このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2015年12月31日木曜日

追憶 1207

今回のセッションによって、わたしたちは互いの経験と理解を深めることができただろう。
それは、今後わたしたちが人助けをするのに役立つはずである。
大天使ミカエルも千手観音も、人助けや世界への貢献を求めた。
成長することによって、どのような存在も”愛”の重要性に気が付くのである。
知らなかった何かを知り、理解を深めることによって、わたしたちは”愛”を重んじることになるだろう。
”愛”による行為によって、わたしたちは生きる意味を見出すはずである。
それは、幸福とは何か?という難しい問いの答えになるのではないだろうか?
あなたは幸福とは何か?という問いに答えることができるだろうか?
わたしにはそれを安易に答えることができない。

2015年12月30日水曜日

追憶 1206

これは、とても素晴らしい体験である。
誰であっても、本を読むことで著者の考えを得ることができる。
それは素晴らしい体験である。
しかし、霊的な体験はそれを遥かに凌駕(りょうが)するのだ。
本を読むことが平面的な体験ならば、霊的な体験は立体的な体験のようなものに思える。
それは、実体験にも似た”実体験”である。
わたしは、自分というフィルターを通して、他人の学びを体験することができる。
わたしにとって、それは何ものにも代え難い貴重な宝物なのだ。
これは、どれだけの金銭を支払っても得られないものである。
なぜなら、人は他人にはなれないからだ。
わたしはその体験によって、理解を深めることができる。
これ以上に幸福なことがあるだろうか?
わたしには思い付かない。

2015年12月29日火曜日

追憶 1205

わたしはAに対して、仕事の終わりを告げた。
虎柄の座布団を降りたAは振り返ってわたしに感謝の言葉をくれた。
同じようにわたしも感謝の言葉を返した。
これは、貴重な体験を与えてくれたことへの感謝である。
日常的に考えるのだが、わたしが欲しているのは理解である。
理解することによって、何かを実現するための力になるのではないかと思うのだ。
何かの原理でも良いし、考え方でも良いだろう。
とにかく、何かに対して理解が深まることがなければ、何かを実現することはできないと考える。
Aの中には、わたしには体験することができない体験が存在している。
わたしが自分自身の体験の重箱の隅をどれだけつついても、それ等は決して得られないものである。
それを、擬似的にでも体験することができるのである。


2015年12月28日月曜日

追憶 1204


「わたしの手は、あなたのためにあります。あなたの手はわたしのためにあるのです。わたしの手の数のように、多くの人に援助の手を差し伸べなさい」

千手観音の穏やかな声がわたしに届いた。
それをそのままの形でAに伝えた。
快(こころよ)い返事が返ると、千手観音は微笑みを浮かべて光の中に溶けた。

わたしは必要な仕事をした。
今までと同じように、Aは自力によって人生を切り開いていくだろう。
その中で様々な人に出会い、様々な形で援助の手を差し伸べるだろう。
これまでと違うことは、千手観音という守護者による心強さがあることだ。
人にとって、これ以上に必要な手助けがあるだろうか?
少なくとも、今のAにはそれ以上は必要ないのである。
これからの人生で、Aがどのように活躍するのか?
今から楽しみである。

2015年12月27日日曜日

追憶 1203

これは、ライトワーカーに限ったことではないだろうが、人は苦しみによって”良いもの”を得るのである。
そのため、嫌な過去に対して心を閉ざしてはならない。
それは、成長のための大切なヒントを失うということであるからだ。
これから、Aは自分自身の正体と人生の目的を思い出すだろう。
それは、過去の苦しい体験の手助けによって実現するはずである。
Aが自分自身の正体と人生の目的を思い出した暁(あかつき)には、これまでとは違う人生を生きることになるだろう。
それは、常識では計り知ることのできない素敵な世界である。

2015年12月26日土曜日

追憶 1202

それ等の経験と感情は、すべてが自分自身を思い出すために必要なものなのである。
Aは苛めを受けた過去の体験によって、いつかは自分自身の正体を思い出すことができる。
もしも、順風満帆に生きることになれば、誰も自分自身の正体を思い出すことはできない。
なぜなら、現状に満足することによって、それ以上を求めることも得ることもできないからである。
それに、自分以外の人や世界を支えるためには、人や世界を理解する必要がある。
苛めによって、Aは人の心の中に巣食う弱さ(問題点)を見たはずである。
わたしはどちらかと言えば苛める立場(故意ではない。わたしは遊んでいるつもりでも、有り余るエネルギーは時に人を傷付けた。受ける方は苛められたと思っても仕方ない)であったが、それによって自分自身の中にも、他人の中にも弱さを見たのである。

