このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年6月30日土曜日

追憶 2092

彼女がそれでも息子を愛すると言えば、自分の信じている正義に反することになり、正義を貫(つらぬ)けば、息子を愛してはいないことになる。
彼女は、この矛盾と初めて対峙したのである。
彼女は、何も答えることが出来なかった。
しかしながら、わたしも答えが欲しいのである。

"どうしますか?"

わたしが問い掛けると、彼女は息子を愛すると答えた。
若い女性も同じ心境であったに違いない。
なぜなら、二人の先程までの勢いが失われてしまったからである。
彼女達は、正義よりも愛することを選んだのである。
それは、険しく苦しい道である。



2018年6月29日金曜日

追憶 2091

これは、わたしが彼女達に対して、初めに問い掛けてみたかった最高の質問である。
わたしはこの質問のために、今までの質問を重ねたのであった。

"息子さんが死亡事故を起こしたら、あなたはどうしますか?殺人を犯した息子さんは悪なので、愛することをやめますか?"

わたしの質問に対して、年配の女性の思考は完全に停止した。
わたしは彼女が不自然な笑顔の奥に、動揺を隠していることを見抜いていたのである。
彼女は、それを悟られまいと必死に笑顔を作っているのであろう。
それは、仲間の若い女性と歳下のわたしの前で、立場と自尊心を守ろうとした、彼女なりの選択であったに違いない。
いつまで待っても、年配の女性からは何の回答も得られなかった。
年配の女性から得られるものは、不自然な笑顔だけだったのである。
そんなものはいらない。
どこを探しても言葉が見付からないのであろう。
それは、自分の信じていることの中に矛盾を発見してしまったからである。



2018年6月28日木曜日

追憶 2090

わたしの質問を肯定(こうてい)した年配の女性の言葉は、先程に比べると元気(自信)のないものであった。
とはいえ、年配の女性は我が子を愛しているということが分かった。
そこでわたしは、再び質問をした。

"息子さんは、どのような仕事をされている方ですか?"

年配の女性は、わたしの質問を訝(いぶか)しんでいるようではあったが、素直に答えてくれた。

"営業の仕事をしています"

そこでわたしは再び質問をした。

"息子さんは普段、車には乗りますか?"

女性は、わたしの質問の意図が分からないままに答えを準備した。

"はい。乗っています"

彼女の答えによって、わたしの質問の大半は終わった。



2018年6月27日水曜日

追憶 2089

わたしには、不毛な議論や、退屈な話に付き合っている時間はないのである。
そのため、わたしは後ろの年配の女性に対して、回答を促(うなが)した。
すると、彼女は社会人の一人息子がいると答えたのであった。
そこでわたしは、質問を後ろの年配の女性にだけ続けた。

”あなたは、息子さんのことを愛していますか?”

わたしがこう聞いたのは、彼女達がいじめや暴力や殺人や戦争を否定した時に、愛が必要であると主張したからである。
彼女達の主張では、どうもこの世界にはいじめや暴力や殺人や戦争は不要であり、愛が必要だということだった。

”もちろん、愛していますよ”

少しだけ間を置いた年配の女性の言葉に対して、わたしは矛盾を感じた。
どことなく自信が無いように思えたのである。

”本当に愛していますか?”

わたしは、彼女の瞳を真っ直ぐに見詰めて聞いた。



2018年6月26日火曜日

追憶 2088

わたしが嬉しくなったのは、この後の展開に対して、彼女達の回答が必要だったからである。
わたしが嬉しそうな態度を示したので、彼女達の警戒心も緩んだように思えた。
そこで、わたしはもう一つの大切な質問をした。

"子どもはいますか?"

結婚に対する質問は、この質問のための布石(ふせき)であった。
わたしが本当に求めている答えは、彼女達に子どもがいるかどうか?ということなのである。

"わたしはいません"

目の前の若い女性が答えた。
しかしながら、後ろの年配の女性は答えなかった。
何か決まりでもあるのだろうか?
わたしは二人に聞いているのである。
彼女達には、わたしの貴重な時間を使っているという自覚がないのであろう。





2018年6月25日月曜日

追憶 2087

そこでわたしは、一つ溜め息を吐いてから、彼女達に問い掛けてみることにした。

"あなた達は結婚はしていますか?"

わたしの急な問い掛けに、二人の思考は追い付いていないようであった。
間の抜けた表情の彼女達には、急に話が変わったと思えたのかも知れない。
すると、二人の表情が穏やかさを取り戻したように見えた。

"結婚していますよ"

目の前の若い女性が少しだけ訝(いぶか)しげに答えた。

"あなたはどうですか?"

