このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年2月29日月曜日

追憶 1267

それは、わたしが死ぬはずがないということの証明だったからである。
もしも、わたしが死を得るのであれば、光の仕事は他の誰かの元へ依頼されたであろう。
光の仕事に関しては、人の意思によって成されるのではない。
それは、人がしているように見えて、霊的な存在によって成されるのである。
わたしが死を得るのであれば、そもそも依頼する必要がないのだ。
わたしが死を得ることがないために、この完璧なタイミングで連絡が来るのであろう。
わたしにはそれが可笑しくて仕方なかったのである。

2016年2月28日日曜日

追憶 1266

救急車で運ばれたのが正午を過ぎていたので、わたしは空腹を覚えた。
そこに支払いを済ませた母親が合流し、続いて父親も顔を出した。
そこで、わたしたちは病院内にあるレストランで食事を摂ることにした。
食券を購入し、席に着いた途端にわたしの携帯電話が鳴った。
そこには知らない番号が表示されている。
席を外して応答すると、それはわたしに光の仕事を告げるものであった。
わたしは予約を確認してから折り返す趣旨(しゅし)を伝えてから話を終えた。
そこでわたしは声を出して笑った。

2016年2月27日土曜日

追憶 1265

わたしは楽観的な性格である。
20歳までは常識に潰されて忘れていたが、わたしの本質は豪胆(ごうたん)である。
霊的な世界に触れたことによって、わたしは”わたし”を思い出した。
そのため、何も気に病むことはないのだ。
わたしにとって最も大切なことは、”神”への信仰である。
それ以上に大切なものはない。
病気であろうが何だろうが、それが目の前にあるのならば、大切なものには違いないだろう。

結局、わたしは熱中症であったのだと思う。
点滴によって回復したのがその根拠である。

2016年2月26日金曜日

追憶 1264

わたしはその答えに笑ってしまった。
若い医者は困ったような顔をしていた。
わたしがもう一度尋ねても、返ってくる言葉に違いはなかった。
若い医者の言葉に同じように笑い声で返事をし、「ありがとう」と告げてから立ち上がった。
その時、若い医者の小さなプライドが、薄い胸の奥で揺れた。
わたしはそれを知っていたが、そのままにした。
世界が歪むことはなかった。
立ちくらみもしない。
わたしは”普通”に戻っていた。
後のことは母親に任せることにした。
Aさんに別れを告げ、わたしは救急治療室を後にした。

2016年2月25日木曜日

追憶 1263

そのような存在が最善を知るだろうか?
残念ながら、そのようなことはないだろう。
人は目の前に導かれる状況を受け入れなければならないのだ。
受け入れてもその意味を理解することができるとは限らないが、受け入れることがなければ、理解する可能性すら断たれてしまうのである。

検査結果を待つ間、わたしは体調の回復を感じていた。
その頃にはAさんとも普段通りに会話をすることができていた。
しばらくして、検査結果を知らされた。
若い医者の口から出た言葉は「分からない」であった。

2016年2月24日水曜日

追憶 1262

多くの人はこのようには考えない。
どうしても”状態”に執着してしまう。
そのため、変化を得ることができずに順応性がない。
それは、可能性の途絶えを意味していた。
”神”の要求は次々に変化する。
”神”は最善を導くために、この要求に応えられない者が可能性を失って苦しむのは自然のことである。
人が最善を知るだろうか?
それは、目の前の”小さなこと”に苦悩する程度の存在である。
人生が何であるのかも、自分が誰であるのかも知らないのである。

2016年2月23日火曜日

追憶 1261

それは、遠足が中止になったことに悲しむ子どもと同じような心境である。
わたしの心は死に対して向けられていた。
それを楽しみにしていたのである。
楽しみを奪われることは、人間にとっては悲しいことなのだ。
しかし、わたしはすぐに心を切り替えた。
死ぬことがなければ、生きれば良いのである。
ただ、それだけのことだ。
わたしは与えられた時間や状況を大切にしたいと考え、できる限りそうでありたいと思っている。
”神”が死を導くのであれば、わたしは死ぬのである。
”神”が生を導くのであれば、わたしは生きるのだ。

