このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年11月30日金曜日

追憶 2245

相手を喜ばせることが出来れば、それが良いだろう。
しかしながら、霊的な仕事は相手を喜ばせば良いというような単純なものではない。
なぜなら、大抵の場合、相手の理想や要望と、霊的な必要が異なるからだ。
相手の理想や要望の実現に努めるのであれば、霊的な仕事としては失敗である。
結果として、理想や要望が実現することもあるが、大抵の場合はそれとは異なる形で必要が導かれるのだ。
多くの人は、理想や要望を欲しているために、必要に対して抵抗を示す。
霊的な仕事において重要なのは、相手にとって受け入れ難い必要を少しでも受け入れることが出来るように、出来るだけ丁寧に説明することなのである。

2018年11月29日木曜日

追憶 2244

しかしながら、老女が期待するのは、苦しみと、その原因だと思い込んでいる霊的な存在を退けてくれることであった。
それは、天使の意向とは反している。
わたしは、人間の意向に従うことは出来ない。
なぜなら、人間であるわたしが、自分がいつも間違えていることを嫌という程見せられているからだ。
人間の判断よりも、天使の判断の方が優れているように思えるのであった。
そのため、大抵の場合、人間の意向に従うことが出来ないのである。
この仕事の難しさがそこにある。

2018年11月28日水曜日

追憶 2243

天使は、苦しみの避け方を教えるのではない。
その乗り越え方を教えてくれるのである。
だから、わたしには老女の愚痴(ぐち)に賛同することは出来なかった。
それは、老女がどうにかして、苦しみから逃れようとしていたからである。
天使は、わたし達の思考回路を組み替えることを目的としているように思えるのだ。
そのため、わたしは老女の愚痴に対して否定的になってしまう。
老女を否定するのではなく、その考え方を否定するのだ。
わたしの仕事は、老女が現状を受け入れ、人生に対して感謝することの出来る心境を築くことである。
霊や神を"処理"するのは、そのついでだと考えるべきだろう。



2018年11月27日火曜日

追憶 2242

わたしには、老女の足の痛みは良いことのように思える。
それは、何も知らずに傲慢に生きるよりも、何か一つでも知って謙虚に生きる方が良いと思うからである。
足の痛みは、老女に様々なことを教えてくれるだろう。
不平不満を吐くのは傲慢の現れである。
謙虚さとは、受け入れることであるだろう。
人は、それぞれに避けることの出来ない学びを抱えて生まれてくる。
例えば、わたしは男の身体に生まれたが、それは男の学びを避けることが出来ないということである。
わたしは無知に生まれ、無能を生きている。
それは、わたしに避けることの出来ない学びを導く。
すべては、自らの抱えている傲慢さを正すために必要なことなのである。

2018年11月26日月曜日

追憶 2241

足の痛みによって、動作は鈍くなる。
彼女が自力によって出迎えてくれるまで、わたしは待つことにした。

老女の足は、恐らくは若い時に働き過ぎたために歪んでいる。
多くの苦労があったようだ。
しかしながら、霊的に見れば、老女の足が歪んでいるのは傲慢(ごうまん)の結果である。
傲慢を正すために、様々な苦労を重ねなければならなかったのだ。
その一つが、足の痛みであった。
老女は、足の痛みに対して"恨み"を抱いているが、足の痛みによってわたし達は引き合わされたのである。
そして、人生について、自分自身について、理(ことわり)について、互いに学ぶことが出来ているのである。
足の痛みが無ければ、老女がわたしと会うことも、話を聞くことも無かっただろう。
"普通"の暮らしをしていたに違いない。
もちろん、それが悪いというのではない。
老女の人生の目的は、自らの傲慢を正すことだ。
そのための準備が、これまでの苦労であり、足の痛みであったということを理解しなければならないだろう。

2018年11月25日日曜日

追憶 2240

後日、わたしは老女からの連絡を受けた。
それは、いつも通りの泣き言である。
老女は、足を悪くしているのだが、その痛みや不自由が辛くて堪らないというのである。
わたしも、毎回老女のリクエストに応えて会いに行ける訳ではない。
今は、電話越しに慰(なぐさ)め、心の在り方を説く他なかった。
時間が許せば顔を見せることを告げて電話を終えた。