後ろの年配の女性にも尋ねてみた。

"わたしもしています"

年配の女性は、微笑みながら答えた。
二人の回答が、わたしには嬉しいものであったので、自然と笑みがこぼれた。



2018年6月24日日曜日

追憶 2086

正義感というものは、とても厄介なものである。
それは、対局の立場を見えなくさせてしまうからだ。
人は、正義感によって盲目となってしまうのである。
恐らく、彼女達は強い正義感に従って行動しているのであろう。
彼女達は、自分達の信じる正義こそが正しいと思っているのである。
そのような態度が透けて見える。
彼女達からすれば、わたしは無知な愚か者に見えたのかも知れない。
それは、自分達の正義とは異なる主張をしているからであろう。
彼女達からすれば、存在して良いはずのない、いじめや暴力や殺人や戦争の凶悪さを知らない人が目の前にいるとでも思っているのだろう。
わたしが、いじめや暴力や殺人や戦争の存在を肯定(こうてい)した時から、彼女達の心の中と表情には哀れみが浮かんでいた。



2018年6月23日土曜日

追憶 2085

わたしはそのような意味で、いじめや暴力や殺人や戦争はあっても良いと考えているのである。
何よりも、”神”がそれを許しているのである。
”神”が許しているために、この世界にいじめや暴力や殺人や戦争が存在するのだ。
人によって、必要は違ってくる。
わたしは酒もタバコもギャンブルも肉食もしないが、他者に対してそれを強制しようとは思わない。
それ等はわたしには必要のない選択肢であっても、他者には必要な選択肢なのである。
それと同じことだと思うのだが、彼女達には受け入れられない考え方であるようだ。
彼女達には、人の多様性を理解することが出来ないのであろう。

2018年6月22日金曜日

追憶 2084

わたしは、人がこの世界に存在するものを否定するのは間違っていると思っている。
なぜなら、この世界は人が築いたからだ。
この世界を創造したのは”神”と呼ばれる壮大な力であるだろうが、それをアレンジしているのは、わたし達人間なのである。
いじめや暴力や殺人や戦争は、人がアレンジした世界の在り方なのである。
要は、そのような選択しか出来ないということだ。
幼子や老人、生まれ付きの特性(障害や病気など)を持つ人や怪我人に対して、多くを求めることには納得することが出来ない。
この世界には、いじめや暴力や殺人や戦争を選択しなければならない人達が存在しているのである。
その人達にも学ぶ権利はあると思うのだ。



2018年6月21日木曜日

追憶 2083

いじめや暴力や殺人や戦争は、それを体験する人達の性根を直すために存在しているのだと思うのである。
この世界に存在するすべては、人が成長するための学びに違いないのだ。
感情論で考えれば、いじめや暴力や殺人や戦争など、存在しない方が良いに決まっている。
わたしも、彼女達と同じように、そのような世界を望んではいない。
しかしながら、この世界にはそれ等が存在しているのである。
それは、この世界に生きる人達にとって必要だからではないだろうか?
いじめや暴力や殺人や戦争を体験することによってしか、直すことの出来ない性根が存在しているのだと思うのである。



2018年6月20日水曜日

追憶 2082

世間的な悪いことは、わたしにとっては必ずしも悪いことではなかった。
寧(むし)ろ、わたしは、良いことのように思えて仕方ないのである。
わたしは過去の苦しみに感謝している。
過去は最悪だと思うが、それは、最良だとも思うのである。
過去は苦しいものであったが、良いものだと思えて仕方ないのだ。
過去の悪いことを体験することがなければ、わたしは未だに自分勝手な生き方を選択していたに違いない。
振り返ってみると、悪いことがわたしの性根
(しょうね)を叩き直してくれたのだと思うのだ。
悪いことだけが、わたしの深部を叩き、その歪みをある程度直してくれたのだと思っている。
誰かの言葉によって、性根が直ったのではない。
悪いことを経験し、多くの人に迷惑をかけて反省したからこそ、わたしは少しでも性根を直すことが出来たのだと思うのである。

2018年6月19日火曜日

追憶 2081

わたしは幼い頃から、多くの人に迷惑をかけてきた。
残念ながら、今でも迷惑をかけ続けていると思う。
そして、それは、死ぬまで変わらないだろう。
しかしながら、わたしはこれを悪いことだとは思わない。
なぜなら、人は他者に迷惑をかけることによって多くを学び、多くを気付き、多くを改めることが出来るからである。
もちろん、わざと迷惑をかけるのは褒(ほ)められないが、人が他者に迷惑をかけることは仕方のないことだと思えるのである。
わたしは、多くの人に迷惑をかけながら生きて来た。
そのため、その反動として、多くの人の役に立とうと思う気持ちが芽生えたのである。



2018年6月18日月曜日

追憶 2080

明らかに、彼女の言葉には先程までとは異なる感情がこもり始めていた。
天は、それをよしとした。

"なぜ、それ等のことが存在してはいけないのですか?"

