このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年4月30日日曜日

追憶 1693

それは、バイクが曲がらないというものであった。
本来ならば、曲がりたい方向に体重を預けるようにして身体を傾ければ、バイクは滑らかに曲がってくれる。
しかしながら、今は身体を傾けてもバイクからの反応を感じられないのだ。
走行中にハンドルを操作することは危険な行為であるが、曲がる必要があるために少しだけハンドルを操作しようと試みた。
しかしながら、それでもバイクからの反応を感じられないのである。
このままでは、カーブを曲がり切れずに、田んぼに飛び込んでしまうだろう。
わたしは我慢できずに急ブレーキを効かせた。

2017年4月29日土曜日

追憶 1692

彼女を見送ると、わたしは再びバイクを走らせ、ダムを過ぎて里へ下りた。
わたしは自宅までの帰路を内省のために使った。
もちろん、景色も楽しんでいたし、運転にも気を配っていた。
しかしながら、とある神社に差し掛かった時に異変に気が付いた。
その神社は、田んぼと向かい合うようにして建てられている。
神社の前に設けられた道路は、軽自動車同士でのすれ違いにも気を遣う程のものであるが、それが急カーブとなっていた。
そのため、誇張(こちょう)すると神社を軸に直角に曲がらなければならない。
わたしは当然のように、急カーブに侵入するための準備をする。
そこで異変に気が付いたのである。

2017年4月28日金曜日

追憶 1691

彼女はわたしとドライブすることによって何かを掴み取り、それによって人生の目的を果たしたのではないだろうか?
それは、わたしが二人に出会って内省し、古い自分を殺す必要があるということを掴み取ったのと同じであるかも知れない。
彼女が地上にとどまっていたのは、恐らくは何等かの古い拘(こだわ)りを所有していたからであろう。
わたしと彼女は同じ学びを所有していたのである。
そして、それを共に学ばなければならなかったのだろう。
それは、わたしの思考を通してかも知れないが、彼女も二人から古い自分を殺すことを学んだのであろう。
そうでなければ、わたしが彼女と出会う必要はないし、彼女が新しい状況を手にすることはなかったであろう。
人生には、自分に相応しく、必要であって最善の状況しか導かれないのである。

2017年4月27日木曜日

追憶 1690

彼女がなぜ、空き家にいたのかは分からない。
生前にあの場所で生活していたのかも知れないし、何かしらの思い入れがあったのかも知れない。
恐らく、死後に彼女は独りでいたのだろう。
それは、内省するためだと思われる。
度々、霊は死後に地上(人が認識できる場所)にとどまるが、それは内省するためであろう。
生前の経験を成長に結び付けることができなかったために、独りで内省する必要があると思える。
独りで内省することによって、生前の経験を成長に結び付けることができれば、人生の目的を果たしたことになるだろう。
そうすれば、地上にとどまる必要もなくなるのであろう。

2017年4月26日水曜日

追憶 1689

どこかで見覚えのある女だとは思ったが、空き家だと思われる民家の門戸のところで会った人だと気が付いた。
彼女はやはり生きている人間では無かった。
わたしの感じた不自然さはきっと証明されたのだろう。
あれから、彼女はわたしと一緒に山道をドライブしていたのである。
カーブミラーを通して、その存在に気が付いたのは、何かしらの学びが終わり、別れる時がきたからであろう。
わたしはエンジンを止めて、バイクに跨ったままで光の十字架を作り出した。
そして、それを彼女に”優しく”突き刺した。
すると、彼女は安らかな笑みを浮かべて沈黙したのである。
わたしが彼女を抱えると、間も無くして天から一筋の光が届く。
わたしは光に彼女を差し出した。
すると、光はわたしの腕から彼女を受け取り、そのまま天へと迎え入れたのであった。

2017年4月25日火曜日

追憶 1688

予想もしていなかった道に繋がっていたことに感動を覚えた。
頭の中で地図の余白が埋まり、世界が広がることは、冒険の醍醐味(だいごみ)である。
わたしは感動を連れて、良い気分のままで帰宅することに決めた。
少し走ると、自分の姿を映すカーブミラーがあり、違和感に気が付いてバイクを停めた。
バイクに跨(また)がったまま後退して、カーブミラーに自分の姿を収めた。
すると、荷台に女の姿を見付けた。
女は、わたしの背中にもたれ掛かるようにして、荷台に座っていたのである。

