このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2015年8月31日月曜日

追憶 1085

この世界で生きるということは、この世界のルールに従わなければならないということだ。
それは、郷に入っては郷に従えということである。
わたしは社会的な責任を負わなければならない。
これは、当たり前のことである。
わたしは事故の加害者として書類送検された。
略式起訴となり、結果として不起訴処分となった。
行政処分としては、二ヶ月間の免許停止、そして、ガードレールの破損請求として30万円の賠償命令が下された。

2015年8月30日日曜日

追憶 1084

それから、わたしは警察署に出向き、調書を作成するために事情聴取を受けた。
女のことは話さなかった。
霊が人を苦しめるというのは、霊的な世界の理(ことわり)を知らない人が流したデマである。
霊が人を左右するということはない。
霊は他人である。
その他人が人の人生の原因になることはないのだ。
わたしが今回、事故を起こしたのは女の責任ではない。
これはすべて、わたしに責任があることなのである。
そこに霊が関わっていたとしても、脇役に過ぎないのだ。
その事実を受け入れることの出来ない人が、物事を他人の責任にしたいのである。

2015年8月29日土曜日

追憶 1083

しかし、楽しむという状態に至ることは簡単ではない。
実際、わたしは男性に対して、事故に関わった人たちに対して、そして、自分自身に対しての強い罪悪感を抱えることになったからである。
理論的には知っていても、それを実践して体験に結び付けることは難しいのだ。
分かってはいるけど出来ないのである。
それは、人が実際には感情の生き物であるが、自分自身を生理的な生き物であると位置付けているために、普段は心などの目には映らない存在や状態のことに対する意識は薄い。
そのため、意識と物質を併せ持つ自分自身という存在を上手く扱うことができないのである。

2015年8月28日金曜日

追憶 1082

学び(問題)を上手く渡り終えるためには、この基本を忘れてはならないだろう。
基本が間違っているのであれば、結果は思うようなものにはならないのである。
わたしたちは人生において、その学びにどのような真理が含まれているのかを理解する必要がある。
真理を理解することによって、人は人生の目的である成長を実現することができるのではないだろうか?
謙虚さがなければ、決して理解することは出来ない。
それは、学ぼうとはしないからである。
人生を豊かなものにするためには、自分よりも大きな存在を意識すること。
謙虚な気持ちによって目の前の状況を受け入れること。
自分自身を反省して工夫すること。
そして、楽しむことである。

2015年8月27日木曜日

追憶 1081

目の前の状況は、成長するための大切な学びである。
そのため、どのような状況であろうとも、既に目の前に存在しているのであれば、受け入れる他ないであろう。
目に見える富を追う者には、目の前の状況を受け入れることが難しいかも知れない。
なぜなら、直接的に(物質的な)利益に繋がることよりも、そうでないことの方が圧倒的に多いからである。
わたしの老人や女や男性に対する行為によって、その内の誰かから利益を受け取ることがあるだろうか?
残念ながら、そのようなことはない。
これは、唯物論で考えればボランティアなのである。
”神”に仕える仕事というのは、基本的に奉仕であるだろう。
そのため、多くの物質的な富を求める宗教(家)というのは、”神”に仕えてはいないと言えるのではないだろうか。





2015年8月26日水曜日

追憶 1080

そのため、男性に理解される必要もなければ、感謝される必要もないのである。
わたしは自らの行為に対して口を閉ざし、誰にも知られずに与えられた仕事を行うだけだ。
わたしは自分自身の手柄を求めてはいない。
以前は有名になりたいとか、裕福になりたいとか、自分を認めさせてやるとか言う類(たぐ)いの欲求を所有していたが、今のわたしは別の欲求に突き動かされているのである。
霊的な道を進めば、それで良いように思える。
目に見える富よりも、目では見えない富を得る方が有意義であるように感じるのだ。

2015年8月25日火曜日

追憶 1079

わたしは全体主義を賞賛(しょうさん)する訳でも、個人主義を批判する訳でもない。
全体(外)と個人(内)の両方を大切にしなければならないと思うのだ。
そのためには、大きな存在に対する意識というものが必要なのではないかと考えるのである。
わたしは他人に褒められたいとは思わない。
褒められれば嬉しいが、それを目当てに行動することなどないのである。
もしも、わたしが自分から褒められたいと思うことがあるとするなら、それは”神”と呼ばれる崇高な存在からの純粋な賛美だけであるだろう。