後日、わたしは老女を訪ねた。
わたしはいつも老女に対して事前に連絡をすることもなく、自分勝手に訪ねる。
それで良いと思っている。
玄関のチャイムを鳴らし、勝手に扉を開けて老女の名前を叫んだ。
すると、奥から返事が聞こえ、ゆっくりと足音が聞こえた。

2018年11月24日土曜日

追憶 2239

残念ながら、宗教を信仰している人達は、このことに気が付かない。
宗教を信仰することによって、”神”を信仰していると思い込んでいるのである。
神の国(天国や浄土)があるとして、そこに入るためには、”神”への信仰が必要であるだろう。
”神”を信仰すれば、”神”へと向かう。
宗教を信仰すれば、宗教へと向かうのだ。
残念ながら、宗教を信仰したところで、神の国には辿り着けない。
宗教を信仰している老女は不幸を感じており、宗教を信仰していないわたしは幸福を感じているのである。
わたしを勧誘した彼女達も、和尚達も、幸せそうには見えなかった。
わたしがこれまでに会ってきた宗教を信仰している人達は、誰もが多くの闇を抱えていたのである。

2018年11月23日金曜日

追憶 2238

宗教への信仰と、”神”への信仰は異なる。
わたしのいう”神”とは、例えば、心臓を動かす不思議な力のことである。
この世界には、不思議なことが多い。
そこに意図のようなものを感じるのである。
その源に”神”という存在がいるように思えて仕方ないのである。
宗教と”神”は別物である。
宗教を信仰したところで、”神”を信仰したことにはならない。
”神”を信仰するのであれば、”神”を信仰しなければならないのである。
この違いに気が付く必要があるだろう。

2018年11月22日木曜日

追憶 2237

人は、画一的な経験を得るために生まれたのではないだろう。
人は、それぞれに異なる人生を生き、異なる結果を残さなければならないのである。
誰かの真似をして懸命に生きても、本当の意味での満足を得ることは出来ないであろう。
人生に満足している人がどれだけいるだろうか?
真似をしなければ、満足することも出来た人生である。
大通りも良いが、それだけでは、その街の持つ、本当の魅力には気が付かない。
人生の魅力というものは、誰かに教えてもらうものではなく、脇道へ逸(そ)れて、自らの足で路地を探検してみなければ分からないものである。

2018年11月21日水曜日

追憶 2236

順路が決められていなければ、寄り道をすることも出来る。
気になる道を気の済むまで歩むことが出来るのだ。
人生には、寄り道が魅力的である。
大通りから見える路地は、とても魅力的なのである。
宗教の示す道は、大通りのように整備された道のようなものであるだろう。
それは、とても広く、美しく見える。
きっと、多くの人が手を繋いで、安全に歩むことが出来るだろう。
しかしながら、その道は"観光名所"に繋がっているだけである。
それでは、画一的な経験を得るのが関の山だろう。

2018年11月20日火曜日

追憶 2235

他者と違うことをするのは簡単なことではない。
そのためには、自ら発想し、考え、行わなければならないからだ。
敷かれたレールの上を行くことは気楽である。
そこには、何の不安もないだろう。
行けば辿り着くのである。
それは、良いことのように思える。
しかし、それは退屈な旅路に違いないだろう。
順路が決められていなければ、大きな不安を抱いてしまう。
下手をすれば、辿り着けないかも知れないのである。
しかしながら、それはとても楽しい旅路となるだろう。

2018年11月19日月曜日

追憶 2234

しかしながら、人生を考察すれば、教科書通りにはならないことを理解することが出来る。
なぜなら、わたし達の人生というものは、それぞれの特注品だからである。
人生は、一つとして同じものは存在しない。
それは、一人として同じ人物が存在しないからである。
人は、それぞれに異なっているのに、人生やその生き方が同じであるはずがない。
宗教のように皆が同じことをしても、人生を果たすことなど出来ないのである。
誰かの真似をしたところで、あなたが満足を得ることはない。
誰かの真似をすれば、不満を抱えることになってしまうのだ。
宗教に携わっている多くの人が、いつまでも不満を抱えて生きているのは、自分の人生を生きてはいないからなのである。

