このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年11月30日木曜日

追憶 1880

この世界がわたし達に要求することを完全に理解することは出来ない。
わたし達は、理由を聞かされないままに行動し、納得しないままで学びを得なければならないのである。
そして、学び終えた後も、その理由を教えられることはなく、自分の解釈によって着地点を見付けなければならないのだ。
この世界は、わたし達に対して明確な指示はしない。
世界は決して、命令はしないのである。
尊重されるのは自分の意思であり、その決定であるといえるだろう。
そのため、世界はわたし達に示唆(しさ)を与えるのである。
わたし達に許されているのは、世界からの示唆を読み解くことであろう。

2017年11月29日水曜日

追憶 1879

それから、わたしは友人と人生について簡単に話してから店を出た。
店を出た時、わたしは心が軽くなるような感覚を覚えた。
それは、老女の悪夢を見て以来の感覚である。
わたしが友人に一連の体験を伝えることが、今回の光の仕事の内容だったのではないだろうかと思える。
仕事が終わることによって、何かから解放されたような感覚である。
仕事の責任感や重圧感のようなものであろうか?
緊張を解かれてリラックスしているような、心地の好い感覚が心の中にあった。

2017年11月28日火曜日

追憶 1878

わたしの思いが友人に伝わったのかは分からないが、友人の口からは感謝の言葉が生まれた。

「おばあちゃん(義母)はもう苦しんでないよね?」

友人の言葉に対して、わたしはもう一度、老女と黒い人たちが共に光へ帰ったことを伝えた。
確認作業を終えた友人は、安心したような表情を浮かべた。
友人が死後の世界や霊的な存在を信用しているのかは分からないが、わたしの言葉を前向きに捉えてくれていることは理解できる。 
それは、友人が人生を豊かなものにするためには良い傾向だと思えた。

2017年11月27日月曜日

追憶 1877

自分独りで人生を豊かに築いた者が今までに存在しただろうか?
利己的な人物は決して豊かさを得ることはできない。
世の歴史は、歴史を伝えた者の主観によって歪んでいるために参考にはならないが、周囲に利己的であっても豊かな人生を生きた人物がいた試しがあっただろうか?
人は、互いに支え合うことによって人生を豊かなものにするのである。
そのため、自分のための知識に加えて、誰かのための知識も必要なのだ。
支え合うというのは、誰かの役に立つということであるからだ。
誰かの役に立つことは、やがて自分の役に立つのである。
人生を豊かなものにしたいと考えているのであれば、無駄に思えることであっても、それが無駄になるとは考えずに学び続ける必要があるのだ。

2017年11月26日日曜日

追憶 1876

思考の停止に陥(おちい)らないためには、知識の循環を怠(おこた)らないことであろう。
それは、呼吸することに似ている。
古い空気をいつまでも肺の中にとどめておく訳にはいかない。
必要な要素を体内に取り込めば、残りは吐き出さなければならないのである。
そして、再び新しい空気を吸い込む。
それは、必要なものが全体の一部に過ぎないからだ。
この世界には無駄は存在しないが、自分だけで世界を考えることは出来ない。
自分にとって無駄に思えるものであったとしても、自分以外の存在にとっては必要であるからだ。
不要とされ、吐き出された空気は、植物の役に立つかも知れないのである。
あなたが無駄に思える知識を得ても、それを活用することの出来る状況は少ないかも知れない。
しかしながら、それは、誰かの役に立つ知識であるかも知れないのである。

2017年11月25日土曜日

追憶 1875

わたしの幸福の形と、他者の幸福の形が同じであるとは思っていないが、わたしの辿って来た幸福の道のりは、他の人とさほど変わりないものであろう。
わたしも、以前は無知を喜んでいた。
よく、昔を幸福だと語る人がいるが、以前のわたしならその考えに共感することも出来たかも知れないが、今のわたしには過去を幸福だとはどうしても思えないのである。
過去にも楽しいことはあっただろうが、当時は楽しいことも、今では退屈と思えるのである。
わたしには、今よりも優れた過去など存在しないと思えるのだ。
昔を幸福だとは思っている人は、残念ながら思考が停止しているのであろう。


2017年11月24日金曜日

追憶 1874

無駄に思える知識に興味関心を示すこともなく、与えれた刺激に満足し、”井の中の蛙”や貝のように堅く身を守っている人は、主観的には幸せと思えるかも知れないが、大きなお世話ではあるが、客観的には不幸に思えてならない。
鎖(くさり)に繋がれた犬は、きっと自分を幸せ者だと思っているだろう。
室内で飼われている猫も、同じように思っているかも知れない。
もちろん、それを不幸に思っている犬や猫もいるはずだが、大人しく繋がれている様子を見ると、それを幸せと思っているようにも思えるのである。
まぁ、諦めもあるのかも知れないが…