2015年8月24日月曜日

追憶 1078

”神”の抑止を失った人間は傲慢(ごうまん)に至るだろう。
自分が偉いのだと思い込み、自分勝手に振る舞うようになる。
そこには、”神”のためだとか、全体のためだとか、国のためだとかいう意識は薄れる。
仲間のためだとか、家族のためだとか、自分の大切に思える対象に対しては善いように振る舞うが、そうではない対象には容赦(ようしゃ)が無くなる。
それは争いに発展するのだ。
”神”への畏怖や尊敬があれば、人は自分勝手に振る舞うことはなくなる。
勿論、それが”神”という対象でなくても良い。
わたしは宗教家ではない。
何でも良いのだ。
とにかく、自分自身よりも大きな存在を意識する心の状態が重要なのである。

2015年8月23日日曜日

追憶 1077

人生というものを観察してみると、多くの人が基準としている常識というものが、如何に浅はかなものか分かる。
わたしは二十一歳頃まで、常識が示す価値観に従って生きてきた。
それは、唯物論を基盤とした物質主義的な価値観である。
明治維新の頃から(本格的に)、どうも日本は西洋の物質主義的な価値観を植え付けられたのではないだろうか?
その基盤が盤石となった1983年の日本にわたしは生まれた。
唯心論と唯物論は互いに共存しているように見えるが、時間の経過と共に唯物論が幅を利かせているように思える。
そして、日本人でさえも物質主義に走るようになり、お金や地位のために働くようになってしまったのである。
そして、日本人(勿論、全員ではないが)でさえ、自然界への畏怖(いふ)と、”神”への敬意を忘れてしまったように思える。

2015年8月22日土曜日

追憶 1076

わたしを見ている”神”が、わたしよりも遥かに進んだ生身(もしくは意識体)の生命体なのか、宇宙空間を含めたすべての時空を創造した”神”なのかは分からない。
次元が階層になっていて、そこに存在している意識は、より高次の存在を”神”と認識するのかも知れない。
 わたしを指導している大天使ミカエルや様々な天使、所謂、宗教観によって定められた”神”の使者(御使い)は、生身の生命体であるかも知れないし、意識体としての生命体であるのかも知れない。
天使たちよりも更に高次に存在している好意的な何者かを、天使たちは”神”と理解しているのだろう。
考えても分からないが、とにかくわたしは遥かに進んだ存在である”神”に見られているのである。

2015年8月21日金曜日

追憶 1075

振り返ってみると、わたしにはいつも客観性が連れ添っていた。
これは、自分自身を客観視することとは少し違っているように思える。
なぜなら、自分自身を客観視することを理解した上で話しているからである。
わたしの中には自分自身に対する客観視とは異なる他者の視点のようなものが存在しているのだ。
”お天道様が見ている”と幼いわたしに祖母が教えてくれたが、あれは古代の太陽(神)信仰(天皇(すめらみこと))から由来している言葉だと推測するが、より本質的な”神”もしくは真理を現した言葉なのではないかと思うようになった。
古代文明における神とは、真理を司る”神”のことではない。
神話や伝承、粘土版や聖書などを読んでみると分かるが、古代人の崇めた神とは生身の生命体(宇宙種族)の物語であることが分かる。



2015年8月20日木曜日

追憶 1074

当時のわたしには、誰に褒(ほ)められた訳でもないのに心が晴れ渡ることを理解することはできなかったが、今のわたしには何と無くそれが分かる気がする。
わたしは”神”に褒められたのだと思うのである。
”神”という存在が何であるのかは分からないが、わたしよりも高次な存在であることは確実である。
ある宗教が伝えるように”父”のような存在であるのかも知れない。
この世界を観察すれば、すべての瞬間に知性を感じることができる。
これは”神”が存在する照明であるとわたしは考える。
そして、わたしの所有するすべての瞬間を、わたしと同じように観察しているのではないかと思うのだ。

2015年8月19日水曜日

追憶 1073

他人に理解されなくても、仕事によって役に立てば良いのである。
わたしは高校生の夏休みに、部活のために部室を訪れたが、その前のゴミ箱が倒れて中身が散乱していたことがあった。
周囲には人がいなかったが、わたしはそれを片付けたいと強く感じて、一人で清掃作業を始めた。
元通り綺麗な状態にした時、わたしは心が晴れ渡るのを感じたのである。
終始、わたしは誰にも会わなかった。
わたしが清掃作業をしたことなど誰も知らないであろう。
しかし、わたしは心からの満足を得たのである。
誰かに認められること、評価され称(たた)えられることは重要ではないことに気が付いたのだ。