2017年4月24日月曜日

追憶 1687

二人と別れると、わたしはひたすら山道を進んだ。
道の先は予想すら出来なかったが、とにかく進みたい気分であった。
しかしながら、以前にガス欠を起こしたことを考慮して、下り坂ではエンジンを止めて進むことにした。
ブレーキを使わなければ速度が出過ぎる程の勾配(こうばい)であるために、問題が無かったのである。
しばらく下ると、崖に乗り出すようにして軽トラックが駐車してあった。
地元の住民であると思うが、仕事でもしているのであろうか?
ともかく、わたしはこの先に人の生活があるのではないかと思い、エンジンを使って進むことにした。
すると、少し進んだところで見覚えのある道に合流した。
それは、以前に山道の子どもと出会った、ダムに通じる道であった。

2017年4月23日日曜日

追憶 1686

古い自分は、落ち葉のように手放すと昆虫や微生物(自分以外の何か)が分解してくれる。
それが栄養となって循環するのだ。
そして、若葉が栄えるのである。
葉を落とさなければ、栄養は不足する。
それは、樹木の衰退と滅びを暗喩(あんゆ)しているのである。
わたしが古い自分を手放すのは、それを栄養とするためだ。
無駄なものとして投棄するのではない。
新しい力とするために活用するのである。
わたしは懐古主義者でも、未来志向を信奉する者でもなく、”今を生きる者”でありたいと思っている。

2017年4月22日土曜日

追憶 1685

以前のわたしは自分の所有する古いものを大切にしていた。
過去は重要なものだったのである。
しかしながら、古いものを大切にしていると、その内に矛盾を抱えるようになった。
苦しいのである。
わたしにとって、過去の自分という存在は恥でしかない。
例えば、多くの人は年齢を重ねたくないと考えているが、年齢を重ねないということは、基本的には知識と経験を得られないということであり、知性が高まらないということでもあるのだ。
古い自分を殺すということは、知性を高めるためには必要不可欠な作業なのである。

2017年4月21日金曜日

追憶 1684

古いものは良いと考える人は少なくない。
古いものを大切にする懐古(かいこ)主義者はとても多い。
わたしは懐古主義者ではない。
古いものが良いとは思えないのだ。
もちろん、それは個人的なレベルの話である。
様々な伝統や文化を否定するものではなく、自分にとっての古いものには価値を見出すことができないということだ。
わたしは、個人的にただ同じことを繰り返すことには価値を見出すことができない。
常に新たな視点、方法、結果、価値を求めているのである。
そのためには、所有しているそれ等を壊す必要があるのだ。
懐古主義者は過去を貴(とうと)ぶ。
それも良いが、新たな可能性を生きる方が楽しいと感じるのだ。
楽しむために、わたしは自分を殺さなければならないのである。

2017年4月20日木曜日

追憶 1683

内省し、自分自身を発見することがなければ、誤解と矛盾による苦しみは避けられないのである。
わたしは二人に出会えたことを喜んでいる。
それは、二人との出会いによって、わたしはわたしを殺すことができるはずだからだ。
一年草は種を残すことで枯れる。
そして、その種が新しい命の形を現すのだ。
人の心もこれに似ている。
新しい価値観のために、古い価値観は滅びる。
それは、新しい価値観ほど本質的であるからだ。
二人はわたしの抱える古い価値観を新しく作り変えるための助けなのだと確信している。

2017年4月19日水曜日

追憶 1682

すべての人は、様々な相手や状況や環境を通じて、自分自身を発見する。
そのことを理解していなければ、無意識の内に相手や状況や環境に依存してしまうのである。
例えば、霊的な存在は自分自身を発見するための道具でしかないが、それを敵だと思い込み、不安や恐れを経て争うのである。
わたしが出会った二人は、わたしを殺そうとしていた。
わたしが自分自身を発見する時には、この経験が自分を殺す必要があるという解釈に落ち着くのである。
わたしは、自分自身の抱える既成概念(きせいがいねん)を殺す(壊す)必要があるのだ。
既成概念を壊せば、新たな概念が育ち、更なる成長と自分自身の発見が実現するのである。

2017年4月18日火曜日

追憶 1681

それは、山の霊的な存在を通じて、自分自身の知らない一面を垣間見(かいまみ)るからであろう。
知識を得ることは、その対象を知ることのように思うが、その本質は自分自身を発見することである。
この世界に存在する知らないことを知ることによって、人は自分が知らなかった自分自身の一面を知ることができるのだ。
すべての存在は自分自身であり、自分自身はすべての存在なのである。
わたしが山の霊的な存在との出会いに高揚するのは、この世界で最大の不思議である自分自身に対するヒントを得られるからである。