2015年12月25日金曜日

追憶 1201

ライトワーカーの人生は波乱に満ちていることが多いようだ。
そして、多くの場合、自分自身の内面と向き合わなければならない。
”普通”の魂も波乱万丈な人生には違いないが、その目的は少し違うのである。
ライトワーカーの場合は、苦しみを受けることによって自分自身の正体と役割を思い出し、人生の目的を果たすためである。
ここが”普通”の魂との差であろう。
ライトワーカーは”普通”の人生を生きることは難しい。
なぜなら、”普通”の魂に比べて形而上的であるため、様々な問題や歪みに気が付いてしまうからだ。
気が付くことはなくても、何処と無く違和感を覚える。
当たり前を当たり前として受け入れることが難しく、反抗的になったりする。

2015年12月24日木曜日

追憶 1200

ライトワーカーとは、世界を向上させるために働く魂のことであろう。
すべての魂が世界を向上させるために働くが、ライトワーカーはその下支えや先導の役割を担っているのではないだろうか?
”普通”の魂の主な目的は、経験によって自身の浄化や成長を実現させることである。
ライトワーカーの主な目的は、それを支えることにあるだろう。
ライトワーカーは自身のことよりも、他人や世界のために働く傾向にある。
しかしながら、ライトワーカーが特別であり、優れている訳ではない。
様々な経験によって自身の浄化と成長を実現しなければならないのは同じことである。
しかし、ライトワーカーの魂は”普通”の魂に比べて経験値に優っている。
それは、長く存在しているということである。
そのため、”普通”の魂よりも浄化や成長に必要な経験は少なく、形而上(唯心)的な感覚は元々強く備わっている。
その能力(例えば霊能力、超能力、直感、包容力、先見性など)によって、唯物論に偏った者を支えることにより、唯心論を受け入れさせるという役割を担っているのであろう。


2015年12月23日水曜日

追憶 1199

即ち、Aの心の中で出会った女の子は、主に苛めによって形成された破滅的な価値観であり、トラウマとなっている感情であろう。
千手観音はAの守護者であり、必要な経験を得られるように見守っている。
千手観音はAが”使い物”になるように手助けしているに違いない。
苛めを始めとするすべての経験は成長のために導かれ、それを総括(そうかつ)しているのが千手観音なのではないだろうか?
形而上学(けいじじょうがく)には、”ライトワーカー”という言葉がある。
Aは正にその典型であろう。
ライトワーカーとは、そのまま光の仕事人である。

2015年12月22日火曜日

追憶 1198

Aは小学生の頃に苛(いじ)めにあっていたそうだ。
Aにはそれがネガティブな印象として残り、今でも当時の同級生が嫌いであるという。
全身が痺(しび)れた。
雷に打たれたことはないが、そんな感覚だった。
わたしは何も知らなかった。
Aは明るく、笑顔の絶えない女の子であった。
それは、表立った情報でしかなく、心の奥底には苦しみを抱えていたのである。
それで合点がいった。
すべての点が線によって結ばれた。
わたしの覚えた違和感、そして、心の中の黒い女の子、千手観音の存在…
それ等に対して、わたしは一人で納得した。

2015年12月21日月曜日

追憶 1197

大天使ミカエル(霊的な存在たち)がわたしを唯物論から救い出してくれたように、千手観音はAを救い出そうとしているのであろう。

Aの口から千手観音という言葉が出たことに、わたしは心底驚いた。
それも、Aも忘れているほどの心の奥底にしまわれていた記憶である。
わたしの見ているものは、強(あなが)ち間違ってはいないのだろう。
恐らくは、妄想ではないはずだ。
わたしとAの双方が確認したのであるから、千手観音(のようなもの)は存在しているはずである。
その時、唐突(とうとつ)にAが話を始めた。



