このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2014年9月30日火曜日

追憶 752

しかしながら、これは感覚であって確証ではない。
実際に触れるまでは、何事も結論に至ってはならない。
それは、自分勝手な妄想である可能性が高いからである。
それに、霊的な存在に騙されているという可能性もあるからだ。
自分自身の感覚でさえ不用意に信用してはならないのが、この世界の鉄則であるだろう。
その感覚を理論的に証明していき、矛盾と疑問が少なくなるほどに信用に値するであろう。
矛盾と疑問が重なり合っている現状においては、何も信用に値しないのだ。
わたしがこれからやらなければならないことは、自らの得た感覚の証明である。
そのために、霊的な観点から状況を探っていかなければならないのである。
積み重なっている矛盾と疑問を、一枚一枚剥ぎ取っていかなければならないのだ。

2014年9月29日月曜日

追憶 751

約束の時間になると、玄関のチャイムによって仕事の開始が告知らされた。
わたしはやっと体調の悪さから解放されると思い歓喜した。
出迎えると、そこには男女の姿があり、どこかで見た顔だと思ったが、二人は兄の同級生であった。
とは言え、わたしは二人と話したことがなかったのである。
仮に女性をA子として、男性をB男としよう。
二人はわたしに挨拶をした。
わたしもそれを返す。
二人は笑顔を見せたが、B男は何処と無く緊張感を抱いているように思えた。
そして、A子は浮かない顔をしているように見えた。
何と無く表情が沈んでいるように見えるのである。
A子から連想されるのは心配と疲弊であった。
それは、A子の心の状態を感じ取ったものである。

2014年9月28日日曜日

追憶 750

電話をかけてきた女性と会う日、わたしは朝から体調が悪く、胸騒ぎと吐き気とが同時に襲うのを感じていた。
わたしはこの体調の悪さが、夜に会うことになっている女性に関係していることだということを何と無く感じていたので、我慢して待つことに決めた。
霊的な作用によって体調が悪かろうが、自分自身の意思によっては力が使えない。
霊能力というものは、自分のためにあるものではないということである。
だから、わたしは女性と会う時間まで辛抱して待つのである。
しかしながら、この体調の悪さが女性に関係しているものだという確信はなかった。
そのため、人のせいにしてはいけないと自分自身を戒めながら、家業である養殖漁業の仕事を海の上で精一杯にこなしていたのである。

2014年9月27日土曜日

追憶 749

ある日、電話が鳴った。
携帯電話のディスプレイには知らない数字が並んでいた。
携帯電話を耳に当てると、向こう側からは女性の声が届いた。
その声は明るさの中に何処と無く寂しさを引き摺(ず)っているように思える。
女性はわたしに会いたいと言った。
わたしはそれを快諾(かいだく)し、日を改めて会うことになった。
わたしは女性との会話の最中から妙な胸騒ぎを感じていたが、それは会話が終わってからも続いていた。
女性には、何らかの霊的な問題が発生しているのだと確信した。
しかしながら、今の段階ではその歪みが何であるのかを知ることはできなかった。

2014年9月26日金曜日

追憶 748

すべてを話し終えた時、Nの心に何らかの変化が生じているような気がした。
それが何なのかは分からなかったが、秋に地に落ちる種のようなものであるように思えた。
まだ、認識することができるほどのものではないけれども、何かが生じる可能性を感じているのである。
きっと、Nは意識的な世界に対して心を開き始めているのだ。
自分自身で霊体験をした訳ではないが、わたしの行ったことを見て、何かしら感じるものがあったのではないだろうか?
N自体も何かしらの感覚を受け取っている可能性はあるが、それは聞いていないので分からない。
しかし、今日、Nは新たな世界への扉を開いたのである。

2014年9月25日木曜日

追憶 747

良いことと悪いことに分ける行為こそが、偏見を生み出すのである。
認識することができるもの、自分が知っていることだけを善と成し、認識することができないもの、知らないことを悪としてはならないのだ。
現状において、Nは霊を認識することができない。
そして、それがどのようなものであるのかも知らない。
だからと言って、それを否定して良いことなどないのである。
わたしたちは、知らないことに対して好奇心を持ち、知っていることを増やしていかなければならないのだ。
そうやって偏見を取り除いていかなければならないのである。
そのために、わたしはNの心に触れ、それに関係する霊を処理し、必要な光景を見せ、必要な言葉を語るのである。

