このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年2月28日水曜日

追憶 1970

人間が未熟である証拠は、目の前の至る所に垣間見ることが出来る。
人間は個々に矛盾を抱えているが、全体である人類も同じである。
人が問題を抱えて苦しむのは、未熟であり、矛盾を抱えているからに他ならない。
老女の考えは未熟なものであり、多くの矛盾を抱えている。
わたしの考えも未熟なものであり、同じように多くの矛盾を抱えているのだ。
そのため、自分達で判断を下すことが得策であるとは言えない。
自分の判断に従った結果が、これまでの苦しみであったのだ。
同じことをすれば、同じ結果を得ることは明白なのである。
わたし達は学習しなければならないのである。
人は、他者に対して多くの要求をするが、その要求が未熟なものであることを理解していなければならない。
そうすれば、相手の要求を聞き入れる"耳"も育つかも知れないのである。



2018年2月27日火曜日

追憶 1969

老女も、大勢の人と同じように、わたしに様々な要求をしてきた。
自らの抱える問題を解決して欲しいのである。
気持ちは分かるが、方法としては間違えている。
それは、病気を治すのに、薬を飲むようなことである。
多くの人は薬を飲むことで病気を治すことができると考えているだろう。
それは、そのように見えるために、そう思うのは仕方のないことであろう。
これは、手品のようなもので、掌(てのひら)のコインは消えたように見えるが、実際には消えてはいないことと同じである。
病気は治ったように見えるが、症状が隠されているに過ぎない。
薬で病気が治るのであれば、新薬を開発する必要もなく、病気や病人は減り続けているはずである。
医学は進歩などしてはいない。
医学が進歩していると主張するのであれば、残念ながら、現代の医学自体が欠陥品であるということになるだろう。
もちろん、現代の病気は医学だけの責任ではない。
現代の生活環境は、そもそもが病気を引き起こすような仕組みなのである。

2018年2月26日月曜日

追憶 1968

老女も、それと同じ矛盾を抱えていた。
老女がわたしを必要とするのは、わたしを愛しているからではない。
老女は、わたしから出る力によって、不安や心配を取り除いて欲しいと思っているのである。
そのような関係が、老女を幸福にすることはない。
わたしは、頼まれたことを頼まれたように実現することは出来ない。
なぜなら、わたしを働かせる霊的な存在が、それを望んではいないからだ。
自分勝手に相手の望みを叶えているのであれば、互いに傲慢(ごうまん)を増してしまう。
人生は、思い通りにならない方が良いのである。
"神"を信用することも出来ない人間の考えなどは、残念ながらろくなものではない。
傾いた土台に建てた家は、不幸を招くのである。




2018年2月25日日曜日

追憶 1967

不安や心配も争いの一種である。
それは、この世界には"神"が存在し、すべてを必要として準備しているからである。
宗教の"神"を信仰している人達の多くは、不安や心配を抱えている。
先述したように、多くの人が宗教に属するのは、"神"を愛しているからではない。
自身の抱える不安や心配から逃れるために、宗教という集団に属したり、"神"を信仰することによって自己満足を得て、不安や心配を忘れるためである。
この世界に導かれるすべての状況は、それを受ける人にとっての最善であり、必要である。
"神"を愛しているのであれば、これくらいのことは理解しても良いだろうが、多くの信仰深い人も"神"を愛してはいない。
多くの人は、教えられた宗教の教義を守っているに過ぎないのである。
それは、"神"に反抗することであるが、信仰がそれを覆い隠してしまうのである。
そのため、宗教の"神"を信仰している人は、"神"が与えてくれた不安や心配を生み出す状況を取り除くために"神"を信仰するという矛盾を抱えてしまうのである。