2018年11月18日日曜日

追憶 2233

宗教は、人の最善の生き方を否定しているように思えて仕方がない。
思考停止に陥(おちい)っているように見えて仕方ないのである。
宗教とは、哲学的でなければならないと思う。
大抵の宗教は、偉大な人物の偉大な言葉が教典となっているが、それを教科書として丸暗記するだけでは、裏に隠されている真意に気が付くことが出来ないのである。
大切なのは解釈であり、”大声”ではないのだ。
世の中には、声がやたらと大きい者がいる。
そのような者は、図々(ずうずう)しく、態度も大きい。
彼等は、教科書が正しいと思い込んでいるような人物である。
そのため、根拠のない自信を抱くことが出来るのだ。
教科書という多くの人を"納得"させる道具があるために、図々しく、声も大きくなってしまうのである。



2018年11月17日土曜日

追憶 2232

何度も言うが、わたしは宗教を否定している訳ではない。
宗教は歪んでいるものだと思うし、小さな世界だとは思うが、それを必要とする人もいるのである。
わたしが言いたいのは、当たり前の風習に疑問を抱き、より本質的に、より自由になって欲しいということなのである。
より良い方法は、小さな世界の外に幾らでも存在しているだろう。
どのようなことでも、人類は(ある意味で)より良くして来たのである。
新しい発見は絶えることがない。
究極を実現しても、そこからは新たな究極が見えてしまう。
世界には制限が無く、終わりも存在しないように思えるのだ。
風習や伝統を守り、停滞することは最善ではないと思えて仕方がない。
広げるか、深めることが最善なのではないかと、わたしには思えるのである。

2018年11月16日金曜日

追憶 2231

しかしながら、破滅的な状態にある霊体は、お経のような声?を発する。
お経ではないが、お経のように聞こえるのだ。
それは、葬儀の時の和尚達のお経と同じように、わたしには寒気のするものであった。
天使や仏や自然の神々に会う時には、いつも心が洗われるような、清々しい気分になる。
山頂で深呼吸をする時のような良い気分なのだ。
しかしながら、宗教に携わっている人達に会うと、自然と鳥肌が立ち、気分が悪くなってしまうのである。
良いものであれば、このような反応は得られない。
歪んだものであるから、このような反応が得られるのだとわたしは思うのである。

2018年11月15日木曜日

追憶 2230

それは、この世界に歪んだ霊体が存在するからである。
もしも、宗教儀式に霊体や心を浄化する力があるのであれば、歪んだ霊体も歪んだ宗教家も存在しないはずである。
しかしながら、宗教に携わっている人の多くが、大きく歪んでいるように思えて仕方がないのだ。
わたしは、天使が大層な祈りの言葉を並べるのを知らない。
仏がお経を発したことを聞いたことがない。
わたしは天使にも仏にも会うが、彼等は”普通”の言葉で話し掛けてくる。
古臭い言い回しや、難解な言葉で話し掛けられたことは一度もない。
彼等は、わたしに理解し易い言葉でしか話し掛けてはこないのである。

2018年11月14日水曜日

追憶 2229

葬儀には必要性を感じることは出来ても、そこに宗教が入り込む必要性は感じられないのだ。
皆が、故人や遺族を思う気持ちがあれば、それで良いのだと思える。
それ以上に大切なものなど存在しないはずだ。
堕落し、腐敗した宗教家に、形ばかりの長い祈りをされ、その上、非常識な報酬を支払ったところで、故人も遺族も浮かばれないだろう。
葬儀の中で、お経を聞いている時程、苦痛な時間はない。
今日の宗教儀式が正しいというのであれば、故人が和尚達に対して怒りを露(あら)わにすることはなく、感謝するに違いない。
残念ながら、宗教儀式によって霊体が安らぎを得ることはないだろう。

2018年11月13日火曜日

追憶 2228

故人の怒りを無視して、お経は続けられる。
皮肉なことに、故人の怒りに比例するようにしてお経は激しさを増した。
残念ながら、故人の怒りは和尚達には届かない。
例え届いていたとしても、仕事だからやめることは出来ないだろう。
そして、お経によって故人の怒りを静めることが出来るなどと本気で考えてそうである。
葬儀とは本来、故人の冥府(めいふく)を祈る儀式であるだろう。
それと、遺族の気持ちの切り替えのための儀式でもあるのだと思う。
わたしは故人の怒り方を見て、故人と遺族を納得させるために、今日の宗教儀式は必要ないのではないかと思えて仕方ないのである。