2014年9月24日水曜日

追憶 746

それが価値観の歪みを取り除くということだと思うのである。
この世界には様々な国があり、そこには様々な人がいる。
そこには多様な文化、宗教、考え方がある。
それ等を否定する必要はない。
なぜなら、そこには様々な知恵と時代背景が存在しているからである。
それを無理矢理手放す必要はないと思う。
大切なのは、それぞれの主義に基づいた歪みの無い価値観を形成することにあるからである。
何を信じていようとも構わない。
あれはダメ、これは良く無いということもないだろう。
なぜなら、それ等はすべて「神様」が創造したからである。

2014年9月23日火曜日

追憶 745

人はこの世の真理を解き明かし、幸せに生きていくための方法を確立しなければならないのである。
そのために、科学者であっても霊能力者であっても、無神論者であっても、どのような主義の人も、道の極みを目指している人は日々自分の仕事に邁進しているのである。
様々な主義主張の人が、様々な方向性によって真理に近付いているのである。
わたしは価値観の歪みを取り除くために、霊的な世界を否定しない方が良いと主張しているが、それを信じなければ救われないとか、それが絶対であるなどと、その辺の宗教家のようなことを言うつもりはない。
唯物論者であっても、唯心論者であっても構わないのである。
「神様」を非難してはならないが、神を信じていなくても幸福を得ることはできるのだ。
神という概念が無くても、豊かに生きていくことはできるのである。

2014年9月22日月曜日

追憶 744

霊的な存在を信じていない人、それを否定する人には残念だが、霊的な世界は確実に存在している。
そのため、霊的な世界から得られる可能性も存在しているのである。
人間(自分)という存在すら、唯物論では証明することができないのだ。
科学が発展し、文明が進歩すれば、唯物論と唯心論は広く受け入れられるだろう。
その時には、霊的な存在や世界を否定する考え方は非常識となり、衰退しているに違いない。
これからの人類は、より高いレベル、文字通り高次元(別次元)の認識を得ることになるだろう。
科学は今までにない発見をし、人類の進歩を妨げている考え方や人物や勢力が、その力を弱めていくのである。


2014年9月21日日曜日

追憶 743

良いことは早い方が良い。
良いと分かっていることを先延ばしにしてはならないが、良いと分からなくても、良いと教わることは早めに試す価値はあるのだ。
それがどのような方法であったとしても、素早く試して、その根拠を確かめなければならないのである。
霊の存在を否定する人は、霊がいない世界からの可能性を受け取ることはあっても、それ以外の可能性を得ることはできない。
即ち、霊がいる世界の可能性を受け取ることはないのである。
否定するのだから、そこからは何も得られないのが道理である。

2014年9月20日土曜日

追憶 742

目の前の事象が、何らかの意図と意志によって導かれたものであるということを理解すると、それに対する見方が変わる。
そこに秘められた意図と意志を探すようになるために、ただ一喜一憂するということが無くなるのである。
目の前の事象に対して思慮を深めるのであれば、感情的になって心が乱れることはないであろう。
心が乱れることがないのであれば、不満や不安に捉われることなどないのである。
そして、そこには感謝の気持ちが生まれるだろう。
感謝の気持ちを以て向き合うのであれば、価値観が歪むということはないのである。
このような意味を以て、目には映らない意識的な存在とその働きに対して、心を開かなければならないというのである。

2014年9月19日金曜日

追憶 741

霊と向き合っていると、今までには無かった感覚を得ることが多い。
わたしにとってそれはとても新鮮な感覚であり、強く心を打つのである。
霊的な存在を意識することなく生きてきた20年間は、目の前に起こる状況に対して、わたしの心は大きく乱れていた。
それは無力であり、何より無知であったからである。
今も無力であり、無知なことには変わりがないが、経験を経ることによって、少しは成長したのではないかと思える。
その中で、すべての事象には意味があるのではないか?という思いに至る。
そこにはいつも、何らかの意図と意志があるように思えてならないのだ。
霊的な存在を意識するまでは、このような思いに至ることはなかった。
事象の成り立ちを考えることはなく、ただ目の前のことに一喜一憂していたに過ぎないのである。