2017年11月23日木曜日

追憶 1873

人生を豊かなものにするためのこつは、好奇心を抱くことであろう。
好奇心とは、興味関心のことである。
人生を豊かなものにするためには、無駄に思える知識をも得る必要があると思えるが、無駄に思える知識を得るためには好奇心が必要なのだ。
好奇心に乏しく、興味関心が薄い人物で、豊かな人生を生きている人がいるだろうか?
わたしは今までに多くの人に出会うことができたが、人生を豊かに生きている人は、好奇心を抱き、多くのことに興味関心を持つ人物であったように思える。
例えば、好きなこと、やりたいこと、興味のあるもの…
このような問いに即答する人は、自分の好奇心を満たすための具体的な行動を起こしている場合が多く、そのような態度の人はやはり豊かに生きているのである。

2017年11月22日水曜日

追憶 1872

わたしが友人に聞かせた話は、友人にとっては価値の見出せない無駄なものであったかもしれない。
しかしながら、この世界には無駄なものはなく、無価値なものも存在しないのである。
今は価値の見出せない無駄な知識であったとしても、それはいつか役に立つ時が来るのである。
知識とは、食材のようなものであり、様々な組み合わせによって味を変える。
出汁(だし)や調味料は地味な食材であり、料理に疎(うと)い人には無駄に思える食材であるかも知れないが、それによって料理の出来は大きく変わってしまう。
食材に様々な選択肢があれば、美味しい料理を作ることも出来るが、食材に選択肢が無ければ、料理の出来はいまいちなものになってしまうのである。

2017年11月21日火曜日

追憶 1871

多くの人は、知識の在り方を誤解している。
人は、無駄だと思える知識も学ばなければならないのだ。
今の自分には関係ない。
興味が抱けない。
役に立たない。
無駄に思える。
様々な理由によって、人は知識を否定する。
喉の渇きを覚えない老人が、熱中症によって命を落とすのと、知識の渇きを覚えない若人(わこうど)が自殺によって命を落とすことは、原理としては同じことなのである。
そのため、知識の渇きを覚えなくても、人は知識を得る必要があると理解しなければならない。

2017年11月20日月曜日

追憶 1870

知識が与えられるのを待っているのであれば、やがて知識の枯渇(こかつ)が生じる。
それは、やがて人生に対する問いと答えを失うことに繋がるのである。
喉の渇きを覚えなくても、水分(ミネラル)を補給することは重要だ。
例えば、熱中症のように、必ずしも喉の渇きを覚えなくても死を引き起こす可能性のある状態も存在している。
新たな知識を蔑(ないがし)ろにして、既知(きち)や既成概念に埋れていると、そのまま無知の暗中に引き込まれてしまうのである。

2017年11月19日日曜日

追憶 1869

人生において重要なことは、人生の意義を探すことにあるのだと思える。
それは、”人生とは何か?”という根源的な問いに答えを導くということだ。
自らの知恵に満足している人は、その状態での意義を見出しているだろう。
それを幸せと感じるのであれば、それで良いと思う。
しかしながら、人が新たな経験を経ることによって成長した時には、今までの幸せを幸せとは感じられなくなってしまうのである。
そのような過程は何度も繰り返される人生の必然であるが、多くの人はそのことを知らずにいたり、忘れてしまうのだ。

2017年11月18日土曜日

追憶 1868

待っていれば幸福が訪れるということは有り得ない。
喉が渇いたからといって、空に向かって口を開けて待っているとでもいうのだろうか?
人々の態度を見ていると、口を開けて待っていると、雨粒が都合良く降り注ぎ、喉の渇きを潤してくれるとでも信じているように見えてくるのである。
ソクラテスの”無知の知”を実感している人がどれだけいるだろう?
多くの人は、自分が無知であることを知らずにいる。
そして、どういう訳か、自分の知恵が十分であると思っているのだ。
知恵が十分であると思っているために、勉強したり、何かを積み重ねる努力を怠(おこた)り、息抜きの時間を過ごすのである。

2017年11月17日金曜日

追憶 1867

多くの人は、知らなくても人生が豊かさを増すような解釈をしている。
多くの人は幸福を求めているが、何かを勉強したり、努力して積み重ねるということはしない。
知らなくても幸福を得られると誤解しているのである。
残念ながら、無知な者が幸福を得ることはない。
それは、知識は選択肢であるからだ。
そのため、知識に乏しい者は選択肢にも乏しい。
選択肢が乏しければ、可能性を広げることは出来ない。
それでは、幸福は得られないのである。

