光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2016年1月31日日曜日
追憶 1238
霊界を”生きている”と、不思議なことには慣れてしまう。
霊界では、わたしには思いも寄らないことが普通なのである。
既にわたしは、黒いチンパンジーに慣れていた。
不気味さはあったが、それが普通となった。
わたしは再び、黒いチンパンジーに対して興味が湧いてきた。
「そこで何をしているんだ?」
わたしの好奇心は言葉となった。
2016年1月30日土曜日
追憶 1237
わたしが捕らわれたのは、この人影を熟視するためであったのだろう。
人影からは不気味さを感じるが、それは決して敵意などではない。
寧(むし)ろ、何か”大きな”ものを感じていた。
しばらく見つめ合っていたので、わたしには人影の姿が手に取るように分かった。
それは、全身を漆黒の直毛で覆われたチンパンジーのような存在であった。
全体的に細身であり、手足が異様に長く、小さな顔には目以外には見当たらない。
しかし、このチンパンジーのような存在は笑っているように思えた。
20年を超えて自然界に生きているわたしにとって、この光景は異様に思えてならない。
それが不気味さを際立たせているのであろう。
2016年1月29日金曜日
追憶 1236
それは、黒い人影に空いた、二つの黒い瞳であった。
大きく見開かれた眼(まなこ)には、瞼(まぶた)は見当たらなかった。
その眼光は鋭く、わたしは簡単に捕らわれてしまった。
蛇に睨まれた蛙とは、このことを言うのだろう。
人影はわたしをその眼差しで縫い止めながらも、独特の踊りのような動きは継続していた。
そこで気が付いた。
この人影は余りにも巨大である。
目測で4mくらいはあるだろう。
しかし、瓦を踏み付ける音も、手足が空を切る音も聞こえなかった。
それがわたしに更なる不気味さを与えるのである。
2016年1月28日木曜日
追憶 1235
寒気によって、これがネガティブな存在であると直感した。
しかし、わたしは嬉しかった。
なぜなら、再びヒントを得たからである。
これは自然界においても言えることだが、霊界においては知らないことが最大の危険なのである。
わたしは屋根の上で踊る人影のことを詳しく知りたいと思った。
これは、好奇心からである。
人影と話したいと願うと足が解け、家の前に立った。
全身が泡立つのと同時に、人影と目が合った。
2016年1月27日水曜日
追憶 1234
少し先には平家の一軒家があった。
その家は、すぐ後ろの山と目の前の小さな川に挟まれた土地に建っている。
決して大きな造りではない。
そのため、わたしはすぐにその違和感に気が付いたのである。
わたしの位置はその家からはまだ離れているが、瓦屋根の大棟(おおむね)に空よりも更に黒い人影のようなものが見えるのである。
それは、屋根の上にも関わらず、器用に踊っているように見えた。
全身を使って飛び跳ねているように見えるが、手足の動きからは何かしらの意思を感じるのである。
わたしは寒気に襲われた。
2016年1月26日火曜日
追憶 1233
わたしは、自分の位置を知るために、瞼(まぶた)を閉じて心に集中した。
すると、少し先に何かを見た気がした。
それは、Sさんから感じた不気味さと同じ感覚をも伝えていた。
わたしは安心した。
霊界において重要なことは、手掛かりがあることである。
それの善悪は問題ではない。
だいたい、善悪とは自然界の立場から生じるものであり、肉体が感じているものなのだ。
霊体のわたしには関係のないことなのである。
それは、ただの破滅的なエネルギーであり、それは善でも悪でもないのだ。
破滅的なエネルギーが悪いというのであれば、肉体は何も食べられないし、死ぬことすら矛盾するのである。
わたしは手掛かりを見付けたことを喜んで、そこへ向かって歩みを進めた。
2016年1月25日月曜日
追憶 1232
そこには見慣れた風景があった。
ここは、Sさんの住んでいる場所である。
わたしはSさんの家の前に立っていた。
辺りは暗いが、見上げても空に星は無かった。
雲が覆っているのではなく、空のある場所には黒い空間があるだけなのである。
周囲に人の気配はなく、草花の命さえも聞こえなかった。
すべてが静まり返り、別の世界にいるようである。
そこで、わたしはSさんの心の中にいることを思い出した。
ここは、霊界なのだろう。
幻覚を見ているのであろうか?
