このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年7月31日日曜日

追憶 1420

週を増す毎に、わたしたちは小さなひび割れを認識した。
それを、上から修繕(しゅうぜん)するのが習慣と成りつつあった。
Nは学校生活とバイト生活の疲れを抱え、わたしは仕事と運転の疲れを抱えていた。
そして、互いに霊的な存在からのアプローチに対する疲れを抱えていたのである。
わたしたちは、次第に会うことに疲れ始めていた。

ある日、Nがウサギを飼いたいと言った。
それは以前、大久野島というウサギが野放しになっている島に遊びに行ったこともあり、癒しを求めていたのかも知れない。
そこで、ペットショップやホームセンターを回り、気に入ったウサギを購入した。
Nはそのウサギをポテトと名付けた。

2016年7月30日土曜日

追憶 1419

わたしの性格上、始めたことは飽きるまで続けてしまう。
ゴミ拾いも毎日続けているし、光の天秤も毎日書き続けている。(どちらも10年を超えた)
わたしは一度始めたことは、自分なりに納得が得られるまではとことん続ける性分なのである。
わたしは毎週Nに会いに行ったが、その行為が自分自身とNを少しずつ疲弊(ひへい)させていくことになるとは、この時のわたしには気が付かないことであった。
それよりも、喜びの方が大きいと感じていたからであろう。
帰り道の高速道路を半分眠りながら運転していたこともあった。
わたしたちは、次第に疲れていった。
微妙に二人の歯車がずれていることに、わたしたちは気付き始めていたのかも知れない。
それでも、関係を良くしていこうと互いに努めていたに違いない。

2016年7月29日金曜日

追憶 1418

わたしは土曜日の夜の、光の仕事を終えた後にNに会いに行った。
それは、夜中に出発することもあったが、わたしは毎回楽しく思っていた。
Nも快く迎えてくれた。
土曜日の夜に二人で寝て、日曜日の夕食までの時間を共に過ごす。
わたしはその短い時間に、些細な幸せを感じていた。
しかしながら、やはり眠れなかった。
毎回、様々な霊的な存在が訪ねて来ては、わたしとNにしがみ付いてくる。
わたしはそれを楽しいとは感じていたが、Nとの時間や体力が削かれるのを危惧(きぐ)しているところもあった。
それは、Nとの時間を邪魔されたくないという自分勝手な考えが育っていたことと、車の運転をしなければならなかったからである。

2016年7月28日木曜日

追憶 1417

Nにはもう一つの課題があった。
それは、霊的な存在との関係である。
Nが一人暮らしを始めた土地とアパートに初めて出向いた時、わたしは居心地の悪さを感じた。
その土地にもアパートにも、黒い靄(もや)がかかっているように感じて、どうにも落ち着くことができないのである。
全体的に世知辛いような印象であった。
その日、わたしはNのアパートに宿泊させてもらったが、ほとんど眠れなかった。
Nの目の下に大きな隈(くま)ができているのも納得することができた。
わたしはこの土地での一人暮らしが、Nの精神を少しずつ削り取っていくだろうと感じた。
しかし、わたしはそれで良いと思えた。
それは、Nが成長するためには必要な過程であるということを感じていたからである。

2016年7月27日水曜日

追憶 1416

Nの一人暮らしが始まり、わたしたちは離れ離れとなった。
初めての土地、初めての一人暮らし、初めての学校生活、初めてのバイト、初めての人間関係…
Nにとっては何もかもが新鮮であり、喜びを感じる一方で不安を感じていただろう。
わたしはNと離れて、一緒に過ごしていた時間を人生や自分を探求するための時間として使い、週末に会いに行くことにした。
わたしはNが一人暮らしを心細く思っているのではないかと思っていたし、わたしが会いたいという気持ちもあり、毎週末会いに出向いた。
それが何かの支えになるのではないかと思ったからである。

2016年7月26日火曜日

追憶 1415

大天使ミカエルは、わたしがNと交際する時に”一生Nを守りなさい”と言った。
わたしは自分なりに一生懸命その言葉を守っていた。
初めは約束を守ることに一生懸命であったが、すぐに自発的にそう思うようになった。
至らないところは多々あるにしても、わたしはいつも一生懸命である。
そのため、Nとの距離が離れても、わたしはやっていけると思った。
たった100kmの距離である。
(確か)3度の遠距離の交際を経験したわたしには、100kmくらいの物理的な距離など何の問題でもないと思えたのだ。
離れることによって、成長することができる良い機会だとも思えた。
Nも一人暮らしを始めて様々な問題と向き合い、苦しみながら成長するだろう。
わたしは様々な期待に胸を踊らせていたのである。

