このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2019年8月31日土曜日

追憶 2519

病とは、一種の趣(おもむき)である。
夏が暑いことと、病を患(わずら)っていることは、ある意味では同じことだ。
身体にとっては、病の時期なのである。
それは、我慢を強いられる状況であるが、我慢も楽しめば良いのである。
それは、あなたを苦しめるために導かれているのではない。
同じことを続けていれば、誰だって退屈(たいくつ)を覚えてしまう。
自由だけでも退屈するのが人間なのである。
自由が楽しくあるのは、我慢がそれを支えているということを理解しなければならないだろう。

2019年8月30日金曜日

追憶 2518

豊かに生きるためには、冷静でいなければならない。
心が乱れている者が、豊かに生きられるはずがないのである。
身体を自分だと思い込んでしまえば、豊かに生きることは出来ないのだ。
冷静さとは、客観によって実現するものなのである。
夏は暑いものである。
夏が暑いからといって、それを不快(ふかい)に思ってしまえば、その時間を苦しまなければならない。
夏は暑いが、それを趣(おもむき)として客観すれば、夏の暑さを活用して、その時間を楽しむことが出来るのである。
”心頭、火を滅却(めっきゃく)すれば、また涼(すず)し”ということなのである。

2019年8月29日木曜日

追憶 2517

大切なのは、身体をパートナーや器として捉(とら)え大切に扱うことである。
大切に扱えば長持ちするものの寿命をわざわざ短くする必要はないだろう。
人は、生きることによって学ぶことが出来る。
生きること自体が目的ではないが、生きなければ目的を果たすことは出来ないであろう。
それも、豊かに生きることが求められるのである。
乏しく生きることも悪くはないが、豊かに生きる方が目的を果たすためには良いであろう。

2019年8月28日水曜日

追憶 2516

病を恐れることがなければ、人は身体を軽んじた生活を営(いとな)んでしまうだろう。
それは、寝不足、運動不足、過労、暴飲暴食、”毒”の摂取(せっしゅ)、自傷行為、他者や他の生命に対する横暴など、生き延びることが難しい状況を作り出してしまうのである。
人は、生き延びなければならない。
何をするにしても、何をしないにしても、生き延びなければ、何一つ実現することは出来ないからだ。
わたし達は、何かしらの目的を以(もっ)て生まれて来たのである。
それを果たすことが、生まれた者の責任なのではないだろうか?
人生においては、生きていることが前提であるということを理解しなければならないだろう。

2019年8月27日火曜日

追憶 2515

そこには、自分の本質である真(まこと)との繋がりを認識することが難しいという現状があるからだ。
すべての人は、本来の自分を隠して生きている。
それは、隠されていると表現した方が良いだろう。
すべての人は、身体を自分だと思い込まされているのだ。
それは、この世界で生きるためである。
身体を自分だと思い込まなければ、人は生き延びることが出来ない。
病に怯(おび)え、身体を大切にする気持ちが無ければ、すぐに命を失ってしまうのである。

2019年8月26日月曜日

追憶 2514

身体に対して、強くのめり込めば、病を患(わずら)うことを恐れたり、病を患うことで苦しんでしまう。
それでは、病の目的と存在価値を見失ってしまうのである。
身体は、病に反応して、様々な対策を講(こう)じる。
それが痛みや吐き気や重たさなどの様々な苦痛として現れる。
病に反応しているのは身体に過ぎない。
しかしながら、わたし達は心を通じて身体と繋がっている。
それは、一部の繋がりに過ぎず、決して全体が繋がっている訳ではない。
しかし、人はそれでも自分が身体であると思い込んでしまうのである。



2019年8月25日日曜日

追憶 2513

残念ながら、わたし達の本質は身体ではない。
身体はとても大切な存在ではあるが、乗り物のようなものである。
多くの人は、自身が所有する自動車や自転車を大切に扱うだろう。
傷が付けば、我が事のようにショックを受ける。
身体は、自動車や自転車のような大切な乗り物だと考えれば、少しは冷静に判断することが出来るだろう。
もちろん、身体は掛け替えのない存在であるため、自動車や自転車などの製品などとは価値が違う。
しかしながら、価値が違うだけで、本質的には同じ解釈(かいしゃく)で良いと思うのである。

2019年8月24日土曜日

追憶 2512

病に対して建設的に向き合うためには、客観的な視点が必要である。
例えば、どのような問題も、それが他人事だとある程度は冷静でいられる。
それは、客観的な視点によって問題と向き合うことが出来るからだ。
離れて見れば小さなものも、近くで見れば大きいのである。
そこには、視点の差が存在するだけだ。
距離によって、それが問題になったり、喜びになったりするのである。
ただそれだけのことに翻弄(ほんろう)されているということを理解しなければならないだろう。



