このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2014年2月28日金曜日

追憶 538

純真無垢な子どもや、ペットである動物など、楽しい気配を持つ存在に接する時には、その楽しさの恩恵を受けることができるの。
わたしは今までにそのような体験を何度もしてきたのである。
ラミエルという女性は天使であると推測されるが、彼女からは汚れというものを感じられない。
大天使ミカエルもそうだが、彼らを目の当たりにすると自分がいかに未熟であり、いかに汚れているのかが分かる。
わたしは負い目を感じるのだ。
わたしの心の中には汚れた感情があちらこちらに積み上げられているの。
Hさんにもそれと同じことが言えるだろう。
わたしがHさんの心の中で見た扉の向こうの漆黒の世界こそが、未熟さの証明であり、心の汚れなのである。

2014年2月27日木曜日

追憶 537

わたしがHさんに対して話すことには楽しさが含まれていた。
楽しかったことを話すのだから、そこに込められる感情は楽しいものなのである。
わたしはHさんの背中に向かってラミエルという女性のことを話しているが、背中からでもわたしの話に興味を示し、それを楽しそうに聞いてくれているのを理解することができた。
人の感情は伝染する。
わたしが楽しければ、目の前にいるHさんも楽しいのである。
楽しいことを考えている人と共にあれば、どのような人でも楽しいことを考えてみようと思うものであろう。
天使の光を見たわたしが、ネガティブな感情を持つことはない。
それは、その瞬間はすべての苦しみから解放されるからである。
苦しみを所有していなければ、人は幸福なのである。

2014年2月26日水曜日

追憶 536

手に入れたいと思うものが人の夢になる。
手に入れたものが夢になることはないし、時間の経過と共にそれに対する情熱も薄れてしまうであろう。
だから、人は未知を追求し続けなければならないのである。
わたしには人生に対する希望がある。
それは、進みたい道、手に入れたいものを見付けたからである。
霊的な存在たちと対峙していると、その気持ちが一層大きくなる。
楽しい気持ちが溢れ、高揚が止まらなくなるのだ。
天使は天界の光と共にある。
その光に触れることは、今までの人生の中でも最大級の喜びなのである。
それは、わたしの目標と言うべきものとなりつつあった。


2014年2月25日火曜日

追憶 535

どのような理由を並べても、ラミエルという女性が天使であるという証拠にはならない。
この世界には分からないこともたくさんあるだろう。
寧ろ、分からないことの方が多いのかもしれない。
人の心に触れる度に、わたしは今までに知らなかったことに出会う。
そこでわたしは自らの未熟さを知るが、この世界の面白さにも触れることができる。
知らないことを発見することほど、人が喜びを感じることはないであろう。
未知を体験することにより、人は人生に希望を見出すのではないだろうか?

2014年2月24日月曜日

追憶 534

自分の見ている世界以外を否定するのであれば、生きる世界はそれ以上の広がりを見せることはないだろう。
先人は水平線の先に別の大地、別の文化を夢見たのである。
知らないこと、見たことのない世界を受け入れる体制があったからこそ、今のわたしは地球という世界と、宇宙という視野を得たのである。
元々、わたしは霊などという存在を知らなかった。
しかしながら、霊たちの存在する世界に触れることによって、わたしの古い常識は脆(もろ)くも崩れ去った。
天使など空想上の存在であると決め付けていたが、どうやらそれも違うようである。
わたしはHさんの心の中で出会ったラミエルという女性は天使なのではないかと思うのだ。
それは、彼女に大天使ミカエルと同じ光を見たからである。
彼女は自分のことを天使だとは名乗らなかったが、きっとそうである。
今まで大天使ミカエルを除いた白人の霊に会ったことは無かったからだ。




2014年2月23日日曜日

追憶 533

第六感と呼ばれている能力が人に備わっていることを説明するのは難しい。
それは、人が普段意識して扱っている能力ではないし、だいたい扱っているのかも疑問である。
そのような超感覚が人間に備わっていると思う人には備わっているだろうし、備わってはいないと思う人には備わっていないであろう。
わたしは自分が見ている世界を他人に理解して欲しいとは思わないし、説得しようとも思わない。
ただ、わたしはそのような世界を見ているのだから、わたしにはそのような世界が存在しているのである。
視野が狭ばれるなら、可能性も狭ばれる。
人は視野の広さや思考の大きさ、世界に対する許容の範囲によって人生を築いているだろう。