2016年7月25日月曜日

追憶 1414

わたしは今までに何度か遠距離の交際をしたことがある。
始めから遠距離の交際ではなく、交際後に離れるという具合である。
愛媛と東京もあったが、最も遠いのは東京とカナダであった。
わたしの場合、遠距離の交際は長続きしなかった。
近くにいても同じではあろうが、少しずつ心が離れていくのである。
男女にとっては、共有する時間が重要なのかも知れない。
ただ、本質的な理由としは、互いの学びが終わったからだと思っている。
わたしは交際相手と離れなければならないのであろう。
Nと離れることに、わたしは”繰り返し”がやって来たのだと思った。
Nと交際を始めた時、わたしは思春期の恋愛感情を改修するための学びだと思ったが、今回も、遠距離の恋愛感情を改修するための学びだと直感したのである。

2016年7月24日日曜日

追憶 1413

わたしは時が迫っていることを知っていた。
しかし、それを受け入れられずに愚かに足掻(あが)いていた。
受け入れなければならないことは分かっていたのだ。
しかしながら、わたしの過去がそれを拒んでいる。
わたしはどうして良いのか分からずに、下流へと流されていく落ち葉のように、流れに翻弄(ほんろう)されるだけであった。
話はここから半年前に遡(さかのぼ)る。

わたしたちの交際は5年を過ぎていた。
Nは高校を卒業し、春から専門学校で学ぶために松山市で一人暮らしを始めていた。
わたしたちは2kmの距離を100kmとしたのである。

2016年7月23日土曜日

追憶 1412

以前のわたしは、人生に対して文句ばかりを吐いていた。
物事の因果関係を理解することができず、思い通りにいかないもどかしさに怒りを露(あら)わにしていた。
これはとても恥ずかしいことであり、自らの未熟さを剥き出しにしていたことに今では反省している。
人生には必要な学びが存在し、それを修了しなければ先へ進むことはできない。
先へ進んだと思っても、それは形を変えた繰り返しの中なのである。
試験に合格しなければ、追試を受ける。
この世(物質世界)に起こることは、あの世(意識世界)にも起こるのである。
わたしたちは一つの学びをクリアするまで、何度も何度も向き合わなければならないのである。
わたしがNと出会い、交際を始めた理由の一つとしては、自分自身の試験であったに違いない。
この学びは、わたしの中の異性に対する価値観を向上させるための経験であるように感じるのである。

2016年7月22日金曜日

追憶 1411

人生というものは、常にわたしたちの成長のために存在している。
20歳までのわたしには理解することができなかったことではあるが、20代も半ばを過ぎれば考え方は大きく変わっているものである。
わたしは霊と出会い、狐や龍などの自然の神と出会い、天使と出会い、光の仕事に出会った。
そして、多くの人に出会ったのである。
その経験が、わたしに人生というものの形を変えさせた。
今のわたしは、人生に起こることは意味のあることだと思っている。
わたしには理解することができないことではあるが、後に理解することができるものだとも思うのである。
人生には無駄は存在しない。
すべてが必然であり、最善なのである。

2016年7月21日木曜日

追憶 1410

Rは不貞腐れて景色を眺めた。
その姿がとても愛らしかったので笑うと、Rが不思議そうな顔を返した。

「お前にも、いつか分かるよ」

Rは腑に落ちない顔で考えていたが、子ども独特の切り替えの早さによって思考が断たれた。
わたしはRに調子を合わせながら、空中散歩を終えた。

一泊二日の小旅行ではあったが、Rと過ごした時間では最長となった。
わたしにはとても刺激的な体験であったし、Rも何か良い経験ができたのではないかと思える。
これから、わたしとRがどのような関わり合いの中で生きていくかは分からないが、機会がある度に成長のために協力することができれば良いと思っている。
Rの成長が楽しみである。
もちろん、自分自身の成長が最も楽しみである。