2019年8月23日金曜日

追憶 2511

身体が自分であれば、病を患(わずら)う必要などないのである。
しかしながら、身体は確実に病に犯されてしまう。
それは、身体が自分ではないからだ。
そして、病から学ぶ必要があるからである。
わたし達は、身体と病を通じて学ばなければならない。
身体を自分だと思い込むことによって、真剣に向き合うようにしているのだろう。
しかしながら、向き合い方を間違えてしまえば、苦しんでしまう。
人は、病に対して建設的に向き合わなければならないのである。

2019年8月22日木曜日

追憶 2510

残念ながら、多くの人は自分が身体だと思い込んでいる。
手足すら思い通りに動かすことが出来ないにもかかわらず、それでも身体を自分だと思うのである。
心臓は勝手に動いているし、内臓も神経も自動である。
思考を食い止めることは出来ないし、それをコントロールすることも出来ない。
そして、睡眠欲や食欲、そして、性欲などの欲求の命令に従っているに過ぎない。
身体に関することは、何一つ自由にはならないと言っても過言ではないだろう。
それなのに、身体を自分だと思い込んでいるのは不思議である。
自分が身体であるのならば、嫌っている病を退(しりぞ)けられるはずであるが、実際にはすべての人が病と共に生きている。

2019年8月21日水曜日

追憶 2509

人は、病と共に生きている。
人類史において、病の存在しないことがあっただろうか?
病を知らずに死を迎えることが出来る人など存在しないのである。
蜂が間接的に人類のために存在しているように、病も間接的に人類のために存在している。
残念ながら、多くの人には理解することが出来ないだろう。
多くの人にとって、蜂や病は厄介(やっかい)な存在であるという認識だからだ。
病は、身体を痛め付ける。
そのため、身体を自分自身だと思い込んでいる人にとっては、病は厄介な存在に違いないのである。

2019年8月20日火曜日

追憶 2508

蜂が平和に暮らすことは、人の暮らしの利益に繋がる。
蜂もただ存在するのではなく、自然界において必要な役割を担っているのだ。
蜂を敵と見做(みな)している者には、蜂の有益性を理解することは出来ないだろう。
人間と蜂は、同じ自然界に存在している。
それは、互いに依存(いそん)し合う関係にあるということである。
人間は、間接的に蜂のために生きているし、蜂は、間接的に人間のために生きているのだ。
同じ自然界に生きているということは、共存しなければならないということなのである。

2019年8月19日月曜日

追憶 2507

病を許(ゆる)すことは、自分自身の歪んだ考えや心を許すということでもある。
何事においても、それを癒(いや)し、治めるためには、許す以外に方法はないであろう。
怒りや否定などに執着しているのであれば、そのような状態が続いていくのである。
蜂を静めるためには、巣から離れ、共存を選ぶことだ。
蜂の生存を許さなければ、争わなければならないのである。
蜂が好んで人を襲うことはない。
近付かなければ、蜂は平和に暮らしているのである。

2019年8月18日日曜日

追憶 2506

病に対して、争いの気持ちを抱くことは間違いである。
なぜなら、争いの気持ちによって病が治(おさ)まることはないからだ。
争いの気持ちは、病を活性化させ、広げてしまう。
蜂(はち)を敵と見做(みな)して争えば、巣からは次々に蜂が現れるのである。
一匹でも厄介(やっかい)な蜂が、群れを成して現れたら、勝ち目は無いであろう。
病と争っても、残念ながら勝ち目は無いのである。
病を治めたければ、争わないことだ。
争いの気持ちを治めるのである。
病を治めるためには、病を受け入れて、許(ゆる)すことだと理解しなければならないだろう。

2019年8月17日土曜日

追憶 2505

蜂を敵と思えば、報復(ほうふく)が心を支配してしまう。
刺されたのは、蜂のせいだと思い込めば、その矛盾(むじゅん)から争わなければならないのだ。
蜂と戦えば、更に刺されてしまう。
争いは、心の状態を悪化させてしまうのである。
心の状態が悪化すれば、豊かさを保つことなど出来ない。
それでは、辛いだけなのである。
蜂に刺されたのは、自分の責任であると考える人は、それ以上に争いを展開することがない。
人生の責任を負うことの出来る人は、争いを自分の内で完結することが出来るのである。
争いを終わらせることの出来る人は、争いによって心の状態を悪化させることがないのである。