2014年9月18日木曜日

追憶 740

どのように苦しい状況を得ようとも、幸福について考え続けなければならない。
幸福を考え、それを行うことによって初めて、人は歪んだ価値観を退けることができるのである。
女がNのところにいたのは、互いに共通する部分があったからに違いない。
Nはまだ幼く、ひねくれているとは言い難いが、このままの価値観で生きていくのであれば、いずれ歪んでしまうのである。
そして、あの女のようになってしまうのだろう。
女は、Nがそのようにならないように「誰か」から遣わされたのである。
Nのことを大切に思う「誰か」が、その学びを分かり易く伝えるためであろう。
わたしには、今回の件が何か別の大きな意思による計画であったのではないかと思えるのだ。

2014年9月17日水曜日

追憶 739

わたしたちは偏見に捉われないように生きていかなければならない。
出来る限りの広い視野と、柔軟性を以(もっ)て生きなければならないのである。
それには、成長に対する熱意と、正しい学び(真理)への探究心が必要であるだろう。
その情熱を保つ鍵が幸福にあるとわたしには思える。
幸福を求める気持ちが、人を正しい姿へと導いてくれるのではないだろうか?
Nに取り憑いていたあの女はきっと、大きな苦しみに対して成す術をなくしていたのではないかと思える。
苦しみが大き過ぎて手に余り、幸福を求める気持ちが消えてしまい、結果としてその考え方や価値観が歪んでしまったのであろう。

2014年9月16日火曜日

追憶 738

人が死後にどのような姿と状況を手に入れるのかは、生前に形成した価値観によって決まるのである。
価値観が偏見によって歪んでいれば、その人の心は歪んでいるのである。
人は死後には、生前の状態を引き継ぐことになる。
Nに取り憑いていたあの女は、生きている時に形成した歪んだ価値観によって、死後に歪んだ姿と歪んだ価値観を得たのである。
あの女が生きている時に正しく学び、偏見によって歪むことがなければ、生前にも死後にも苦しむことはなかったであろう。
やはり、無知が危険なのである。

2014年9月15日月曜日

追憶 737

彼女から得たものは、価値観への執着である。
人は自らが形成した価値観に従って生きるが、死後もそれに従わなければならない。
死とは、生の延長線上に存在しているのではないだろうか?
死んだからといって、そこで何もかもが終わりだということはない。
死してなお、人は生きているのである。
それは、人の本質が魂であるという証明であるだろう。
霊を見ない人には理解することが難しいかも知れないが、体験すると疑いようが無くなるのである。
価値観が破滅的な方向に傾いていると、人は死後に苦しみを手に入れる。
価値観が建設的な方向に傾いていると、人は死後に喜びを手に入れるのである。

2014年9月14日日曜日

追憶 736

降り注ぐ光が彼女を天へと導いていた。
彼女が天に近付くに連れて、わたしは心の中に喜びが増すのを感じていた。
恍惚(こうこつ)の表情を浮かべていた彼女も、わたしと同じ気持ちであったのではないだろうか?
いや、わたしよりも大きな喜びがそこにはあったように思える。
天が閉じると、光と共に彼女の姿は消えた。

瞼を開き、わたしは体験したことを整理した。
そして、口が勝手に話すことを許すのであった。


2014年9月13日土曜日

追憶 735

辺りが光に包まれるのを見て、わたしは瞼(まぶた)を閉じた。
しばらくして、光が弱まったのを感じて見ると、目の前には若い女性が白いワンピースを着て立っていた。
黒髪の美しい人であった。
わたしは彼女には微笑みが似合うと感じた。