2016年7月20日水曜日

追憶 1409

そのためには、今は我慢することも学ばなければならないだろう。
勇気を出して諦めることをしなければ、新たな選択肢は得られないのである。
習慣には可能性を生み出す力が無い。
習慣を新たな形へと移行することによって、可能性が生み出されるということを理解したい。
今のRには、わたしの考えは理解することができないだろう。
そのため、わたしが意地悪な人物として映るかもしれない。
しかしながら、他人に何かを理解してもらうためには、誤解や嫌われることを恐れてはならないのである。
わたしはRに嫌われても良いと思っている。
それは、Rのことを考えているからだ。
中には、他人に嫌われまいと行動する人がいる。
このような人は、他人を思いやっているように見える。
しかしながら、その本意には、他人に嫌われまいとする浅はかさがあるのだ。
他人を気遣っているようでも、自分を守っているのである。

2016年7月19日火曜日

追憶 1408

人体に有害なものは”極力”摂取しない方が良いに決まっている。
しかしながら、現実にはそうもいかない。
農薬や除草剤、化学薬品や食品添加物などは、インスタントな方法であるからだ。
現代社会は、これ等を土台として形成された。
現代人にとって、これ等の”不自然”は、切り離せない要素となっているだろう。
それ程、便利なのである。
個人的には、現代社会は非常に歪んでいると思う。
気に入らないことは山のようにある。
しかしながら、それを必要としている人の方が多いのも事実である。
現代社会はわたしの所有物ではない。
現代社会は、それを生きるすべての人の所有物なのである。
だから、個人的な感情で文句を付けようとは思わない。
歪んでいるとは思うが、それはそれで良いのである。
しかしながら、その歪み、その不自然さに気が付いたのであれば、個々人ができる範囲の改善を試みる必要はあるだろう。
わたしがRに対して働き掛けている小さな活動は、これからのRの生き方や人生に対する選択肢を増やすためなのである。

2016年7月18日月曜日

追憶 1407

そこには、微生物の働きがある。
微生物は有機物を食べて生きている。
その当たり前のことが重要なのだ。
人間の体内には、多くの微生物が住んでいる。
わたしたち人間は、様々な微生物と共生していると言えるだろう。
特に腸内環境は、土壌環境と同じような世界なのではないかと思える。
土壌微生物は、落ち葉や枯れ枝、動物や昆虫の排泄物や死体などを分解し、自然環境へ還元している。
腸内微生物も同じことをして、肉体に”元気”を還元しているのであろう。
そこに除草剤などの毒物や、化学肥料などの微生物の餌と成り得ないものが投じられ続ければ、微生物が減っていくのは道理である。
土壌微生物の減少が植物を弱らせるように、体内微生物の減少も肉体を弱らせるであろう。
そこで、除草剤や化学肥料、食品添加物や化学薬品の大量摂取は、人体の健康に大きく関係していると考えられるのだ。

2016年7月17日日曜日

追憶 1406

健康面でも同じことが言えるのではないだろうか?
農薬、肥料、除草剤などを施した田畑の野菜は大きくて美しい。
しかしながら、その野菜が持つ生命力はどうであろうか?
現代医学の使用する化学薬品。
サプリメントや様々な食品添加物。
これ等を主体にして健康な身体を築けるだろうか?
土壌には多くの微生物や菌類、昆虫などの様々な生物が生息している。
山や草むらの土壌には数多くの生物が営みを繰り広げているのである。
様々な生物の排泄物や死体が、植物を育てるのに必要な栄養を、植物が吸収し易い形で与えているのだろう。
そのため、山には10mを越すような樹木も育つのである。
草むらには農薬も肥料も施していない。
しかしながら、草は物凄い勢いで密集している。
畑に生える野草よりも、草むらに生える野草の方が元気であるように思えるのは、わたしだけだろうか?

2016年7月16日土曜日

追憶 1405

大量消費の時代には、大量生産でも良かった。
しかしながら、時代は変わる。
大量生産は大量の在庫を抱える結果となる。
大量の在庫を抱えるのは、価格の下落を招くだろう。
低価格を推し進めれば収入が減り、経営としては成り立たなくなる。
そして、農業だけでは暮らせなくなり、他の仕事と兼業することになる。
漁業も同じである。
そこで、価格の下落を防ぐために、破棄という方法が用いられる。
それは資源と労力の無駄であり、仕事の矛盾である。
多額の資金を投じて、安いものを造る。
このようなやり方が通用するのは、好景気という環境だけである。
今日の日本には全てが揃っている。
足りないものなどないだろう。
本質的な生き方や仕事が求められているのだと感じるのである。