2017年11月16日木曜日

追憶 1866

彼女は、困惑しているようであったが、前向きにわたしの話を理解しようとしてくれているようであった。
わたしの仕事は、彼女に霊的な話を理解させることでもなければ、それを信じさせることでもない。
わたしは、誰かに霊的な世界を理解して欲しいとも、信じて欲しいとも思わないのである。
理解する状態にある人は勝手に理解するし、信じられる状態にある人は勝手に信じるのである。
わたしが誰かの行動を左右する必要などないのだ。
わたしの仕事は、人に選択肢を与えることである。
人は、知ることによって選択肢を広げることができる。
そのために、わたしは知らせるのである。

2017年11月15日水曜日

追憶 1865

わたしの話を聞いた友人は、常識を外れた内容を受け入れるための手掛かりを探してくれているようであった。
今までに体験したこともなければ、深く考えたこともなく、周囲の人たちからは怖いものや悪いものとして教育を受けてきたはずである。
そのような話を素直に受け入れられるはずもないであろう。
しかしながら、今回は友人であるわたしからの話である。
そして、それは起承転結(きしょうてんけつ)に沿った構成であり、既に解決している内容だ。
何かを要求する話ではなく、事後報告なのである。
彼女にとっては、そこまで難しい話ではないだろう。

2017年11月14日火曜日

追憶 1864

もちろん、相手への気遣いは必要である。
自分への余計な気遣いは必要ではないということだ。
自分への余計な気遣いとは、相手に変に思われるのではないか?嫌われるのではないか?などという心配のことである。
人は、他者に変に思われようが、嫌われようが良いのである。
自分が考える思いやりを忘れなければ、相手がどのような判断を下したとしても、それが最善の結果へと結び付くのだ。
人は言いたいことは言わなければならない。
自分に遠慮する必要はない。
相手に対する気遣いさえ忘れなければ、絶対に悪いことにはならないのである。

2017年11月13日月曜日

追憶 1863

そこでわたしは、会話の切れ目を探して、そこに友人の義母に関する話を切り出すことにした。
わたしは自分が体験したことを、出来る限り素直に、有りの儘(まま)を忠実に話した。
わたしには嘘を吐くような器用さはない。
体験をそのまま伝え、どう捉(とら)えるかは友人に任せるしかないのである。
受け入れることができれば、それは役に立つだろうし、受け入れることができなくても、それで役に立つはずだ。
人に何かを伝える時には、余計な脚色も気遣いも必要ないのである。
事実を伝え、判断は相手に任せるのである。

2017年11月12日日曜日

追憶 1862

店の扉を開くと、扉にぶら下げてある小さな鐘が心地好く鳴った。
それと同時にどこからか友人の快活な挨拶が響いた。
声は店の奥から聞こえているらしい。
柱の陰から顔を覗かせた友人がわたしを認めた。
友人は先日の義母の葬儀のお礼を口にした。
わたしは言葉を返しながら、同時に店の状況を確認していた。
幸いなことに他の客はおらず、忙しそうな気配もない。
話をするには最良の状況だと思えたのである。

2017年11月11日土曜日

追憶 1861

そのため、霊的な話をする時には、相手の許容を見極めながら、唯心論と唯物論の構造とバランスを考慮した話をしなければならない。
どのような話も、相手が聞き易いように、受け入れ易いように工夫しなければならないのである。
自分だけが分かったような話し方ではならないだろう。
大切なのは、理解を得ることであって、知識をひけらかすことではないのだ。
自分が尊敬される必要も、利益を得る必要もない。
その話によって、相手が何かを理解し、何か大切なことに気が付くことができれば良いのである。

2017年11月10日金曜日

追憶 1860

人は、唯心論によって”神”に近付き、自分が全体の中の一部であることを忘れる。
人が”神”に近付く時、部分性に対する反発が生じる。
人は全体の中の一部であるが、決して全体そのものではない。
唯心論は人を盲目にし、部分性を見失わせる。
部分性を見失った人間は、自分が”神”だと思い込み、傍若無人な振る舞いを行う。
それでは、豊かさを築くことはできないのだ。
それが、唯心論の問題である。

2017年11月9日木曜日

追憶 1859

唯心論の問題は、”神”に近付き過ぎることにあるが、それは、全体性に陶酔(とうすい)することによって、自分が全体の中の一部であるということを忘れることである。
それは、自分を”神”とする思い上がりに繋がる。
唯心論に傾倒する人は、宗教に属し易(やす)い。
または、宗教を立ち上げるかも知れない。
人は信仰の違いによって争ってきた歴史を持つ。
自分が正しいという思い上がりによって、人は争うのである。

2017年11月8日水曜日

追憶 1858

心に不安を抱えている人は、破滅的な選択をしがちである。
それは、唯物論によって”神”を離れるということである。
人が”神”を離れる時、全体性との反発が生じる。
それは、人が利己主義に走るということだ。
人は全体の中の一部である。
唯物論は人を盲目(もうもく)にし、ただの一部として孤立させてしまう。
孤立した人間は、”神”を恐れることもなく、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いを行う。
それでは、豊かさを築くことはできないのだ。
それが、唯物論の問題である。