それとも、わたしの霊体が移動したのか?
考えても分からないことだが、一応考えるのである。
それは、自分の”位置”を知るためだ。
自分がどこにいるのかを知らなければ、どこへ向かうべきなのか?何をするべきなのか?も見当がつかないのである。
2016年1月24日日曜日
追憶 1231
瞼(まぶた)が開き、口が解(ほど)けた。
わたしはSさんに対して、Sさんの心の中での体験に対する説明と、天使からの言葉を伝えることを許されたのである。
それを聞くSさんには、何かしら思い当たる節があるようであった。
彼女は何かを噛み締めながら、わたしの口が紡ぐ言葉に相槌(あいづち)を打った。
すべての説明と言葉を渡し終えると、再び瞼が閉じた。
光の仕事の最中には、わたし(の自我)には権利は与えられなかった。
しかし、これはわたし自身が望んだことである。
右手がSさんの背中に触れるのを合図とするかのように、わたしの意識はSさんの心の中へと運ばれた。
2016年1月23日土曜日
追憶 1230
吐き気が去った時、迷いも去った。
わたしは”目”が開け、世界を鮮明に見ることが許された。
これは、Sさんも実感するかもしれない。
霊界の状況は、自然界にも反映されるからである。
Sさんが鈍感であったとしても、気分は軽くなるのではないだろうか?
わたしは、今回のSさんに対する仕事が終わったことを悟った。
しかし、これで今夜の仕事が終わりではないということも悟った。
もう一つ、わたしには大切な仕事が残っているのである。
今夜
、わたしたちはそのために集ったのである。
2016年1月22日金曜日
追憶 1229
吐き気に従ってゲップと叫び声が生じた。
それは、黒い煙のようなものとなり、頭上に溜まる。
次にわたしは、右手が人差し指と中指を使って、空中に十字を描くのを見た。
すると、そこには金色の光が現れ、光の十字架が生じた。
それを黒い煙のようなものに投じると、それは光の粒になって軽くなった。
光の粒は迷うことなく、そのすべてが天の光へと向かって昇り、やがては見えなくなった。
同時に、わたしの吐き気も去った。
2016年1月21日木曜日
追憶 1228
肉体が吐き出しているのは、Sさんの心の中に存在している不完全燃焼の感情が発する、ネガティブなエネルギーである。
不完全燃焼の感情が溜まると、それに比例してネガティブなエネルギーも溜まってしまう。
これは、残飯を放置していると、菌が増殖して臭いを発するのに似ている。
ただし、菌が悪いと言っているのではない。
しかし、腐った食物は腹に毒となるのである。
ネガティブなエネルギーも、心には毒となる。
それによって幸福を得ることはできないであろう。
2016年1月20日水曜日
追憶 1227
不完全燃焼の感情を有する心は、整頓(せいとん)されていない卓上のようなものである。
それは、仕事を遅らせる。
遅らせるだけならまだしも、間違えさせるということもあるだろう。
不安や怒りの感情に捉われている人は、多くのことに遅く、多くのことに間違えるのである。
Sさんの心の中は様々な感情で溢れている。
これでは、有意義な判断を下すことは難しいであろう。
そのために、Sさんはわたしを訪れたのかもしれない。
わたしを訪れるのは、心の整頓のような効果を期待してのことだろう。
気分の悪さを感じ、叫び声とゲップが出た。
この反応はネガティブな感情からのネガティブなエネルギーによる肉体への作用である。
自らの意思に反して行われることであるため、これは生理的な現象であると言えるだろう。
2016年1月19日火曜日
追憶 1226
Sさんの心の中は様々なもので溢れていた。
それは、不完全燃焼の感情である。
人は常に様々な感情を生み出しているが、感謝という情熱の炎がなければ、それを消化することはできない。
どのような感情も、感謝することができなければ継続するのである。
多くの人は、多くの場合、不安や怒りなどのネガティブな感情を不完全燃焼のままに放置している。
不安や怒りなどのネガティブな感情に対して感謝することができる人は少ないのだ。
そのため、いつまでも同じことに対して不安や怒りを覚えるのである。