2016年7月15日金曜日

追憶 1404

わたしがRに教えたいのは、お金では買えない価値である。
Rの父親が教えているのは、お金で買える価値であろう。
この二つの性質がRに本質的な価値を見出させるのだと思っている。
ただ、お金で買えない価値に気が付くのは少しばかり難しい。
それは、自然農法のようにゆっくりと価値を生み出すものだからだ。
西洋式の現代農法は、重機や化学肥料や除草剤などを用いて短期間で価値を求める農法である。
その農法は確かに短期間で大きな野菜を収穫することができる。
しかしながら、そこには様々な弊害(へいがい)が隠されている。
例えば、金銭面である。
重機、化学肥料、除草剤、ビニールハウス、灯油…
初期投資、経費は膨大に膨らむ。
初期投資、経費を回収するだけで長い年月を必要としている。
そのため、大量生産という方法しか選択肢がなくなる。


2016年7月14日木曜日

追憶 1403

今のわたしの生き方は、自分自身では面白いものだと思える。
そして、20歳までの生き方は詰まらないものであったと思える。
詰まらないと思って自殺まで考えたのだから、詰まらない人生に違いはない。
もちろん、現状に満足などしてはいない。
常に自分自身を未熟であると思い、成長する必要があると思い続けている。
その気持ちのおかげで、わたしは詰まらないと思える人生から脱け出すことができたように思っている。
振り返ると、詰まらない人生には多くのものが溢れていた。
それは、お金で買えるものばかりであった。
それは、わたしがお金を求めた結果として得られたものである。
お金を求めたために、お金によって得られる価値に辿り着いたのである。
わたしと同じように、Rもいつかは人生の意味に気が付くかも知れない。
しかし、わたしの”親心”は、教育によって少しばかり急いでいるのかも知れない。

2016年7月13日水曜日

追憶 1402

多くの人は道具のために働いている。
わたしは人に”何のために働いているのか?”という質問を頻繁(ひんぱん)に投げ掛ける。
(光の仕事を始めて10年以上経つので、何百人に対してこの質問をしている)
大凡(おおよそ)8割近くの人がお金のために働くと答える。
残りの2割近くの人は、やりがいや夢、楽しいからなどと答える。
しかしながら、深く掘り下げると、やはりお金のために働いていることに気が付く。
本質的に仕事をしている人は、(わたしが出会った人々の中では)全体の1割に満たないように思える。
お金が無ければ云々(うんぬん)…
お金があったら云々…
聞き飽きるほど聞いた言葉である。
詰まらない発想が詰まらない人を作り、詰まらない人が詰まらない人生を作っていると思える。
どのような仕事も人物も、詰まらないものなどない。
しかしながら、本質を見失えば、詰まらない仕事や人物が世の中に増えるのではないだろうか?

2016年7月12日火曜日

追憶 1401

厳密には、目には映らないものの割合の方が多いのではないだろうか?
きっと、目に映るものの割合は少ないだろう。
そのため、人生においてお金で買えるものは少ないのである。
世の中では、ほとんどのものをお金で買うことができるという発想があるだろう。
そのために、多くの人がお金を求めるのである。
しかしながら、お金で買うことができるものの中に本質的なものは存在しない。
本質はお金で買えないのである。
例えば、今のわたしがお金のために働くことはない。
10代の頃はお金のために働いたが、二年も働けばそれがおかしいことに気が付く。
わたしがお金を目的として働くことは二度とないであろう。
しかし、お金にならないことであろうとも、それが本質的なものだと思えば懸命に働く。
その仕事が1円にもならず、手出しを必要だとしても働くのである。
誰がどれだけのお金を用意しても、わたしを働かせることはできない。
ただし、勘違いしてはならないのは、わたしはお金を悪いものと考えている訳ではないということである。
お金とは、便利な道具である。
言い換えれば、道具のために働きはしないということなのである。

2016年7月11日月曜日

追憶 1400

今のRにとっての最善は、お金を使わずに楽しみを見付け、学ぶことだと思える。
そのためのわたしと共に過ごす時間なのではないかと思うのである。
ついにRは根負けした。
わたしの一貫した態度に自分の意思が通らないことを悟ったのであろう。
それ以降、Rがわたしに金銭をせがむことはなくなった。
(ただし、それも一時のことである)
Rが再びお金によって安易に楽しみを見出そうとする時には、わたしはそれを優しいながらも力強く否定しなければならないだろう。

話が壮大なものとなるが、わたしはRに人生の意味を考えられる人になって欲しいと思っている。
人が人生の意味を考える時には、唯物論に頼ってはいけない。
なぜなら、それは”半分”に過ぎないからである。
唯物論は目に映るレベルの視野である。
それは決して本質ではない。
人生のもう”半分”は、目には映らないもので構成されているからである。
唯心論的な視野を得なければ、人生の意味を考えることにはならないだろう。

