このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年5月31日木曜日

追憶 2062

わたしを改めさせたのは、苦しみであったのだ。
苦しみによって、わたしの心は以前よりも清くされたとしか思えないのである。
他に思い当たるところは無い。
どのような知識や方法も、わたしを改めさせることは無かった。
親や教育でさえ、わたしの心には無意味であったのだ。
ただ、苦しみだけがわたしを救ったのである。
多くの人は、不自然な状態に陥っている。
しかしながら、そのことを知らない。
なぜなら、自分を救ってくれる苦しみを否定し、自分を堕落させる快楽に従おうとするのだから、不自然なのである。



2018年5月30日水曜日

追憶 2061

それは、信仰が歪んでいることを意味しているのである。
面白いことに、無宗教の人であっても、心が豊かであり、立派な人格者はいる。
宗教家であっても、心が乏しく、愚者はいるのである。
一方は、”神”を気にすることもなく善行を働き、一方は、”神”を拝(おが)みながら愚行を働く。
これが現実である。
人の行いは、宗教には関わらないと思うのである。
わたしは、成人するまでの約20年間、愚かに暮らした。
多くの人に迷惑を掛け、恥を晒(さら)して生きたのである。
しかしながら、それからは、自らの愚行を出来るだけ改めるように努めている。
改まっているかは分からないが、以前に比べると、幾らかはましになったと思うのである。
わたしを改めさせたのは、宗教ではない。
木や石や紙に描かれた偶像でもないのである。




2018年5月29日火曜日

追憶 2060

宗教というのは、偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)のことである。
それは、木や石や紙に描かれた像を神として
崇(あが)める風習である。
木や石や紙に対して、人は祈りを捧げ、人生の安全を願っているのだ。
木片や石ころや紙切れが、どうやって人の人生を左右するのだろう?
そんなものが、どうして願いを叶えてくれると思うのであろうか?
わたしには理解することが出来ないのである。
木や石や紙を通じて、”神”と繋がっていると主張する人もいるだろうが、それならば、偶像を介(かい)さずに”神”を信仰すれば良いだけの話である。
しかしながら、宗教に携わっている人達は、偶像を介さなければならないようなのである。



2018年5月28日月曜日

追憶 2059

残念ながら、わたしという存在は道理にかなってはいない。
わたしは未熟であり、何も知らないからである。
しかしながら、わたしを導く霊的な存在達は道理にかなっているのではないだろうか?
少なくとも、わたしより優れていることは確かなことである。
わたしは、老女に対して外から働き掛ける。
それは、老女が盲信(もうしん)している歪んだ信仰から離れさせ、客観視をさせるための働き掛けである。
わたしは老女の人生を決めはしない。
老女の人生を決めるのは、老女自身だからだ。
わたしに出来ることは、老女が自らの信仰を客観視することへの手助けだけなのである。
そのために、わたしは道理にかなっている霊的な存在達からの補助を受ける。
わたしの言動は当てにならないが、霊的な存在達の言動は当てになると確信しているのである。



2018年5月27日日曜日

追憶 2058

宗教の在り方というものが、そのような人達を受け入れるための土壌であるというのであれば、それで良いだろう。
なぜなら、人は、出来ることしか出来ないからである。
宗教に携わっている人が、そのようにしか出来ないというのであれば、宗教への認識を改める必要があるだろう。
それは、宗教(家)の主張を真に受けず、その奥にある宗教の在り方を見極めれば良いということである。
しかしながら、これは、宗教に携わっている人達にとっては難しいことであろう。
それは、歪んだ信仰を信じているからだ。
そのため、宗教に携わっている人の心の状態を改善するためには、外部からの働き掛けが必要なのである。
それも、出来るだけ道理に沿った働き掛けが必要なのである。



2018年5月26日土曜日

追憶 2057

宗教とは本来、そのように人の心を育てるための教えであり、そのための集(つど)いであったはずである。
それが、今日の社会においては機能しておらず、宗教(家)自体が保身に走る始末である。
本来の宗教は、理(ことわり)を悟るための道であったはずだ。
しかしながら、今日では、まるで学校か軍隊のように、教えられたことをそのままか、歪めて伝えているに過ぎないだろう。
もちろん、宗教に携わっている人の中にも、道理を重んじる素晴らしい人物もいるとは思う。
しかしながら、そのような人は一握りに過ぎず、大抵の人は宗教における本来の役割を果たすことが出来ない状態にあるのではないかと思うのである。