2016年1月18日月曜日
追憶 1225
心の中に入ると、視点が切り替わるようにして唯物的な自然界から、唯心的な霊界へと移行する。
それは、瞼(まぶた)を閉じた視界に現れる世界だ。
唯物的な感覚の強い人は、これを妄想や幻覚と呼ぶだろう。
わたしは誰がどのように考えようとも問題としない。
それは、わたしの体験はわたしの現実であるからだ。
しかし、しっかりとした審査は必要である。
認識するものが内から出たものなのか、外に在るものなのか?ということを精査しなければならないだろう。
だから、わたしは常に疑っている。
天使だろうが、守護を謳(うた)う霊であろうが、必ず疑うのである。
2016年1月17日日曜日
追憶 1224
Sさんを部屋へ通し、仕事を始めた。
これは、Sさんと会った時からであるが、何処と無く不吉な感覚があった。
嵐の前の妙な静けさとでも言うのだろうか?
どこかに違和感が潜んでいるかのようであった。
考えて分かることではないため、気にしないようにした。
Sさんの背中に中指と人差し指を使って天使文字が描かれた。
それは、三行構成であり、内容は理解することができない。
個人的には、霊的な処方箋(しょほうせん)なのではないかと思っている。
それを直線によって囲い、両手で押すと、背中に溶けるようにして消える。
これによって、わたしはSさんの心の中に向かうことができた。
2016年1月16日土曜日
追憶 1223
光の仕事の内容は毎回違う。
天使などから受け取った言葉(真理)を伝えること、心の歪みと傷を癒すこと、誤解を解いて、新しい価値観を提案すること、”神”のために働く人を作ること、霊的な能力の開発、などの基本的な内容は同じであるが、わたしを訪れた人の心の状態とそれに伴う学びと、それに従う霊などは毎回違っていた。
そのため、それを受ける人がどう思っているかは分からないが、わたしは毎回新たな気付きを得ることができた。
わたしは天使などから受け取った言葉を伝えているが、これはわたし自身から出るものではない。
そのため、わたしは話しながら聞いているのである。
教えながら(教えているつもりはない)教えられているのである。
2016年1月15日金曜日
追憶 1222
その日、わたしを訪れたのはSさんという女性である。
この人は何度かわたしを訪れたことがある。
Sさんとわたしは1kmも離れていない場所に住んでいる。
彼女の長男とわたしの弟が同級生ということもあり、光の仕事を始める前からの顔見知りではあった。
Sさんはスポーツウーマンで豪快なところもあるが、不安を感じることも多くあった。
その因果によってわたしに導かれたのであろう。
そんなSさんも、何度かの光の仕事を通じて、視界に虹色の光の粒が見えるようになるようになった。
個人的にはとても興味深い人物である。
2016年1月14日木曜日
追憶 1221
人が豊かにあるためには、自然界と霊界の二つの”親”の働きが必要である。
一方的な受け入れは、偏(かたよ)りを導く結果となり、豊かさには繋がらないだろう。
父親と母親では意見が違う。
それは、先述したように、目的が違うためである。
この目的の違いと、それ等はどちらも必要であるということを理解しなければ、豊かさには辿り着けず、そこには苦悩が導かれてしまうのである。
今回は、自然界と霊界の目的の違いを受け入れることによって、多くの人が簡単に陥ってしまう苦悩を退けた話をしよう。
2016年1月13日水曜日
追憶 1220
しかしながら、このルールは霊界では通用しない。
精神(魂)にとっては、肉体の存続なとどいう目的は二の次、三の次ということである。
これは、決して肉体を蔑(ないがし)ろにしているという訳では無い。
肉体と精神とでは、目的が違うのである。
目的が違うのであれば、優先順位が違うのは自然なのだ。
これは、夫婦のようなものであろう。
夫婦が子育てをする時には、互いが役割分担をしなければならない。
性別における役割ということには興味は無いが、女役と男役という陰陽の働きが必要なのである。
女役を男がこなしても良いし、男役を女がこなしても良いだろう。
