らくは純粋な目的を見失い、死を得ているように思えて仕方がない。
それは、まるで死体が食べ物を貪(むさぼ)っているようにしか思えないのである。



2018年9月23日日曜日

追憶 2177

それは、宗教という特殊な世界においては、実力を測(はか)ることが難しいからだ。
スポーツの世界においては、実力を測り易いだろう。
何を以(もっ)て実力とするかは難しいところではあるが、競技における能力、得られる年俸や副収入、協会に対する貢献度、社会に対する影響力など、実力というものは多岐(たき)に渡っているが、比較的分かり易い世界なのではないかと思う。
しかしながら、宗教における実力というものを理解することは難しいだろう。
恐らくは、盲目(もうもく)な人に道を示し、理(ことわり)を示すことが宗教の本来の目的なのではないだろうか?
しかしながら、今日の宗教は本来の在り方ではない。
寧(むし)ろ、本来の目的に反抗しているように思えて仕方がないのである。

2018年9月22日土曜日

追憶 2176

住職に限らず、宗教に携わっている人達の動機は様々なものであるに違いない。
しかしながら、その道を歩み始めた頃には備わっていたであろう純粋な動機は消え失せてしまう。
神仏のために宗教の道を歩み始めることは無いとしても、誰かのために歩み始めることはあるだろう。
しかしながら、そのような純粋な気持ちも、経年劣化してしまうのである。
純粋な動機を保ち続けることは難しい。
それは、誘惑が襲うからだ。
どのような道においても、金銭や名声や地位などという誘惑が寄り添うようになる。
宗教という特殊な集団においては、それが顕著(けんちょ)なものとなるだろう。

2018年9月21日金曜日

追憶 2175

残念ながら、住職は詐欺師に当たるだろう。
それは、外見と中身が一致していないからである。
大切なのは、その人が何を言っているか?ということではなく、何を行なっているか?ということなのだ。
口では偉そうなことを吐いても、実際に行うことが出来なければ嘘吐きである。
口を固く閉ざしていても、何かを行うことが出来る人は信用に値するのだ。
世の中には、嘘吐きが多過ぎる。
それは、弱さに溺れている人が多いからである。
座禅を組み、滝に打たれ、写経を続け、読経を繰り返し、托鉢(たくはつ)をしたところで、弱さを克服することが出来なければ意味がない。
修行を終えて、資格を手に入れたとしても、嘘吐きでは価値がないのである。



2018年9月20日木曜日

追憶 2174

わたしが未熟だからかも知れないが、住職のお経に価値を見出すことは出来なかった。
寧(むし)ろ、時間の価値が損なわれるとさえ思ってしまうのである。
徳の低い人の難しいお経よりも、徳の高い人の簡単な言葉の方に価値を感じるのだ。
徳の低い人が何を言ってもわたしには響かない。
徳の高い人は、何も言わなくてもわたしには響くのである。
反面教師としての価値は十分にある。
間違えてはならない。
価値の変換が必要なのだ。
素直に見てはいけないだろう。
立場や服装に騙されてはならないのである。
詐欺師は、見た目を飾ることは出来るが、中身は飾ることが出来ないのである。




2018年9月19日水曜日

追憶 2173

音程も、声色も、情緒に比べると重要ではないだろう。
大切なのは、本質的なものであって、表面的なものではないのである。
音程が少々外れていても、声色が気に入らなくても、そこに心がこもっていれば、良いものとして認識することが出来るのだ。
それを理解しているから、有名な歌手は楽譜を無視して歌うのである。
大人が様々な技術を駆使して、金のために描いた美しい絵画よりも、子どもが感性を使って、相手のために描いた不格好(ぶかっこう)な"落書き"の方が価値があるのだ。
それが、自然であるだろう。
しかしながら、多くの人は、その価値観を失っている。
常識的な価値に重きを置いてしまい、本当に価値のあるものを見失っているのである。
そのため、徳の低い住職のお経を有難がり、お金を払ってまで聞いているのである。