2018年2月24日土曜日

追憶 1966

すべての宗教は"神"を信仰しているはずである。
しかしながら、その神は細分化されている。
それは、争いを生じさせる。
一つの宗教の中でも階級に対して争うが、他の宗教とも同じ理由で争うのである。
どちらも、自分が正しいことを主張するのである。
細分化されているということは、本質から離れているということだ。
それは、未熟ということである。
未熟であれば、誤解を抱える。
誤解は、争いの種である。
細分することが出来ない根源こそが本質であるだろう。
宗教はそれぞれに異なる"神"を信仰している。
それは、宗教という状態が、既に細分化された状態であるからだ。
宗教とは、"神"へ至る一つの経過に過ぎない。
そのため、宗教に属することは一つの段階に停滞するということであり、その状態によっては、"神"へ至ることは出来ないということなのである。

2018年2月23日金曜日

追憶 1965

わたしには、すべての宗教の信仰が不自然に思えて仕方がない。
それは、地球には同じ種の人類しかいないのに、肌の色や文化や思想が異なるために争っているような不自然さである。
例えば、人種は、ネグロイド(黒色人種)、コーカソイド(白色人種)、モンゴロイド(黄色人種)、オーストラロイド(アボリジニー)と大まかに分類されている。
ネグロイドがコンゴイドとカポイドに分かれ、アメリンド(アメリカ先住民)を加えると人種は6種類にもなるそうだ。
しかしながら、これ等の人種は交配が可能である。
現在の地球上の人類は、すべてホモ・サピエンスという同種ということである。
同種が肌の色や文化や思想が異なることによって争っているのは、本来ならば不自然なことなのである。

2018年2月22日木曜日

追憶 1964

宗教を悪いことだとは思わない。
どのような宗教であれ、それが存在しているということは、それを学ばなければならない人がいるということなのである。
わたしは酒は飲まないが、世の中には酒を必要としている人がいる。
わたしは煙草を吸わないが、世の中には煙草を必要としている人がいる。
わたしはギャンブルをしないが、世の中にはギャンブルを必要としている人がいる。
わたしは肉を食べないが、世の中には肉を食べることを必要としている人がいるのである。
わたしは宗教を信仰しないが、それは世の中にとって、誰かにとって必要なものなのである。
それを悪いことだとは思わない。
しかしながら、わたしは自身の経験から、天使や仏や自然の神が宗教に携わっていないことを知っている。
そのため、宗教が行っているような方法は、本来ならば必要ないと思うのである。

2018年2月21日水曜日

追憶 1963

仏神や先祖が、大きな寺院や墓を必要とするだろうか?
仏神や先祖が、ピラミッド型の組織を必要とするだろうか?
仏神や先祖が、煌(きら)びやかな衣装や大層な儀式を必要とするだろうか?
仏神や先祖が、供養のための食物やお金を必要とするだろうか?
それ等はすべて、人間のために必要なのである。
それ等はすべて、自尊心や虚栄心、恐怖心や偽善、自己満足などを満たすために必要なのである。
仏神や先祖を信仰していれば、自分は善良な人間であり、"裁きの時"に救われるなどと考えているのだろう。
わたしは10年以上の年月を、天使や仏、そして、自然の神と共に生きているが、彼等が宗教が行なっているようなことの何か一つでも、わたしに要求したことは今までに一度も無かった。
彼等は祈ることさえ、わたしには要求しないのである。

2018年2月20日火曜日

追憶 1962

老女には、神仏や先祖に対する人一倍の信仰心があった。
裏を返せば、それは、人一倍の恐怖心を抱えているということでもある。
多くの人が神仏や先祖を信仰するのは、神仏や先祖を愛しているからではない。
その根底には恐怖心が隠されているのである。
大抵の場合、神仏や先祖を蔑(ないがし)ろにすることは不運を招くだとか、上手くいかない現実を改善するために神仏や先祖に縋(すが)り付いているだとか、ただ、そう教えられたから続けているという程度の動機なのである。
本当に神仏や先祖を愛しているのであれば、神仏や先祖が供養など求めていないことを理解することも出来るだろう。
霊的な存在である神仏や先祖が、どうして物質を求めると考えるのだろうか?
物質を必要としているのは、人間だけである。
神仏や先祖に供養として物質を捧げたとして、捧げ物をした人に何か良いことがあるだろうか?
必要の無いものを与えられたとしても、それを受け取る者には迷惑に過ぎないのである。