しかしながら、どちからに偏るのであれば、子どもの人格は歪んでしまう可能性は高いのである。
2016年1月12日火曜日
追憶 1219
そのため、わたしは別の世界を探したのである。
それは、別の目標であったり、別の自分であったり、別の考え方や生き方であった。
結果として、わたしはもう一つの世界を手にすることができるようになった。
それが、霊界である。
霊界には自然界とは乖離(かいり)したルールが存在していた。
自然界では、肉体を中心としたルールが主体である。
すべての生命体は生存競争の中に生き、死を最悪だと考える。
自然界においては、生きることこそ価値のあることなのである。
2016年1月11日月曜日
追憶 1218
この世には、あの世との境がある。
わたしはある日を境にこの世とあの世を同時に生きることになった。
それは、自然界の中に霊界を見ることである。
肉体と精神が同時存在するように、唯物的な自然界と唯心的な霊界とは同時に存在している。
どちらの世界も、多次元的であったり、並行的であったりするだろうが、大まかには自然界と霊界という説明で良いだろう。
この二つの世界を生きていると、毎日のように興味深い体験をする。
わたしにはそれが幸福であるように思える。
20歳までは、唯物的な自然界の中だけに認識を置いて生きた。
そこには、わたしにとっての幸福と呼べるものは無かった。
2016年1月10日日曜日
追憶 1217
別れの挨拶の後、Aの姿は磨りガラス越しに夜の闇の中に消えた。
しかし、今のAには千手観音の灯火(ともしび)がある。
(初めからあったが、歪みによって囲われ、弱まっていた)
人生には、その人にとって辛いことや苦しいことはたくさんある。
それは、自分自身の歪みが存在しているためである。
問題とは、それを解消するためのものである。
Aはこれからも多くの問題に出会うだろう。
問題を抱えている時、それは夜道を歩むようなものである。
これまでのAは、その灯りを持たずに歩んでいたようなものだろう。
灯りを持っていれば、虐めという過去も心を歪めることには関わらなかったのである。
これからは、きっと大丈夫であろう。
2016年1月9日土曜日
追憶 1216
今夜
はそのための会合だったのであろう。
人は簡単にぶれてしまう。
わたしたちは綱渡りをしているようなものである。
人の心は簡単に揺らぎ、簡単に道を外れる。
何かしらの不幸を感じている人というのは、綱から落ちている状態であるだろう。
人はそれに気付き、もう一度綱渡りに挑戦しなければならない。
そして、自分自身が綱渡りを始めたら、それを見せることによって他人の綱渡りを促さなければならないのである。
綱は極めて細く、大きく揺れている。
天使や仏の仕事に励むのは簡単なことではない。
克己心を見失っているようであれば、決して渡り切ることはできない道なのである。
2016年1月8日金曜日
追憶 1215
人は、天使と悪魔のどちらかに仕える。
これは、割合の話である。
人は時に天使に仕え、時には悪魔に仕える。
その割合がどちらかに傾いているということである。
簡単に言えば、これは昼間に仕事をするか、夜分に仕事をするかの違いであろう。
どちらの仕事も重要な役割を担っているのである。
ただし、人は努めなければ堕落しているのが普通である。
そのため、努めなければならない。
Aが千手観音に仕え、その力を発揮するためには、克己に励む必要がある。
2016年1月7日木曜日
追憶 1214
わたしたちは”神”の道具であるだろう。
”神”は天使と悪魔を従える。
そして、天使と悪魔は人を従える。
天使と悪魔は陰陽の役割を担っている。
一般的には天使は良いもので、悪魔は悪いものとする考え方が主流であるだろうが、個人的にはどちらも大切な存在だと考えている。
簡単に言えば、天使は昼であり、悪魔は夜といった具合である。
天使が良いものであるとするのならば、ずっと昼が続くようなものであり、夜を知っているわたしには考えただけで恐ろしい。
昼と夜が存在するからこそ、人は幸福を得られるのである。
2016年1月6日水曜日
追憶 1213