2016年7月10日日曜日

追憶 1399

少数派であるからといって、上下関係や良し悪しに関係することではない。
わたしは他人よりも優れているし、劣っているのである。
誰もが歪み、欠けている。
だから何が正しいのか?なんて分かり様もない。
わたしがRの要請(ようせい)を否定するのは、欠けている学びであるからに過ぎないだろう。
両親が与えられないものを与えることによって、学びの幅を広げようとしているのだと思える。
わたしも、100円を支払うことでRに様々な経験をさせてやりたいと思う。
今でなければ学べないのも事実である。
しかしながら、両方は選べない。
人生とは、無限に思える選択肢の中から、最善だと思える一つの選択肢を選ぶ行為なのではないかと思うのである。

2016年7月9日土曜日

追憶 1398

現代社会も自然の形であるには違いない。
わたしが個人的に違和感を覚えているに過ぎない。
違和感を覚えない人の方が多いのかもしれない。
わたしはこの世界には無駄が無いことを知っている。
現代社会は、その学びを必要とする多くの魂が築いた形なのではないかと思うのである。
現在の地球には、現在の社会構造に相応しい段階の魂たちが多いのではないだろうか?
現代社会は、経済を中心として形成されている。
経済は需要に基づいて繁栄する。
現代社会は、今日の社会構造を必要とする魂たちの需要によって築かれているのだろう。
わたしは現在の社会構造に違和感を覚え、馴染むことができない。
それは、わたしが少数派であるからだと思える。


2016年7月8日金曜日

追憶 1397

現代人は多くを求め過ぎているように思う。
人間が浅はかになったのだ。
自然界には刺激が溢れているのに、それに気が付くことはできない。
葉っぱの形にしても、木漏れ日にしても、草を揺らす風にしても、地面を打つ雨にしても、乾いた土の匂いにしても、眩しい雪にしても…
どれをとっても刺激的で楽しいものである。
わたしはそれ等に感動さえ覚える時がある。
しかしながら、現代人にはこの楽しみを理解することができない。
ゲームやテレビなどから受ける強烈な刺激にしか気が付くことができないのである。
現代人は騒がしく生きている。
それが躁鬱病(そううつびょう)などの現代病の一因となっているだろう。
わたしには、現代人の生き方が不自然に思える。
何もかもが不自然に見えるのである。

2016年7月7日木曜日

追憶 1396

今のRには、退屈な時間をお金で買おうとする手段しかない。
それは、そう教えられているからだ。
個人的には詰まらない子どもだと思える。
子どもには、想像力豊かに遊んで欲しい。
与えられた楽しみなど、本当の楽しみではないのだ。
踊らされている大人を見ると悲しくなる。
本当は楽しくないのに、周囲に合わせて楽しい振りをしている。
本当に楽しいことは、自分の中にあるのではないだろうか?
それは、他人から与えられるものではないと思うのだ。
多くの子どもは絵を描くことを楽しんでいる。
それは、自分の内から湧き出る想像力であり、創造意欲である。
自らの内から湧き出るエネルギーを消費することに喜びがあるように思えるのだ。
幼い頃のわたしがそうであったように、Rはエネルギーを持て余し、時々爆発させる。
これは、多くの子どもが同じ状態を抱えているだろう。
それは、与えられる楽しみによって創造意欲が低下し、内から湧き出るエネルギーを持て余しているからだと推測する。
溜め込んだエネルギーは、鉄砲水のように一気に全てを押し流してしまう。
それは、破壊的な力の使い方なのである。
緩やかに流れていれば、豊かな森が育まれるのである。

2016年7月6日水曜日

追憶 1395

しかしながら、その言葉の意味は違っている。
今のRは、お腹の中の約束を忘れている。
四歳くらいの時にお腹の中の約束を覚えているか聞いたことがあったが、既に忘れていたのである。
今回の言葉は、潜在している感情が薄まった形で表に現れたに過ぎないのだ。
そのため、Rの言葉は受け入れられない。
学びたいのであれば、景色や会話の中から学べば良い。
できることをしないで、他を求めるのは筋違いなのである。
嫌なことを避けて、目的地に辿り着くことができれば誰も苦労しない。
好きなことだけやっていれば良いのである。
しかしながら、現実はそのようなものではない。
退屈な時間を如何に楽しくできるのか?ということである。