2019年8月16日金曜日

追憶 2504

巣に近付いたのはわたしである。
蜂(はち)がわたしに近付いたのではない。
蜂がわたしに攻撃したのではない。
わたしが蜂に攻撃させたのである。
多くの人は、外に原因を探す。
しかしながら、原因は内に存在している。
そのため、そこには矛盾(むじゅん)が生じる。
矛盾は、争いを実現するのである。

2019年8月15日木曜日

追憶 2503

多くの人は、病によって心の豊かさを手放してしまう。
病を前にして冷静でいられることは難しい。
それは、大きな蜂(はち)が肩に止まった時に、冷静でいられる人が少ないのと同じであるだろう。
それは、多くの人が蜂は刺すものだと考えているからだ。
確かに蜂は刺すが、それは、巣を脅(おびや)かした時や、危害を加えた時だけである。
単体で飛んでいる蜂が刺すことはない。
恐らくは、蜂は人間に興味を持たないだろう。
人間を攻撃しようなどとは考えていないはずである。
わたしは過去に何度も蜂に刺されたことがあるが、その時には必ず近くに巣があった。
巣は、わたしが通り掛かるよりも前からそこにあったのである。



2019年8月14日水曜日

追憶 2502

病を前にして、自らの考えや心を改めないのは、陽に焼かれて干からびる蚯蚓(みみず)のようなものである。
病に対して自らを改めないのは、”命”を失う行為であるということを理解しなければならないだろう。
命とは、心の豊かさである。
病を前にして、心の豊かさを保つことの出来る人は、幸いにも命を保つことが出来るだろう。
わたし達は、人生を終える時まで、命を保たなければならない。
人生を終える前に、命を失ってはならないのである。

2019年8月13日火曜日

追憶 2501

自らを改めることがなければ、救われることもない。
例えば、陽に焼かれるのが嫌であれば、その場を離れて日陰へと移動する必要がある。
陽が陰るのを待つのも良いが、その前に干からびてしまうだろう。
“神”の救いを待っていられる程、わたし達に力はないのである。
努力しない者が救われることはないだろう。
泳ぐ意思のない者は、沈まなければならないのである。

2019年8月12日月曜日

追憶 2500

矛盾(むじゅん)とは、人間側の誤解であり、本来ならば存在しないものなのかも知れない。
しかしながら、矛盾という現象や認識、そして、言葉が存在するのは事実である。
“神”は矛盾という状態を創り出したであろうが、“神”がそれに陥(おちい)るとは考えられない。
“神”とは理(ことわり)であり、そこに矛盾は存在しないと考えられる。
そのため、“神”が無条件に人を救うことは無いと思えるのだ。
この世界においては、自らを改めるという条件を満たす者だけが、救われるのではないだろうか?

2019年8月11日日曜日

追憶 2499

わたし達が許(ゆる)されるためには、自らの考えや心を改めなければならない。
無条件に許されるということはないのである。
それは、この世界には因果の仕組みが存在しているからだ。
恐らくは、“神”であっても因果の仕組みに逆らうことは出来ないだろう。
それは、人が法律に逆らうことが出来ないのと同じだ。
“神”が理(ことわり)に反するのであれば、矛盾(むじゅん)が生じてしまうだろう。

2019年8月10日土曜日

追憶 2498

どのような人も許(ゆる)される。
“神”は、人を裁(さば)きはしない。
“神”は、病によって人を許しているのである。
許しとは、無視をすることではない。
罪に対して、それに相応しい罰を与えることが許すということなのである。
人は、病などの苦しみを経験しなければ、考えや心の歪みを取り除くことは出来ない。
“神”は、人が許されるように病などの苦しみを与えているのである。



2019年8月9日金曜日

追憶 2497

だから、恐らくは、わたしには彼の腰に突き刺さっている刀を抜くことが出来るだろう。
そして、彼を腰痛の苦しみから解放することが出来るのではないだろうか?
”神”は、彼に可能性を見ている。
わたしも”神”に倣(なら)い、彼の可能性を見なければならないだろう。
後にどうするか?は、わたしの決めることではない。
それは、彼が自分で決めることなのである。
わたしは、自分に出来ることをただ”神”に従って行うだけだ。
ただ、それだけである。

