このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2014年11月30日日曜日

追憶 813

わたしは一瞬、その言葉を理解することができなかった。
しばらくの間を置いて、わたしはCさんがわたしの意思を肯定(こうてい)しているということに気が付いた。
しかしながら、Cさんはきっと誤解しているであろう。
わたしが人生の伴侶としてNを欲しているなどとは、想像することもできないはずである。
このようなことは、常識から大きく外れているために、何か違う意味として捉え、それについて了承したに違いない。
多少の冷静さを取り戻したわたしは、Cさんに大天使ミカエルとのやり取りを、Nにも聞こえるように話した。
再度、Cさんの表情が狐につままれたようになり、わたしは嫌われることを覚悟するのであった。

2014年11月29日土曜日

追憶 812

しかし、わたしは言わなければならない。
勇気を出して口を開いた。

「Nを頂戴(ちょうだい)」

わたしは自分自身の口を吐いて出た言葉に驚いた。
自分自身でさえ、このように唐突な言葉になるとは思ってもみなかったのである。
しまったと思った。
主語が無ければ何のことだか分からないだろう。
沈黙の中に、わたしは慌てて言葉を続けようとした。
Cさんは狐につままれたような顔でわたしを見ていた。

「え。良いよ」

Cさんが言葉を投じた。



2014年11月28日金曜日

追憶 811

Nの意思が重要であることはもちろんのことが、先ずは保護者であるCさんに伺(うかが)いを立てることが筋道だと思ったのだ。
わたしが瞼(まぶた)を上げると、Cさんと目が合った。
Cさんはわたしが大天使ミカエルと会っている時に、わたしのことを観察していたようである。

「どうしたの?何かあった?」

Cさんからの言葉に、わたしは少し戸惑った。
決心はしたものの、これを実際に人に伝えるのは簡単なことではなかった。
言うは易く行うは難し、とはこのことであろう。

2014年11月27日木曜日

追憶 810

大天使ミカエルの叱咤(しった)によって、わたしは自分自身の道を思い出すことができた。
わたしには大天使ミカエルの意思を完全に理解することはできない。
しかし、それがいつも正しかったことは経験によって知っていた。
しかし、現時点においてのわたしの信仰は、自分自身の保身を考える程度のものだったのである。
このままでは、これより先へと進むことはできないであろう。
わたしは決心を固めた。
どのような結果が出るかは分からないが、Nを人生の伴侶(はんりょ)としてもらい受けると伝えなければならない。
Nが14歳であることもあり、わたしは事の次第を先ずは母親のCさんに伝えることに決めた。

2014年11月26日水曜日

追憶 809


「早く、もらい受けると伝えないか」

わたしは雷鳴に打たれたような衝撃に襲われた。
業を煮やした大天使ミカエルは、天に轟(とどろ)くような大声によって、わたしを叱ったのである。
大天使ミカエルがわたしを叱るのには理由があった。
それは、これがわたしが自分自身で選んだ道であるからだ。
誰に命令される訳でも無く、自分自身でこの道に進んだのである。
それなのに、今のわたしはそれを否定しているのだ。
大天使ミカエルを裏切るということは、道を背くことに他ならないのである。

2014年11月25日火曜日

追憶 808

わたしは自分の決断力の無さ、勇気の無さに絶望していた。
わたしは世間からどう思われるだろうかと考えていたし、Nにどう思われるだろうかと考えていた。
それに、Nの母親であり友人でもあるCさんにどう思われるだろうかと考えていたし、Nの父親にどう思われるだろうかと…
とにかく、わたしの頭の中には自分自身を守ろうとする考えが、まるで死体に集(たか)る蛆(うじ)が波を打つように溢れていたのである。
わたしはそれを振り払えないでいた。
その情けなさに絶望を覚えたのだ。
わたしは再び黙ってしまった。
今までに、多少なりにも女性との交際経験はある。
しかし、ここまで心が乱れたことはなかった。
わたしの中では、これが普通のことではないと理解していたのである。
しかし、ここまで重要視する必要もないであろう。
しかし、決断することができないのだ。