わたしは、子どものように無邪気に聞いた。
すると、彼女は自らの主張が正しく、多くの人に支持されているものだと言わんばかりに言葉を重ねた。

"悪いことだからです"

そこで、わたしは言葉を返した。

"悪いことって何ですか?"

わたしの言葉に対して、彼女は沈黙した。
それは、彼女が常識に縛られているからである。
彼女は、ある意味で常識的な人なのだろう。
常識の世界では、様々なことが抽象的(ちゅうしょうてき)に共通の認識を得ている。
抽象的な認識の集まりこそが常識なのだと思うのである。
例えば、常識における悪いことへの抽象的な認識は、規則を破ることや、人に迷惑をかけることなどであろう。
そのため、いじめや暴力や殺人や戦争は、彼女達にとっては悪いことなのだ。
それは、規則を破ることでもあり、人に迷惑をかけることでもあるからであろう。






2018年6月17日日曜日

追憶 2079

彼女は、笑顔の裏に否定を隠しながら、わたしの言葉に質問で返した。

"許されているというのは、それ等のことがあっても良いということですか?"

彼女は、わたしの言葉を納得することが出来ずにいたのである。

"もちろん"

わたしは、わざと焦(じ)らすように言葉を短く切った。
彼女の心は明らかに揺さぶられていた。
未知の生命体に出くわしてしまったような、そんな表情を見て、わたしは笑った。
そして、自らを正当化するために、彼女は再び言葉を重ねる。

"わたしは、いじめや暴力や殺人や戦争がこの世界にあってはいけないと思うんです"

言葉の中には、微かな怒りがこもっていた。



2018年6月16日土曜日

追憶 2078

わたしには、彼女の意識を"ここ"へ引き戻す必要があった。
そこで、更に言葉を重ねた。

"いじめも暴力も、殺人や戦争も、この世界では許されていますよ"

わたしの言葉に彼女の顔色が変わった。
ようやく、戻って来てくれたようである。
彼女の心の中には、既に否定が芽生えていた。
それは、わたしの言葉に対する反射であったのだろう。
彼女は、わたしの言葉を受け入れることが出来なかったのである。
それは、彼女の正義感が強過ぎるためであった。



2018年6月15日金曜日

追憶 2077

次に、彼女は自分を正当化するために言葉を重ねた。

"でも、世の中には悪いことがたくさんあります。いじめや暴力、殺人や戦争もあります…"

彼女は、どうしてもわたしを不幸の仲間にしたいようだった。
わたしは、彼女の企みを微笑ましく聞いていたが、天からは、少しだけ彼女等の世界観を広げる手助けをしなさいと言われた。
そこで、わたしは言葉を返すことにした。

"いじめも暴力も、殺人も戦争もあって良いと思いますよ"

わたしが笑顔で答えたからか、彼女は目を皿のように丸くして一点を見つめ、宗教に携わっているために錆び付いている思考は、完全に停止しているようであった。



2018年6月14日木曜日

追憶 2076

彼女等は、わたしが多くの人のように、苦労話でもするものだと思っていたのだろう。
小さな口で不満や不安を吐き、世の中を汚すとでも思っていたに違いなかった。
わたしが不幸の言葉を吐いた時のために、彼女はいくつかの同情と優しい言葉を用意していたのだろう。
彼女等がそうであったように、心の弱い人ならば、それでなびくところだろう。
わたしはこの時点において、彼女等の背後に浮かぶ大きな暗闇を認識していた。
残念ながら、わたしが暗闇を背負っている人に従うことはないのである。
それは、既に結果は見えているからだ。
わたしの予想外の反応と、自らの常套手段(じょうとうしゅだん)が封じられたことで、彼女は明らかにうろたえていたのである。



2018年6月13日水曜日

追憶 2075

わたしはすぐに、彼女等の"企(たくら)み"に気が付いた。
要するに、彼女等はわたしの不幸を引き出したいのである。
不幸という共通の"敵"を作り出すことによって、仲間として引き込みたいのである。
残念ながら、わたしは不幸ではない。
苦しいことや辛いことは山程あるが、それを不幸だと思ってはいない。
そこで、わたしは彼女に対して、素直な気持ちで返事をした。