2018年5月25日金曜日

追憶 2056

心を改めるということは、”神”に対する歪んだ信仰を改めるということであろう。
"お天道様が見ている"という言葉さえあれば事足りる心の状態でなければならないと思うのである。
クラーク博士が"紳士たれ"という言葉を残したが、その言葉が理解出来る状態でなければならないのだ。
これは、今日(こんにち)の日本人には難しい言葉であるかも知れない。
それは、この世の快楽や苦悩に溺れることで道理を見失ってしまい、歪んだ信仰に縋(すが)るしか出来ない人たちには理解することが出来ない言葉だからである。
問題を前にして苦しむのは、紳士(淑女(しゅくじょ))であるとは言えない。
問題を前にして、毅然(きぜん)としていられるのが紳士(淑女)であると思えるのだ。
”神”に対する純真を見失わず、正しい信仰に従うのであれば、問題を前にして感謝することが出来るのである。



2018年5月24日木曜日

追憶 2055

決められていることは、長い歳月を経て積み重ねられた人の知恵である。
それは、決して悪いものではない。
大切なのは、それをどう解釈するか?ということである。
わたしは宗教を理由もなく嫌っているのではない。
宗教の成り立ちには、立派な教えと志(こころざし)があったに違いない。
ユダヤ教やキリスト教や仏教における様々な聖典には、素晴らしい教えが記されている。(オリジナルからは改変されている箇所が多々あるとは思うが・・・)
しかしながら、それを引き継ぐ人の解釈が、立派な教えと志を歪めてしまっているのである。
現代の宗教は、”神”に対する純真を忘れているように思えてならない。
現代の宗教からは、”神”に対する純真から懸け離れた行為が横行しているように思えてならないのである。




2018年5月23日水曜日

追憶 2054


老女の現状には、霊的な世界の状態が影響しているのは間違いないであろう。
わたしは、天使の助力によって、老女の霊的な世界から争いを取り除いた。
今度は、老女が自らの心を改める番である。
意識の状態が変わらないのであれば、霊的な世界の状態は元に戻ってしまうだろう。
以前とは異なる形が実現するだろうが、結果は同じである。
老女が自らの心を改めることが無ければ、霊的な世界には再び争いが導かれてしまうのである。
大切なのは、自分がどうあるのか?ということだ。
自分で考えることをせず、宗教の教義に従っているだけでは、自分の状態を改めることは出来ないであろう。

2018年5月22日火曜日

追憶 2053

話を聞くと、老女の家の神棚には、九州から持ち帰った神様が祀(まつ)られているということであった。
あの大男は、それだったのかも知れない。
九州から持ち帰った神様が、この土地に住んでいた大蛇の神様と争い、勝利を得て押さえ付けていたのであろう。
良かれと思った行為も、不自然を招いてしまう。
それは、自分の利益の為の行為だからである。
九州から神様を持ち帰るというのは、自分の利益に他ならないだろう。
それは、在来種の生態系に外来種を放り込むようなものであろう。
そこには、必ず争いが生じ、調和が崩れてしまうのである。
未熟な人間の良かれと思った行為が、思わぬ問題を引き起こしてしまうのだ。



2018年5月21日月曜日

追憶 2052

大蛇はわたしに礼を告げて姿を消した。
大蛇は以前のように、この土地を守るのであろう。
わたしには何が正しいか分からないが、これが天の考える最善である。
これで良いのだ。
その時、階段の人影がわたしに頭を下げた。
そして、人影も大蛇と同じように姿を消した。
人影からは、不器用なりに感謝の気持ちが届いた気がした。
わたしは良いことをしたのだと自分に言い聞かせた。

感覚が身体に戻るのを感じた。
春の芽生えのように五感が蘇る。
又もや唖然(あぜん)としている老女に対して、わたしは体験したことを伝えた。
すると、老女は驚きの表情を浮かべた。



2018年5月20日日曜日

追憶 2051

しかしながら、それはわたしの見解であり、老女にとっての必要とは異なる。
わたしは自分の思う最善を老女に導く手助けをしているのではない。
わたしは、天の思う最善を老女に導く手助けをしているのである。
そのことを見失ってはならないのだ。
しかしながら、人の心は弱い。
すぐに自我の働きになびいてしまう。
霊的な仕事で最も重要なことは、利己の滅却(めっきゃく)であるだろう。
未熟なわたしは、道理を理解してはいない。
そのため、天に従わなければならない。
それが、どのように自分の見解とは異なっていてもだ。
それが難しいのである。