2014年11月24日月曜日

追憶 807

しかし、今のわたしには大天使ミカエルという尊敬に値する人物(?)がいる。
わたしは尊敬する人物から教えを請(こ)う必要があるのだ。
そうでなければ、未熟なわたしが正しい理解を得ることなどできるはずがなく、これよりも成長することなどできないのである。
大天使ミカエルを見ると、彼は力強い眼差しを返していた。
そこには何の迷いも、汚れもなかった。
わたしはこのように純粋な眼差しを人の中に見たことがない。
これは、人よりも優れた純粋さなのである。
わたしは大天使ミカエルを信じなければならない。
これほど信用に値する人は、これから先も決して現れることはないであろう。
しかし、わたしは今だに決断を恐れていたのである。

2014年11月23日日曜日

追憶 806

人生において重要なことは、自我によって無理に抵抗しないことである。
わたしは今までに多くのことに抵抗し、反抗してきた。
わたしは親であれ、学校の先生であれ、誰かに支配されることが嫌で仕方なかったのである。
そこには、尊敬することができる相手がいなかったという理由があるのだ。
自分自身が未熟であるということは十分に理解しているつもりであるが、わたしの人生には、わたしの憧れる人物がいなかったのである。
感謝することができる人はたくさんいたが、尊敬とは違っている。
そのために、わたしは自我を中心としたに違いないのである。
その習慣が強く根付いており、わたしはその習慣に従って自我を手放せずにいるのであろう。

2014年11月22日土曜日

追憶 805

わたしはどうしても納得ができなかった。
意味が分からないのである。
後に思うのは、わたしは自我を中心として生きてきたということである。
この時も、わたしは大天使ミカエルの意思よりも、自分自身の意思である自我を大切だと判断したのであった。
そのために、「わたし」という取るに足らない小さな存在を守っていたのである。
わたしには分からないことが無限に存在している。
自分自身のことすらも全く理解していないのだ。
ということは、自分自身という存在の判断など、信用に値しないということになるだろう。
大天使ミカエルは、いつもわたしに様々な学びを与えてくれる。
わたしにとっては人生の師と呼ぶべき存在であった。
その大天使ミカエルの判断よりも、わたしの判断が優れていることなど有り得ないのである。
わたしの思考はこのように分析していたが、決断は下せないのであった。
これは、わたしの抱える弱さというものであるだろう。

2014年11月21日金曜日

追憶 804

わたしは年齢のことに始まり、様々な理由をつけてこの要求を拒否した。
Nはとても可愛い女の子であるが、恋愛対象としてはどうしても見ることができなかったのである。
わたしにはNのことを異性として好きでもないのに、交際を申し込むのは余りにも失礼なことだと思えるのである。
何しろ、自分自身に嘘を吐いているのだ。
これほどの理由があるだろうか?
わたしには、それ以上の理由が見付けられなかったのである。

「この者をもらい受けなさい」

大天使ミカエルは、それでもわたしに迫るのであった。

2014年11月20日木曜日

追憶 803

人は、自らの抱える常識と著(いちじる)しくかけ離れているものを突きつけられた時に、どうも混乱してしまうようである。
何が起きたのか理解することができるずに、思考がショートすることを避けるように沈黙する。
今のわたしには冷静な判断ができないであろう。
わたしは明らかに動揺していたのである。
その同様に飲み込まれないように沈黙していることが、今のわたしにできる唯一の行動だったのである。
しかし、大天使ミカエルは、わたしの沈黙を許さなかった。

「この者をもらい受けなさい」

彼は再度、わたしに要求を突きつけた。

2014年11月19日水曜日

追憶 802

Nは可愛い女の子としての魅力は十分に持っていたが、恋愛対象としての女性の魅力は持っていなかったのである。
わたしはNに対して、性を感じることがなかったのだ。
わたしは困り果て、途方に暮れた。
大天使ミカエルのことを信用しているし、わたしの中では彼の意思は絶対である。
これは、変な宗教心から導き出される感情ではなく、経験から導き出された信条であった。
しかし、この要求は余りにもわたしの常識から掛け離れていたのである。
わたしは大天使ミカエルに対して、返事をすることができなかった。

