このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2013年10月31日木曜日

追憶 418

この顔(破滅的な価値観)がMさんに対して導くのは、怒りや争いなどの破滅的な意識と、そのような状況であるだろう。
人は幸福を求める生き物である。
残念ながら、この顔が心の中にいるならMさんの幸福の妨げになってしまうはずである。
それは、自らが所有する価値観が、人の選択肢であるからである。

「正しく導きなさい」

その時、わたしは声を聞いた。
聞いたというよりは、感じたという表現の方が近いだろう。
頭か心か、わたしの認識に対して直接的に投げ掛けられる意思である。
それは、大天使ミカエルのものであった。
正しく導くとはどういうことだろう?
どのようにすれば正解なのであろうか?
わたしはそのようなことを考えていた。

2013年10月30日水曜日

追憶 417

人の感情には形はないが、それが寄り集まれば形を成す。
塵(ちり)は目には映らないが、それも大量に積もれば山となるのである。
黒い煙のような破滅的な意識が塵であり、黒い顔のような破滅的な意識が山であると言えるのではないだろうか。
塵を吐き散らすのは簡単なことではあるが、山を動かすのは至難である。
人の行いが習慣となれば改善するのが難しいように、破滅的な意識が積み重なれば難しいのである。

黒い顔を眺めていると、わたしはどうしようもなく切なくなってきた。
ただ寂しく、ただ虚しいのである。
この心(顔)は何を生み出すのだろうか?
残念ながら、この心が良いものを生み出すことはないであろう。
ならば、ここで断ち切るのが道理である。

2013年10月29日火曜日

追憶 416

意識にも種類があるのだろう。
わたしは意識とは自発的な意思を以って存在するものだと思っていたが、Mさんの心の中に存在している黒い顔に自発的な意思を感じることはできなかったのである。
それは風に漂う雲のように、波に運ばれる漂流物のように、それ自体は性質を以って存在してはいるが、命(意思)は持たないようなものであろう。
自発的(能動的)な意識と、受動的な意識とが存在しているのであろう。
Mさんの心の中に存在している黒い顔は、人の形をしているが、それが霊体や魂などではないと思える。
感情が寄せ集まって一つになり、人の形を作っているような感覚なのである。
黒い顔が人の形をしていたのは、それが人の感情より生み出されたものだからであろう。


2013年10月28日月曜日

追憶 415

黒い煙のようなものは、わたしの心の中から溢れてくるようだった。
一緒に内蔵も出ていくのではないかと思うほどの苦しみがそこにはあった。
経験上、これはMさんの心の中に蓄積された破滅的な意識の一部ではないかと推測することができる。
この黒い煙のようなものが、Mさんの心の中に存在し、そこで破滅的な意識を生み出す原因の一部であったのだろう。
もちろん、どう考え、どう思うのかは自分次第である。
黒い煙のようなものは、Mさんの心の中に存在している不安や心配などの破滅的な意識を増長させる役割を担っているのではないだろうか?
それは、黒い煙自体には主体的な意思を感じないからである。
それ自体に意思を持たない意識とでも言うのだろうか?
破滅的な意識ではあるが、それを生み出すことはしないように思えた。

2013年10月27日日曜日

追憶 414

わたしの中に芽生えた思いやりの気持ちが自発的なものであったのか、天使の導きであったのかは分からないが、思いやりに至るという結果はとても心地の好いものであった。
わたしは今まで苦しみに対して争うことしか知らなかったので、この感覚は新鮮であったのだ。
それにとても優れていると感じるのである。
同情と憐れみが入り混じる思いやりの気持ちによって黒い顔に向き合えば、どうにかして助けてやりたいと思うのが自然であるだろう。
その時、わたしは気分の悪さを感じ、胸の奥から込み上げてくるものを認識した。
それは、嘔吐する時のように苦しいものであった。
わたしの喉を目一杯に押し広げて、黒い煙のようなものが体内から飛び出すのである。