2017年11月7日火曜日

追憶 1857

唯物論に傾倒する人は不安を語り、唯心論に傾倒する人は希望を語る。
人の心は、そういった傾向にあると思える。
もちろん、例外はあるが、割合としてはそのような状態の人が多いと言えるだろう。
唯物論に傾倒している人の心の深くには強い不安が存在している。
そのため、多くを所有しなければならない。
唯物論に傾倒する人は、資本主義に従い、奪い合いのゲームを始める。
唯物論に傾倒する人(国や企業)が自然環境を破壊してまで利益を求めるのは、心の根底に不安を抱えているからなのである。

2017年11月6日月曜日

追憶 1856

この世界には、陰陽の仕組みが存在しているが、それに当てはめて考えれば、唯物論とは陰であり、唯心論は陽の性質を持っていると言えるだろう。
人は、陰陽の性質を持っているが、割合としては陽の性質の方が多いと思える。
8時間を睡眠にあて、16時間を活動にあてているような割合なのではないかと思える。
そのため、人は陽の割合が多いものに美しさ(魅力)を感じるのではないだろうか?
例えば、陰をネガティブな言葉や感情として、陽をポジティブな言葉や感情とする。
ネガティブな言葉や感情が悪いという訳ではないが、その割合が大きければうんざりしてしまうだろう。

2017年11月5日日曜日

追憶 1855

韓国人選手を卑下(ひげ)するつもりはない。
彼女はわたしには出来ないことが出来るのである。
その時点において尊敬に値する人物なのだ。
個人的な見解では、韓国人選手とそれに関わる人達は、唯物論に傾倒していたのだと思える。
それは、数字や成績を強く求めたということである。
そのため、ルールに従い、合理的な方法を用いて良い成績を得たのであろう。
一方、日本人選手とそれに関わる人達は、唯心論に傾倒していたのだと思える。
それは、数字や成績を求めないということではないが、日本における独特な文化である心を、数字や成績以上に強く求めたのではないかと思えるのである。

2017年11月4日土曜日

追憶 1854

女子のフィギアスケートの世界では、一世代前にある日本人選手と韓国人選手の存在が話題になっていた。
メディアは二人の少女をライバルとして扱い、テレビや新聞などから情報を得ている人達にはそう信じさせた。
数字だけ見れば、二人の少女はライバルだったのかも知れない。
しかしながら、わたしの素人目で見ても、二人の演技には大きな違いがあるように思えたのである。
わたしはどちらかを贔屓(ひいき)している訳でも、どちらかを嫌いな訳でもない。
フィギュアスケートに詳しい訳でもない。
しかしながら、数字上では劣る日本人選手の演技は、指先から足先までしなやかで美しく、見ていて惚れ惚れするものなのである。

2017年11月3日金曜日

追憶 1853

それを気にしない人もいるだろうが、ある程度精神的に成長すれば、そのようなものは受け付けなくなってしまうだろう。
唯物論と唯心論を互いに意識している人にとっては、ものを大切にしないことは耐えられないのである。
人は皆、成長を求められている。
それは、物質の中に意識を見ることである。
意識の先に物質を見ても良いだろう。
より良く、より本質的なことが成長なのである。
そのため、ある程度成長した人は、所作に美しさを備えている。
それは、気品として雰囲気を形成する。
気品をまとった人は気高く、尊(とうと)ばれるのである。

2017年11月2日木曜日

追憶 1852

心(魂)のこもった所作(しょさ)は美しい。
例えば、能楽(のうがく)や日本舞踊(にほんぶよう)を始め、茶道や書道、花道や弓道、剣道や柔道など、所作の美しいものには心が必要なのである。
心がこもっていない所作は、不快感さえ与えるものになる。
だらけた所作に美しさを覚える人がいるだろうか?
残念ながら、そのような人は僅(わず)かであるだろう。
お店に入って、商品が乱雑に置かれ、店員の態度も横柄(おうへい)であり、埃(ほこり)やゴミが溜まっていたらどうだろうか?
友人や恋人の部屋が汚なくても、同じように接することが出来るだろうか?

2017年11月1日水曜日

追憶 1851

生活における形式美とは、規律を守り、整理整頓を行い、優美な時を過ごすことである。
簡単に言えば、良く働き、良く遊び、良く休み、良く学ぶということだ。
無作法であり、乱雑な生活を送る人には優美な時を過ごすことはできないのである。
日本には、”心”という概念が存在する。
それは、魂と言い換えても良いだろう。
日本では、古来からすべてに魂が宿ると考えられてきた。
心のこもったものが上級とされてきたのである。
そのため、人生の質を高めるためには、心のこもった生活を送ることが求められるのである。
唯物論と唯心論が合わさった時に、そこには心のこもった生活が導かれる。