"毎日、幸せですよ"

すると、若い女性の表情に、明らかな動揺が現れた。
それは、予想外の展開を目の当たりにした時の驚きの表情であった。



2018年6月12日火曜日

追憶 2074

話が変わるが、以前に宗教の勧誘のために自宅を訪ねて来た二人組の女性達と話したことがあった。
20代後半くらいの若い女性と、40代くらいの女性の二人組である。
彼女等は、日曜日の昼頃に、庭にいたわたしを見付けて話し掛けてきた。
わたしは、彼女等の目的が宗教の勧誘であることを簡単に理解したが、そのことは隠して話を続けた。
わたし達は、他愛もない言葉を交わしたが、話し掛けて来るのは、主に若い女性であった。
ある程度の言葉を交わしたところで、若い女性がわたしの近況について訪ねて来た。
わたしは、未だに彼女等の名前も知らない状態であった。
彼女等の太々しい態度に、わたしは別の言葉を返そうとしたが、天使が止めるので素直に質問に答えた。

"お兄さんは幸せですか?"

これが、彼女からの質問であった。



2018年6月11日月曜日

追憶 2073

大天使ミカエルが、わたしの災難を取り除くことはない。
寧(むし)ろ、わたしが災難とそこから生じる苦悩に向き合うことが出来るように手助けをしてくれる。
それは、まるで良い親のような存在なのである。
災難とそこから生じる苦悩に向き合わなければならないのは、人が未熟であるからだろう。
大天使ミカエルの教えは、人生を受け入れろということなのである。
未熟者であるわたし達には、人生の正しい判断は出来ないということであろう。
目の前に導かれるどのような状況も、”神”の被造物であるはずなのだ。
しかしながら、善悪を隔てている宗教に携わっている人たちとって、それは、受け入れ難いことなのかも知れない。
しかし、宗教に携わっていないわたしには、善悪という隔たりはどこにも見当たらないのである。







2018年6月10日日曜日

追憶 2072

第六感を働かせるためには、認識を改めなければならない。
認識を改め、価値観を変化させることがなければ、五感の先にある第六感を働かせることは出来ないのだ。
今までと同じ認識であり、同じ価値観であるのならば、同じ状況を継続しなければならないのである。
この世界において、心を美しく保つためには、認識を改める以外には方法がないのである。
神頼みは役に立たない。
それが、天使と付き合っているわたしの結論である。
以前に何度も悪魔のように成った天使を助けたが、彼等は神頼みはしないのである。
神頼みが役に立つのであれば、彼等は汚れる前に神頼みをしているはずだ。
”神”に近い天使が神頼みをしないのだから、彼等よりも遠い人間が神頼みをしたところで、何の意味もないと思うのである。

2018年6月9日土曜日

追憶 2071

わたしには、老女の道が危険であることが分かる。
それは、苦しんでいるからである。
苦しみが悪いということではない。
苦しみによって、心を汚すことが危険だというのである。
目の前の苦しみに対して、前向きに対応することが出来るのであれば良いだろう。
しかしながら、今の老女には難しいことなのである。
それは、そのような価値観を所有しているからだ。
心を汚すことによって、人は第六感を奪われてしまう。
わたしは、第六感を五感の延長だと考えているが、心を汚している人には、見えるべきものが見えず、聞こえるべきものが聞こえず、触れられるべきものに触れることが出来ないのだ。
認識することが出来るものを認識することが出来ないというのは、人生における大きな危険であると思うのである。



2018年6月8日金曜日

追憶 2070

しかしながら、わたしには、老女の認識が簡単には改まらないことを知っていた。
人は、簡単には変われないのである。
どのような人物も例外ではない。
誰もが、これまでに築き上げた価値観を手放すことが出来ないのである。
そこには、愛着が存在するからだ。
愛着とは、ただの執着に過ぎないが、人はその感情を美化してしまう。
冷静に考えれば必要の無いものであっても、愛着がそれを引き止めてしまうのである。
人は、合理的な生き物ではない。
例えば、トカゲのように自らの身体の一部である尻尾を切り落としてまで、目の前の危険を避けるような合理性は持ち合わせてはいないのである。