2016年2月22日月曜日

追憶 1260

黒い男は沈黙しているが、わたしにとっては五月蝿(うるさ)かった。
黒い男の抱える破滅的な意識は、騒音のような周波数でわたしに迫るのである。
わたしは死を待っているのだ。
こんなに五月蝿ければ、安らかな死を得ることができないだろう。
わたしは溜息を吐いた。
そして、心の中で「家に帰ったら相手をするから着いておいで」と伝えた。
そこでわたしは気が付いた。
今日、わたしは死なない。
それは、自らの無意識の発言が未来を示しているからである。
わたしは再び溜息を吐いた。

2016年2月21日日曜日

追憶 1259

診察を受けている時にも、検査結果を待つ間も、わたしには気掛かりがあった。
それは、黒い影のようなものが室内に充満していることと、全身を黒くした男に対してである。
黒い影のようなものは、運ばれてくる患者の連れてくる破滅的な意識であるだろう。
全身を黒くした男は、既に生きている存在ではなかった。
それは、救急治療室には似つかわしくなかったからである。
男は壁に張り付くように立ち、周囲の空間を黒く歪ませていた。

2016年2月20日土曜日

追憶 1258

この時には、わたしは死ぬことを楽しみにしていた。
死の先を考えると、心が踊るようであった。

サイレンが止んだ時には、救急車が病院に到着していた。
わたしは担架に乗せられたままで救急治療室(検査室?)へと運ばれた。
そこには、光の仕事でわたしを訪れてくれているAさんの姿があった。
彼女は松岡真というの名前の連絡を受け、わたしが来たので驚いたようである。
一言だけ言葉を交わし、わたしは必要最低限の言葉を残して沈黙した。
点滴がわたしの腕に穴を開けた。
それから、エコー検査とCT検査を受けた。

2016年2月19日金曜日

追憶 1257

わたしが死を得たら、その時のことをしっかりと心に刻もう。
そして、許されるのであれば、このことに興味があるわたしの友人達を訪れて聞かせよう。
わたしのところに様々な霊が来るのだから、許されるのであれば、わたしが誰かのところへ行くことも可能であるだろう。
そのように考えていた。
その時に、わたしは自分の過去(人生)、肉体、仕事、家族、人間関係、財産…
”松岡真”に関わるすべてのことの一切は、頭に浮かびもしないことに気が付いたのである。
やはり、わたしにとっては余り価値の無いものなのであろう。

2016年2月18日木曜日

追憶 1256

この世の事に関しては、正直なところ余り興味がない。
この世に執着する”松岡真”は二十歳の頃に、絶望と共に死んだのである。
この世での目的は幾つかあるが、それは、死後の目標のためにあるに過ぎない。
そのため、わたしが生(人生)を存続するかどうか?ということなどには興味がなかったのだ。
死んだら死んだ時、生きたら生きた時だと思ったのである。
この時、わたしの興味は死後の世界にあったので、死後にどうするか?ということを考えていた。
そこには、幼い頃に遊園地に遊びに行く前のような高揚感があった。



2016年2月17日水曜日

追憶 1255

それは、わたしには別の考え事があったからである。
わたしは頭の中で”今後”について考えていた。
それは、死後についてである。

「もしも、このまま死ぬようなことがあれば、わたしを迎えに来るのはどの天使だろう?」

わたしは真剣に考えていた。
もう一つは、死後の目標(夢)である天使に成るための働きが人生において十分であったか?ということであった。
死後の目標は三つある。
第一希望は天使であり、第二希望は山の神であり、第三希望は他天体への転生である。

2016年2月16日火曜日

追憶 1254

死に対する思いは常に頭に過(よぎ)っていた。
しかしながら、心の興味はそこにはなかったのである。
着替え終わると、救急車が到着した。
わたしはふらつく足を救急車へ向けた。
隊員に促(うなが)されて救急車へ乗り込み、そのまま横になった。
その頃には、ものを見るのが難しかったので、瞼を閉じたままで隊員に応答することにした。