2018年9月18日火曜日

追憶 2172

住職のお経は、低音の声によって定評があるようだ。
多くの人が、お経"は"良いと言っているのを聞く。
しかしながら、わたしには、そのお経が不快なものでしかなかった。
わたしには、それが雑音にしか聞こえない。
今すぐにでもお経をやめて欲しいとさえ思ってしまうのである。
多くの人は、恐らく、耳(周波数)でお経を聞いているのだろう。
低音で、張りのある声をしているので、多くの人は聞き惚れてしまうのだろう。
それは、カラオケで高得点を取る人の歌を上手いというのと同じであるだろう。
音程を外さずに歌い、声色(こわいろ)も良ければ、多くの人はそれを上手いと思うだろう。
しかしながら、わたしには、そうは思えなかった。
そこには、情緒(じょうちょ)が乏しいからである。




2018年9月17日月曜日

追憶 2171

本堂の中は埃(ほこり)っぽく、靴下越しの畳にはザラザラとした塵(ちり)を感じた。
陽の光の挿し込む部屋は全体的に暗く、襖(ふすま)を開け広げてあっても、空気が淀(よど)んでいるように思えた。
まるで、黒い霧のようなものが立ち込めているようである。
住職からは、黒い煙のようなものが立ち上り、それが本堂の空気を汚しているのだろう。
わたしは、一刻も早く新鮮な空気を吸いたかったが、何か面白いものが見えるかも知れないと思い、もうしばらく様子を見ることにして耐えた。
わたしには、車通りの激しいトンネルの中を歩いているような感覚なのである。
出来れば、この部屋の空気は僅(わず)かでも吸いたくないのだ。



2018年9月16日日曜日

追憶 2170

わたしには、この状況の意味が理解出来なかった。
しかしながら、少なからず祖母には価値のある時間であったに違いない。
わたし以外の人達は、皆"真面目"であるために、何かしらの意味を見出しているのかも知れない。
親戚が集まれる機会と捕らえれば意味も価値もあるだろう。
祖先を大切に思う気持ちを育むのであれば、宗教儀式は必要ではない。
残念ながら、住職は徳の低い人物であるだろう。
なぜなら、徳の高い人物は、わたしには輝いて見えるからである。
住職には、それとは正反対の状態が実現しているのだ。
徳の低い人のお経を聞くことで、霊にも人にも、何か良い作用があるのだろうか?
わたしは母親の横に座ったが、早くも気分が悪くなるのを感じていた。



2018年9月15日土曜日

追憶 2169

境内には、お経と木魚の音が響いていた。
わたしが、その音に引き寄せられるように歩を進めると、本堂の前に見覚えのある靴が並んでいるのが見えた。
わたしも同じように靴を脱いで並べ、本堂へと上り込んだ。
住職の小さく傾いた背中が、木魚の音と連動して動いていた。
それは、住職が片足を痛めているからである。
彼は、普段片足を引き摺(ず)りながら歩いている。
そのため、正座や座禅で座ることが出来ないのであろう。
視線を滑らせると、祖母と両親、そして、叔父一家が並んで座り、神妙(しんみょう)な面持ちでお経を聞いていた。
わたしには、この光景がシュールなものに思えて面白かった。
わたしは客観的にこの光景を見ているのである。

"何のために、この人達はこんなことをしているのだろう?"

わたしの中では、このような言葉が飛び交っていた。



2018年9月14日金曜日

追憶 2168

改めて駐車場を見渡しても、何の問題もないように思える。
法事の時間は指定されているのだから、わたし達が来ることは分かっているはずである。
何か理由があるのだろうが、わたしには分からなかった。

急な石段を登っている時に、石垣の一部が崩れているのを見て、猪の仕業であると以前に聞いたことを思い出した。
頑丈に積まれてある石を鼻で掘り出すのだから、大したものである。
わたしは猪の力強さに感心しながら、太ももの張りに日頃の運動不足を感じ、猪とは対照的な自身の非力さを笑った。
子どもの頃は、駆け上がっていた石段が、30歳を超えたわたしには荒仕事であった。
太ももは悲鳴を上げていたが、それでも、何とか休むことなく石段を登り終えた。



2018年9月13日木曜日

追憶 2167

そこでわたしは、寺の階段の正面に、道を塞ぐ形で車を停めることにした。
滅多に車が通るような場所ではないので、人の迷惑にはならないだろうとの利己的な考えである。
車を降りると、階段の横に掲示板があり、そこには達筆に"自分の身から出たものが、自分を作る"というような住職からの有り難い言葉が書かれていた。
詳しくは覚えていないのだが、おおよそ、そのような内容であった。
わたしは、住職が自分に向けてこの言葉を書いたのだと思ったことを記憶している。
恐らくは、住職に何かを気付かせるために、何者かが住職を使って、でかでかと掲示板に書かせたのだろう。
なぜなら、この言葉を最も目にするのは、他でもない住職本人だからである。