”神”は、人を試しはしない。
”神”はただ、人を許すのである。

2019年8月8日木曜日

追憶 2496

わたし達人間は、愚(おろ)かな存在である。
病を与えてもらいながら、その意味に気が付くことが出来ない。
わたし達は、“神(人生)”の意図を汲(く)み取ることが出来ないのである。
“神”は焦(あせ)りはしない。
何事も慎重に行うのである。
それは、階段を一段ずつ確実に踏み締めて登って行くようなものだ。
“神”は決して愚かなことはしない。
“神”は、わたし達愚かな人間の可能性を見ているのである。
“神”は恐らく、わたし達の結末を知っているであろう。
後にどうなるかを知っていれば、焦る必要はないのである。



2019年8月7日水曜日

追憶 2495

病の目的は、歪んだ考えや心を改めさせることだ。
本来ならば、歪んだ考えや心を改めるということが約束されるまで、病に苦しむのが良いだろう。
しかしながら、苦しみが強過ぎれば、歪んだ考えや心を改める意欲を失ってしまうかも知れない。
それでは、意味がないのである。
そのため、歪んだ考えや心を改めるという確約ではなく、歪んだ考えや心を改める可能性を取るということなのであろう。
約束を守らない子どもを叱(しか)ることは悪いことではないと思える。
しかしながら、叱り続けることは悪い影響を与えるだろう。
約束を守らないことを叱ったとしても、別のところでは褒(ほ)めてやるということをしておかなければ、次の約束を守ろうとする意欲は無くなってしまうのではないだろうか?

2019年8月6日火曜日

追憶 2494

要するに、多くの人は自分に都合良く生きているのである。
多くの人は、神を信じてはいないだろう。
しかしながら、問題や苦しみを抱えた時には、神を頼るのである。
人間というのは、都合の良い生き物だ。
そして、自分勝手で忘れ易い。
"喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘れる"という言葉もある程だ。
この刀を取り除けば、彼は痛みから解放されるかも知れない。
しかしながら、歪んだ考えや心を手放すという保証はないのである。

2019年8月5日月曜日

追憶 2493

この刀は、彼から歪んだ考えや心を切り離してくれる最高の助けである。
残念ながら、多くの人は、他者からの忠告を聞き入れはしない。
それは、多くの人が自分が正しいと思い込んでいるからだ。
考えや心の歪みは、自分が正しいと思い込むことで生じるだろう。
自我や非我(ひが)に対する偏(かたよ)りも、自分を正しいと思い込まなければ存在しないのである。
刀を抜くことは、恐らくは容易(ようい)であるだろう。
しかしながら、彼から刀を取り除くことにはリスクもある。
それは、刀の抑止力(よくしりょく)がなければ、彼の考えや心は、再び歪んでしまう可能性が高いからだ。

2019年8月4日日曜日

追憶 2492

彼の腰に突き刺さっている刀は、彼の考え方や心を治そうとするものである。
彼は、この刀によって、自らの考え方や心を改めなければならないのだ。
わたしは、彼の腰の刀を掴んでみた。
すると、稲妻のように先述(せんじゅつ)したような内容が流れ込んできた。
この刀は、彼にとって重要な学びであり、助けである。
彼は、この刀に対して、腰痛に対して感謝すべきだろう。
この刀と腰痛が存在しなければ、彼はこれからも間違った考えや心で生きなければならなかったからだ。

2019年8月3日土曜日

追憶 2490

しかしながら、そのように都合の良いものではない。
考え方や心を改めることなく、物理的な方法で病を取り除いたとしても、引き千切られたタンポポのように、病は形を変えながら何度も復活するのである。
医療が不要と言っているのではない。
しかしながら、すべての医療行為は、対処療法に過ぎないということなのである。
様々な医療行為を利用しながらも、目的が考え方や心を改めることであるということを忘れてはならないのだ。

2019年8月2日金曜日

追憶 2490

自分にとって必要ではない考え方をいつまでも所有し続けることには無理がある。
そのような矛盾には、心が耐えられないのだ。
自分にとって必要ではないものは、手放さなければならない。
それは、精神衛生を保つ上で重要なことなのである。
病は手放さなければならない。
すべての人がそう考えているが、病の原因である考え方を手放そうとは考えていない。
多くの人は、考え方を維持したままで、病を手放すことが出来ると考えているのである。

2019年8月1日木曜日

追憶 2489

それが、どのように未熟な考え方であったとしても、本人にとっては、それが真実であり、信仰(しんこう)すべきものなのである。
それは、幼い子どもが、どのような親でも信じなければならないのと同じだ。
その人にとっては、現状の考え方以外には、信じられるものがないのである。
子どもは、成長することで親の考え方に違和感を覚える。
それは、それが親にとっての必要な考え方であって、自分にとっての必要な考え方でないということに気が付くからだ。