2017年4月17日月曜日

追憶 1680

二人が去ると、わたしはバイクを停めて木々の隙間を見詰めた。
木々の先に二人の消息が得られると思ったからである。
しかしながら、そこには変哲もない風景が広がっているだけであった。
二人の正体を突き止められなかったことが心残りである。
二人が何者であったのかは分からないが、山には不思議で面白い存在が文字通り山ほどいる。
里では出会えないような”野性的”な存在が、山にはいるのである。
彼等との出会いは、いつもわたしを高揚させた。
普通の”お化けちゃん”では、刺激不足に陥ってしまうのである。
それは、日常化しているからであろう。
人の姿をした霊も毎日向き合っていれば、珍しいものではなくなる。
もちろん、わたしはどのような霊的な存在とも懸命に向き合っているが、人の姿をした霊的な存在の問題は人工的なものであり、わたしの中では体験を通じてある程度の体系化がなされている。
わたしは無知で愚かだと思うが、それでも刺激不足に陥ってしまうのであった。
人はどのような道においても、新しい学びを求め、より強い刺激を求めるものである。
山の存在には経験値が直接的に通用せず、戸惑ってばかりである。
それがわたしを魅了するのである。

2017年4月16日日曜日

追憶 1679

二人が黙ったのは、驚いたからであろう。
わたしが二人の会話を聞いていたとは思ってもみなかったのではないだろうか?
それは、物音を察知した野生動物が動きを止めて警戒する時のような感覚である。
二人はわたしを警戒しているのではないかと思える。
しかし、次の瞬間に会話が始まった。

A「こいつ気付いてるよ」

B「こいつ気付いてるねぇ」

A「こいつ気付いてるよ」

B「こいつ気付いてるねぇ」

A「面白いねぇ」

B「面白いねぇ」

AB「面白いねぇ、面白いねぇ、面白いねぇ、面白いねぇ、面白いねぇ…」

二人は歓喜を含んだ声で激しく会話をした。
そして、けたたましい笑い声を引き連れて、林の奥へと去って行ったのである。

2017年4月15日土曜日

追憶 1678

二人の会話は少しずつ盛り上がっていた。
もちろん、二人はわたしをどうやって殺すのか?という内容の会話で盛り上がっているのである。
わたしはバイクの運転に気を遣いながら、心の中で語り掛けた。

「お〜い。(二人のことに)気付いているよ」

すると、あれだけ盛り上がっていた二人の会話がピタリとやんだ。
沈黙の中でバイクの排気音が響いていた。
わたしは拍子抜けしてしまった。
二人と楽しい会話ができると思っていたからである。

2017年4月14日金曜日

追憶 1677

そこには、無邪気さに隠れた殺意があった。
二人が楽しそうに会話しているために、殺意に気が付かなかったのである。
しかしながら、我ながら変だとは思うが、その殺意が嬉しかったのだ。
それは、形はどうあれ、新たな心霊体験を得たからである。
二人の得体は知れないが、わたしを殺して、肉体か霊体かは分からないが、何かを食べたいようである。
それは簡単には得られない体験であるだろう。
わたしは気持ちの半分は殺されて食べられてみても面白いとは思っていた。
そして、半分は食べられる訳にはいかないと思っていたのである。
そこで、わたしは二人の会話に参加してみようと考えた。

2017年4月13日木曜日

追憶 1676

二人は子どものように無邪気に”お”話をしていた。
そして、その声も子どものそれであった。
わたしは何だか楽しくなってきた。
それは、二人が楽しそうに会話をしていたからである。
そこで、二人の会話の内容を詳しく知りたくなった。
わたしはラジオの周波数を合わせるような感覚で、二人の会話に聞き耳を立てた。

A「ねぇ…殺そうよ」

B「美味しそうだね」

A「ねぇ、転(こか)そうよ」

B「もう少し様子を見ようよ」

A「ねぇ、殺そうよ」

二人はこのように繰り返していた。


2017年4月12日水曜日

追憶 1675

始めは聞き間違いかと思った。
様々な音の重なりによって、偶然にも人の話し声のような音に聞こえたのだと思ったのである。
しかしながら、人の話し声のようなものはその後も続いた。
わたしは聞き間違いではないことを確信して、人の話し声のような音に意識を向けてみた。
どうやら、それは二人の会話のようであった。