2014年2月22日土曜日

追憶 532

過去の記憶を分解して、更に結合したものが夢だと言われる。
確かに夢はそうだろう。
しかしながら、大抵の夢には脈絡(みゃくらく)が無い。
しかしながら、わたしが見ているものには明確な脈絡を感じるのである。
わたしが今までに見てきた睡眠時の夢は主観的なことばかりで、夢の中の登場人物はわたしの意識を反映しているように思える。
しかしながら、わたしが見ているものは登場人物がそれぞれの意思を持ち、わたしに様々な感情を投げ掛けてくる。
夢の中ではこのようなことは無かったと記憶しているのだ。
現実世界のように別の意識がそこにあり、それぞれが己の欲求のままに存在している。
これが夢であるなら、登場人物たちはわたしの予測の範囲内にいるだろう。
そのことから、わたしは自分が見ている世界を異次元に存在している別の世界だと思うのである。

2014年2月21日金曜日

追憶 531

光が視界を奪い、更にはわたしからラミエルをも奪い去った。
気が付くと目の前には暗い空間が広がっていた。
それが瞼(まぶた)の裏側であると認識するのに時間は必要ではなかった。
重たく感じる瞼を押し上げると、Hさんの背中が見える。
わたしはいつの間にかにこの世界に帰ったようである。

意識の世界での体験は夢のようである。
わたしはそれらを自分から想像はしていない。
わたしが見ているものは外の世界に存在しているものであると、自分ではそう思っている。
頭がおかしくなったと言えばそうなのかもしれない。
統合失調症である可能性もあるだろう。
しかしながら、わたしに見えるものはわたしの過去の経験とは全く関係のないものであると思える。
そして、わたしには霊や狐や龍や天使…
そのようなものを生み出す想像力は無いと理解している。

2014年2月20日木曜日

追憶 530

わたしは考えているのではない。
わたしは脳よりも、更に優れた器官によってそれを理解するのである。
それは、魂というものであろう。
考えても理由は分からない。
思考に至るまでに理解が及んでしまう。
本能的な反射によって、わたしはラミエルという女性を愛しているのである。
わたしは彼女の中に、純粋過ぎるほどの愛情を感じるのである。
それがわたしを虜(とりこ)にして離そうとしない原因なのだ。
ラミエルは優しい眼差しをわたしに投げると、目を閉じて両手で自らの胸を押さえた。
すると、彼女を温かな光が包み込み、わたしは視界を失った。

2014年2月19日水曜日

追憶 529

わたしは思考を紡げずにいた。
わたしはただ受け取るだけである。
ラミエルという女性はその甘い唇を微かに動かし、わたしを夢の中へと導くようである。
彼女が言葉を発する度に、わたしの脳は溶けていくのだ。

「わたしの名はラミエル。わたしはこの者(Hさん)と共にあります。わたしは光、わたしは愛、わたしはすべてと一つ、わたしは神の子、わたしは神と一つ、そこに分離はありません」

その言葉を聞いた時、わたしは幸福の中にいた。
何とも言えない良い気分がそこにあったのだ。
わたしの魂がラミエルという存在そのものを欲している。
彼女はわたしたちにとって、大切な人なのである。

2014年2月18日火曜日

追憶 528

彼女を目の当たりにして、わたしは自分が緊張しているということに気が付いた。
胸の奥が激しく脈打ち、熱を帯びている。
わたしはドキドキする心を彼女に気付かれないように落ち着かせようと必死だった。

「わたしの名はラミエル…」

その時、わたしは小川のせせらぎよりも、風によって枝葉が鳴らす音よりも、鳥たちの歌声よりも、わたしが今までに聞いた中では最も美しい声を聞いた。
それは一瞬にしてわたしの心を引き寄せ、抵抗する間も与えずに釘付けにしたのである。
彼女の美しいブロンドの髪、そして、柔らかな眼差しに勝る術をわたしは知らなかった。

