このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2013年12月31日火曜日

追憶 479

心が静まると、わたしは自分自身よりも大きな意思を感じるような感覚を得る。
それは、大きな力に導かれているような感覚であり、次に何をするべきであるのか?という欲求がどこからともなく自然と沸き起こるのである。
わたしは見えない意思を見つめ、聞こえない声を聞いているのであろう。

Hさんの背中を眺めると、わたしは無性に嬉しくなった。
理由は分からない。
ただ、嬉しいのである。
それは、離れて過ごしていた旧友に久しぶりに会う前のような緊張感と高揚感であった。
高鳴る胸の鼓動は身体を飛び出し、部屋の中を駆け巡るのではないかと思うほどである。


2013年12月30日月曜日

追憶 478

呼びかけに対して進み出たHさんは、わたしの目の前の座布団に背中を向けて腰を下ろした。
小さい背中からは、少しの緊張と未知への楽しみが伝わってくるようである。
その背中を確認したわたしは、ゆっくりと目を閉じた。
そして、できる限りゆっくりと深く息をした。
それは、心を静めるためと、集中力を高めるためである。
その方法が実際に集中力を高める効果があるかは分からないが、自分自身では効果があると感じている。
この世界には、静かな心で見なければ見えないものがたくさんあるのだ。
わたしが見なければならないものは、静かな心によって見えてくるものである。

2013年12月29日日曜日

追憶 477

わたしは心に従って新たな一人を指名した。
彼女のことをHさんとしよう。

「よろしくお願いします」

その声の中には、不安と期待と緊張が見て取れた。
Hさんはとても明るい性格の持ち主である。
わたしのHさんに対する印象の中で最も強烈なのがそれであった。
いつも笑顔で楽しそうにしている、という印象を思い出す。
わたしは自分自身のHさんに対する印象が比較的に良いものであることを楽しんだ。
彼女は所謂、わたしの中では「良い人」であったのだ。

2013年12月28日土曜日

追憶 476

静かに目を閉じて自らの心の中に静寂を探す。
精神が疲労しているため、リラックスすることが難しく感じた。
それでも、わたしは努めて心を静めた。
心を静めていると、精神の疲労が軽減するような感覚がある。
それは、睡眠に至り、休まるような感覚である。
時間にすると一分も経っていないであろうが、わたしは自らの精神が回復するのを感じていた。
疲労感が完全に無くなるという訳ではないが、気にならない程度にはなっていた。
わたしは静寂に至り、穏やかな気持ちになった。

「呼びなさい」

わたしは脳裏に輝く光を見た。

2013年12月27日金曜日

追憶 475

どのような人にとっても、人生には不満や不安を生み出す要因があると思う。
人の心が未熟であるのだからそれは避けられないことであるだろう。
人がそのように捉えてしまうのである。
しかしながら、そのような状況にあって見出された希望は、それが息を吹きかけると消えてしまうような微かな光であれ、大切にしなければならないだろう。
希望は誰にとっても大切なものである。

力を使った後は、いつも疲労感があった。
それは、精神を必要以上に拡張し、普段は使っていない感覚によって状況を捉えているからに違いない。
わたしは重たい身体と精神を感じながら、静かに目を閉じた。
それは、次の仕事の指示を待つためである。

2013年12月26日木曜日

追憶 474

自分自身という内の状態と、状況や環境などの外の状態が改善されれば、どのような人であっても幸福を得ることは確実であるだろう。
内と外の状態が充実して初めて、人は幸福を得るのである。

「もう良いでしょう」

その時、わたしは心の中に響く声を聞いた気がした。
それは、彼女に対する仕事が終わりであるということを告げる大天使ミカエルからの啓示であったように思える。
わたしはその意思に従って、彼女に元の位置に戻ってもらった。
元の位置に戻って座る彼女の表情は、初めに比べて若干明るくなったように思えた。
どこがどうということはないのだが、違うと感じるのである。
それは、希望への兆しであるのかもしれない。


