”神”への信仰は、いつ、どこで、誰にでも行うことが出来る。
日々の生活を思いやりのあるものにすれば良いだけだ。
老女のように、自らの置かれている現状に対して嘆(なげ)いたり、不平不満を吐くことは”神”への信仰ではない。
現状がどのようなものであれ、それを思いやりの心で受け取ることが、”神”への信仰であるだろう。
”神”は、無駄なことをしない。
そもそも、この世界には無駄は存在しないのである。
すべてが調和の中に存在しているのだ。
残念ながら、人にはそれを理解することが出来ないだけである。
”神”への信仰が本物であるのならば、どのような現状に対しても、心穏やかに向き合うことが出来るはずだ。
しかしながら、それは難しい。
誰もが老女のように、現状に対して心を乱しているのである。
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