2018年2月19日月曜日

追憶 1961

わたしは何かを教える立場であり、同時に何かを教わる立場である。
わたしは与える存在であり、受け取る存在なのである。
それは、誰にでも当てはまることなのである。

宗教は、歪んだ信仰心を育ててしまう。
宗教の構造はピラミッド型である。
言い方が悪いが、ねずみ講と同じ仕組みであるということを理解しなければならないだろう。
宗教においては、"神"に近付く程に利益を得て、"神"から遠ざかる程に損失を得るのである。
会社の仕組みと同じである。
役員(や株主)は多くの利益を得るが、平社員(や下請け)は損失を得るのである。
会社が、組織を維持するためには、会社に対する忠誠心が必要である。
宗教が、その集団を維持するためには、"神"に対する信仰心が必要なのである。
会社に対する忠誠心(不景気という環境作りもその一環であると思える)を育てなければ、社員(や下請け)はいなくなってしまう。
"神"に対する忠誠心(ハルマゲドンや地獄の観念を植え付ける教育)を育てなければ、信者はいなくなってしまうからである。



2018年2月18日日曜日

追憶 1960

"先生"と呼ばれることも問題であるが、"先生"と呼ぶことも問題である。
それは、誰かを"先生"と呼ぶ人は、いつまでも生徒であり続けるからである。
多くの人は、先生役と生徒役をいつまでも演じ続けなければならないのだ。
先生役の人は教えを受ける必要が出てくるし、生徒役の人は教えを与える必要が出てくるのである。
しかしながら、役に執着しているのであれば、成長に対する必要を満たすことが出来ないのである。
それは、立場を固定することによって、傲慢(ごうまん)や怠慢(たいまん)などの甘えが生じてしまうからだ。
そのため、自然の成り行きでは、親はやがて子のようになり、子はやがて親のようになるのである。



2018年2月17日土曜日

追憶 1959

わたしは劣等であるが故に、"先生"と呼ばれることに違和感を覚える。
わたしはそのような偉い人間ではない。
わたしには、学ばなければならないことが、他の誰よりもたくさんあるのである。 
自分に優越することは、即(すなわ)ち立ち止まることである。
"先生"と呼ばれることを許してしまうのであれば、その立場に気を良くして、歩みを止めてしまうに決まっている。
立場(権力)を得れば、それを失いたくないのが人間である。
わたしは優れた人間ではない。
他の人がどうかは知らないが、わたしには傲慢は重荷なのである。
多くの人は、わたしを"先生"と呼んで試みる。
それは、足に絡み付く茨(いばら)のようなものだ。
それに捕らわれてしまうと、道を完成することは出来ないのである。

2018年2月16日金曜日

追憶 1958

わたしは自分が正しいとは思わない。
自分が他者よりも優れているなどと思ったこともない。
わたしは劣等(れっとう)としての自覚があるが故(ゆえ)に、自分なりの努力を重ねているのである。
劣等の自覚がなければ、わたしは勉強などしないだろう。
生まれてから20年間、わたしの劣等の自覚
は薄いものであった。
そのため、わたしは勉強も努力もせずに生きてきたのである。
小さな世界の中で、無知と愚かさと戯(たわむ)れていたのだ。
わたしは劣等であったが、劣等の自覚が薄く、それを改善する必要性を自覚することもなかった。
それは、自惚(うぬぼ)れに違いないだろう。
自分が劣等であるにもかかわらず、改善を必要としないのは、傲慢(ごうまん)に他ならないのである。

2018年2月15日木曜日

追憶 1957

例に漏れず、老女もわたしを先生と呼んだ。
その度にわたしは自分の名前を伝えなければならなかった。
それでも、老女はわたしを先生と呼ぶので、面倒ではあるが、毎回訂正しなければならないのである。
多くの人がわたしを先生と呼ぶのは、霊能者や宗教指導者を名乗る者たちが、煽(おだ)てられることに気を良くして、自らの分際を勘違いしてきたからであろう。
例えば、多くの自称霊能者や宗教指導者は、無知であり、愚(おろ)かである。
小さな世界で、浅はかな見識を振りかざしているに過ぎないにもかかわらず、自分が正しいと思い込んでいるし、優れていると思い込んでいるのだろう。
愚かな者は、尊敬されることを望む。
愚かな者は権力を欲しているのである。
相手に先生と呼ばれることによって、自らの立場を高く保つと同時に、相手の立場を低めることによって、自慰行為(じいこうい)に酔い痴(し)れているのだろう。
多くの人は、そのような習慣にわたしを当てはめているのである。



