このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2019年2月28日木曜日

追憶 2335

どのような生き方も、心の中の憧れやトラウマに起源しているだろう。
そのような考えはないにしても、そのような行為は存在するのである。
宗教に携わっている人の心の中には、”神”という崇高(すうこう)な意識への憧れと、孤独(孤立)へのトラウマが存在しているのだ。
すべての魂は、崇高な意識の状態を求める。
崇高な意識を実現するためには、孤独を得なければならない。
皆と同じ意識状態であっては、馴れ合いによって停滞してしまうのである。
しかしながら、孤独は容易ではない。
なぜなら、孤独は辛いものという歪んだ認識が、既にトラウマとして心の中に刻み込まれているからである。

2019年2月27日水曜日

追憶 2334

自然とは、それぞれがそれぞれの目的に向かって精進(しょうじん)することであろう。
目的というのは、頭で後天的に考えて導かれた目的ではない。
魂に刻み込まれた、決して手放すことの出来ない目的のことである。
それは、どのように努めても、避けて通ることの出来ない道のことなのである。
誰にとっても、そのような生き方があるはずだ。
しかしながら、多くの人は、それを避けて通ろうとしているのである。
例えば、心の中のトラウマや憧れなどが避けて通ることの出来ない道である。
人は、心の中のトラウマや憧れを無視することは出来ないのだ。
人は、それ等に従わなければならない。



2019年2月26日火曜日

追憶 2333

人は、それぞれに異なる目的を以(もっ)て生まれて来るように思える。
そうでなければ、個性など必要ではないからだ。
人がそれぞれに強烈な個性の持ち主であることは、それぞれに異なる目的を以て生まれることを意味しているように思えて仕方がないのである。
それぞれが異なる目的を以て生まれるにもかかわらず、それぞれが同じことをしようと努めるのは、不自然なことであるだろう。
不自然は、人にとっての問題である。
なぜなら、人は自然の中でしか生きることが出来ないからだ。

2019年2月25日月曜日

追憶 2332

今日の宗教が理(ことわり)に従うためには、決められた儀式を手放し、限られた価値観を捨て去ることである。
集団という狂気を破壊し、それぞれが、それぞれの立場から考えることに努めるのが良いだろう。
皆が同じことをしなくても、世界は成り立つ。
寧(むし)ろ、社会はそれぞれが違うことをすることで成り立っているのである。
現状においても、様々な価値観の宗教や思想が存在している。
それでも、世界は成り立っているのである。
オーケストラのように、違う楽器が違う音を奏(かな)でても、一つの壮大な曲を生み出すことが出来る。
違う楽器が同じ音を奏でても、退屈な音の連なりが出来上がるだけであろう。

2019年2月24日日曜日

追憶 2331

やはり、それも楽だからである。
宗教儀式を行うだけで救われるというのであれば、これほどに楽なことはないだろう。
多くの人が宗教儀式に携わるのは、そのような思い込みを所有しているからだ。
残念ながら、人生はそんなに簡単なものではないようである。
人は、それぞれの課題と学びを以(もっ)て生まれる。
結果として、人は、それぞれが別のことをしなければならないのだ。
同じことをして人生が完成するのであれば、世の中に悩みなど存在しないのである。
それぞれが別のことをしなければならないから悩んでいるのだ。
それぞれが別のことをしなければならないから苦しんでいるのである。
今日(こんにち)の宗教は、その苦しみに背を向けているように思える。
わたしには、それで良いとは思えないのである。

2019年2月23日土曜日

追憶 2330

例えば、わたしがイエスやゴータマのように考え、行動したとしても、人生を完成することは出来ない。
それは、わたしは他の誰とも同じ理由で生きてはいないからである。
わたしの人生は、わたしの目的を果たすために存在している。
それは、誰かの真似をして果たすことの出来るようなものではない。
人は、自分自身を生きなければならないのである。
そのために考えるのだ。
人は、自分の人生を考えなければならないのである。
聖人を真似て生きるよりは、格好悪くても自らの愚かさと向き合って生きる方が良いだろう。
しかしながら、それは、苦しみに向き合う生き方なのである。
苦しみに向き合うよりは、聖人を真似て生きる方が良いというのが、多くの人の考えであるだろう。