2013年10月26日土曜日

追憶 413

わたしの中の嫌悪感や苦しみが思いやりに変わった時、わたしは自分自身の中に新たな感覚が芽生えるのを感じていた。
それは今までよりも強い光のようなもので、破滅的な意識に対してはより有効的な力のように思えた。
この時に、わたしは自分自身の人格がほんの少しではあるが、以前よりも成長したように感じたのである。
わたしは今までよりも多くの光が扱えると感じた。
それは天使の力である。
わたしの中の思いやりが増えるに従って、力が得られるのではないかと推測することができる。
天使の目的は、人や霊を正しく導くことであると思える。
わたしがより強力な天使の力を使うためには、天使の目的に対して協力し、従わなければならないのであろう。

2013年10月25日金曜日

追憶 412

暗闇の中に半分溶け込むように見える女性の顔、それはMさんの顔であった。
それは恐怖に怯えるように歪んだ表情をしていた。
わたしはこの顔がMさんの心の中に存在している苦しみの本質なのではないかと感じた。
わたしが感じていた破滅的な意識の正体は、Mさんの感じている恐怖心なのではないかと思うのである。
今、そこに辿り着いたのだ。
暗闇の中に存在している怯えた表情を浮かべるMさんの顔を見ていると、わたしの中には嫌悪感ではなく、新たに悲しみが溢れてきた。
それは慈悲であるように思える。
わたしは苦しみの先に同情や慈愛を得たのである。
なんだか可哀想で仕方なかった。
それはわたしの中の思いやりの気持ちであった。
わたしはこの恐怖に怯えるMさんの心をどうにかして、この苦しみの状況から引き上げてやりたいと思うのであった。

2013年10月24日木曜日

追憶 411

わたしは心の中にやる気が満ち溢れてくるのを感じていた。
これは、目的意識がわたしにそうさせるのではないかと思えた。
人は自らのやるべきことが見付かり定まれば、自ずとやる気に導かれるのではないかと思う。
ただし、それが根本的に楽しいと思えることであり、自発的に求めているものに限られるのではないかと思われる。
根本的に楽しいと感じることもなく、自発性も無いものには、やる気が出ることはないだろう。
やる気によって満たされたわたしは、根拠のない自信によっても満たされていた。
さしたる理由もないのに、わたしはこの状況を乗り越えることができる。
この仕事を完了することができると信じていたのである。
やる気というものがわたしに自信を持たせたのだろう。
わたしが自信を以てMさんの心を見た時、暗闇の中に女性の顔らしきものが見えた。
その顔らしきものは暗闇に溶けるようにして存在していた。

2013年10月23日水曜日

追憶 410

Mさんの心から溢れる破滅的な意識は決して心地の好いものではなかった。
わたしの本能はそこに不安と恐怖を覚えていたのだから、本来ならそれを受け入れたくもないのである。
しかしながら、わたしには目的があるのだ。
その目的意識がわたしの理性を繋ぎとめていたのである。
もしも、わたしが目的意識を持っていないとしたら、今すぐにでもこの場を去り、二度と戻っては来ないであろう。
目的意識こそが責任感を生む。
今までのわたしであるなら、嫌なことや苦しいことからは逃げ出していたのだ。
それは、責任感の欠如、目的意識の欠落が原因だったのである。
人が責任を果たそうとする時、責任感というものが重要になるが、それは強い目的意識なくして実現し得ないものである。

2013年10月22日火曜日

追憶 409

わたしはMさんの心から溢れてくる破滅的な意識に対して報復してはならなかった。
それは、この危機を解決するためである。
相手が危害を加えてくるのに、それに応戦しないのは弱虫の所業である…
と、今までのわたしは考えていた。
確かに、危機が迫っているのに応戦しないというのは理不尽に感じる。
しかしながら、わたしが言っているのは、危機が迫っているのをただ傍観しているということではない。
危機を解決するための道筋として、破滅的な意識に対しても建設的な意識によって対応するべきであると主張しているのである。