2015年8月18日火曜日

追憶 1072

それから、男性は二週間近く入院することになった。
わたしは何度か彼を見舞い、出来る限りのことはしたつもりである。
老人と女の話はしなかった。
彼には知る必要のないことだと感じたのだ。
それに、彼は信じないであろう。
変人扱いされるのは慣れたが、話が拗(こじ)れそうで面倒だったのである。
老人と女のことを話さなくても、その心には何かしらの変化が自然と起きるはずである。
それは、霊的な捩(ねじ)れを解消したからだ。
霊的な世界は心(精神世界)に繋がっている。
霊的な世界の問題を解決すれば、それが心の状態を改善し、状況に反映されるのである。
そのことを経験上理解しているので、わたしは無理に話をしようなどとは思わない。
わたしの仕事は、他人に理解されなくても良いのである。


2015年8月17日月曜日

追憶 1071

次の日、わたしは保険会社の担当者から連絡を受けた。
それは、男性が緊急入院したというものであった。
彼は、夜中に激しい腹痛によって自ら救急に連絡し、そのまま緊急入院となったようである。
精密検査の結果、肋骨にひびが入っていることと、腸が裂けていることが判明したようであった。
彼は恐らくシートベルトだけで事故の衝撃を受けたのである。
普通に考えて、無傷なはずがない。
外傷は無いにしても、内臓が損傷していることは明らかであり、そのために入院をすすめたのだが、母親のこともあって帰宅した。
今のところ命に別条は無く、状態も安定しているということで、わたしはひとまず胸を撫で下ろすのであった。

2015年8月16日日曜日

追憶 1070

女と老人は、死後にも苦悩を引き摺(ず)ることになった。
それは、生前に学ぶことができず、反省して改めることができなかったからであろう。
学びを成長に結び付けるかどうかは、当人次第である。
目の前の苦悩に対して心を開き、素直に受け入れることが大切であるだろう。
目の前の苦悩に対して心を開くことがなく、それを拒絶するのであれば、女と老人のような結果に辿り着くのではないだろうか?
成長することによって選択肢は変わる。
この体験を得たわたしが、再び誰かを恨むことがあるだろうか?
未来のことはどうなるか分からないが、きっとそのような未来へは辿り着かないだろう。

2015年8月15日土曜日

追憶 1069

瞼を開いた時、わたしは全身を襲っていた気怠(けだる)さがなくなっていることに気が付いた。
それは、女の恨みの感情が消え去ったからに違いない。
わたしは、また一つ学べたことに感謝した。

わたしが事故を起こしたのは、わたしの中に存在している無知を少しでも解消するためである。
事故を起こしたことで、わたしは多くのことを学ぶことができた。
そして、少しではあるが、成長することができたのではないかと思っている。
事故を起こしたことでわたしは多くの苦悩を覚えた。
相手の男性にはもちろん、男性の家族や、NやNの家族、わたしの家族や事故に携わった多くの人たちに多大なる迷惑をかけたのである。
幼い頃の悪行を猛反省しているわたしには、他人に迷惑をかけたことは大きな苦悩として受け取らなければならないのだ。

2015年8月14日金曜日

追憶 1068

白い空間の中にあっても、男性は膝(ひざ)を抱えて俯(うつむ)いたままであった。
これは、男性に対する直接的な仕事ではなく、老人と女の間の問題を解決するための仕事である。
そのため、意識的な状態にあっても、男性の状態は変わらないのであろう。
しかし、女の恨みが去り、老人は前向きに変わり、空間が白くなったことを考えれば、間接的に影響を受ける男性の状態も徐々に改善されるはずである。
最後に老人はわたしに感謝を述べた。
そして、一礼して振り返り、男性の肩を抱くようにしゃがみ込んだ。
その光景を見終わる前に、わたしは”こちら”の世界に戻っていた。

2015年8月13日木曜日

追憶 1067

この無知が苦悩の原因である。
生きている人間は、人生(状況)を心が築くということを信用しなければならない。
選択肢があるので選択するのである。
心に恨みの存在する余地がなければ、それを選択することはないのだ。
心を大切に生きていくのであれば、その状態は整えられる。
整えられた心が破滅的な感情を選択するはずがないのである。
選択肢がなければ、選択の仕様が無いだろう。
女が再び転生するのであれば、この学びを次の人生へと生かすだろう。
老人はこれからも息子である男性の守護を続けると言った。
老人はこの学びを生かし、男性に気付きを与えるはずである。