2019年2月22日金曜日

追憶 2329

しかしながら、考えることは大変なことである。
考えることは、とても苦しいことなのだ。
そのため、多くの人は考えない。
自分自身で考えず、誰かの考えに従っているのである。
それは、その方が楽だからだ。
自分自身が道を切り開くよりも、誰かの切り開いた道を進む方が楽に決まっている。
人は弱い存在である。
既に道があれば、そこを進んでしまうのである。
宗教とは、先人の切り開いた道を辿(たど)っているに過ぎない。
その道を突き進み、最終地点に辿り着いたとしても、それは他者の目的地なのである。
自分自身の目的地は、別のところに存在するということを知らなければならないだろう。

2019年2月21日木曜日

追憶 2328

宗教を信仰する人は、多くの他者がしている行動に従っているだけであろう。
自発的に信仰している訳ではなく、他者の信仰を真似ているに過ぎないのである。
そのため、心は汚れてしまう。
なぜなら、心の形はそれぞれに異なっているからだ。
心の汚れを取り除くためには、自分自身で考えて行動しなければならない。
多くの人が行っている宗教の儀式を行ったところで、あなたの心は磨かれないのである。
人には、それぞれの必要というものが存在している。
それを考えなければならないのだ。
考えることこそが人生なのである。

2019年2月20日水曜日

追憶 2327

どのような現状においても、美しい心を保たなければならない。
そうでなければ、視界は塞(ふさ)がれてしまうのである。
視界が塞がれてしまえば、どんなに低速であっても事故を起こしてしまうだろう。
タイヤが溝(みぞ)に落ち込んだだけで、自動車は進むことが出来ない。
足をくじいただけで、人は歩むことが出来ないのである。
人生は、いとも簡単に行き詰(づ)まってしまう。
現状に対して、不平不満を吐くことは当たり前のことのように思える。
なぜなら、多くの人がそうしているからだ。
多くの人は、多くの人の行動に従って行動する。
多くの人は、苦しみに停滞(ていたい)している。
それに習えば、同じように苦しみに停滞してしまうのである。

2019年2月19日火曜日

追憶 2326

人生における都合の悪いことや、様々な苦しみも、わたし達にとって必要なことである。
その必要性を理解することをせず、否定をし続けるのであれば、人生の必要性を否定することになってしまうのである。
それでは、人生に対して充実感を得ることは出来ないだろう。
そのような者は、辛い人生を生きなければならないのだ。
人生を辛く生きることは避けたい。
なぜなら、それでは人生の目的を果たすことが出来ないからである。
人生の目的を果たすためには、必要性を追い求めなければならないだろう。
人生の必要性を追い求めるためには、美しい心(思考)が不可欠である。
不平不満を吐く心の状態では、見えるものも見えない。
車のフロントガラスが汚れていたら、道を進むことが出来ないのである。

2019年2月18日月曜日

追憶 2325

すべての人は、裸で生まれる。
それは、本当に必要なものは、物質的なもの(この世の価値)ではないということを示しているのである。
人は、生きている間に欲に塗(まみ)れてしまう。
本来ならば、生まれるだけ、生きているだけで幸福なのである。
多くの人は、人生という経験を得ているということにどれだけの価値があるか?ということを知らないのだ。
人生においては、都合の悪いことばかりが起こる。
しかしながら、それも人生における貴重な経験なのだ。
魂にとっては、この世に生まれることを許されるよりも、幸福なことはないであろう。
この世界には、必要だけが存在を許されている。
この世界には、不要は存在することが出来ないのだ。

2019年2月17日日曜日

追憶 2324

しかしながら、彼等は死後に苦しんでいるのである。
欲に根差した宗教指導者も、死後には同じ道を辿(たど)ることになる。
わたし達は、与えられたもので満足しなければならない。
与えられるよりも多くを欲するのは、罪深いことであると知らなければならないだろう。
残念ながら、人の世には誤解が蔓延(まんえん)している。
今日(こんにち)の宗教も、誤解の塊(かたまり)なのである。
宗教儀式では、人は何も変わらない。
宗教儀式によって人が変わるというのであれば、半世紀以上も信仰を守っている老女が、心を汚して苦しんでいるはずはなく、僧侶や修験者の霊が、暗闇の中を彷徨(さまよ)っているはずもないのである。