2013年10月21日月曜日

追憶 408

破滅的な意識を解決するためには、それに対して建設的な意識を用いなければならない。
傷付いた心を癒すためには、優しさや思いやりが必要である。
傷付いた心に暴力を用いるのは、傷口に塩を塗るのと同じことなのである。
追い討ちをかけてはならないのだ。
大切なのは、どのような意識に対しても、優しさや思いやりなどの建設的な意識を用いるということであろう。
相手が暴力に訴えるからといって、同じ暴力によって報復するのであれば、暴力が増大するだけなのである。
唐辛子を甘くするためには、砂糖を加えなければならない。
ということである。

2013年10月20日日曜日

追憶 407

暴力によって問題が解決するのであれば、この世界は簡単である。
しかしながら、わたしの経験上、暴力によって問題が解決したことは過去に一度もなかった。
解決したように見えたことも、ただ見た目が良くなっただけで、中身が良くなったことは一度もなかったのである。
暴力によって問題に向き合うと、表面的な部分は整えることができるかもしれないが、そこには必ず遺恨が残る。
暴力によって相手を従えても、それは強制的な服従であり、間違っても自発的な尊敬や従順ではないのである。
それは、樹木の根を残して幹を切り倒すことに似ている。
根が残されているのならば、樹木は枝葉を伸ばすのである。
樹木を絶つためには、根を残してはならないのだ。
破滅的な意識(苦しみ)に対して、破滅的な意識(暴力)を向けるのは間違いである。
それは、樹木に水と肥料を与えるようなものなのである。

2013年10月19日土曜日

追憶 406

改めてMさんの心に対して向き合ってみる。
わたしは嫌悪感や恐怖によっていつの間にかに忘れていた目的を思い出したのである。
わたしの目的は、Mさんの心が抱えている苦しみを認識し、それを解決することである。
気分が悪くなるのは、破滅的な意識がわたしの心に悪影響をもたらすからである。
破滅的な意識によって気分が害されるなら、わたしは自らの小さな力でさえ十分には引き出せないのである。
わたしはMさんの心から送られてくる破滅的な意識をどのようにすれば解決することができるだろうと考えた。
それはある意味で直感的なひらめきであったのかもしれない。
その時のわたしは、破滅的な意識に対して優しくしようと思ったのである。
そして、実際にそうしてみた。
嫌悪感や恐怖などの苦しみに対して、否定的、拒絶的な感情は出来る限り抱かないように努めた。
わたしは理性によって、破滅的な意識を制しようとしたのである。

2013年10月18日金曜日

追憶 405

同じことを繰り返していては進歩がないのは当たり前のことである。
人が進歩するためには、習慣に捉われずに新たな可能性を見出して進まなければならないのだ。
可能性とは、より良くなる方法である。
わたしは苦しみから逃れるという従来の習慣を所有しているが、それに対していつまでも従っているのであれば、可能性が広がりを見せることはないであろう。
従来のままでは何も変わりはしない。
ましてや、良くなることなど有り得ない。
寧ろ、悪くなる一方ではないだろうか?
習慣を断ち切ることは決して簡単なことではない。
今までのやり方の方が道筋ができている分簡単であり、気楽である。
しかしながら、そのままでは道幅は狭まってしまう。
簡単や気楽という安心を守っているのであれば、その先は無いのだ。
安心の中にいるということは、却(かえ)って苦しむのだということを知らなければならないだろう。

2013年10月17日木曜日

追憶 404

その時、大天使ミカエルがわたしに告げた。

「心を静めて良く見なさい」

わたしの脳内?もしくは心?に届くその意思は、とても力強く頼もしいものであった。
わたしは落ち着きを取り戻し、もう一度丁寧にMさんの心に対して向き合うことにした。

人が苦しみに会った時には、大抵がそれから目を背ける。
どのような人も、自らが苦しいと感じるものに対しては、それを直視したいとは思わないであろう。
わたしもこれまでそうして来たし、Mさんの心に触れている今も、その苦しみから目を背け、そこから逃げ出そうとしていたのである。
わたしには、Mさんの心が抱えている苦しみを取り除くことはできないかもしれないが、それは、やってみなければ分からないことなのである。
大天使ミカエルの一声がなければ、わたしは逃げ出していたかもしれない。