「ありがとう」

そう言った彼女の瞳は濡れていた。

「わたしはようやく他人と自分自身を許すことができました。わたしを縛り付けるものは無くなりました。これは素敵なことですね」

そう言って笑った彼女の頬に一筋の涙が光った。
頬を離れた涙が地に着くと、それを合図に天が開いて太い光が降り注ぎ、彼女を力強く包み込んだ。
わたしたちは時間が来たことを悟った。

2014年9月12日金曜日

追憶 734

光の杭は暗闇に浮かび上がるように綺麗である。
わたしはそれを女に向けて投じた。
光の杭は迷いなく飛び、女の額に突き刺さった。
すると、より大量の黒い煙のようなものが吐き出された。
悲鳴が耳に痛かったが気にしない。
これは、この女を助けるために行っていることだからである。
黒い煙を吐き終えると、光の杭が更に輝きを増した。
それと同時に目と口の中からも光が溢れた。
その光は強いものであり、辺りの暗闇を押し広げ、わたしたちは光に包まれるのであった。

2014年9月11日木曜日

追憶 733

女は明らかに戸惑っていた。
表情は相変わらず怒りに満ちていたが、心には動揺が生じていた。

「許しなさい」

その時、大天使ミカエルの声が天から響いた。
わたしはその言葉に従い、女に向かって「あなたを許す」と告げた。
すると、その言葉を合図に女の汚れた髪の毛が毛先から真っ白に染まり、やがて全体が灰のようになった。
耳を劈(つんざ)くような悲鳴が轟(とどろ)いた。
驚いて見ると、目と口を大きく開いた女が、目と口から大量の黒い煙のようなものを吐き出していた。
わたしの首から髪の毛の束が落ちた。

2014年9月10日水曜日

追憶 732

女の攻撃を耐え続けていると、場の空気が変わる瞬間があった。
わたしはその瞬間を肌で感じた。
今までは怒りの感情によって支配されていた空間が、戸惑いへと変わったのである。
女は戸惑っていた。
それは、わたしが逆らわないからであろう。
攻撃すれば仕返しがあるのが普通である。
しかしながら、わたしは怒りもせず、怯(おび)えもしない。
女にしてみれば、これほど奇妙なことはないであろう。
普通という、自らの常識から外れたものに遭遇した時、人は混乱する。
そして、恐るのである。
この場で恐れを抱いているのは女の方である。
わたしの行動は、女にしてみれば理解不能なのであろう。
そして、戸惑いと共にわたしの首を絞める力が緩んだ。

2014年9月9日火曜日

追憶 731

攻撃的な霊を人は悪霊と呼ぶ。
それを恐れて忌み嫌う。
その名の通りに悪に仕立て、逃げるか争うかの選択をするのが一般的である。
しかしながら、そこには愛の無いことが分かる。
愛がなければ問題は解決しない。
それが経済の問題であっても、人間関係の問題であっても、霊的な問題であってもである。
わたしは目の前の問題を解決しなければならないので、この女を悪霊とは呼ばない。
大天使ミカエルがそうであるように、わたしはこの女を愛しているのである。
愛しているから、理解しようと努めているのである。
相手を理解するためには、先ずは相手の話を聞かなければならないのだ。
相手の話を聞かず、その本意も知らず、相手を愛しているはずがないのである。

2014年9月8日月曜日

追憶 730

女の汚れた髪の毛が強く絞まるので、わたしは息ができなかった。
それはとても苦しいものであったが、この女の抱えている苦しみはこんなものではないと思えた。
肉体の苦しみというものは、魂の苦しみに比べると対したことではない。
わたしは腰痛で身動き一つ取れないことが良くあるが、睡眠時にはその苦しみから逃れている。
それに、体勢によっては痛みが軽減されることもあるのだ。
一方、魂の苦しみが止むことはない。
それは一瞬の間も置かずにやって来るのである。
女はこの苦しみを受け続けているのだ。
そのため、わたしが女から受けている苦しみなどは、取るに足らないものなのであると理解しなければならない。