A「…そうよ…」

B「…そうだね」

A「ねぇ…そうよ」

B「もう少し…」

A「ねぇ…」

二人は小さな声で何かを相談しているようであった。
Aの声の主が何かをしたいらしいが、Bの主が声がそれを諌(いさ)めているような具合である。
そのような問答が繰り返されていた。

2017年4月11日火曜日

追憶 1674

畑に並走するように、人工的に作られた樹木の群落があったが、そこから人の話し声のようなものが聞こえてくるような気がするのである。
常識的に考えて、現状においては人の話し声が聞こえるはずがない。
わたしはヘルメットを被り、バイクは排気音を轟(とどろ)かせながら走行しているのである。
道端で誰かが叫び声を上げたとしても、気付かない可能性もあるのだ。
バイクの走行中に聞こえるのは、大抵が自身のバイクの排気音とエンジン音とロードノイズである。
しかし、わたしが聞き取った話し声は、耳打ちするように押し殺した声だった。
それは、相手が見える場所で自分の悪口を囁(ささや)き合っているような感覚なのである。

2017年4月10日月曜日

追憶 1673

少し進むと、4、5軒の民家が集まっている場所に到着した。
ここには人の生活が存在している。
通り過ぎる時に確認したが、水道も電気もガスも整備されていた。
住人の姿は見えないが、ここには生活が根付いているのである。
わたしは迷惑にならないように通り過ぎた。
少なからず、住民はわたしを警戒するはずである。
住民が余計な気を使う前に立ち去ることが良いと思ったのだ。
少し進むと、開けた場所に出た。
それは、地形を活用した畑であった。
木々に覆われた山の中では、とても広く感じる場所である。
陽の光を全身に浴びて心地好かった。
しかしながら、同時にわたしは違和感を感じていた。

2017年4月9日日曜日

追憶 1672

森の中にマネキンが置かれていた理由は分からないが、わたしにとっての理由は、先程の女性を考察するためのヒントであったということであろう。
わたしの考察が正しいかどうか?ということは重要ではない。
現時点での理解を得れば良いのである。
簡単にまとまったところで、わたしは先へと進むことにした。

木漏れ日が美しい道であった。
森を縫うようにして通る道に、バイクの排気音が響いている。
きっと、煩(うるさ)いに違いない。
運転しているわたし自身も煩いと思うからである。
しばらく進むと、屋根の崩れ落ちた大きな一軒家が現れた。
それは、バイクの排気音とは対照的に、静かに滅びるのを待っているようであった。
ここにも以前には人の生活があったのだろう。
わたしは郷愁(きょうしゅう)を感じながら、廃墟を通り過ぎた。

2017年4月8日土曜日

追憶 1671

この場所にマネキンが置かれている理由は分からないが、マネキンを見て思い出したことがある。
それは、門戸の女性には、肩が無かったということだ。
肩が見えなかったのであれば、相当不自然な姿勢でわたしを見ていたことになるが、女性の顔は真正面を向いていた。
身体を隠して顔の照明を半分だけ見せるのは、人体構造的に不可能な姿勢なのではないだろうか?
首の長さが二倍くらいあれば可能だろうが、そうは考え難い。
わたしは度々、霊的な存在と対峙するが、結論を焦ることはしない。
自分のレベルの範囲内での合理的な思考と非合理的な思考を参照し、現段階における最善だと思える答えを導くのである。
そのため、答えは必ず曖昧(あいまい)なものに収まるが、それで良いと思っている。
あの女性は、人間かも知れないし、霊的な存在なのかも知れない。
それが、わたしの答えである。

2017年4月7日金曜日

追憶 1670

もちろん、家族がいる可能性の方が高いだろうが、そうなれば生活臭の不自然さが際立つのである。
その時、わたしは森の中に異様なものを見付けて驚いた。
それは、人の顔であった。
緑色や茶色の枝葉の中に肌色が異様であった。
わたしは先程の女性を思い出し、バイクを停めた。
暗がりに人の顔がある。
ヘルメットのバイザーを上げて確認する。
すると、それは美容学校などで使われている人の頭部を模(も)したマネキンであった。
どういう訳か、森の中にマネキンが置かれているのである。
走行中であることと、ヘルメットのバイザーがスモークであることもあり、森の中に人の顔が浮かんでいるように誤解したのであった。