2013年10月16日水曜日

追憶 403

天使文字が見えなくなると、わたしは急激に気分が悪くなるのを感じ、吐き気を催した。
Mさんの中から黒く重たくて気持ちの悪いものが流れ込んでくるようである。
それは破滅的な意識であった。
何となくではあるが、それは肉体的な不安(不健康)、そして、生活や仕事など、人生における様々なものに対する不安と恐怖を感じさせた。
Mさんは様々なものに対して、不安と恐怖を感じているのではないだろうか?
その意識に触れていると、わたしはどうしようもなく辛くなる。
心が重たくなり、暗い海の底へと引き込まれるような感覚を覚える。
心が鬱々(うつうつ)としてくる。
とても苦しかった。
わたしはこれに触れていてはいけない。
ここにいてはならないと強く感じた。
とても耐えられない。
わたしには既に限界だったのである。
しかしながら、どのようにすればこの破滅的な意識から逃れることができるのであろう?
周囲を探しても出口は見当たらない。
しかしながら、何かしらの良い方法があるはずである。
わたしは精一杯に思いを巡らせた。


2013年10月15日火曜日

追憶 402

わたしは直感的にそれが天使の使う文字なのではないかと思った。
その理由は、文字自体が熱した鉄のように金色の光を放っていたからである。
まるで映画を観ているようであった。
わたしはMさんの背中に三行の天使文字と思われる文字を書いたが、その意味は全く理解することができない。
それよりも、この天使文字を書いた理由さえも分からないのである。
わたしの中には天使文字を見た感動と、その理由を探す困惑とが入り混じっていた。
それは、母親の時にはこのようなことはなかったからである。
わたしには初めてのことであった。
天使文字を眺めていると、わたしはそれを直線によって囲んだ。
長方形によって囲まれた天使文字は、更なる光を放って輝いた。
わたしの両手がそれに触れようとすると、吸い込まれるようにしてMさんの背中に溶け込んでいってしまった。

2013年10月14日月曜日

追憶 401

ゆっくりと目を閉じて心を静めると、そこに意思が届く。
届くと表現したのは、その意思が自己によって生み出したものではないからである。
わたしの持つ目的に対して無意識の内に欲求が生み出され、わたしはそれにただ従うだけである。
恋人と接する時に、考えなくても様々な欲求が生じ、その髪に触れるのと同じような感覚である。
それはとても自然であり、とても甘美なものであった。
わたしの中に生じた欲求は、Mさんの背中に触れるというものであった。
わたしがその欲求に従って手を伸ばすと、人差し指と中指によって背中に何かの文字のようなものを書き始めた。
指がなぞる文字に見覚えはない。
それは筆記体のローマ字に似ていた。
しかしながら、英語ではないようである。

2013年10月13日日曜日

追憶 400

部屋の中心に座布団を敷き、Mさんに座ってもらう。
わたしはMさんの背後に座り、その小さな背中と向き合う。
わたしたちから少し離れて、母親は腰を下ろした。
わたしは短く息を吐き出し、気持ちを切り替える。
母親の心の中で体験したように苦しみに出会うかもしれない。
そう考えると、どうしても気合いを入れておかなければならなかったのである。
わたしはMさんにリラックスして座るように伝えた。
それは、自分自身への言葉だったのかもしれない。
わたしは気合いと緊張感が生み出す力みを取り除くように、今度は長くゆっくりと息を吐き出した。
そして、わたしは目を閉じて自分自身の心が整うのを待つ。
それは、心が静寂に至る時に、自分自身がどうするべきなのかを理解することができるからである。
それは心の閃(ひらめ)き、意識的な存在からの導き…
何と言うべきか分からないが、そうすることによって自分自身の力以上のものが扱えるのである。