2018年5月19日土曜日

追憶 2050

大男が去ることによって、老女を取り巻く霊的な世界の状態は変化した。
それは、これまでの人生とは、異なる人生が導かれることを意味している。
老女の意識の状態が変化することによって大男が去り、大蛇が残った。
争いが無くなったことで、違う結果がもたらされることは明白である。
ただ、わたしには、大蛇がそれ程良いものとも思えなかった。
大蛇よりは、大男の方が印象としては良かったが、天の判断は大蛇を残すということであったので、わたしはそれに従うのである。
わたしが大蛇を良いものと思わないのは、その話し方や態度から誠実さを感じることが出来なかったからである。



2018年5月18日金曜日

追憶 2049

頑(かたく)なに形成された価値観を変化させるためには、やはり苦しみの手助けが必要なのである。
人は、苦しみに会わなければ、特定の価値観を手放すことはないだろう。
苦しみによって、特定の価値観を諦めなければ、新たな価値観に変化させることは出来ないのである。
一度の苦しみで諦めることが出来なければ、二度の苦しみに会う。
二度の苦しみで諦めることが出来なければ、次の苦しみに会わなければならないのである。
価値観を変化させるまで苦しみは続いていく。
それは、嫌なことのように思えるだろうが、後のより良い人生のための苦しみなのである。



2018年5月17日木曜日

追憶 2048

宗教を信仰している人は、特定の”神”が守ってくれるものだと考えているが、わたしにはそのような認識はない。
わたしには、人の姿をした守護者もいれば、動物や幻獣の姿をした守護者もいる。
それに、仏の姿をした守護者もいれば、天使の姿をした守護者もいるし、光の姿をした守護者もいれば、声やイメージの姿をした守護者もいるのである。
宗教とは、霊的な世界の端末への認識の誤解に過ぎないのである。
仏にも天使にも会うわたしには、それを隔(へだ)てる世界観は窮屈(きゅうくつ)なものであるのだ。
そして、宗教に属している人たちの価値観にも窮屈な感覚を得てしまうのである。
それは、宗教に属している人たちの価値観は頑(かたく)なであり、簡単には変化することがないからだ。



2018年5月16日水曜日

追憶 2047

初めてわたしが認識した守護者(守護霊)は、ハクとコンという白い狐の霊体である。
そこから、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、現在は天使が主体的にわたしの守護者として見守ってくれている。
それは、様々な経験によって、わたしの価値観が変化したからであろう。
わたしの価値観の変化に合わせて、学びや役割は変化する。
学びや役割を果たすために、霊的な存在が協力者として支えてくれるのだ。
守護者は一人ではなく、組織を形成する。
会社に部署が割り当てられているようなものだろう。
その人の状態に合わせて、最善の守護者が協力者として支えてくれるのである。



2018年5月15日火曜日

追憶 2046

価値観の変化によって、老女の信仰心も多少は変化したはずである。
信仰心の変化は、霊的(意識的)な世界を変化させる。
それは、霊的な繋がりをも変化させるのである。
わたしが天使と繋がったのは、自分の価値観がそのように変化したからであろう。
そうでなければ、未(いま)だに天使を認識することは無かったはずである。
わたしは、霊的な世界を認識することなく育った。
わたしが霊的な存在を認識するのは、二十歳を過ぎてからである。
それも、自分自身でその道を求めた。
そのため、変化したという感覚が的確なのである。



2018年5月14日月曜日

追憶 2045

老女は、わたしと出会った。
それは、わたしを通じて出る霊的な存在からの言葉に出会ったということである。
話し合いを積み重ねることによって、価値観は改まる。
それが、どのような言葉であろうとも、それを聞き続けるのであれば、やがては自分となる。
老女は、わたし達との話し合いによって、価値観を改めたのだ。
それが、良いか悪いかは分からないが、これまでの価値観と違っているのは確かなことである。
価値観とは、選択の指標である。
人は、人生を価値観によって築くのだ。
老女の価値観が変わるということは、人生が変わるということである。
人生が変わるためには、始めに霊的(意識的)なものが変わるのである。

2018年5月13日日曜日

追憶 2044

老女の家族は、それぞれの苦しみを経由したに違いない。
それは、病であったかも知れないし、死であったかも知れない。
どのような苦しみであれ、それを経由したのは事実であろう。
残念ながら、良い人であっても苦しみを避けることは出来ない。
良い人も悪い人も、必ず苦しみを経由しなければならないのである。
そして、老女も、家族を失うという苦しみを経由しているのだ。
それぞれの苦しみは、様々な形で最善の学びを導く。
そして、それぞれの抱える不自然を自然へと変換するのを助ける。
しかしながら、苦しみを経由したからといって、すぐに不自然を自然へと変換することが出来る訳ではない。
自分を改めるまでは、不自然は自然には成らないのである。
人が不自然を自然へと変換することが出来れば、その土地や存在する”神”も自然を得ることが出来るのだ。
人間というのは、それ程に影響力のある存在なのである。