2015年8月12日水曜日

追憶 1066

先程の黒い空間は、女の恨みと老人の苦悩である破滅的な感情を現した世界であるだろう。
そこから離れることができたので、今は真っ白な別世界が広がっているのである。
物質的な世界においては、ここまで瞬間的に変化することはない。
それは、徐々に変わっていく。
意識が物質を形成するということは、原子が多く集まるということである。
それは、植物の成長のようにゆっくりと行われる。
心の状態が変わっても、人生(状況)は簡単には変わらない。
その時間差によって、人は心が世界を築いているということを信用することができないのだ。
そして、信心が失われて、破滅的な感情によって壊してしまうのである。

2015年8月11日火曜日

追憶 1065

水蒸気という大きな物質でさえ、感知することが難しいのだから、それよりも小さな霊体を感じることは困難を極める。
そのため、多くの人は霊的な世界を受け入れようとはしない。
テレビ(バラエティー番組)に出演している(レベルの)科学者は、霊的な現象と物理現象を別のものとして誤解している。
もちろん、テレビにはスポンサーがいて、情報操作の目的もあるために、台本通りに進行と編集がおこなれているということもあるために、すべてを真に受けることはできないが、科学者が”神”という言葉を使うこと(ができない)をしないのは、学会が学問としての形に拘(こだわ)り過ぎているためか、霊的な現象と物理現象を別のものとして考えているかのどちらかかのではないだろうか?
感覚的に霊的な現象を信じている人であっても、それを具体的に認識することは難しい。
心(霊的な現象)と人生(物理現象)を別のものとして考えるのである。
そして、半信半疑という状態を取る。
そのため、自らの心が世界を築いているということにも気が付かないのである。
そうして、老人や女のように誤解の中で苦悩を受けることになるのだ。

2015年8月10日月曜日

追憶 1064

人生とは、心の世界である。
心が反映されたものが状況という名の時空であると、わたしは思っている。
量子力学には、観察者効果という現象がある。
電子の動きは、観察者の意思によって変化するというものである。
わたしは、霊的な世界と心(精神)の世界と量子の世界には共通点があるのだと思っている。
素粒子よりも小さな物質(それを物質と呼ぶのかは分からない)が霊であり、心であると思うのだ。
そのため、わたしは霊を物理的に掴むことができるのだろう。
触れることができるのだから、それは物質である。
水蒸気は比較的大きな物質である。
それは、視覚で捉えることができるし、触れることもできる。
しかし、それに触れる感覚は得られない。


2015年8月9日日曜日

追憶 1063

上昇する女の姿が光に溶けるのを見送り、わたしは悦(えつ)に入った。
なんと素晴らしい時間なのだろう。
光と触れる時には、無条件にわたしの心は満たされる。
あの光の先には必ず”良いもの”があると確信する。
それが分かるから、わたしはこの仕事が楽しいのだ。
それは、利害を想定したものではない。
純粋な気持ちが”良いもの”を求めるのである。
天が閉じ、光が届かなくなることに心配はいらなかった。
それは、老人が愛に気が付き、女が恨みを捨てて光の先へと向かったこの空間は、先程までの暗闇が嘘のように、真っ白に輝く空間へと変化していたからである。

2015年8月8日土曜日

追憶 1062

大切なのはイメージを持つことである。
自分自身が思いやりや愛情を持つイメージであり、豊かで幸福な状況に対するイメージである。
老人と女には、このイメージを持つことができなかったのであろう。
山頂に辿り着くイメージを持たない人が、どうして山頂に辿り着くことができるだろうか?
相手に対して、状況に対して愛のイメージを持たない人には、それが与えられないのである。
わたしがここに来た時に始めて、老人は客観性を抱くことができたのではないだろうか?
第三者であるわたしが仲介したことで、冷静さを取り戻し、わたしの持つ愛によって、老人の中にも愛のイメージが沸き起こったのだと推測する。
感情の縺(もつ)れを解消することは単純な作業である。
しかし、互いが協力しなければ達成されないものだ。
わたしが仲介したのは、両者が協力することがなかったからである。
両者が協力するのであれば、第三者のわたしが仲介する必要など、どこにもないのである。

2015年8月7日金曜日

追憶 1061

老人と女は、苦悩を超えた景色を見たのだろう。
光(天国?別次元?)に向かうためには、その苦悩を超えなければならないのである。
苦悩に執着しているのであれば、それは道の途中である。
執着を離れた時に山頂へと辿り着き、山頂に辿り着いた時に執着を離れるのだ。
そのため、人は一つの思いにとどまってはいけないのである。
それがどのようなものであろうとも、できるだけ素早く離れる必要があるだろう。
そのことに気が付くことができれば、人が苦悩を受けることはない。