それから、わたしたちは様々な話をした。
Aは自身が抱える疑問を消化したいようである。
わたしはそれに許されれば答えた。
時が過ぎ、わたしたちは別れなければならなかった。
玄関に立つAはまるで別人のようである。
笑顔には違和感が無くなり、人格が高まったように思える。
注意深く観察しなければ分からないが、Aの周囲には千手観音の守護があった。
来た時には無かった。
厳密にはあったのであろうが、Aの状態がそれを拒んでいたのだろう。
わたしには感じることができなかったのである。
今の時点では、Aの心(潜在意識)は前向きな状態にある。
人の心が建設的の状態である時、守護者は力をより発揮することができるのであろう。
2016年1月5日火曜日
追憶 1212
これから、Aは自力を育まなければならない。
自力を育むことによって、独自の方法を見付けるのである。
わたしにとって、それは大天使ミカエルを初めとする霊的な存在たちとの協力関係によって、わたしのできる範囲の活動をするということであった。
簡単なことで言えば、感謝して生きることであったり、人生と自分自身を探求することである。
ゴミを拾うこともそうであろう。
少し難しいことであれば、人の心と対峙することであったり、霊と対峙することである。
また、天使達と交流することであったり、彼等の言葉を伝えることである。
2016年1月4日月曜日
追憶 1211
わたしの力の及ばないことは、わたしにはできない。
どのような人も、できる範囲のことしかできないのである。
誰かや何かを頼りにすることで、自力以上の力を得ることはできるが、それがいつまで続くだろうか?
これは極論であるが、誰かや何かの助けというものはドラッグと同じなのである。
その時には爆発的な力を得ることができるが、長続きはしない。
それに、いつも発揮することができるとは限らないのだ。
大切なのは、弱くても自力を用いることであろう。
そして、それを育むことである。
2016年1月3日日曜日
追憶 1210
最終的な目的を知る者は恐らくいないだろう。
何故なら、それは変化し続ける可能性があるからだ。
そのため、人は現時点での人生の目的を知っていれば良いのではないだろうか?
Aは、目の前にいる人を、出来る範囲で手助けすれば良いだろう。
無理をする必要はない。
出来ないことをする必要もないのである。
現状において力の及ぶ範囲を補(おぎな)うように努めれば良いのである。
大天使ミカエルや千手観音などの意識的な存在が求めているのは、自力の範囲での貢献なのである。
2016年1月2日土曜日
追憶 1209
誰かを助けようとする時、自分自身の問題に苦しんでいる状態であっては、それも叶わないであろう。
自分自身を救うことさえ出来ない者に、他人を救うことなど出来るはずがないのである。
自分自身の人生の目的を思い出すことによって、目の前の問題に対して苦しんでいる場合ではないということに気が付くことができる。
他人を救うという壮大な目的の前では、自分自身の苦しみなど、取るに足らないものとして映るからである。
そして、自分自身の人生の目的すら知らない者に、どうやって他人の人生を手助けすることができるのだろう?
2016年1月1日金曜日
追憶 1208
その答えは、人助けや世界への貢献を重ねることによって分かってくるものなのではないかと思える。
Aに必要なのは、”愛”を忘れないことであろう。
苦しい過去や現状に対しての価値観を変える必要がある。
それは、千手観音が助けようとしているのは、苦しみを抱えている”歪んでいる人”だからである。
Aの人生の目的は、”愛”によって歪んでいる人たちを助けることにあるのだろう。
それを忘れないために、今回、千手観音はわたしたちの前に現れたのである。
もしかすると、Aは既に自分自身の人生の目的を見失っていたのかも知れない。
幼少の千手観音との出会いを忘れ、いじめが苦しいと思い込んでいるような状態では、人生の目的など覚えているはずがないであろう。
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