2013年10月12日土曜日

追憶 399

約束した日にMさんはやって来た。
Mさんはどこか恥ずかしそうにしていた。
わたしにはその意味が分からなかったが、彼女はわたしに心の中を覗かれ、自分という存在が知れてしまうのが照れ臭かったのかもしれない。
わたしは事前にMさんに対して、今のわたしができることを告げていた。
それは即ち、自分自身が何ができるのか分からないということであった。
Mさんに施すことが試験的な実験に過ぎないこと。
結果がどうなるか分からないというようなことである。
わたしは楽しみであったし、緊張もしていた。
わたしの力に興味があった母親も同席して、わたしはMさんの心に向かう実験を始めた。

2013年10月11日金曜日

追憶 398

ある日、母親が相談事を持ち込んだ。
それは、母親の友人であるMさんのことを見て欲しいという依頼だった。
話を聞いた時に、わたしは喜んだ。
それは、他人の心に触れるチャンスであると感じたからである。
しかし、わたしは考えた。
Mさんのことは幼い頃から知っている。
Mさんの娘とわたしは幼馴染であり、家族ぐるみでお世話になっている親しい間柄であった。
いくら親しい間柄だからといって、Mさんに対して適当なことは言えないし、中途半端で役にも立たないようなことになってもいけない。
わたしはそのように考えていた。
しかしながら、Mさんはわたしの力を求めてくれている。
今のわたしにも、何かしらのできることがあるかもしれない。
結果がどうなるのかはわからないが、今のわたしでできることをしなければ、その先の可能性は存在しないだろう。
そう結論付けて、わたしはMさんからの依頼を引き受けることにした。

2013年10月10日木曜日

追憶 397

わたしは思い付く限り、霊的、意識的な力を高める方法を探した。
そのために、辿り着ける範囲の心の中を虱潰(しらみつぶ)しに探したし、苦手ではあるがヒントになりそうな本を読んだりもした。
 しかしながら、残念なことにわたしが思い付く方法によって霊的、意識的な力が高まるかどうかは分からない。
分からないからこそ、今のわたしは暗闇の中に見えたものは何でも掴まなければならなかったし、試してみなければならなかったのである。
わたしは仕事の合間を縫うようにして、毎日の習慣の中に、瞑想、寝る時の金縛り(になるために願う行為(笑))、母親の意識に触れる(これは毎日ではない)ということをしていた。
今のわたしにはそのような方法しか思い付かないし、そのくらいのことしかできないのであった。
しかし、今思い付くことがより上手くできるようになれば、あるいは違う方法が見えてくるかもしれないのである。

2013年10月9日水曜日

追憶 396

わたしが霊的、意識的な力を身に付けるためにはどうすれば良いだろうか?
わたしはどのような力も経験値だと思っている。
誰よりも経験を重ねることができたのなら、誰よりも上手く、誰よりも強くなることができるだろうと本気で考えているのである。
人間などというものはそうも変わるものではないだろう。
身体的な特徴などは、そうも違いがある訳ではない。
自らを凡人だと思っていたわたしには、人と比べてずば抜けた身体的な特徴がある訳でもない。
一種の天才でもなければ、特別な才能もない。
周囲を見渡しても、そのように思える。
アインシュタインのように、脳が一般の人に比べて大きな作りであるのならば経験値以外の力によっても違いが現れるだろう。
しかしながら、わたしがそのような特別な人間であるとは到底思えない。
寧ろ、劣っていると思いながら生きてきた。
しかし、普通の人間ができることなら、経験値を積み重ねることによって、わたしにもできるという可能性があるという考えがあった。
もちろん、そのためには必要な経験値を所有することが前提ではあるが。
経験値さえ所有することができれば、わたしが思い付くくらいのことは、何だってできるのではないかと思うのである。
スペースシャトルを作った人たちであっても、経験値を積み重ねたからこそ、そのような偉業を成せるのである。
自分が実現したいと思う事柄について、誰よりも考え、誰よりも感じ、誰よりも探し、誰よりも行い、誰よりも触れ、誰よりも生み出すのであれば、誰よりも上手く、誰よりも強く、それを実現させることができるであろう。