2018年11月12日月曜日

追憶 2227

彼は、参列者に挨拶でもしているかのように、にこやかに皆を見渡していた。
その時、司会者の紹介によって、三人の和尚が入場して来た。
彼等は相変わらず豪華な着物に身を包み、背後には黒い煙を引き連れながら、わたしの傍(かたわ)らを通り過ぎて行った。
わたしは、気分が悪くなるのを感じる。
豪華な椅子に重たい身体を預け、彼等はいつものように、誰が作ったかも分からない形ばかりの長く愚(おろ)かな祈りを始めた。
すると、故人の顔色が急激に変化するのが分かった。
目は釣り上がり、口をへの字に結び、顔は真っ赤に燃えていた。
彼は、和尚達のお経を聴き始めた時から、烈火の如(ごと)く怒り始めたのである。




2018年11月11日日曜日

追憶 2226

それは、生前の姿のままで、取るに足らない話をしている時のいつもの穏やかな表情であった。
半透明で後ろの景色が透けて見えていた。
恐らくは、誰も気が付いてはいないだろう。
これは、わたしだけが見ている幻覚なのだろうか?
しかしながら、そのような妄想(もうそう)を思い描いたつもりはない。
そのような願望も持ち合わせてはいないはずである。
わたしは霊的なことを何も期待せず、何も考えずに、故人の生前の写真をただ楽しく観覧していただけなのである。
わたしにとっては、半透明な故人が現れることは想定の範囲外の出来事であった。
そのため、遺影の前の半透明な故人が、わたしの妄想が見せる幻ではないと思うのである。

2018年11月10日土曜日

追憶 2225

もう一つ例を挙げよう。
これは、わたしが知人の葬儀に参列した時の話である。
故人は、わたしの父親の同級生であり、同じように海の仕事をしていた。
わたしも度々、彼に雇われて仕事を手伝ったものである。
彼は癌(がん)によって、50代で亡くなった。
早く感じてしまうが、これも寿命なので仕方ないだろう。
葬儀には、多くの人が参列していたが、わたしは会場の中程に座った。
それは、若かりし頃の写真による故人の紹介が前方のスクリーンで行われた後だった。
穏やかな表情をした故人が、遺影の前に現れたのである。



2018年11月9日金曜日

追憶 2224

実際、宗教に携わっている人達は、その状態に対して疑いを持たない。
仲間がいることによって団結力が生まれ、寧(むし)ろ歪みが強化されるという状態に陥っているとも思える。
残念ながら、宗教に携わっている人達の考えは歪んだままで固まっている。
それは、世界が狭いためだ。
本来ならば、皆が良いというものなど、この世界には存在しないはずである。
それは、多様性こそが、この世界の在り方だからだ。
宗教は、多様性を認めない。
それは、統制が取れなくなってしまうからである。
皆が同じ考えによって、同じことをしなければ、宗教という集団を維持することが出来ないのである。



2018年11月8日木曜日

追憶 2223

皆が良いというものが、必ずしも良いとは限らない。
多くの人には良いことも、自分には良くないかも知れないのである。
人生は、多数決で決められるようなものではない。
それは、人生の目的がそれぞれに異なっているからである。
皆と同じように生きることでは、人生の目的を果たすのは難しいだろう。
それは、自分は右に進まなければならないのに、皆と一緒に左に進むようなものだからだ。
宗教を含めた同調圧力を有する集団の中にいれば、自分の人生を歩もうとしても、否定されるのである。
寧(むし)ろ、自分の人生を歩もうなどと思うこともないかも知れない。
依存することや脱退することが出来ないことによって集団に属すれば、自分の人生を失ってしまうのである。

2018年11月7日水曜日

追憶 2222

それは、無知と未熟と弱さによってである。
無知とは、偏見のことである。
未熟とは、誤解のことだ。
そして、弱さとは、恐怖のことなのである。
多くの人は、偏見と誤解と恐怖を抱えて生きている。
それは、悪いことではない。
それは、仕方の無いことなのである。
多くの人は、年齢を重ねる程に幼心を忘れてしまった。
好奇心に従って世界を冒険することよりも、安全な部屋の中で書籍を読み漁ることを選んだのである。
多くの人が、流れに沿って生きている。
揉め事を嫌い、民主主義的であるだろう。