2019年2月16日土曜日

追憶 2323

ただ従っているだけでは、誤解を手放すことは出来ない。
考えて、試して、失敗しなければ、その考えが誤解であったと理解することは出来ないのである。
宗教的な儀式を繰り返したところで何も変わらない。
長く続けた先にあるのは後悔である。
後悔に気が付ければ良いのかも知れないが、大抵の人は後悔に気が付くことなく死を迎える。
わたしは、宗教を熱心に信仰している人が死後に黒く染まるのを見たし、宗教に対して無関心な人が死後に光に包まれるのを見た。
わたしは今までに、何度か僧侶や修験者(しゅげんじゃ)の霊を光に帰したことがあるが、宗教が天国や浄土(じょうど)へと続く道であるのならば、熱心な彼等が黒く歪んでいることは無かったであろう。

2019年2月15日金曜日

追憶 2322

自ら考えることがなければ、天国や浄土(じょうど)へと辿り着くことは出来ない。
なぜなら、天国や浄土というものは、どこか特別な場所に存在する訳ではないからだ。
それは、心の中、思考の中に存在するものである。
自らの心や思考に向き合わない者は、天国や浄土に辿り着くことは出来ない。
なぜなら、天国や浄土というものは、誤解を手放さない限りは辿り着くことが出来ないからである。
誤解を手放すためには、考えなければならない。
何を考えるかというと、"自分とは何か?"、"人生とは何か?"ということである。

2019年2月14日木曜日

追憶 2321

人は、同調することによって増長する。
同調することによって、他者の力も自分の力であると思い込んでしまうのである。
以前にわたしを訪ね、自分達の所属する宗教に勧誘(かんゆう)してきた彼女達は、宗教という背景と、隣にいる仲間の存在によって増長していた。
彼女達が一人の時には、見ず知らずのわたしを訪ね、自分の所属する宗教に勧誘することなど出来るはずもないのである。
本当に良いものであるのならば、いつ、どこで、誰にでも、自分の信じている宗教を紹介し、勧誘することが出来るはずなのだ。
一人では赤信号を渡ることも出来ない小心者が、集団であれば堂々と赤信号を渡るのである。
権威(けんい)に従うことによって、自分が強くなったと思い込んでいる人達は、根拠のない自信に執心(しゅうしん)するのである。
そのことで、自ら考えることをやめる。
宗教儀式を続けていれば、天国や浄土(じょうど)へ辿り着くことが出来ると思い込んでしまうのである。

2019年2月13日水曜日

追憶 2320

多くの人に支持されているものに価値を見出すのであれば、北野たけしさん(ビートたけし)の"赤信号みんなで渡れば怖くない"という言葉が現実味を帯びてしまうだろう。
一人の時に赤信号で道を渡る人は少ない。
周囲に歩行者も交通車両もいない真夜中の赤信号でさえ、自動車を運転している大抵の人が律儀(りちぎ)に停車するだろう。
それは、赤信号で道を渡るリスクを想像することが出来るからだ。
そのようなことは、子どもでも理解することが出来る。
しかしながら、仲間が増えることによって、人は冷静さを失ってしまう。
赤信号であっても、皆と一緒であれば大丈夫だという何の根拠もない自信を抱いてしまうのである。
以前に、都内の交差点において、歩行者がサイレンを鳴らしている救急車に対して道を譲らなかったという動画を見たことがあったが、集団心理というものは、ここまで人の愚かさを炙(あぶ)り出すものかと考えさせられたことがある。

2019年2月12日火曜日

追憶 2319

多くの人は、権威に従うことが好きである。
有名なものを、有名というだけで好む。
多くの人に支持されているのだから、自分にも良いものであるという思い込みが働くのである。
しかしながら、実際には、多くの人に支持されているものであっても、自分には合わないということが多々ある。
人には、それぞれの道が存在し、それによって必要が異なるのが自然であるだろう。
多くの人に支持されているものが、自分にとっての必要であるということもあるだろうが、大抵の場合、それは思い込みであるように思えて仕方がない。
例えば、スマートフォン(スマホ)は多くの人に支持されているが、それを様々な面で苦痛に感じる人もいるだろう。
そこまでの必要性を感じることもなく、利用している人も多いのではないかと思える。
多くの人に支持され、便利だと言われている近代的な生活を好まない人もいるのである。