2014年2月17日月曜日

追憶 527

人の形をしたものが大きくなる程に、わたしの中の高揚感は高ぶりを見せた。
嬉しさが次々に溢れ、わたしは自分自身の感情を抑えることが難しかった。
頬を一筋の涙が滑り落ちた時、わたしは目の前に一人の優美な女性を認識した。
彼女は美しいブロンドの髪を胸の辺りまで伸ばし、それが微風になびいていた。
そして、その美しい髪に引けを取らない雪のように光沢のある白銀のドレスを身にまとっていた。
そのドレスには目立った装飾は無く質素なものであったが、一目で上質な生地であることが理解できた。
それは、この世のどのような絹(きぬ)よりも、滑らかであり美しかった。

2014年2月16日日曜日

追憶 526

頭上に輝く光は「愛」である。
わたしがそう思うのだから、わたしの中ではそうなのだ。
わたしは充足感に満たされて幸せだった。
頭上の光を眺めていると、光の中に黒い点を認識した。
それは何かが逆光を受けて影を形成しているようであった。
目を細めて注視する。
すると、それは人間の形をしていると理解することができたのである。
人間の形をしたものが遥か頭上から舞い降りてきている。
わたしはなぜか、電車に乗っている恋人が到着するのを待ちわびているような心境だった。
人間の形をしたものが、早くわたしの元へと降りてくるのを願っていた。
あの人がわたしの元へと辿り着いた時、わたしは更なる幸福感を得ることになるだろう。

2014年2月15日土曜日

追憶 525

頭上に輝く光は、何も持っていないわたしに、何も必要ないと教えてくれているようであった。
今のわたしは何も持たずに満たされているのだ。
人の幸福というものは、精神的な事柄に由来していると思えた。
多くの物を持っていて不幸な人がいて、ほとんど何も持たずに幸福な人がいる。
例えば、結婚しているのに不幸を感じている人がいる一方で、独り身でいて幸福な人がいるのである。
幸せとは人それぞれのものであり、人と同じ物を同じ量持っていたとしても、それだけでは十分ではないのであろう。
わたしは多くの所有物を持つことが幸福であると考えていたが、それはまだまだ浅い考えであったのだ。
「愛があれば幸せだ」こんな台詞をドラマで聞いたことがあるが、「愛があればどのような状態にも幸せを感じることができる」もしくは、「愛がなければ何を所有しても幸せではない」ということが言えるのではないだろうか?

2014年2月14日金曜日

追憶 524

理由は優しいからである。
わたしは優しさに安心し、満たされているのであった。
これは幸福というものであろう。
今のわたしは何も持っていない。
お金も、車も、宝石も、家も、家族も、友人も、仕事も、食料も…
今のわたしは普段わたしが思い付く何によっても幸福を感じていない。
わたしに幸福感を感じさせているのは、ただ優しい気持ちなのである。
わたしはお金や家などの所有物を否定しているのではない。
所有物が不足しているなら、それを補うことに精一杯であり、そのような状態では幸福を感じることはできないだろう。
所有物が十分な状態であるなら、人はとりあえずの安心を覚えるだろう。
そして、その安心を土台として優しい気持ちという種を蒔けば、やがて幸福という木が育つのである。



2014年2月13日木曜日

追憶 523

頭上に輝く光は、自然界に存在している光とは様子が違って見えた。
それは直線ではなく、陽炎(かげろう)のようにゆらゆらと優しく輝くのである。
金色の炎が円形に揺らいでいるようであった。
それは、印象派の絵画のように朗らかで光に満ちているものであった。
その時、わたしは優しい気持ちによって満たされていることに気が付いた。
それは、わたし自身が優しい気持ちに抱かれているからである。
頭上に輝く光からは、暖かで優しい気持ちが降り注いでいるのだ。
それがわたしの周囲を固めているのである。
それは、春の兆(きざ)しのように生命力に溢れる力であった。


2014年2月12日水曜日

追憶 522

Hさんに対して必要だと思うことを話していたが、わたしには気になることがあった。
それは、わたしたちの頭上に光る何かが見えるのである。
見えるというよりは「分かる」と言うべきであろうか?
それはとても眩しいものであり、わたしの注意を引き付けるには十分なものであった。
わたしは話をしながらも、その光る何かを気にしていた。
どうしても気になるのである。
それは徐々に輝きを増して無視することができないほどになっているのだ。
わたしは丁度良いところで話を区切り、頭上に輝く光に対して意識を集中することにした。