2018年9月12日水曜日

追憶 2166

狭い道に注意しながら、わたしは寺に辿り着いた。
すると、父親と叔父の車が駐車場に見当たらなかった。
不思議に思い見渡すと、以前はミカン畑だった空き地に父親と叔父の車が停まっていた。
なぜ、駐車場に停めずに、わざわざ空き地に停めているのだろう?
しばらく考えた後に目を凝らすと、駐車場への侵入を拒むように赤い三角コーンが並べられているのであった。
上り坂なので、ボンネットに隠れて見えなかったのである。
わたしは、駐車場が閉鎖されている理由を探したが、見たところ変わった様子はない。
空き地に停めることを考えたが、入り口は大きな段差になっていて、86では入ることも出来ないだろう。



2018年9月11日火曜日

追憶 2165

寺は、山の麓(ふもと)に位置している。
寺までの道は狭く、車が擦れ違うことも難しい程である。
尚且つ、駐車場も狭い。
普通自動車を3台駐車することで精一杯である。
今回の法事に参加するのは、恐らくは、長男である父親家族と弟の叔父家族だけであろう。
それならば、車はわたしのを含めて3台であり、駐車場に困ることはないと考えた。
わたしは、父親の車と叔父の車が駐車場にあることを想像して、自身の車で向かったのであった。



2018年9月10日月曜日

追憶 2164

祖母は恐怖(無知)と教育によって、寺の行事を大切に思っている人だ。
大抵の老人は、同じように思っているだろう。
わたしは、祖母程に心の清らかな人に会ったことがないが、それは、恐怖(無知)と教育によって歪められた清らかさなのであった。
心は清らかで良い人ではあるけれど、認識は歪んでいるのである。
わたしは法事に参加する気は無かったが、誘われたので行ってみることにした。
その日、わたしは仕事が忙しいこともあって、一人だけ遅れて寺に向かうことになった。
わたしは、トヨタ社製の86(ZN6)というスポーツカーで寺に向かった。

2018年9月9日日曜日

追憶 2163

以前、わたしは祖父の法事で地元の寺を訪れたことがある。
祖父が亡くなって、15年以上も過ぎているというのに、未だに"出し"にしているのである。
そうでもしなければ、贅沢な暮らしが出来ないのだから仕方のないことだろう。
現代の"葬式仏教"とは、その程度のものなのだ。
志(こころざし)を見失い、保身に走るのが現状なのである。
わたしは、贅沢な暮らしを否定している訳ではない。
贅沢に暮らしても、質素に暮らしても良いのである。
しかしながら、言動の不一致には、注意しなければならないだろう。
それは、自らを歪め、黒く染めてしまうからである。

2018年9月8日土曜日

追憶 2162

しかしながら、本人は自分が仏の道を歩んでいると思い込んでいることだろう。
修行をして、立場も与えられている。
恐らくは、自分が必要とされていると思い込んでいるに違いない。
そして、自分が正しいと思い込んでいることだろう。
それは、彼の言動を見れば明らかである。
しかしながら、それは、壮大な誤解であるだろう。
わたしには、住職が大きく歪み、真っ黒な姿をして見える。
残念ながら、彼には"光"が届かないだろう。
それは、狭い世界を生きているからである。
穴は、狭い程に内部は暗い。
広い穴は、日の光が差し込んで明るいのである。
狭い世界を生きている人は、残念ながら、どのような人物も歪み、黒く染まってしまう。
それは、この世界の理(ことわり)なのである。

2018年9月7日金曜日

追憶 2161

残念ながら、人が宗教に属する動機は、恐怖や教育に過ぎない。
目の前の現実問題から逃れるために宗教に属したり、親の教育によって、何も考えずに宗教に属するというものである。
そのため、どうしても視野を広げることは難しいのだ。

わたしの家は、一般的な日本人のように神社に参拝し、お寺にお墓がある。
その他の宗教には関わってはいない。
地元の寺には、住職が一人で生活している。
この住職は、すこぶる評判が悪く、嫌っている人の方が多い。
それは、態度が非常に傲慢(ごうまん)であり、金に汚く、掃除もせず、大人や子どもに関係なく気に入らないことがあると人を怒鳴りつけることもあり、平気で嘘を吐くような姑息な人物であるからだ。
詳しくは書かないが、外道という言葉に合致した人物である。
彼は、仏の道を行く人ではない。
70歳を超えているが、それでも、人としての道もまともに歩むことの出来ない未熟な人なのである。