2019年2月11日月曜日

追憶 2318

宗教の”神”というのは、”神”の様な力を持った高度な知的生命体のことや、優れた人格者や、権威(けんい)を振りかざす詐欺師のことであるだろう。
昔から変わらないかも知れないが、今日(こんにち)の宗教は、権威を振りかざす詐欺師が運営している。
そのため、宗教に携わっている人達は、盲目的に従うことを続けるだけである。
権威を振りかざす詐欺師は、権威を失うことを恐れる。
そのため、権威を失うことのないように立ち振る舞うのだ。
権威を継続するためには、人々を無知にとどめておけば良い。
恐怖を与え、権威の下に縛り付けておけば良いのである。



2019年2月10日日曜日

追憶 2317

人類の宗教人口は、無宗教の人口を遥(はる)かに上回っているだろう。
ここでいう宗教人口とは、宗教儀式に携わる人の数のことである。
自発的に考えるのが思いやりであり、妄信的(もうしんてき)且(か)つ盲目的(もうもくてき)に従っているのが宗教であるとわたしには思える。
人類の大半の人達は、自発的に考えてはいないだろう。
自発的に考えている人などいないのかも知れない。
わたし達は、様々な情報を教育という形で受け取っている。
大抵の情報が、幼い頃からの習慣によって無意識のうちに擦り込まれる。
人は、親という絶対的な権威(けんい)に従ってきた経験から、基本的には権威を疑うことはしない。




2019年2月9日土曜日

追憶 2316

思いやりを以(もっ)て生きることと、宗教における儀式行為は、”神”への信仰という括(くく)りにおいて同じことである。
分類によっては同じである”神”への信仰は、全く異なる形で表現される。
同じ鉱物であるダイヤモンドとその辺に転がっている石ころは、全く異なる姿形(すがたかたち)をしており、その価値も全く異なっている。
その辺に転がっている石ころをどれだけ集めても、価値を得ることは出来ない。
なぜなら、その辺に幾らでも転がっているからだ。
しかしながら、同じ鉱物であるダイヤモンドには、とても高い価値が与えられる。
それは、見た目に美しく、人の心を強く魅了(みりょう)するということもあるが、それにも増して価値を高めているのは、それが希少(きしょう)だからであるだろう。
ダイヤモンドがその辺に幾らでも転がっているのならば、価値は認められないのである。




2019年2月8日金曜日

追憶 2315

思いやりも低次なものであれば、利己的なものである。
当人には思いやりと思えるものであったとしても、どのように考えても、相手にはそのように認識されないこともある。
それは、外を飾る独り善(よ)がりの思いやりであって、本質的には思いやりとはいえないようなものなのだ。
しかしながら、レベルの違いはあれ、思いやりには変わりがない。
ダイヤモンドから、その辺に転がっている変哲も無い石ころであっても、同じ鉱物なのである。
しかしながら、ダイヤモンドとその辺に転がっている石ころを同じと考える人はいないだろう。
同じ思いやりであっても、全く異なるということを理解しなければならないのである。

2019年2月7日木曜日

追憶 2314

思いやりを以(もっ)て生きることこそが、”神”に対する信仰であるということなのである。
方法がそれぞれに異なっているのは仕方のないことだ。
人は、それぞれの方法によって、思いやりを体現するのが良いであろう。
そうすれば、意識が汚れることはなく、霊的な守護者が歪むこともないのである。
しかしながら、思いやりにも様々なレベルが存在することを知らなければならない。
形式に捕らわれているのならば、そのことに気が付くことは難しいだろう。
なぜなら、形式に捕らわれることによって、それ以上に考えを深めることをしないからである。