2014年2月11日火曜日

追憶 521

わたしは目には映らない存在たちに助けられて生きてきた。
思い返してみると、そう思える状況が幾つもある。
わたしは自分独りで生きているのではない。
他人に助けられるように、人知を超越した存在に助けられながら共に生きているのである。
わたしがHさんの心に至り、そこで様々な状況を体験することができるのも、人知を超越した存在たちの助けであり、導きだと確信している。
人類が様々な文化を発明してきたのも、人知を超越した存在たちの助けがあってのものであるだろう。
話が大きくなってしまったが、わたし個人としては確実にそうなのである。
わたし独りの力でここに存在しているのではない。
信じなくても良い。
信じて欲しいとも思わない。
ただ、わたしはそのように感じているのである。

2014年2月10日月曜日

追憶 520

わたしは心の中に浮かんでくる思いをできる限り詳細に、できる限り簡単にHさんに伝えた。
これは、大天使ミカエルの意向であると考えている。
わたしは何を話そうか?などとは考えていない。
考えたところで、人生経験の浅いわたしには的確な答えを示すことなどできることではなかった。
わたしは心に浮かんでくる「ひらめき」を頼りにしているのである。
それは、内部からのものではあるけれど、外部からのものであると感じるものであった。
わたしが人に人生を示すなど、愚かなことであると承知している。
だから、わたしはわたしの個人的な意見は言わないようにしていた。
それが個人的な意見であれば、確実に前置きをしてから話す。
そうでなければ、未熟はわたしには誰かを助けることなどできるはずがないだろう。
わたしは、未熟ながらも大天使ミカエルをはじめとする意識的な存在たちに助けられているのである。


2014年2月9日日曜日

追憶 519

我慢をするから不満が生まれ、嘘を吐くから不安になる。
人は純粋な存在である。
わたしたちは子どもであったのだ。
それが、いつの間にかに純粋を脅かし、捻くれて懐疑的になってしまった。
反吐(へど)のような嘘を吐き、他人と自分を騙している。
嘘つきな人間が祝福されるだろうか?
自分に悪気がなくても、相手や自分自身の心がそれを悪気だと認識するのならば、それは破滅的な結果をもたらすのである。
わたしたちは心の中に毒の感情を入れないようにしなければならない。
心が毒に犯されてしまった人が幸福を感じ、豊かに生きる方法などないのだから。

2014年2月8日土曜日

追憶 518

わたしたちは、生み出される感情を一つ一つ建設的なものに加工して、それを消化しなければならない。
それは、食物を調理する時に毒を取り去るようなものである。
毒が残ったままの食物を飲み込んでしまえば、体調を崩すのは当たり前のことなのである。
毒を取り去ることもなく体調を崩すと、多くの人は薬や手術によってそれを改善しようと試みる。
これは、宝くじや神頼みと同じように一発逆転を狙ってのことである。
薬や手術が悪いと言っているのではない。
問題が生じたら対応するのは当たり前のことである。
しかしながら、体調を崩す前に毒を取り去っていたなら、体調を崩すことも、薬を飲んだり手術をすることもないのである。
問題が起きてから対応するよりも、問題が起きる前に対応しておく方が賢いのではないだろうか?


2014年2月7日金曜日

追憶 517

本音と建前を使い分けることは、人が人間関係を円滑に進めるためには必要なことであろう。
相手の機嫌を損なうことをわざわざ伝える必要はないし、相手を傷付けこともないのである。
そんな時は、相手が機嫌を損なわないような表現を用いるのも良いし、黙っておくのも有効である。
相手を苦しめるのであれば、飲み込む方が良いと思える。
しかしながら、余りに溜め込んでしまい、自分自身が苦しむのは愚かである。
わたしたちは、心の中に抱える不満などの消化不良の感情を自分の力で上手く処理しなければならないのである。