2018年2月14日水曜日

追憶 1956

老女は、信仰深い人である。
彼女は、神様(神道)と仏様と先祖や故人(仏教)に対する毎日の祈りを欠かさない。
彼女にとって、神仏への信仰は人生そのものであるようだ。

多くの人は、わたしを"先生"と呼ぶ。
歳を経た人程、わたしを"先生"にしたがる。
気持ちは分からないでもないが、どの業界においても、これは、悪しき習慣であると思っている。
相手を尊敬し、自分が謙虚(けんきょ)であるためには、本来ならば上下関係は必要ないのである。
わたしには松岡真という大切な名前がある。
それに、わたしは決して、誰かに何かを教える気持ちはない。
誰かを生徒にする考えもないのである。
わたしは、目の前の人と共に学びたいと思っているし、対等だと思っている。
もしかすると、わたしの方が優れていることもあるかも知れないが、相手の方が優れていることはたくさんあるのである。
わたしは共に学んでいるだけである。
そのため、わたしが"先生"と呼ばれる道理は無く、それは迷惑なことなのである。



2018年2月13日火曜日

追憶 1955

ある日、わたしは一人の老女を訪ねた。
彼女は新築に独りで暮らしている。
足が効かないので、日常生活もままならない状態である。
彼女が新築に独りで暮らしているのは、同居していた家族が彼女を置いて皆先立ったからだ。
別の息子夫婦もいるが、彼女はこの土地で独りで暮らすことを選んだ。
それでも、老女は周囲の人達に助けられ、平和に暮らしていた。
わたしが彼女と知り合ったのは、共通の友人の紹介であった。
共通の友人を通じて、老女がわたしを訪ねてくれたことがきっかけである。
それから、何か辛いことがあると電話をかけてくるので、その度にわたしは真摯(しんし)に相談に乗っていた。
それで、時々は様子を伺(うかが)いに出向くのであった。

2018年2月12日月曜日

追憶 1954

しかしながら、多くの人はロマンを見失い、恐怖心に根差した選択をするのである。
多くの人は、やりたいことがあったとしても、それを実現するための行動を起こしてはいない。
様々な言い訳を準備して、自己を正当化するのである。
やりたくないことに不満を吐きながらも、それをやり続けていく。
そして、自分の人生が豊かでなく、苦悩を抱え、乏しさに我慢しているのは、誰かや世の中のせいだと考えるようになるのだ。
はっきりさせなければならないが、人生は自己責任である。
すべてが自分のせいなのである。
自分の仕事を果たそうと努めていない者が、豊かに生きられるはずがないのだ。
"働かざる者食うべからず"(新約聖書)という教訓があるではないか?
この世界においては、自分の仕事を果たそうとしない者が、豊かさを得ることは出来ないということを忘れてはならないのである。

2018年2月11日日曜日

追憶 1953

どのような困難が襲っても、それでも前に進んだ者だけが自分の仕事を果たすのである。
今日の日本では、不景気や"教育"の影響によって、夢や目標を見失っている人が多いように思える。
正社員や公務員に成りたいというのも夢や目標には違いない。
別に社会的に活躍する必要はないと思う。
有名になったり、裕福になる必要もないと思う。
しかしながら、ロマンを失ってはならないと思うのである。
正社員や公務員に成るという夢や目標は、恐怖心を本質としているだろう。
生活に困るだとか、将来が不安だとか、周囲の目が気になるとか、安定していて食いっ逸(ぱぐ)れることがないとか…
大抵の目的はネガティブなものなのである。
正社員や公務員に成るという夢や目標を、ポジティブに考える人には、まだロマンがあるだろう。
正社員や公務員に成ることによって、誰かや世の中に貢献したいなどというポジティブな動機であれば、困難を前にしても前進することも出来るかも知れないのである。