2014年9月7日日曜日

追憶 729

多くの人は知らないが、天使は知っていた。
わたしは知らなかったが、天使に教わった。
それは、争いによって魂が救われることがないということである。
わたしと大天使ミカエルの目的は、この女を苦しみから解放することである。
女に制裁を加えたり、追放することではない。
罪を犯したこの女を許さなければならないのだ。
人は愛によって許されることがなければ、正しい姿に立ち返ることはないのである。
そのため、わたしがこの女に与えるのは愛だけなのである。
そのためにわたしは、この女の好きなようにさせているのである。

2014年9月6日土曜日

追憶 728

この女はわたしのことが嫌いなのだ。
それは、わたしとこの女とは、正反対の立場にあるからである。
わたしは光を求めているが、この女は闇を求めているのだ。
相入れなければ争いが生じてしまう。
しかしながら、わたしはこの女とは争わない。
それは、わたしが光を求めているからである。
女の汚れた髪の毛が伸びて、わたしの首に巻き付いた。
わたしはそれに抵抗することができない。
首が絞められるので息ができなかった。
苦しいと思ったが、どうすることもできなかったので、わたしは女の好きなようにさせた。

2014年9月5日金曜日

追憶 727

これは、先程のNの価値観に通じるものがある。
この女も偏見を抱いているのである。
偏見を抱いているために歪み、苦しむのだ。
本来ならば、美しさと喜びの溢れる世界なのである。
しかし、偏見がそれを阻止する。
わたしは女を助けなければならない。
この偏見の地獄を終わらせなければならないのだ。
女はNを再び偏見へと誘(いざな)うだろうことは予想ができる。
それでは、二人共不幸になってしまうのである。

女の血走った目がわたしを捉えた。
同時に、顎(あご)が外れていなければ開かないほどに口を開いた。
真っ黒な口内からは、わたしを威嚇(いかく)するかのように嗄(しわが)れた音が鳴っていた。

2014年9月4日木曜日

追憶 726

わたしは女を哀(あわ)れに思った。
人は皆、幸福を求めているはずである。
幸福とは、思いやりに根差した喜びのことであるが、この女が目指しているのは思いやりの伴わない喜びであるからだ。
女は間違った喜びの形を幸福であると信じ込み、このようなことをしているのである。
そして、首だけの醜い姿になったのだ。
喜びの本質を見極め、間違えることがなければ、この女はここにはおらず、このような姿でもなかったであろう。
女は既に亡くなっている人の霊であろうが、生前の価値観として、本物の幸福が何であるのかを知らなかったのである。
生前の価値観に従って、死後を歩んでいるのである。

2014年9月3日水曜日

追憶 725

女はNに巻き付いた状態で目を見開いているが、その口元には笑みを浮かべていた。
女がNに対して何を言っているのかは分からなかったが、それが悪意のある言葉であることは理解することができる。
女はNを陥(おとしい)れようと画策しているのである。
これでは、Nの純粋さが奪われてしまうだろう。
女の声はNには聞き取ることができないであろうが、その心(魂)には確実に届いてしまうのである。
人の耳が音を防ぐことができないのと同じように、人の心は霊の声を防ぐことはできないのだ。

2014年9月2日火曜日

追憶 724

それから、わたしはNの首に女が巻き付いているのを見た。
この女は霊であり、破滅的な状態を得ていた。
女は頭だけの姿をしており、長い黒髪は油と埃(ほこり)で汚れていた。
女は目を見開き、苦しそうな声で何かを呟(つぶや)き、時折、歯を鳴らしているような音を出していた。
それを見た時、わたしは吐き気を催(もよお)した。
わたしが吐き気を催したのは、女の姿に対してではない。
この女の持つ破滅的な意識に対して、わたしは吐き気を催したのである。

2014年9月1日月曜日

追憶 723

何が正しいのか?と言えば、この世で受け取る結果から推測される真理である。
真理以外に正しいことなど存在しないのである。
真理とは、人が豊かに幸福に生きるためには欠かせないものである。
真理に従うのであれば、誰であろうとも豊かに幸福に生きることができる。
しかし、真理に反するのであれば、豊かさと幸福を得ることはできないのである。
偏見を所有するのであれば、真理を理解することはできない。
真っ直ぐに見る者でなければ理解することができないようになっているのである。