2015年12月20日日曜日

追憶 1196

人の幸福というものは、お金や物、地位や名誉などによって実現することは出来ない。
精神が幼い段階ではそれ等を喜び、幸福を得ることもできるだろう。
しかし、いつかは必ず煮詰まる。
想像してみて欲しい。
あなたが老いさらばえ、体力も、仕事も、健康も、地位も、名誉も、お金をも失う時が来ることを。
その時にも、同じことが言えるだろうか?
人は”老後”のためにがむしゃらに生きているが、その価値観は人を真の意味で幸福にするのだろうか?
人はいつか、目には映らない大切なものの存在に気が付く。
そして、訳も分からずそれを探し始めるのだ。

2015年12月19日土曜日

追憶 1195

それは、Aの本質、人生の目的、世界での役割…
様々な原因に由来しているだろう。
Aが人生を果たすためには、千手観音(のように見える存在)のことを知る必要があるのだろう。
人生には、唯物論だけでは理解することや、果たすことが出来ないことがあるはずである。
個人的には唯物論だけでは何一つ理解することも、果たすことも出来ないと考えている。
どのようなものに対しても、唯物論と唯心論の両方が必要なのである。
”神”や愛、心や絆というものを唯物論で説明することができるだろうか?
生命という当たり前のことでさえ、唯物論だけでは答えを導き出せないだろう。
文明が発展すれば、肉の塊に生命を宿らせることができるのか?
何千、何万年後にそれができたとしても、それは唯物論だけでは実現しない事柄であるだろう。





2015年12月18日金曜日

追憶 1194

トンネルを幾つか越えて、空を見上げた時にそこに大きな何かが浮かんでいることに気が付いた。
それが千手観音であったのである。
それは、山よりも高く、雲よりも大きかった。
神々しく輝き、幼心に美しいと感じた。
幼心には、それが違和感としては映らない。
残念ながら、その時にそれをAが家族に話したどうかは忘れてしまった。
しかし、話したところで他の誰の目にも映らなかったであろう。
千手観音はきっと、Aに対して見せたのである。

2015年12月17日木曜日

追憶 1193

これは、Aがまだ保育園に通っていた頃の話である。
ある日、Aは家族と共に車に揺られていた。
Aを乗せた車は、旧津島町から宇和島市に至り、吉田町を抜けて西予市の宇和町に向かう峠道に差し掛かっていた。
吉田町と宇和町の間には、長い峠道がある。
それは、山肌に張り付くように設けられた道で、幾つものトンネルを有していた。
二車線の道が整備されており、個人的には走ることにストレスは感じない。
宇和海を望む絶景がストレスを癒しているのかも知れない。
高速道路が開通するまでは、そこが主要道路として皆の生活を支えていた。

2015年12月16日水曜日

追憶 1192

霊の話をした後に千手観音の話をするのは気が引ける。
それは、ただでさえ怪しい話が、更に怪しいものになってしまうからである。
Aがわたしに対して不信感を表すのではないかと一瞬だけ迷った。
しかし、わたしがAに対して隠すようなことは何もないと思い出した。
それは、わたしにとってもAにとっても大切な話であると確信することができたからだ。
わたしはAが受け入れ易くするために、冒頭にこれから怪しい話をすることを伝えた上で話を始めた。

わたしの話を聞き終わると、Aが興奮して言った。

「わたし…それ見たことある」

わたしは何のことだか分からなかった。

2015年12月15日火曜日

追憶 1191

わたしは千手観音と会い、伝言を言付かったのでAに話すのである。
それは、理解されないかも知れないし、妄想であるかも知れないが、わたしにとっては事実であり、Aにとって人助けが損失であることはないだろう。
わたしは言われた通りに伝え、言われた通りに行うのである。
自分自身の利益のために、自分勝手には言わないし行わない。
寧(むし)ろ、言えないし行えないのである。

千手観音はわたしを離れた。
それは、高い場所で輝く太陽のようである。
彼女?はわたしたちを見守った。

2015年12月14日月曜日

追憶 1190

誤解して欲しくはないが、これは自分自身を高い所に置くのでも、他人を低くするのでもない。
人にはそれぞれの経験の段階(経過)があり、その分野に触れる期間の問題なのである。
わたしは数学が得意ではない。
どちらかと言えば、感覚的な人間であり、理論家ではないと思っている。
計算と計画を用いるよりも、どちらかと言えば直感に従う方が優勢である。
これは、時として望ましい結果をもたらすが、時として望まない結果をもたらす。
理論家は、その反対の結果を得る。
時と場合によって最善は異なるために、
とちらが優れている、劣っているなどということはないのだ。
ただ、わたしが言いたいのは、知らないことをあたかも知っているように嘯(うそぶ)くことは良いのか?ということなのである。
そして、神々の意思はどこにあるのか?ということなのだ。