2018年5月12日土曜日

追憶 2043

老女の家族は、恐らくは皆良い人であっただろう。
しかしながら、意識には不自然を抱えていたのではないかと思える。
不自然を自然に変換するためには、苦しみを経由するのが普通である。
苦しみは、不自然を自然へと変換するための仲介役であるといえるだろう。
例えば、大病を患(わずら)うことは、強烈な苦しみである。
それを災難として扱うのが一般的であるだろうが、大病を経験した人の心は、大病を患う以前に比べて自然なものになっているのも事実である。
人の心は、苦しみを経由することによって誤解や偏見や無知を離れることが出来る。
そして、人は、苦しみを経由することによって良くなるのだ。



2018年5月11日金曜日

追憶 2042

しかしながら、老女は今だに元気に生きている。
それは、老女の意識の中には、死の要因となる程の不自然は存在していないからなのだと思えるのである。
例えば、老女は歪んではいるものの、”神”に対する信仰を抱いていた。
わたしは、必ずしも”神”を信仰する必要はないと思う。
宗教のように”神”を利用しようとも思わない。
信じたい者は信じれば良いし、信じたくない者は信じなくても良いのである。
”神”との向き合い方というのは、そのくらいリラックスしたものなのだ。
しかしながら、最終的には、”神”に対する信仰が無ければ、人生が空しさを離れて豊かなものにならないのも事実ではある。
しかし、強制は不自然であり、価値が無いのも事実であるため、自発を待つのが良いだろう。
老女には、偽物ではあるが、”神”に対する信仰心があった。
それが、老女の心をある程度整えたのであろう。




2018年5月10日木曜日

追憶 2041

理不尽に思う人もいるかも知れないが、人生を考察するのであれば、自分が体験したことは、何等かの形で自分と関係していることに気が付くのである。
気が付かなければ、気が付くまで体験しなければならない。
この世界とは、そのような仕組みなのである。
人は、不自然を自然へと変換しなければならない。
そして、すべての事象は意識から発生する。
この土地に住む老女の家族が相次いで亡くなったのは、それぞれの抱える不自然が原因であったに違いない。
それぞれの抱える不自然が、土地の意識を乱し、自らの抱える意識との相乗効果によって、結果として命を損なう要因を抱えることになったのであろう。
もしも、土地が原因で人が死ぬのであれば、老女もとうに亡くなっていてもおかしくないのである。



2018年5月9日水曜日

追憶 2040

恐らくは、不自然を持ち込むことによって生じる不具合から、何等かの学びを得ようとしているのではないだろうか?
残念ながら、人には、最終的な調和を実現することが出来ないのではないかと思う。
それは、調和によって学びが消滅してしまうからであろう。
そのために、人はわざわざ愚行(ぐこう)によって不自然を持ち込み、歓迎(かんげい)されることもない問題を引き起こすのかも知れない。
"身から出た錆"という言葉がある。
人生におけるすべての結果は、自分という原因から生じるものなのである。
自然の神々からの影響であろうとも、それを体験しているのは自分である。
霊的な存在を認識していないとしても、そこから導かれる影響は体験しているのだ。
それは、原因が自分にあるからであろう。
もしも、神々に原因があれば、人がその影響を体験する必要はないのである。

2018年5月8日火曜日

追憶 2039

しかしながら、これは、人の不幸の原因が霊的な存在にあるということではない。
神々が争っているのは、人間が不自然を招いたからであるだろう。
"普通"、自然の神々は共存している。
それは、彼等が自然の存在であるからだ。
神々が共存しているおかげで、自然環境が保たれているといって良いだろう。
自然環境が豊かな場所では、神々も豊かに存在している。
自然環境が荒廃している場所では、神々は争っていることの方が多いのである。
人の心の状態は、生活環境に現れる。
そして、生活環境は人の心を作るのである。
人間は唯一、自然の中に不自然を持ち込める
存在であるだろう。
その理由は分からないし、不自然も含めて自然なのかも知れないが、人間が不調和を生み出せることは事実である。