2014年2月6日木曜日

追憶 516

人は楽を求める生き物である。
楽なことは良いことである。
何事も合理的な方が良いに決まっている。
しかしながら、多くの人が求めているのは合理的な方法ではなく、自分が苦労しない方法なのである。
合理的な方法を用いても苦労することはある。
合理的な方法でさえ、楽ではないこともあるのだ。
例えば、宝くじや神頼みによって人生が変わることなどない。
それらがどのように作用したとしても、自分自身の所有する方法が拡張されるだけなのである。
宝くじが当たり、大金が転がり込んできたとしても、そのお金の正しい使い方を知らなければ苦労するのである。
神頼みによって救われたとしても、神が報酬を必要としているということを理解しておかなければならない。
目の前の問題(学び)から逃れるという方法によって一発逆転を狙うのは、賢くないと言えるだろう。

2014年2月5日水曜日

追憶 515

わたしたちは、いつの間にかに形成した考え方をより良いものへと改善しなければならないだろう。
それは、より豊かに生きるためである。
どのような人物であっても、頭の中にネガティブで破滅的な考え方や、心の中に苦しみの感情が(ポジティブで建設的なものよりも多く)存在しているのであれば、豊かな人生を生きることはできないであろう。
今までやってきたことは、これまでの人生という時間をかけて形成してきたものである。
それは、塵(ちり)が積もった山である。
簡単にどうにかすることはできない。
時間をかけてゆっくりと変えていくしか方法はないであろう。
人生に一発逆転を狙う人がいるが、そのような簡単なものではない。


2014年2月4日火曜日

追憶 514

すぐにできることなら、既にやっているし、できているだろう。
できていないからこそ、それが問題として実現するのである。
わたしが心の中で体験したことを伝えると、Hさんは人間関係に悩んでいると告白してくれた。
どこに行っても、そこで敵となる人が現れるそうである。
わたしにはそれが自分自身の考え方や価値観といものを改善するための学びなのではないかと思えた。
自分の顔色をうかがったり、建前で向き合ってくる相手に対しては、誰だって警戒してしまうのではないだろうか?
それを何かの企(たくら)みと捉える人もいるだろうし、そのような態度に腹を立てる人もいるのである。

2014年2月3日月曜日

追憶 513

わたしたちは、良い気分を以て生きなければならないのではないか?
そうでなければ人格が向上することはないと思えてならない。
歳を重ねても不平不満を連ねる人がいるが、そのような姿に憧れを抱くことはなかった。
文句ばかりを言う人間、逆に塞ぎ込んで鬱々(うつうつ)としている人間は、それに関わる人を不快にさせるのである。
それは、未熟者の仕業である。
わたしがそうであるように、そのような未熟者は例外なく不幸なのである。
だから、わたしは不幸なのだ。
この未熟な精神がわたしを不幸にさせている。
Hさんも不幸であると断言しよう。
わたしたちは、この不幸を生み出す心(考え方)の構造から抜け出さなければならないのである。



2014年2月2日日曜日

追憶 512

人は、自らの体験を元に考え方を構築し、その考え方によって人生を選択する。
そして、その選択が導き出す状況を体験し、更なる考え方の構築が行われるのである。
人生とは、そのサイクルの中で自分自身を向上させるためのものなのではないだろうか?
その体験を楽しいものだと考えた人は、良い気分を味わうだろう。
それを苦しいものだと考えれば、気分を害するのである。
良い気分の時、人は素直でいられる。
そこには、本音を隠す嘘偽りというものは必要ないのである。
気分を害している時には、人は自分自身を守ろうとしている。
その時には本音を隠し、建前によって嘘偽りというものを実行するのである。
その時に心は二重構造を得るのである。

2014年2月1日土曜日

追憶 511

しかしながら、目の前に起こる現象とはどこから来るのであろうか?
なぜ、そのような状況が自分に訪れるのだろう?
人は同じ状況を得ないものである。
三人兄弟の次男坊であるわたしは、その他の二人とは全く違う状況を体験し、全く違う状況を生きている。
同じ家庭環境で、同じ両親に、同じように育てられながらも得る状況は違うのである。
それは、目の前に起こる現象というものが、自らの考え方を反映しているからに他ならないからであろう。
厳密に言うと、どのような人も同じ人に同じことを教わる訳ではない。
親であれ、同じように接していても子どもの性格に合わせなければならない。
それに、子どもはそれぞれの場所でそれぞれのものを見て、それぞれの人に会う。
そこで考えることはそれぞれの体験に基づくものになる。