2015年12月13日日曜日

追憶 1189

天使に会ったからといって、わたしが西洋の宗教の信者になることはない。
わたしの信仰は、宗教という限られた世界にはないのである。
仏に会ったからといって、Aに東洋の宗教の信者になれというのでもない。
天使も仏も、そのようなことは一言も言わない。
宗教を信じろ、信者となれというのは人間だけである。
わたしが人間に従うだろうか?
人間に従った20年という月日は、わたしを殺したではないか。
神父や坊主はコスプレをした人間である。
それも、何も知らない哀れな人間である。
彼等は天使や仏に直接会ったこともない。
会えないのである。


2015年12月12日土曜日

追憶 1188

それ等は安心感を与えてくれるだろうが、本当の満足感を与えてくれるだろうか?
しかし、霊的な満足感も決して完結することはない。
どのような満足感も限定的なものであり、人はすぐに飢えてしまう。
これは、天然物を食すか、人工物を食すか?程度の差でしかないのかも知れない。
しかし、病気のリスクには違いがあるだろう。
サプリメントで健康を保つのが難しいのと同じである。
金銭や人間関係や宗教などに満足感を求めると、心を病むリスクが高いのである。

2015年12月11日金曜日

追憶 1187

どんな推測も想像の域を出ることはない。
そのため、そのような可能性もあるという範囲で考察を終える。

千手観音は、Aに”仕事”を求めている。
それは、Aの生き方に関わることであり、幸福に直結していることであろう。
”当たり前”の生き方では、残念ながらAが幸福を得ることは出来ない。
それは、自分自身によって証明していることである。
わたしとAが同じ幸福の形を所有しているはずはないが、霊的な存在を無視して得られる幸福が存在しないことは同じであろう。
多くの人は金銭や人間関係、宗教などに依存することによって幸福を実現しようとする。

2015年12月10日木曜日

追憶 1186

天使は”やる気”に満ちている。
施しの愛とでもいうのだろうか?
天使はいつも、出来ることはないかと探しているような印象を受ける。
千手観音からは違う種類の愛を感じる。
それは、悟らせる愛とでもいうのだろうか?
仏からは、見守ることで助けようとしているような印象を受けるのである。
天使と仏は見た目からして違うが、その性格も大きく違うように思える。
個人的には天使や仏という存在は、高次元の(肉体を持たない)意識的な生命体、もしくは宇宙人の種族なのではないかと考えている。
種族(出身地(惑星、銀河))が違うために見た目が違い、文化背景が違うために教え(方法)が違うのではないだろうか?


2015年12月9日水曜日

追憶 1185

わたしはぼんやりと声を聞いた。

「お願いがあるのです。多くの存在を助けなければなりません。Aにはその役目があります。Aはその力によって多くの存在に手を差し伸べることができるのです…」

話を聞いていると、少しずつ意識が輪郭を取り戻そうとしていた。
わたしは目の前の大きな光の中に千手観音を見た。
それは、山のように大きく、たくさんの腕を持った女性?であり、ヒンドゥー教や仏教の千手観音(千手千眼観自在菩薩)に似ていた。
わたしには他に思い当たるものはない。
千手観音?からは癒しの波動のようなものを感じる。
天使とは違うフィーリングである。

2015年12月8日火曜日

追憶 1184

安らかで良い気分であった。
頭上の光がわたしを癒しているようである。
わたしは夢見心地で頭上の光を眺めていた。
すると、光が大きくなっていることに気が付いた。
それは、わたしに近付いているのだろう。
光が大きくなるにつれて、わたしは意識が輪郭を失うのを感じていた。
とても良い気分である。

「お願いがあるのです…」

その時、しなやかな女性のような声を聞いた。
輪郭を失った意識では、その声はぼんやりとしているのであった。

2015年12月7日月曜日

追憶 1183

わたし(天使)からの言葉をAは真剣に受け止めているようである。
背中越しの反応ではあったが、注意がわたしに向けられていることは明確であった。
唐突(とうとつ)に頭の中にヴィジョンが浮かんだ。
それは、離れた頭上に光を放つ何かがあるというものである。
わたしは話を簡潔(かんけつ)に切り上げて、ヴィジョンに集中した。