2018年2月10日土曜日

追憶 1952

人生を完成させたければ、自分の仕事を果たすことを覚悟しなければならない。
何があろうとも、自分の仕事に対して真摯(しんし)に向き合わなければならないのである。
自分の仕事を果たそうとする時には、必ず邪魔が入る。
それは、他者や状況の姿でやって来る。
あなたが自分の仕事を果たそうとする時、他者や状況が必ず邪魔をしてくるのである。
人は、自分の仕事を果たす覚悟を試されるのだ。
中途半端な覚悟では簡単に折られてしまう。
困難に立ち向かうことの出来ない者が、自分の仕事を果たすことなど出来るはずがないのだ。
覚悟の無い者は、人生を諦めた方が良い。
苦悩や乏しさに我慢して暮らすのが得策だろう。
人が自分の仕事を果たし、豊かに生きるためには、他者や状況からの教訓は参考にしなければならないが、それに屈してはならないのである。

2018年2月9日金曜日

追憶 1951

残念ながら、誰も強制的にわたし(あなた)に自分の仕事をさせることは出来ない。
自分の仕事とは、誰かに強制的にさせられるようなものではないのである。
自発的に行わなければ、自分の仕事を果たすことは出来ないのだ。
誰かの命令に従っているだけでは、人が自分の仕事を果たすことは出来ない。
誰かの命令に従っていることで果たされるのは、誰かの仕事なのである。
自発性を失った者が、自分の仕事を果たすことは出来ない。
人生とは、誰かや何かに運んでもらえるような、甘い世界ではないのである。
目的地に辿り着きたければ、自分でそこまで歩いて行かなければならないのである。
自分の仕事を果たすためには、自分で自分の仕事を果たすことを覚悟しなければならないのだ。

2018年2月8日木曜日

追憶 1950

どのような選択をするかは、あなた次第である。
人には、それぞれに仕事が与えられている。
わたしの仕事と、あなたの仕事は違っているのが自然である。
そのため、母親の生死に関わる場面においてわたしが仕事を続けたように、あなたがそうする必要はない。
病院に駆け付けることが必要だと思うのであれば、そうすれば良いのである。
自分に必要だと思う選択こそが最善であることを理解しなければならないだろう。
人生は、誰かに示されるというものではない。
自分の選択によって、道を切り開いていくものなのである。
"神"や"天使"や他人が導いてくれると思うのは怠惰(たいだ)であり、傲慢(ごうまん)なのである。

2018年2月7日水曜日

追憶 1949

"天使"が死を前にして動揺することはない。
"天使"が理(ことわり)の一部である死を恐れることはないのである。
わたしは、"天使"の言葉を信用してはいない。
わたしは、"天使"の態度を信用しているのである。
わたしは"天使"を見て、それに憧れているのだ。
だから、わたしも"天使"を真似る。
わたしは出来る限り"天使"のように振る舞うのである。
わたしも死を恐れずに、死を前にしても、自分の仕事を果たすことに努める。
それが必要だと思うのである。

2018年2月6日火曜日

追憶 1948

貧乏な人を真似ると、必ず貧乏になる。
乱暴な人を真似ると、必ず乱暴になる。
悩んでいる人を真似ると、必ず悩む。
愚痴(ぐち)を吐く人を真似ると、必ず愚痴を吐くことになる。
敵対している人を真似ると、必ず敵対することになるのである。
多くの親は、子どもに勉強しろと言う。
しかしながら、親は勉強しているだろうか?
多くの人は、他者に対して様々に要求するが、自分自身はそれが出来ているだろうか?
勉強することの無い親を見た子どもは、その姿勢を真似ることによって勉強を放棄する。
努力することの無い人を見た人は、その姿勢を真似ることによって努力を否定する。
楽しんで仕事をしていない大人を見た子どもは、将来、やりたくもない仕事を、金や生活や家族のためなどという言い訳を利用して、自分に鞭(むち)を打つことになる。
人は、言葉を信用しない。
その態度を信用するのである。