2013年10月8日火曜日

追憶 395

わたしは自分のことを、巣立ちすることができない鳥の雛のように感じていた。
わたしには翼(可能性)が生えているが、それはとても貧弱であり、自らの身体を支えることもできなければ、大空を自由に飛び回ることも叶わないのである。
わたしは小さな巣の中で羽ばたかずに一生を終えたくはなかった。
鳥が鳥として大空を行き、自然界に貢献するように、わたしは「わたし」として社会や自らの人生に対して貢献したかったのである。
それを実現するためには力が必要である。
翼という力持たなければ、鳥は鳥として大空を行くことはできないのだ。
わたしが生きたいと願う道にとっては、霊的、意識的な力は必要不可欠である。
わたしにとっての翼(可能性)とは、霊的、意識的な力なのである。

2013年10月7日月曜日

追憶 394

わたしのやりたいことというのは、意識的(霊的)な力を使って、苦しんでいる人の心や霊体や神を救いたいということであった。
今の生活を言われるがままに続けても、わたしが自分の人生を生きることのできる可能性は低いだろう。
はっきり言えば、無理なのである。
ある日突然、幸運によって人生が変わる。
奇跡的に心が満たされる。
そのようなことは決してないと断言しておこう。
幸運や奇跡にすがったとしても、状況が良くなることなど有り得ないのである。
宗教(仏教を含む)という名の会ったこともない神様という偶像を信じ込む熱心な信者を何人か知っているが、わたしはその人たちのようには成りたくはなかった。
信じているだけで神様が救ってくれる…
信じていれば奇跡が起きる…
そのような話には懐疑的であるし、根拠の無いものを信用することもできないのである。
夢を持たない頃のわたしであれば、ただ仕事があり、ただ稼ぎがあれば良いなどと無気力に考えていたし、根拠の無いものにすがり付きもしただろうが、今のわたしはそのようには考えられなかった。
自分自身は何のために、何の仕事をし、何を得る(実現する)のか?
わたしの心の深くに芽生えたこの疑問を納得させることができなければ、わたしが幸福を得ることなどできないのである。
今のわたしは自分自身の人生やその生き方に対して疑問と不満を抱えているのである。


2013年10月6日日曜日

追憶 393

わたしが求めている報酬とは、お金のことだけではない。
わたしは人生の豊かさを求めていたのである。
それは、生き甲斐であるのかもしれない。
それは、自由であるかもしれない。
それは、本当の意味での満足であるかもしれない。
わたしが人生で求めているものを得られないというのは、わたしの人生の失敗を意味しているだろう。
わたしは、自分の人生が失敗することに恐れを抱いていた。
何が成功なのかと聞かれたら、わたしは「自分自身の人生を生きる」ことだと思っている。
自分が一番やりたいことを思う存分にやれることこそが、人生の成功だと考えるのである。
わたしには自分が一番やりたいことを思う存分にやれない人生が成功だとは思えないのだ。
これから、わたしがしなければならないのは、自分自身の一番やりたいことを思う存分にやるための準備である。
わたしには自分自身の人生を生きる権利があるのである。




2013年10月5日土曜日

追憶 392

わたしの日常は忙しく過ぎていった。
ほぼ毎日、朝の2時から漁に出ていたし、昼間は養殖業に精を出し、夕方には漁の準備をした。
帰宅するのは大抵19時を回っていた。
遅くても22時には就寝しなければ身がもたなかった。
わたしには自由に使うことのできる時間が無かったのである。
勤労なのは良いことではあるが、働くばかりではわたしの心が充足を感じることはなかった。
これは、祖父が築き、父親が守ると決めた道である。
わたしが築き、守ろうとする道ではなかった。
わたしは現状に対して不満を抱えていた。
それは、わたしには自分自身が何のために生きているのか?という疑問があったからである。
ただ、目の前の仕事をこなしてお金を稼ぐことが生きるということなのだろうか?
忙しく過ぎていく日々を眺めながら、わたしはいつもそのように考えていた。
わたしが必死に働いたところで、得られる収入はしれていた。
我慢したり、寝る間を惜しんだり、苦悩して働くのであれば、それに相応する報酬を得なければならない…
というのがわたしの考えである。