2017年4月6日木曜日

追憶 1669

わたしは、いなくなった女性に心の中でお詫(わ)びをして、バイクを走らせた。
しかし、不自然である。
あの家からは人の住んでいる雰囲気は微塵(みじん)も感じられなかった。
もちろん、自分自身の感覚を信用している訳ではない。
常識に照らし合わせてみても何の意味も無いが、人が生活しているのであれば、どこかしらに人の手が加わっているはずである。
例えば、ゴミ屋敷と呼ばれる家にも、生活臭はするものである。
周囲の目を気にしない人であっても、何かしらの活動の後を残すのが自然である。
藪(やぶ)の中であっても、獣道を知ることが出来るが、あの家から得られる生活の痕跡(こんせき)は無かった。
そんな場所に若い女性が住んでいるだろうか?
若い女性が独りで住んでいるとも考え難い。

2017年4月5日水曜日

追憶 1668

空き家には、小さな門戸(もんこ)が備わっていたが、扉は外れていた。
門戸の枠組みだけの状態である。
わたしはそこから家の様子を伺(うかが)っていたのだが、門戸の端に目をやった時に驚いた。
それは、門戸の端から覗き込むようにして、若い女性の顔が半分だけが見えていたからである。
空き家だと思っていたが、人が住んでいたのだろう。
彼女はわたしを不審(ふしん)に思ったに違いない。
見ず知らずの男が家の様子を伺っているのである。
しかも、こんな山奥である。
誰でも不審に思うだろう。
恐ろしくて覗き見ているに違いない。
わたしは申し訳なく思い、誤解を解くためにヘルメットのバイザーを上げて大袈裟に会釈(えしゃく)をした。
目線を戻すと、既に女性の姿はなかった。

2017年4月4日火曜日

追憶 1667

その人家は石垣の上に建っていて、道路からは一段高い場所である。
そのため、バイクに乗っているわたしの目線は、人家の犬走りくらいであった。
遠くから見上げた人家からは古さを感じたが、人が住むのに難しくはないだろう。
しかしながら、庭木が荒れている。
剪定(せんてい)をしていないだけか、興味がないのかも知れない。
わたしは家人の迷惑にならないようにアクセルを絞り、出来る限り静かに人家に近付いた。
近付いてみると、その古さが際立った。
ただ古いだけではなく、人のエネルギーのようなものを感じないのである。
生活感が無いとでも言うのだろうか?
玄関には、所々に野草が自生していた。
何かの道具や容器などが転がっていた。
そして、家の所々が劣化している。
この人家は空き家であるだろう。
以前はここにも人が住み、生活の賑(にぎ)わいがあったに違いない。
しかしながら、今では静かな森の一部として溶け込んでいるようである。

2017年4月3日月曜日

追憶 1666

道は次第に狭まった。
進む程に落ち葉が轍(わだち)を教えた。
勾配(こうばい)はきつくなり、道は何度も折れ曲がった。
道が険しくなるに連れて、わたしの期待度は高まっていく。
山はいつも、わたしを日常から切り離してくれる。
その感覚が心地好いのである。
しばらく進むと、石垣が現れた。
それは、畑の跡だったのかも知れない。
今では、様々な樹木が塞いでいる。
この状態では、既に耕作放棄地であるだろう。
畑の跡があるということは、近くに人家があるかも知れない。
わたしは好奇心を抑えることができなかった。
はやる気持ちに従って進む。
すると、一軒の人家に辿り着いた。

2017年4月2日日曜日

追憶 1665

わたしは迷うことなく、冒険を始めたのである。
それは、狭い道であったが、アスファルトで舗装されており、落ち葉が積もっているようなこともなかった。
津島町の山道は、林業のためか人家の無い山奥まで舗装されている。
そのため、わたしは心配することなく山道探訪を楽しむことができたのである。
この道もきっとどこかへ繋がっていて、わたしに新たな発見をさせてくれるだろう。
道に落ち葉が積もっていないのは、生活の痕跡(こんせき)である。
日頃から、車の往来があるために、落ち葉が積もらないのだろう。
この道の先にも人の生活があるに違いない。
そう思うと、わたしの心は躍(おど)った。
それは、アクセルに繋がり、エンジンは調子良く回った。

2017年4月1日土曜日

追憶 1664

バイクを購入してからは、山遊びも頻繁になっていた。
先述したように、津島町には多くの山道が整備されていた。
そして、山奥で暮らしている人たちもいる。
そこは、車などの移動手段を使わなければ、現代的な生活をするのは困難であろう場所である。
電気はあるが水道はきておらず、井戸水や川の水を使って生活している地域もあるそうだ。
わたしは、そんな場所を訪れるのが好きだった。
人の暮らしと自然が一体となっている素晴らしい社会だと思えるからである。

ある日、バイクで走っていると、新しい山道への入り口を見付けた。