2014年11月18日火曜日

追憶 801

常識的に考えて、中学生相手に恋愛など常軌を逸する行為である。
わたしの中の常識が、大天使ミカエルの意思を拒絶している。
これは、わたしの中の理性が正しく働いた結果であるだろう。
この時点において、わたしの頭はおかしくはなってはいないと理解することができた。
それを知って少しだけ安心した。
大天使ミカエルの意思に理性が反応するということは、大天使ミカエルの意思はわたしの勝手な妄想ではないと言えるだろう。
わたしは洗練された大人の女性に憧れを抱いていたが、それはわたしの顕在意識での願望であり、深層心理では子どものような可愛い女の子を求めているのだろうかと、自分自身を疑った。
Nは14歳という年齢から分かるように、まだ何も知らない純真無垢な可愛い女の子である。
わたしの憧れとは真逆の状態であったのである。

2014年11月17日月曜日

追憶 800


「この者をもらい受けなさい」

力強い言葉が響いた。
直感的に、わたしにはこの言葉の意味が分かっていた。
しかし、確信は無かった。
わたしは大天使ミカエルの言葉の真相を問うた。
言葉は同様に返り、その言葉が真であることを知らせた。
わたしはこの言葉から逃げられなくなった。
大天使ミカエルの意向は、わたしにNと共に時間を過ごせということである。
それは、男女としての交際をしなさいというものであった。
わたしは自分自身の頭を疑った。
Nは14歳であり、わたしは23歳であったのだ。

2014年11月16日日曜日

追憶 799

大天使ミカエルが正装している姿に少しだけ驚いたが、わたしはそれを表に出さないように努めた。
彼は何か言葉を紡ごうとしているように思える。
わたしはそれを待つ必要があり、現時点においては待つこと以外の選択肢は与えられてはいなかった。
ページをめくる手が止まり、目線が何らかの文字を追っているようである。
そして、目線がその動きを止めると、不意に彼が目線を上げた。
その目線は恐ろしく力強いものであった。
しかし、そこには大きな愛の包容力を感じるために、畏怖(いふ)と安心が同時に得られる感覚があった。
しばらく見つめ合った後に、大天使ミカエルは言葉を紡いだ。

2014年11月15日土曜日

追憶 798

金色の光からは壮大な世界を感じる。
それは大きな包容力を以て、わたしを包んでくれているかのようである。
わたしはその光から目を背けることができなかった。
厳密に言うなら、目を背けたくないのだ。
理由は無いが、その光をずっと見ていたいのである。
それは、炎の揺らぎを意識散漫に眺めているような感覚であった。
輝きが収まると、そこには金糸で折られた美しい花柄の布を服のようにまとった大天使ミカエルの姿があった。
大天使ミカエルは難しい顔で、片手には収まり切らないほどの大きな緑色の表紙の書籍を持ち、もう一方の手でページをめくりながら何やら思案しているようである。

2014年11月14日金曜日

追憶 797

我欲に捉われる小さく未熟な価値観であるが故に争いが生まれ、苦しみが襲うのであろう。
人の価値観が我欲に捉われることがなければ、そこには争いも苦しみも導かれないのではないだろうか?

Nの心から破滅的な意識を取り除くと、わたしは充実感を覚えた。
破滅的な意識が取り除かれることは、人の精神にとっては良いことなのだろう。
Nが認識しているのかは分からないが、わたしはこの違いに驚くのである。
気が付くと、Nの頭越しに光が輝いているのが見えた。
いつの間に現れたのかは分からないが、金色に輝く朝日のような光が、目の前の空間に存在しているのである。

2014年11月13日木曜日

追憶 796

純粋な心を以て、真理に従って生きることが求められるのである。
自我による我欲に従って生きるのであれば、本当に大切なことは分からないであろう。
わたしたち人間には、この世界のことや、人生のこと、そして、自分自身のことが分かっていない。
そのために、取るに足らないくだらないことに一喜一憂しているのである。
宇宙が存在し、銀河や太陽系が存在し、地球には自然という巧みなシステムが存在している。
すべてが完璧な造形であり、すべてが完璧な動きをしている。
このように計り知ることのできないような世界に生きているわたしたちの目的が、お金が多いや少ないや、誰かが好きだとか嫌いだとか、その程度の個人的なレベルのものであるはずが無いのである。