2018年11月6日火曜日

追憶 2221

そのことが、多くの人には理解することが出来ない。
多くの人は、権威(けんい)に対して主導権を明け渡す。
自分で考えることをせず、誰かや何かに従うのである。
それは、”それ”が一般的に良いとされているからだ。
一般的に良いとされていることに従うことによっては、他者と同じという何の根拠も無い安心感を得ることが出来る。
誰が言い出したかも、やり出したかも分からない方法によって、自らの愚かさを慰(なぐさ)めているのである。
葬儀(そうぎ)で、立派な衣装に身を包み、上等な道具を用い、大衆には理解することの出来ないお経を”合唱”し、煩(うるさ)く太鼓やシンバルを鳴らす・・・
そして、多額の金銭を要求する。
それを行っているのは、邪心(じゃしん)に塗(まみ)れた歪んだ人間である。
ただ、死者を弔(とむら)うだけのことが、このように複雑に歪んだ状態になったのはなぜだろう?

2018年11月5日月曜日

追憶 2220

気持ちがあれば、決められた方法など必要ないのである。
決められた方法を用いても、気持ちが無ければ価値はないだろう。
霊とは、心である。
霊に届くのは方法ではない。
霊には、気持ちが届くのである。
特別な方法で供養しても、そこに気持ちが伴(ともな)わなければ供養にはならない。
特別な方法で供養することが出来たというのであれば、そこに気持ちがこもっていたことによる効果だと理解しなければならないだろう。
霊を供養するのに必要なのは気持ちだけであり、特別な方法を用いる必要はないということなのである。

2018年11月4日日曜日

追憶 2219

今日の宗教というものは、正義感の塊(かたまり)である。
一神教において、正義感は顕著(けんちょ)であるが、多神教においても、隠されてはいるが同じことなのだ。
例えば、死者を弔(とむら)う方法などは、個人の好きにすれば良いはずだが、今日の宗教はそれを許さないだろう。
決められた方法を消化しなければならないのである。
それが、どのように滑稽(こっけい)で無意味なことであってもだ。
実際、今日の宗教が行なっているすべてが、無意味だとは言わないが滑稽である。
なぜなら、死者を弔うために必要なのは、死者を弔う気持ちだけだからである。



2018年11月3日土曜日

追憶 2218

人は、この世界を構成する一つの部品である。
人は、それぞれがこの世界を構成し、可動させるための大切な部品なのだ。
部品は、それぞれに連動する構造をしている。
自らの働きが、他者の働きへと伝達する。
そのため、動きの悪い部品によっては、全体を機能させることは出来ないのだ。
この世界は本来、もっと豊かであり、平和であるはずだ。
しかしながら、多くの人は、詰まらないことで争っている。
残念ながら、詰まらない正義感によって争うのである。

2018年11月2日金曜日

追憶 2217

錆び付いたネジは、主人に対して反抗する。
主人とは、”神”と呼ばれる存在であるかも知れないし、人生というものであるかも知れない。
社会であるかも知れないし、家族であるかも知れないし、他者であるかも知れないし、自分自身であるかも知れないのである。
自分自身というのは、生まれた後に虚像として作られた自我のことではなく、生まれる前から実像として所有している真我(しんが)のことである。
残念ながら、多くの人は、自らの本分を忘れ、主人に反抗している。
利己的に生きることは、人の生きるべき道ではないのである。



2018年11月1日木曜日

追憶 2216

わたし達人間が、ネジを道具として扱うように、例えば、”神”と呼ばれる存在は人間を道具として扱うだろう。
わたしには、そう思えるのである。
人間は、”神”の道具だと思えて仕方がない。
エンジンが、燃料を使い果たすか、故障して動かなるまで働き続けているように、人間も命を使い果たすまで生き続けている。
”神”の目的は分からないが、道具は、道具として貢献する必要があることは理解することが出来るのである。
自分が”ネジ”であるにもかかわらず、それを理解することが出来ない者は、本分(ほんぶん)を見失って錆び付いてしまう。
それでは、空しいのである。