2018年9月6日木曜日

追憶 2160

例えば、特別な事例を除いて、従業員が経営者の給料を超えることは出来ない。
それは、従業員が経営者の権限(立場)を超えることが出来ないからである。
お金持ちに成りたいと思っているのであれば、従業員という立場を手放し、経営者の立場を得なければならないのである。
残念ながら、信者は、宗教の幹部よりも豊かに生きることが出来ない。
それは、信者が宗教の幹部の権限を超えることが出来ないからである。
この世の理(ことわり)を知りたければ、宗教に従属する立場を手放すことである。
集団の中では、自分が将来的に得られるものは、大抵の場所、集団の上層に位置する人間を見れば理解することが出来る。
宗教に属しているのであれば、その末路は大抵の場所、上層に位置する人間と同じものであるだろう。




2018年9月5日水曜日

追憶 2159

集団に属するということは、意思を手放し、盲目と成るということである。
上層に属する人は、下層に属する人の意思を奪う。
それは、命令に従わせるためである。
"右向け右"という命令が下されたのであれば、右を向かなければならない。
その時に、"なぜ、右を向かなければならないのか?"という疑問を持つことは許されない。
なぜなら、統率が乱れてしまうからだ。
信者は、宗教のために信者を増やさなければならない。
それは、皆が同じことをしなければならないからである。
彼等は、同じことを学び、同じことを信じ、同じことを行い、同じことを守るのである。
そして、同じ場所に至る。



2018年9月4日火曜日

追憶 2158

どのような集団も、統率を必要とする。
集団を統率するためには、階層が必要なのである。
階層の上位に位置する人間は、集団の統制を考える。
集団を統制するためには、それぞれの独自の考えが邪魔になる。
それは、それぞれが独自の考えに従って勝手に動くのであれば、集団を維持することが出来ないからだ。
そのため、束(たば)ねる者は、それぞれの独自の考えを取り除く必要に迫られるのである。
要は、"右向け右"ということである。

2018年9月3日月曜日

追憶 2157

天使や仏の”道具”は、とても大切に扱われるのである。
しかしながら、大切に扱うというのは、丁寧に梱包(こんぽう)されて、棚に飾られているということではない。
その”道具”が、最大限に力を発揮し、最大限に貢献することが出来るように扱うのである。
”道具”にとっては、それが最も豊かな在り方なのだ。
今日の宗教が行っていることは、天使や仏の振る舞いではない。
それは、天使や仏が、今日の宗教のように振る舞うことがないからである。
宗教を信仰している人達は、一体何に従っているのだろうか?
そのことを考えなければならないのである。
しかしながら、宗教を信仰している人達は、自分が何に従っているかを考えない。
なぜなら、宗教のシステムが、”余計な”疑問を抱かないように作られているからである。

2018年9月2日日曜日

追憶 2156

天使や仏が、わたしに宗教で行われているようなことを強制することも、勧(すす)めるようなこともなかったのである。
もしも、わたしが一般的にいうところの信心深い人間であったなら、天使や仏がわたしを訪れることは無かったのではないだろうか?
天使や仏は、"道具"を必要としているように感じるのである。
それは、使える道具である。
天使や仏にとって、人は"道具"なのではないだろうか?
もちろん、道具というのはネガティブな意味ではない。
ある程度の意識のレベルにある人は、道具を自分の手足のように大切に扱う。
天使や仏は、人よりも意識のレベルは高い。
彼等が道具を扱う時には、わたし達人間よりも大切にするのである。



2018年9月1日土曜日

追憶 2155

宗教とは、人と世界を隔離する壁である。
もちろん、世俗も人と世界を隔離する壁であるだろう。
わたしは瞑想を通じて天使や仏に出会い、彼等と共に生きるようになったが、彼等がわたしを世界から隔離するようなことは無かった。
寧(むし)ろ、多くの経験を積ませるようにしているのである。
わたしは何の修行もお祈りもしない。
墓参りなどを自発的にすることもないのである。
誘われたら付いて行くくらいのことである。
わたしは、一般的な信心深い人間ではない。
わたしは、宗教的な儀式には興味が無いのである。
しかしながら、天使や仏がわたしを嫌うことは無かった。