2019年2月6日水曜日

追憶 2313

”神”という存在は、恐らくは、この世界が存在する以前から存在していただろう。
少なからず、わたし達が人生を始める前には存在していたと思われる。
わたしのいう”神”とは、宗教の神のことではなく、この世界を生み出した何等かの意識やエネルギーのことである。
無から有が生まれるにしても、何かの作用が必要であると思うのである。
無から有が生まれるためのエネルギーが存在していた(いる)はずなのだ。
わたし達は、何も持たずに生まれて来る。
持っているものといえば、心と身体くらいのものであろう。
”神”への信仰心は教育によって後に植え付けられるものであるが、その土壌は初めから備わっているように思える。
それは、どのような人物にも、初めから思いやりが備わっているからだ。
世間でいうところの悪人であっても、仲間は大切にするだろう。
テロリストや殺人鬼(彼等が悪いかどうかは分からないが…)にも、思いやりは備わっているのである。



2019年2月5日火曜日

追憶 2312

”神”への信仰は、いつ、どこで、誰にでも行うことが出来る。
日々の生活を思いやりのあるものにすれば良いだけだ。
老女のように、自らの置かれている現状に対して嘆(なげ)いたり、不平不満を吐くことは”神”への信仰ではない。
現状がどのようなものであれ、それを思いやりの心で受け取ることが、”神”への信仰であるだろう。
”神”は、無駄なことをしない。
そもそも、この世界には無駄は存在しないのである。
すべてが調和の中に存在しているのだ。
残念ながら、人にはそれを理解することが出来ないだけである。
”神”への信仰が本物であるのならば、どのような現状に対しても、心穏やかに向き合うことが出来るはずだ。
しかしながら、それは難しい。
誰もが老女のように、現状に対して心を乱しているのである。

2019年2月4日月曜日

追憶 2311

外を飾ることは、偏見と誤解の結果である。
知恵は、内を飾ることを教えるのだ。
外は、内の結果であるということを理解するのであれば、外を飾る必要がないことを知るだろう。
例えば、”神”に対する信仰というものは、内で行われるものである。
内で行われた信仰が、所作(しょさ)として自然と現れ、外を飾るのである。
”神”への信仰とは、偶像を拝(おが)むことや、念仏や祝詞(のりと)や祈りを唱えることや、儀式を執(と)り行うということではない。
”神”への信仰には、特別な場所も、特別な道具も、特別な方法も必要ないのである。
自らを磨き、思いやりを以(もっ)て生きることこそが、”神”への信仰であるということを理解しなければならないのである。



2019年2月3日日曜日

追憶 2310

すべての人は、他者を気に掛ける。
すべての人は、他者と自分を比較するのである。
それは、人生の目的である成長を実現するための"発破(はっぱ)"なのだが、多くの人はそれを歪めてネガティブに受け取ってしまう。
その結果として、他者と比較することで自分が劣っていると思い込んでしまうのである。
実際には、人はそれぞれの役割を担(にな)っているために優劣を付けることは出来ない。
子どもの頃には知っていた、それぞれが特別であり、また普通であるということも、人の世に馴染(なじ)むに連れて忘れてしまうのである。
それは、人の世が偏見と誤解によって形作られているからだろう。

2019年2月2日土曜日

追憶 2309

外を飾ることに専念している人の歩みは歪んでいる。
内に存在している答えを知らないために、迷うのである。
迷いは悩みを生じさせる。
そのため、人は悩みと共に生きなければならないのである。
幼い頃には悩みはない。
それは、外を飾ることに関心がないからだ。
子どもは、自分が他者にどのように映るかを気にしない。
それは、子どもが自分の世界を生きているからである。
すべての子どもは内を飾る。
それは、幸福な状態である。
人が悩みと共に生きなければならないのは、他者を気に掛け、外を飾ることを覚えてからであろう。



2019年2月1日金曜日

追憶 2308

どうして鯨(くじら)の子どもは、生まれた瞬間に水面を目指すことが出来るのか?
水面の外に空気があることを知っているのだろうか?
どうして蜘蛛(くも)は、教わってもいないのに、幾何学的な巣を作ることが出来るのか?
カッコウという鳥の雛(ひな)は、どうして托卵(たくらん)によって羽化した後、他の鳥の卵や雛を巣の外へ追いやることが出来るのだろうか?
そして、自分自身が大人になった時に、どうして托卵する必要があることを知っているのだろうか?
自然界の生命は、教わってそうしているのではないだろう。
そう決められているから、そうしているのである。
答えは内に存在しているのである。
自然界の生命は、外を飾る必要がない。
そのために、内に存在する能力を発揮し、役割を果たすことが出来るのだ。