2014年11月12日水曜日

追憶 795

それ以外にNの心には、破滅的な意識は確認することができなかった。
これは、Nの心から破滅的な感情が完全に消えたということではない。
今のわたしの能力と、それを使って実現することができるNに対する必要がそれであったということなのである。
わたしは今に必要なことしかできないのだ。
それも、わたしの考える必要などではない。
わたしたち人間よりも、更に優れた意識的な存在が、真理を基準として考える必要なのである。
そのため、わたしには何が必要であり、何が不要なのかは分からない。
ただ、見えるものは見えるし、できることはできるのであった。
霊的な能力を扱う者に求められるのは、どこまでも純粋な心なのではないだろうか?
自我によって、金や名誉や地位などの我欲を満たそうとするような心ではならないだろう。

2014年11月11日火曜日

追憶 794

触れたと同時に怒りや悲しみなどの破滅的な感情が流れ込んでくるような感覚に襲われる。
そして、わたしは気分を害し、強い吐き気を覚えた。
胸の奥から気持ち悪いものが込み上げ、わたしは大きくゲップをした。
口から吐き出されたものは黒い煙のようなものであった。
再び光の杭を作り出し、わたしはそれを黒い煙のようなものに投じた。
光の杭は迷うこと無く黒い煙のようなものに突き刺さり、その姿を光の粒に変えた。
光の粒に変わった黒い煙のようなものは、素早く上昇して、光の溢れる天に帰るのである。
天が閉じると、気分の悪さは消えていた。

2014年11月10日月曜日

追憶 793

そのことを意識してかどうなのかは分からないが、常識に支配される前に常識外れの妙な話を聞きに来ているのであった。

背中に二度、円を描くと、そこには光の扉が生じる。
これは、わたしとNの意識を繋げる通路のようなものである。
人差し指と中指を空中に走らせると、そこには一筋の光が生まれる。
光はやがて杭となった。
光の杭を掴み、それをNの心の中に見える破滅的な意識に対して投じる。
光の杭は一瞬にして破滅的な意識を捕らえ、その自由を奪った。
張り付けにされた破滅的な意識はもがいているように見えたが、光の杭をどうすることもできないようである。
わたしは手を伸ばし、破滅的な意識にそっと触れた。

               

2014年11月9日日曜日

追憶 792

人の心にとって破滅的な意識は必要ではあるが、大き過ぎるそれは心を歪めてしまう。
光に闇が寄り添う時には、それはとても美しい。
しかし、闇に光が寄り添うのであれば、暗闇によってそれが何なのか分からないであろう。
大木となると手出しすることができないように、小さな時にはコントロールすることができるものでも、大きくなってはそれも難しいのである。
人は破滅的な意識がまだ小さな時にコントロールすることを覚え、それが大きくなり過ぎるのを防がなければならない。
大切なのは、光と闇のバランスである。
破滅的な意識によって歪んだ心が導くのは、苦しみの状況なのである。
Nが若くしてこのような話し合いの場にいるのは、年齢を重ね、既成概念を身に付けてからでは遅いからであろう。
まだ、心が純粋な内に伝えなければならないことがあるのだと思える。




2014年11月8日土曜日

追憶 791

大天使ミカエルの言葉には、いつも包容力を感じる。
わたしは大きな愛に従って、Nを呼んだ。
目の前の座布団に小さな背中が腰を落ち着かせた。
それを見届けて、わたしは静かに瞼(まぶた)を下ろすのであった。
Nの思考や感情の中には黒い煙のようなものが見える。
光に闇が絡み付き、曇り空に顔を覗かせる太陽を連想させた。
黒い煙のようなものは不満や不安などの破滅的な意識である。
Nは14歳という年齢ではあるが、彼女なりの苦悩があるのだろう。
喜びとして処理することのできない意識は、破滅的な状態を得て、思考や感情などの心に残るのである。

2014年11月7日金曜日

追憶 790

会を重ねる度に様々な発見と学びがある。
わたしの行っている「光の仕事」とは、外面的な問題から内面的な問題へと深く掘り下げる作業のようである。
一度目よりも二度目、二度目よりも三度目という具合に、心を掘り下げて行く。
深い場所にほど重要な発見や問題が存在し、それに比例して学びも深くなるように思える。
CさんとNと仕事をするのは、数えてはいないために、既に何度目であるのかは分からない。
その間に様々なことがあったが、ここには記さないでおく。