それは、とても暖かな光であり、春の陽射しを思わせる。
何だか幸せな気持ちになり、心の鎧(よろい)のようなものがほどけていくように感じた。
わたしはイソップ寓話(ぐうわ)の”北風と太陽”を思い出した。

2015年12月6日日曜日

追憶 1182

わたしの口が紡いだ言葉の内容と、わたしの推測は概(おおむ)ね一致していた。
推測の時点において、わたしは天の意思を聞かされていたのかも知れない。
わたしの口が紡いだ言葉とは、天使(ミカエル)の言葉である。
わたしは通訳に過ぎない。
わたしは天の道具であり、ただの代弁者である。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただし、”わたし”というフィルターを通してすべてが行われる。
そのため、わたしの実力、状態と掛け離れた力を発揮することはできない。
使い手によって道具は実力以上の力を発揮することができるが、それ以上のパフォーマンスを求める時には、より優れた道具を必要とするのである。
プロフェッショナルが道具にこだわるのはそのためである。
わたしは天(”神”)の道具であることを知っている。
そのため、より良い仕事をするために努めるのである。

2015年12月5日土曜日

追憶 1181

光の中を昇る女の子は、天使が光をまとっているかのように美しかった。
天が閉じると、目の前には暗闇が広がった。
しかし、この暗闇はネガティブなものではない。
晴れ晴れとした暗闇であった。
瞼(まぶた)を開くと、ここぞとばかりに照明の光が網膜に入り込んできた。
眩しさの先にはAのか細い背中が見える。
わたしは”帰って来た”のだと思った。
体験したことを頭の中でまとめようとした時に、口が勝手に言葉を並べた。

2015年12月4日金曜日

追憶 1180

わたしは女の子を抱き締めた。
わたしの愛情が役に立てば良いと思ったのである。
すると、閉じられた目から桜色の頬に一筋の涙が流れた。
それを見て、わたしは心が満たされていくのを感じた。
もう大丈夫だと思った。
すると、天から光の束が降り注ぎ、わたしと女の子を包んだ。
それは、暖かな光であり、わたしは安心感を得たのである。

「ありがとう」

そう聞こえた。
これは、女の子の意思であろう。

「後のことは心配せずに行きな」

わたしが返すと、女の子の口角が上がったように見えた。

2015年12月3日木曜日

追憶 1179

わたしはそこで、大体の事情を悟った。
この女の子は、Aの幼心であるだろう。
小児性人格と言うかも知れないし、インナーチャイルドと言うかも知れない。
恐らくはそれである。
推測するに、Aはわたしには知り得ない何等かの心の傷を抱えているのであろう。
何かしらのネガティブな体験によって、破滅的な感情を生み出したが、それを消化(昇華)することが出来ずに抱えているのではないだろうか?
怒りや悲しみなどの破滅的な感情を放置しているのであれば、それは”重さ”によって心に沈殿してしまう。
破滅的な感情の沈殿物がトラウマと呼ばれる心的外傷として形成されてしまうのだ。
Aにとっての心的外傷というものを、わたしは女の子という形で認識したのではないかと思うのである。

2015年12月2日水曜日

追憶 1178

人差し指と中指が宙に十字を描く。
光の十字架は輝きを放ったが、女の子はそれを反射することはなかった。
わたしは光の十字架を女の子に突き刺すことを知っている。
だから、恐れは無い。
小さな胸に光の十字架が刺さった時、女の子の身体は仰(の)け反った。
まるで、電気ショックによって全身に力が入ったようである。
悲鳴が耳に痛かった。
すると、本来ならば口のある場所から、大量の黒い煙のようなものが吐き出されたが、それは途中で光の粒に変わり、そのまま天の光の中へと消えた。
その光景を見終わって振り返ると、腕の中には幼いAの姿があった。

2015年12月1日火曜日

追憶 1177

清々しい風が心を渡るようであった。
それは、険しい山道の果てに輝く水平線を眺めるような達成感である。
木箱の中には女の子が抱えていた感情が詰まっていたと、わたしは直感によって理解した。
これによって、わたしがそうであったように、女の子も幾分か軽くなったのではないだろうか?
振り返ると、女の子は倒れていた。
わたしは女の子を抱え上げた。
わたしの腕の中には、泣き疲れて眠る子どもがいた。
女の子の表情は黒いために知り得ないが、それが安らかなものなのではないかと感じる。
女の子は長い間闘ってきたのだろう。
何故かそう思うのである。