2018年6月7日木曜日

追憶 2069

苦しみを覚えるのは、自らの認識に対して素直に従っているからである。
すべてから学ぶことが出来るのだから、苦しみで完結するのは間違っているだろう。
最終的には、苦しみも喜びへと変えていかなければならないのである。
そのためには、世界を受け入れる必要があるのだ。
否定している状態では、世界は変わらない。
苦しみを苦しいと認識している世界を受け入れなければ、苦しみの形を変えることは出来ないのである。
苦しみを否定したい気持ちは分かるが、それが手元になければ、"修理"のしようがない。
宗教などの、決められた方法に縛られているのであれば、自らの認識を改めることが出来ないということを覚えておかなければならないだろう。





2018年6月6日水曜日

追憶 2068

この世界に存在するすべてから、わたし達は学びを得ることが出来る。
この世界に存在するすべてから、わたし達は学ばなければならないのである。
そのために生まれたのだ。
この世界とは、参考書のようなものであるだろう。
成長とは、試験に合格することではないだろうか?
参考書を充分に学んでいなければ、試験に合格することは難しいだろう。
”神”は、善と悪の両方を創造し、どちらも大切に扱っている。
すべてが”神”の宝であり、人が学ぶべきものなのである。
世界を隔てることなく学ぶことが出来れば、苦しみは形を変えるのである。




2018年6月5日火曜日

追憶 2067

宗教に携わる人の苦しみがここにある。
大切なのは、世界を受け入れることなのである。
苦しみも”神”が創造した最善であることを理解するのであれば、わざわざ宗教やその教義に引き籠(こ)もる必要はないのだ。
意識の成長は、世界を受け入れる時に実現する。
世界を拒絶している人には、意識の成長は実現しない。
宗教に携わっている人の多くが、残念ながら、意識の成長が停滞している状態である。
それは、人を小さな世界に繋ぎ止める足枷(あしかせ)であることを知らないからである。

2018年6月4日月曜日

追憶 2066

それは、石や木や紙に描いた偶像と共に生きることでも、限定的な宗教の教義に従って生きることでもない。
それは、全世界に対して自分の生まれた意味を探し、目の前の状況に対して今の自分が出来ることを探し、自分が出来る貢献(こうけん)を実現し、道理を学び、それを共有し、互いに成長することの出来る生き方のことなのである。
”神”と共に生きるというのは、全世界を理解しようとする生き方のことなのである。
宗教のように、小さな世界に大勢の仲間と引き籠(こ)もり、自らを正当化することによって、世界を拒絶してはならないのだ。
苦しみを拒絶するのは、世界を理解することではない。
それは、”神”を拒絶することでもあるのだ。

2018年6月3日日曜日

追憶 2065

人は苦しまなければならない。
それは、わたし達が未熟であり、甘えているからだ。
未熟と甘えを克服するために苦しみが導かれるが、それから逃れるための宗教になってはならないのである。
また、今日の日本では、多くの人にとって宗教は、生活の一部としての役割が与えられているだけである。
多くの人は、宗教の本質を気にすることはないだろう。
親や周囲の人達や、地域の行事として行われているために、惰性的に取り組んでいるに過ぎない人も多い。
宗教に熱心に取り組むあまり、”神”に頼って生きることは良くないが、霊的な生き方に関心を持たず、この世の生活に熱心に取り組むあまり、”神”を忘れて生きるのも良くはないのである。
人は、”神”と共に生きなければならないのだ。




2018年6月2日土曜日

追憶 2064

人生を歩むための足は、自らの意思である。
”神”と共に生きることと、”神”を頼って生きることは違う。
それは、子どもがいつまでも、親に頼って生きることが許されないのと同じことなのである。
人は、”神”と共に生きることは出来るが、”神”を頼って生きることは出来ない。
良い親ならば、愛情を以(もっ)て子どもを叱(しか)り、その自立を促(うなが)す。
”神”は良いものである。
どの親よりも優れた存在なのである。
そのため、”神”は人に対して、愛情を以て叱り、その自立を促す。
しかしながら、未熟な子どもには、親の愛情を理解することは出来ない。
そのため、自立を促しているのに、頼るという歪んだ選択が行われるのである。
宗教とは、子の親に対する甘えのようなものなのである。



2018年6月1日金曜日

追憶 2063

宗教の本来の意義は、人を苦しみに対峙させるための教育であるだろう。
しかしながら、そのことを理解することなく、苦しみから逃れるための集まりだと考えている人が多いように思える。
そのような面もあるとは思うが、本来の"使い方"ではないだろう。
宗教は単なる道具であって、頼るものではないと思うのである。
足萎(あしな)えが、杖に頼り切れば、自力で歩くことは益々困難になってしまうだろう。
宗教は杖であり、足ではないのである。
そのことを理解しなければならない。
しかしながら、宗教に携わる人の多くが、宗教を足にしようとしているのである。