隊員の声は遠くから聞こえてくるようである。
わたしは応答したが、その言葉は最低限にとどめた。

2016年2月15日月曜日

追憶 1253

わたしは母親に少し待つように告げた。
母親がその理由を尋(たず)ねたので、わたしはシャワーを浴びるためだと答えた。
揺れる身体を自宅まで運び、歪む視界のままでシャワーを浴びた。
その時に、わたしは生殖器が驚くほどに萎縮(いしゅく)していることに気が付いた。
今までに体験したことのない状態であったために、これは肉体にとっての緊急事態なのだという思いが高まった。
しかし、わたしの心は穏やかであった。
わたしが気にしていたのは、汗と飼料の匂(にお)いが他人にとって迷惑になるということだけだったのである。

2016年2月14日日曜日

追憶 1252

そこで、周囲に人が見当たらなかったので、わたしは目と鼻の先にある自宅へ向けて揺れる身体を歩ませた。
視界が歪んで真面(まとも)に見ることができない。
真面に歩いていたかも、自分では分からないのである。
少し行くと両親が畑仕事をしていた。
わたしは歪んだ顔の彼等に自分の状態を伝えた。
わたしが落ち着いているためか、二人とも冷静であった。
母親が救急車を手配するか提案したが、わたしは簡単には返事をしなかった。
それは、命が助かりたいとは思わなかったからである。
しばらくして、わたしは母親の提案に従った。
それは、この場で倒れると皆に迷惑が掛かるという思いがあったからである。
ただ、それだけであった。

2016年2月13日土曜日

追憶 1251

それは、腰を下ろした直後のことであった。
目の前の景色が歪み、回転しているように見えた。
わたしは気分の悪さを感じ、その場を動けなくなってしまった。
瞼(まぶた)を閉じて安静にしていれば、良くなるだろうと踏んで、アスファルトの焼ける音と胸の鼓動に耳を傾けた。
瞼を閉じていても、視界は歪んでいるのが分かる。
脳の血管でも詰まったかも知れないと思い、わたしは死を意識した。

2016年2月12日金曜日

追憶 1250

船を筏(いかだ)に繋ぎ、勢い良く桟橋を駆け上がった。
アスファルトは焼け、透明の炎が揺らめいている。
全身から溢れ出る汗には、清々しい気分さえ感じていた。
それは、労働の対価であり、わたしを喜ばせるものである。
しかしながら、わたしの肉体は重さを感じていた。
暑さで血が燃えているのかも知れない。
肉体の命ずるままに、日陰に腰を下ろした。

2016年2月11日木曜日

追憶 1249

これを読む人の多くが、死を悪だと考えているだろう。
多くの人は死にたくないのである。
生き続けたいではなく、死にたくないのだ。
わたしと言えば、生きていても死んでいても良いと思っている。
これは、偽善でもなければ、強がりでもない。
実際の体験を通じて得た結論なのである。
話が少し逸れるが、実体験の中から例えを話そう。

暑い日であった。
わたしは海の仕事を終え、昼食を摂るために帰路についた。

2016年2月10日水曜日

追憶 1248

当たり前を当たり前に行うのが”普通”の人である。
わたしはこれを批判しているのではない。
”普通”に生きても問題はない。
人生においても、死後においても、どのような結果を得ても良いのである。
これも、肉体の価値観と既存の価値観に影響されているが、多くの人間は自分にとって不利だと(現時点において)”思う”ものを悪だと考えている。
そして、それを否定する。
人生におけるすべての結果は、自然界と霊界において最善であるにもかかわらず、それを知らないのだ。

2016年2月9日火曜日

追憶 1247

これを以てしても、多くの人間は考えを変えないであろう。
あなたは、自分が肉体でないということを受け入れることができるだろうか?
これを読んでいる人であっても、簡単には考えを変えることは出来ないであろう。
それ程、既存の価値観というものは根深いのである。
これは、個人的な推測でしかないが、家の主人は所謂(いわゆる)”普通”の人であったように思う。
”神”や霊についての信仰は薄かったのではないだろうか?
現代仏教などの教え(葬式、墓石、念仏、法事など)は、習慣によって”当然のこととして”行っていたであろう。
それは、初めから目の前にあったからである。

2016年2月8日月曜日

追憶 1246

人間の視点で見れば、死は恐るべきものであろう。
大抵の人間は死を最悪だと考えている。
それは、人間の価値観が肉体に捕らわれることによって、自然界にのみ存在しているからである。
肉体にとって死は生命活動の終わりを意味し、生存本能に従えばそれは最悪である。
多くの人間は自分を肉体であると思い込んでいる。
髪の毛の一本すら自由にすることが出来ないのに…
手足の少しと、表情を変えられるだけで、その他の主要な機能は何一つとして自由にすることは出来ない。
呼吸は自動で行われ、内臓は最善の働きをする。
自然治癒力、自己調整力、免疫力は頼みもしないのに昼夜を問わず働いている。