Cさんに対する仕事が終わった。
互いにお礼を交わし、CさんはNの隣に腰を下ろした。
次がNの順番だとは思うが、自分勝手には呼ぶことができない。
わたしは大天使ミカエルの合図を待っていた。

2014年11月6日木曜日

追憶 789

わたしがこのように記すのは、霊や神を信じろとか、そのように生きろなどと言いたい訳ではない。
唯物的な視点を必要としている人は、そのように生きていれば良いし、霊や神を信じて生きる必要もないのである。
これは、個人的な見解なのだ。
わたしはそのような学びの段階にあるということなのである。

その日は、友人であるCさんと、その娘であるNがわたしを訪ねていた。
この二人は以前にもここ(追憶 699)で紹介している。
この二人とは何かと縁があり、わたしはそれを嬉しく思っていた。
CさんにはCさんの苦悩がある。
そして、NにはNの学び(学ばなければならないこと)があるのだ。
そのために、二人はわたしを訪ねているのである。

2014年11月5日水曜日

追憶 788

日々はドラマチックに過ぎて行く。
わたしの人生が変わったのは、霊的な世界を受け入れてからのことである。
それまでは、人生に対して絶望すら感じていた。
わたしの中にある疑問は、

「人生とは何か?」

「自分自身とは何者なのか?」

というものである。
唯物的な視点の中にはその答えが無いと感じ、わたしは別世界への扉を開いた。
そのおかげて、毎日驚くような日々を生かされている。
わたしは心底、霊的な世界の扉を開いて良かったと思っているのである。

2014年11月4日火曜日

追憶 787

それを理解するために、オープンな心が必要なのである。
何かを否定したり、拒絶しているのであれば、本当に大切なことを理解することはない。
人生というものを深く考えた時に、否定や拒絶などの破滅的な思考が利を生み出すことがないと知るだろう。
人生を深く考える機会の無い者にはそれが分からない。
すべてが大切なのである。
人生がどのような状況を得ようとも忘れてはならないだろう。
小さな命でさえ、そのことを懸命に伝えようとしていたのである。
生きているわたしたちはその思いを深く理解し、人生に生かさなければならない。
これを以て、赤ん坊の仕事が完成した。

2014年11月3日月曜日

追憶 786

死を受け入れることのできない人には、この考えを理解することができないであろう。
しかし、受け入れることがなければ何も終わりはしないし、始まりもしないままである。
人生は死を以て終わり、その意味を理解することによって完成するのである。
意味を理解するまでは、A子のところにとどまっていた赤ん坊と同様に、意味のある場所にとどまることになる。
それは、魂にとっては間違った行為であるために、汚れ苦しむことになる。
人は死後に、人生に対する理解が必要である。
人生が完成すると、人は魂となって天に帰る。
赤ん坊が魂として母体に入り、魂として天に帰ったことは、人というものの本質がそれであることを示しているのである。

2014年11月2日日曜日

追憶 785

人の死でさえ、大切な学びであることは言うまでもない。
しかしながら、多くの人はこの最大の問題(学び)から目を背けてしまう。
わたしたちには生きている意味があるだろう。
死は人生の中に組み込まれた一つの出来事である。
霊や神々との付き合いの中で理解した価値観ではあるが、人の死というものは、誕生日とか、旅行とか、入学式とか…
このような行事と何ら変わりはないと思うのだ。
それなのに、死のみを大きな悲劇だと考えるのは不自然であると言いたいのである。

2014年11月1日土曜日

追憶 784

流産という悲しい出来事を肯定した時点において、A子はこの苦しみから解放されたのである。
苦しい出来事を受け入れることができて初めて、人は壁を乗り越えて成長することができるのだ。
A子が具体的に何を学んだのかは分からないが、何かしら価値観は変わったはずである。
それは、この世界の実相を理解する上で重要なことだといえるだろう。
赤ん坊は、ただ死ぬためにA子とB男の元に訪れたのではない。
赤ん坊は、関係するすべての人に対して大切な学びを届けたのである。
このことを理解しないままで、表面的な部分だけに乱されて嘆(なげ)いていることが、どれほど愚かなことであるのかを理解することができたのではないだろうか?