2016年7月5日火曜日

追憶 1394

それが子どもであれば尚更である。
わたしにはRが”機械”で遊びたがることが受け入れられない。
100円で買える陳腐(ちんぷ)なBGMよりも、無料で手に入る最新の雄大な景色の方が何倍も価値があるように思えるのである。
決め付けになってしまうが、Rは音声案内など聞きはしないだろう。
わたしには、いつものお金を払ってゲームをする習慣が現れただけだと思うのである。

わたしはRの主張を退けた。
すると、望遠鏡の時と同じように自分を正当化し始めた。

「学びたいのに」

Rの言葉に昔を思い出した。
それは、Rがお腹の中にいる時の言葉と同じであったからだ。

2016年7月4日月曜日

追憶 1393

変人とは、理解されない人のことである。
お金を払って手に入れる楽しみは、多くの人が理解することができるものである。
そのため、多くの人は楽しみをお金で買っている。
多くの人はお金がなければ楽しめないと言う。
ゲームでも遊園地でもショッピングでも何でも良いが、お金を掛けることが楽しみに繋がるとは限らない。
東京から愛媛に生活を移した時、ここには楽しみが少ないと思ったが、それは愚かな勘違いであった。
現にわたしは東京での生活よりも、愛媛での生活の方が楽しいと感じている。
今から東京などの都市で生活しろと言われても、わたしは断るだろう。
都市の生活には何の魅力も感じない。
それは、矛盾を感じるからだろう。
都市での生活は、わたしにとっては不自然さを感じるのである。
自然の中で遊び、自然の中で生活することには不自然さを感じない。
文明を否定しているのではない。
文明は便利で有り難いものではあるけれど、楽しいものではないと感じるのである。

2016年7月3日日曜日

追憶 1392

Rを見ていると、楽しめていないような気がしてならない。
わたしが幼い頃には、車で出掛けるだけで楽しかった。
見たことのない景色に出会うことが楽しくて仕方がなかった。
それは、成人した今日でも変わらない。
わたしは幼い頃から、様々なことに興味を抱き、様々なことを知りたいと願う子どもであった。
自分と他人を比較しても意味が無いが、Rにはもっといろいろなことに興味を持ってもらいたい。
様々なことから学ばなければ、無知が進行する。
それは、詰まらない人間を作るのである。
わたしはRを”普通”の人間にはしたくないし、”普通”の人生を歩んで欲しくはないのである。
”変な”人になって欲しいと思うし、”変な”人生を歩んで欲しいとも思う。
そのためには、様々なことから学ばなければならないのである。
わたしの考える”変”とは、変人のことであり、常識に捕らわれない人や、常識を覆す人のことである。
わたしにとっての”変な人”とは、最高の褒め言葉なのである。

2016年7月2日土曜日

追憶 1391

幼い頃に始めていれば、それだけで何年もの経験の差が生まれる。
長い時間をかければ良いという訳ではないが、同じ能力ならば長い時間をかける方が結果は良いのである。
わたしが幼い頃には、自然の中で遊んだものである。
山に海に田畑にと、泥まみれになって駆け回り、帰りが遅くなってよく叱られたものだ。
テレビゲームやゲームセンターも全盛期だったのではないだろうか?
保育園の頃にファミコンやゲームボーイ、小学生になった時にスーパーファミコンで遊んだ。
それでも、ゲームで遊ぶよりは自然の中で遊ぶ方が多かった。
そのため、今のRに比べると、いろいろなものに興味を抱き、お金をかけずに遊べたように思える。
何が良いかは分からないが、どのような状況も楽しめることが良いのではないかと思う。

2016年7月1日金曜日

追憶 1390

お金で楽しむこともできるかもしれない。
しかし、お金のシステムが無い場所や、お金を所有していないのであれば、それだけで退屈な人生になってしまうのである。
その程度のことで退屈な人生となるのであれば、人間が退屈なのである。
退屈な人間には益がない。
退屈な人間は誰からも必要とはされないだろう。
人間において大切なことは、無から有を作り出す力なのではないかと思う。
機械に頼って楽しみを得るのであれば、受け手に回るのだ。
与えられる楽しみを楽しんでいる人間は、自ら楽しみを生み出すことはできない。
テレビばかり観ている人が退屈な人生を生きることに同じなのである。
受動的な人間ではならない。
能動的であり、創造的な人間でなければ人生を楽しむことは難しいだろう。