2016年2月7日日曜日

追憶 1245

しかしながら、人の死と霊界の働きが関係している可能性はあるだろう。
霊界が人の命を刈り取るのかも知れない。
もしくは、人の死に立ち会い、それが上手く進むように手助けしているのかも知れない。
それは死神に任されているのだろう。
黒いチンパンジーは死神なのではないだろうか?
死神とは、好き勝手に人を殺す存在ではないだろう。
肉体と霊体を切り離すことはあるだろう。
しかし、そこには霊界の事情があるのではないだろうか?
死神の仕事は、死後の霊体(魂)を天界(天国?別次元?)に導く役割の可能性もある。
個人的な意見としては、死神と呼ばれる存在は道先案内人であり、好意的な存在だと思える。


2016年2月6日土曜日

追憶 1244

黒いチンパンジーは、確かに「これは”神”の仕事である」と言った。
黒いチンパンジーと家の主人との関わりに確信は得ないが、関わりがあるためにわたしに”見せた”のではないだろうか?
何の関わりもなければ、それを知る必要などないのである。
家の主人がどのような人物であったかは知らない。
わたしは彼と接点がなかった。
時々、見掛ける程度の関係であったのだ。
そのため、彼の思想や生き方がどのようなものであったか分からないために、納得する結論には至らないのである。

2016年2月5日金曜日

追憶 1243

一ヶ月程が過ぎただろうか、わたしは驚くべき話を聞いた。
それは、Sさんの心の中で出会った黒いチンパンジーが踊っていた家の主人の訃報(ふほう)であった。
話によると、自宅の裏山で首を吊っていたそうだ。
恐らくは自殺であろう。
理由は様々だろうが、自発的な原因と強制的な原因があるだろう。
わたしがこのように考えるのは、黒いチンパンジーに会ったからである。



2016年2月4日木曜日

追憶 1242

瞼を開き、Sさんに事の成り行きを伝えた。
彼女はそれを不思議そうに聞いていたが、わたしと同様にその意味は分からなかった。
すべての考えが推測の域を出ることはなく、不毛な思考が浮かんでは消えた。
そのため、わたしたちはこのことを心にとどめ、それ以上を考えるのをやめたのである。
それから、わたしたちは様々なことに付いて話し合い、有意義な時間は瞬く間に過ぎてしまった。
許しが出たので、わたしたちは別れた。

2016年2月3日水曜日

追憶 1241

これによって、大天使ミカエルが言う”すべては一つ”という言葉が、愚かなわたしにとっては確信に近付くのである。
鼓動の高まりが気持ちをはやらせた。
わたしはそれを抑えようと努めた。
その時、わたしは思い掛けず時間の終わりを悟ったのである。
胸の中には満足があった。
それは、気付きを得たからである。
わたしは喜びに満ちていた。
必要を終えたので目の前は暗くなり、やがて瞼(まぶた)の裏側の視点を得た。

2016年2月2日火曜日

追憶 1240

わたしは全身が痺(しび)れたようになった。
黒いチンパンジーの見た目は悪魔そのものである。
そして、そこにあるのは不気味さである。
そこから思いも寄らない”神”という言葉が飛び出し、更には仕事という言葉を聞いたのだ。
わたしが痺れたのは、それが嬉しかったからである。
このショックは、喜びを起源とした。
なぜなら、黒いチンパンジーの言葉によって、悪魔(破滅的な存在)も”神”の子だという可能性が高まったからだ。
わたしにとって、それは何よりも嬉しい情報なのである。

2016年2月1日月曜日

追憶 1239

黒いチンパンジーはわたしに無反応を返した。
わたしなど、まるでそこにいないように踊り続けているのである。
わたしは少し腹を立てて、再び強く言葉を投げた。
すると、ピタリと踊りが止み、静寂が耳に聞こえた。

「これは、神の仕事である。手出しは許さん」

それは、無音の稲光であった。