2015年8月6日木曜日

追憶 1060

しかし、恨みの感情を乗り越えた先には、大きな喜びがある。
苦難を乗り越えた先にこそ感動があるとわたしは思う。
苦労して山を登った者でなければ、山頂からの景色に感動を覚えるのは難しい。
乗り物を使って辿り着いた山頂は、”ただの”山頂からの景色なのである。
同じものを見ても内容が違えば、得られるものには随分な差があると言えるだろう。
恨みのままでは苦悩を得るが、それを学び終えた時、人は成長と幸福を得るのである。

「ありがとう」

という感謝の気持ちが現れたのは、その学びを終えたからである。
これは、苦労して山頂に辿り着き、景色を眺めて感動した状態と同じであるだろう。

2015年8月5日水曜日

追憶 1059

その時、女の頬を一筋の光が走った。
それは、流れ星のように見えた美しい涙であった。
女は恨みの感情を手放したのであろう。
そうでなければ、このように美しい涙が頬を伝うことなどないはずである。
天から降る光は、涙に呼応(こおう)して光量を増した。
天が近くなっているのだろう。
女の身体に重さが感じられなくなり、ゆっくりとわたしの腕を離れる。
天からの光に吸い寄せられるように浮かぶ女の姿は、海中から見上げたクラゲが日光を浴びて輝く光景を思い出させた。

「ありがとう」

素直な気持ちが言葉となる。
女は恨みの感情によって老人と男性を苦しめたに違いない。
それは、女にとっても苦悩であっただろう。
この苦しみによって得をした者などいない。
恨みの感情は喜びを導かないのである。

2015年8月4日火曜日

追憶 1058

持て余した荷物は、一度全部を捨ててしまうのが良いのかも知れない。
すべてをリセットすることがなければ、新たに始めることは難しいだろう。
少しでも残っていれば、そこには執着が導かれるからである。
光の十字架を受けて、女は”死んだ”。
それは、感情のリセットであり、道のリセットでもある。
間違っているものは、いつか終わらせなくてはならない。
長く続けるほど、それは複雑に絡み付いてしまう。
そうなれば、再びそこから抜け出し、幸福に出会うことは難しいのだ。
だから、わたしは霊を”殺す”のかも知れない。

2015年8月3日月曜日

追憶 1057

わたしが女を抱き締めたのは、哀れみと歓喜を含んだ愛情によるものである。
これで女は恨みの感情から解放されるはずである。
老人も、男性も、そして、わたしも…
女を抱き締めたままで右手を頭上に掲げ、指を鳴らした。
すると、天が開け、そこから金色の光がスポットライトのように降った。
暖かな光は、わたしと女を包み込んだ。
とても穏やかな気分である。
怒りの無くなった空間とは、なんと気持ちの良いものであろう。
人は、どのようなものであろうとも、抱え切れない感情を所有するべきではない。
それは苦しみとなる。
女は自らの怒りを持て余した。
そのために、それは恨みの感情となり、自分自身でも制御することができないものとなってしまったのである。

2015年8月2日日曜日

追憶 1056

黒い顔が完全に消滅すると、女はその場に崩れ落ちて動かなくなった。
老人はその光景に驚きを隠せないようである。
わたしが人差し指と中指を使って目の前の空間に円を二度描くと、そこには光の扉が現れた。
それは、わたしと女を繋ぐ時空のトンネルとでも言えば良いのか?とにかく、わたしはそこに手を差し込み、女の身体を掴んだ。
そして、力一杯にこちらに引き寄せる。
光の扉を通り、女はわたしの腕の中に収まった。
そこには安らかな表情があり、安心して眠っている子どものようだと思ったものである。
わたしが女を引き抜くと、光の扉は自動的に閉じて、消えた。

2015年8月1日土曜日

追憶 1055

恨みの感情が薄れていくのは、いつ体験しても嬉しいものである。
わたしは強烈な吐き気と共に黒い煙のようなものを吐き出していたが、その苦しみも嬉しいのだ。
何かが好転する時の苦しみは、苦しみという仮面を被った喜びなのではないかと思える。
わたしはこの喜びを味わうために光の仕事をしていると言っても過言ではないだろう。
それほど、わたしにはこの瞬間が愛おしかったのである。
わたしが吐き出す黒い煙のようなものは、天に向かう途中で光の粒となった。
そして、そのまま眩(まばゆ)い光の中へと消えていく。
それに比例して、黒い顔は小さくなっていくのである。