2018年5月7日月曜日

追憶 2038

要約すると、縄張り争いのようなものであるだろう。
わたしは、この土地を守っていた大蛇と、後から持ち込まれた大男の覇権争いを見たのである。
神とは言え、やっていることは、人間や動物と変わらないようである。
どのような大義を掲げようとも、争いによっては破滅が導かれる。
それは例外なく乏しさに繋がっている。
良く、戦争のおかげで様々な技術や社会が進歩したと主張する人がいるが、それは本当だろうか?
戦争によって、頭の固い"古い人間"が減り、柔軟な若人(わこうど)が世界を築くことによって、進歩の速度が高まるということはあるとは思うが、技術や社会の進歩の原因であると断言することは出来ないだろう。
平和な方が、軍事費、防衛費が必要でない分技術や社会の進歩は早いのではないかと思うのである。
この土地には、神々の争いが存在していた。
それは、結果として土地の荒廃(こうはい)を招いた。
動植物が人間の争いの影響を逃れることが出来るだろうか?
残念ながら、人間の争いの影響から逃れることの出来る動植物は存在しない。
それと同じように、神々の争いの影響を免れる人間は存在しないのである。



2018年5月6日日曜日

追憶 2037

天が閉じると、わたしと力無く横たわる大蛇が残された。
大男との戦いによって、大蛇は傷付き弱っているようである。
しかしながら、わたしが大蛇に対して"光"を送ることは無かった。
わたしには、大蛇を見守ることしか出来なかったのである。
しばらくすると、大蛇が重たそうに鎌首をもたげた。
そして、力無く話し始めた。

大蛇の話によると、大蛇はこの土地に古くから住む神であるそうだ。
そして、大男は後にやって来た神である。
それは、人によって持ち込まれた神であるということであった。

2018年5月5日土曜日

追憶 2036

それは、宙を舞う灰が陽の光に照らされて輝いている姿にも思えた。
光の粒は、天に輝く大きな光に吸い込まれるようにして消えた。
大男のこの世界における役割は終わったのであろう。
一千年も生きる大樹も、いつかは死を迎えるのである。
霊的な存在も不死ではない。
命とは、この世界における役割のことに違いない。
役割と共に命は存在し、役割の終わりと共に命は尽きるのだ。
大男の役割がどのようなものであったのかは分からない。
しかしながら、それが何かしら重要な役割であったことは確かであろう。
そうでなければ、今まで大男が存在を許されることにはならないからである。



2018年5月4日金曜日

追憶 2035

地鳴りのような大声を張り上げて、大男は火を噴(ふ)いた。
そして、それが大男の全身を包んだのである。
まるで大木のように大男が倒れた。
大男の全身を包む炎は、大男の命の現れのようである。
それは、少しずつ小さなものとなり、やがて鎮火してしまった。
大男は、命を失ったのである。
わたしが手を差し出すと、大男は灰のように崩れ、黒い煙のような姿となった。
わたしは黒い煙のようなものを両手に集めて、それに息を吹き掛けた。
すると、黒い煙のようなものがわたしの掌(てのひら)から離れる途端に光の粒となった。

2018年5月3日木曜日

追憶 2034

声はわたしに対して、大蛇に自由を与えるように告げた。
そこには、わたしには理解することの出来ない深い理由があるはずである。
深く考えずにわたしは声を受け入れた。
すると、右手が宙に差し出され、そこに十字を描いた。
光の十字架が出現し、金色の光を放つと、大男と大蛇を染めた。
光の十字架の放つ光によって、彼等はわたしの存在に気が付いたようである。
右手が光の十字架を掴む。
わたしは、それが大男に投じられることを瞬時に理解した。
同時にわたしは光の十字架を手放していた。
それは、迷い無く飛んで、大男の胸に突き刺さった。



2018年5月2日水曜日

追憶 2033

大男と大蛇は、わたしの存在には関心を示さなかった。
わたしには、彼等がわたしに気が付いているのかも分からないのである。
わたしは彼等と意思の疎通を試みようと考えたが、それが必要ではないことに気が付いた。
それは、彼等の争いの原因と、わたしの仕事を聞かせる声がしたからである。
それは、とても優しくて温かいが、とても力強い声であり、言葉であった。
この声は信用出来る。
なぜなら、そこには私利私欲の類(たぐ)いは見出せなかったからだ。
その声は、大きな志に従った言葉を伝えているのである。





2018年5月1日火曜日

追憶 2032

それは、天使も同じであろう。
わたし達は、私利私欲などという小さな目的のためではなく、より大きな志(こころざし)に従っているのだ。
わたしは天使が自分の利益のために何かを企(たくら)んでいるのを見たことがない。
わたしに対して制約を示すこともあるが、それが自分の利益のためではないことは容易に理解することが出来る。
そこには、純粋な意識が存在しているからだ。
純粋な意識は心地好い。
しかしながら、自分の利益のための企(くわだ)ては心地が悪いのである。
大男と大蛇は心地が悪い。
それは、彼等が自分の利益のために何かを企てていることを意味していると思えるのである。