2018年2月5日月曜日

追憶 1947

わたしが"天使"になるためには、人間でありながら、"天使"のように振る舞わなければならない。
大切なのは、真似ることである。
例えば、お金持ちに成りたければ、お金持ちの考え方や生き方を真似ることである。
この世界には、因果の仕組みが存在している。
原因は、それに相応しい結果を導く。
原因を所有すれば、嫌でもそれに相応しい結果を受け取るのである。
真似るとは、真似ぶことである。
真似ぶとは、学ぶことであるだろう。
学ぶことは真似ることだ。
親の言葉では子は育たない。
子は、親の行為を真似て育つのである。

2018年2月4日日曜日

追憶 1946

わたしは、母親が死にかけている時にも、自分の仕事を続けた。
前述したように、わたしの仕事など大したものではなかった。
代わりはいくらでもいる仕事である。
わたしは、誰かに代わりを頼んで直(ただ)ちに病院に向かうことも出来た。
しかしながら、それは、わたしの夢や目標に結び付く選択ではなかったのである。
わたしの夢や目標は”天使”に成ることである。
わたしは、死後に”天使”に成ることを目標に生きているのだ。
”天使”とは、人よりも意識レベルに優れた存在であるだろう。
わたしは、”天使”に成るために自分を磨かなければならないのである。
恐れの感情は、”天使”に相応しくないだろう。
”天使”は愛情深い存在だと思うが、死を恐れることはない。
それが、自分の死であっても、他者の死であってもである。

2018年2月3日土曜日

追憶 1945

人が夢や目標を持ち、それを実現しようとする時には、自分の仕事を果たそうとしているのである。
叶えたい夢や目標は、大抵の場合、その人の役割や仕事に関係している。
夢や目標とは強い感情であるが、強い感情にはそれだけ大きなエネルギーが必要である。
人は誰もが、自分の仕事を果たすために生まれた。
自分の仕事を果たすことが人生の目的なのである。
エネルギーは、目的を果たすために使われる。
夢や目標に向かって行く中で、人は自分とその仕事を理解することも出来るようになるのである。
誰にとっても、夢や目標を実現することは決して簡単なことではない。
それは、どのような問題や壁が生じたとしても、諦めずに努力し続ける必要があるからだ。

2018年2月2日金曜日

追憶 1944

恐怖に根差すことは、人の行動を制限する。
人は、恐怖に根差して行動することは出来ないのである。
恐怖に根差してしまえば、人は虚脱(きょだつ)することになるのだ。
しかしながら、恐怖の感情でもある危機感に従って行動するのは、恐怖に根差した行動ではない。
人が危機感に従えば、行動は活発になる。
それは、危機感という恐怖を糧(かて)とする別の何かしらの感情に根差しているということなのである。
例えば、夢や目標を実現したいというような感情である。
人が夢や目標を実現したいという感情は、大抵の場合、恐怖を超えている。
夢や目標を実現したいと思う人は、様々なことに挑戦するのである。
そのような感情に従えば、人は可能性を広げることができるのだ。
それは、自分の仕事を果たす可能性なのである。

2018年2月1日木曜日

追憶 1943

霊的な感覚に出会うまでのわたしは、死を恐ろしいものだと考えていた。
不仲も病気も、何の根拠もなく悪いことだと思い込んでいたのである。
それは、そのように教育されたからだろう。
しかしながら、霊的な感覚に出会うことによって、わたしの認識は大きく変化することになった。
今では、自分や他者の死を恐ろしいものだとは考えないし、不仲も病気も状況によっては良いことにさえ思うのである。
人の抱える恐怖の感情は、本質的には死に対する肉体(遺伝子)か自我意識の恐れなのだと思える。
恐怖に支配されているのは自分ではなく、肉体や自我意識だということを理解するのであれば人が容易(たやす)く恐怖の感情に支配されることはないであろう。