2013年10月4日金曜日

追憶 391

瞑想することによって、わたしは今までに見ることのできなかった世界を見るようになった。
自らの心の深くに向かうことによって、わたしは今まで知らなかった(忘れていた)自分自身の一面を知った。
わたしにとって、意識の領域は未知の世界だったのである。
大天使ミカエルはわたしのことを手助けしてくれるが、彼がどこにいて、どのような条件によって手助けしてくれるのか?
彼がわたしに求めているもの、彼の目的などは分からないままなのである。
それは、彼がわたしに対して何も求めてはこないからである。
彼がわたしの意思や理想を実現させるために手助けするのであれば、わたしは自分自身の思うように努めなければならないだろう。
わたしが求めているのは、霊的な力の向上と人格の向上、そして、生きる道である。
それらを実現するように努めれば良いのであろうか?
何が正解なのかは分からないが、わたしは自分にできることを少しでも良くしなければならないと感じていた。
わたしが成長することによって、大天使ミカエルともより親密なコンタクトがとれるようになるのではないかと考えるのである。





2013年10月3日木曜日

追憶 390

わたしはとにかく、経験を積む必要があった。
意識的な存在とどのように対峙するべきであるか?ということは、誰もわたしに教えてくれないのである。
霊感や天使の力の使い方をわたしに教えてくれる人は、少なからずわたしの周りにはいなかったのである。
わたしはそれを自力によって得なければならなかった。
その道は険しいものであるだろうが、わたしは人から何かを教わるのが好きではなかったので、成功すれば有意義なものになると考えていた。
それから、わたしは毎日時間を見付けては瞑想した。
それは、自分自身の心をコントロールすることが、意識的な力を扱うためには最低限の必要だと考えたからである。
わたしは瞑想こそが自らの心をコントロールする方法だと思っていたのであった。
現状の力を満足に扱うこともできない状態では、その先の段階へは進んでいくことはできないであろう。
そう考えたわたしは、仕事や生活に追われながらも、瞑想を欠かすことはなかった。
瞑想によって、わたしは大天使ミカエルに会いたかったのである。

2013年10月2日水曜日

追憶 389

わたしが自らの人生を自らの力(意思)によって築いていくためには、ある種の疑心が必要なのである。
人々が当たり前と呼んでいる常識を疑い、人としての生き方を疑い、自分自身という存在を疑い、他人を疑い、自らに関わるすべての真偽を自分自身の意思によって確かめなければならないのである。
わたしはそのために、知識と経験を追い求める必要があるだろう。
破滅的な意識を所有し、苦しんでいるネガティブな存在との対峙は大変な苦労を有する。
キャンプ場の女であれ、母親の心の中の人影であれ、その他の破滅的な存在と対峙する時、わたしは自らの命が消耗するような感覚を得る。
しかしながら、それが悪いことであるとは思わない。
寧ろ、それが喜びとして感じられるのである。
それは、わたしが自らの人生において、唯一生きているという魂からの実感だったのである。
破滅的な意識を所有する存在に向き合うことが、今のわたしに対して未知の知識と経験を与えてくれる方法なのである。

2013年10月1日火曜日

追憶 388

この体験は、わたしに人生というものを考えさせた。
当たり前を当たり前として素直に飲み込むような従順な人間ならば、わたしは人生というものについて改めて考えることもなかったであろう。
常識を疑問として感じる自らの本心に従うことがなければ、わたしは自分自身の人生を生きようとはせず、ただ流れに沿うようにして生かされるだけであろう。
これまでのわたしの人生というものは、流れに任せて生かされているだけであったと思う。
流れに沿うように生きてはいるが、流れを生み出そうとはしていなかったのである。
わたしが生み出すことのできる流れというものは小さなものであるかも知れない。
しかしながら、それが小さな流れであっても、自分自身の力でそれを生み出すことができるのは素敵なことだと思うのである。
それこそ、自分自身の人生を、自分自身の力で生きるということなのではないかと思うのである。
わたしは生かされるために生きているのではない。
わたしは生きるために生きているのである。