2013年12月25日水曜日

追憶 473

人が誰かや何かに頼ることなく、自分自身によって満足を得ることができたなら、そこに不足(不満や不安)を感じずにいられると考えるのは甘いだろうか?
それが希望的観測であったとしても、そこに希望という可能性が存在しているのであれば、それを掴みたいものである。
人の心が完全に満たされることはないであろうが、自助努力によって不足を軽減するということは可能ではないかと思える。
これから、彼女は日常の不満や不安に対して、その不足を軽減するために努めなければならないだろう。
それは、自分自身の考え方や捉え方を変えることと、行動によって状況や環境を変えていくことである。

2013年12月24日火曜日

追憶 472

人が不満や不安の感情に頼るのは、自らの心に不足を感じているからなのではないだろうか?
幸福を感じている時には、大抵のことは気にならないものである。
わたしや彼女が不満や不安を感じているのは、誰かや何かに原因があるように見えるが、本当の理由はそこにあるだろうか?
結局は、自分の心の不足によって満たされない心を、誰かや何かのせいにして目を逸らしているだけではないのか?
わたしはそのように思うのである。
誰かや何かのせいにしていては、いつまで経っても満足することなどできないであろう。
わたしはこれまでの人生において、誰かや何かに頼ることによって自らの心を見たそうとしてきたが、それが意味の無い虚しい行為であるということに気が付き始めている。
しかしながら、具体策が無い為にわたしは足踏みをしているのである。

2013年12月23日月曜日

追憶 471

人が苦しみを抱えながら生きているのは、その心が繊細であり、微かな揺れにも敏感に反応してしまうからである。
良く気が付く人ほどそのような傾向が強いであろう。
図太い人というのは、鈍感な人なのではないだろうか?
わたしには苦しみを抱える人が悪人だとは思えない。
世間では、悪いことをした人を悪人だと決め付けるところがあるが、わたしはそう思わない。
わたしは幼い頃から人に迷惑をかける「悪いこと」をたくさんしてきたが、そこには悪気や悪意があった訳ではない。
わたしには微塵の悪気も悪意もないため、何故怒られるのかを理解することが難しかったのである。
もちろん、明確な悪意を以て「悪いこと」をする人はいるだろうが、元々が悪人だった訳ではない。
どのような人にも悪意や「悪いこと」を選択するきっかけが存在していたのである。
今になって冷静に分析すれば、わたしが「悪いこと」をしたのは、自らの満たされない心を無意識の内に満たそうとしたり、不満や不安などの恐怖から逃れるための手段だったのではないかと思えるのである。

2013年12月22日日曜日

追憶 470

わたしがしていることは不満や不安という破滅的な感情への反抗である。
現状のわたしには、それらに逆らい、打ち勝つことでしか改善する方法が見付けられなかったのである。
他に良い方法があるはずだが、今できることは不満や不安の感情に対して歯向かうことくらいである。
そして、彼女にもそのようにしてもらうことしかできなかった。
何が良いのかは分からないが、今のわたしには心が穏やかにあることが最善であると思えるのだ。
心が平穏に満たされ、平和な状態であることが幸福に対しては重要であるのではないかと思えるのである。
心が乱れているというのはとても苦しいものだ。
それはどのような人にでも当てはまることなのではないかと思える。
不満や不安の感情はそれをいとも簡単に実現してしまう。
人の心は繊細であると言えるだろう。
人は誰もが繊細な心を所有している。
そのために、様々なことに対して心が乱れるのである。

2013年12月21日土曜日

追憶 469

人は誰もが不満や不安を抱えて生きている。
そして、それが当たり前だという価値観が蔓延している。
多くの人が人生には不満や不安が生じて当たり前だと考えているのである。
誰かのことを悪く言うと、それに共感し、誰かのことを悪く言う。
何かに対する不安を口にすると、それに同調し、不安を煽(あお)る。
ほとんどの人がその考え方が間違っているとは言わない。
ほとんどの人がこの方が良い考え方であると提示しない。
不満や不安に対して共感し同調することが当たり前になっているから、不満や不安は更に大きくなるのである。

2013年12月20日金曜日

追憶 468

自分を変えるのは他人ではない。
どのような人物も、自分を変えることができるのは結局自分自身なのである。
わたしには彼女を変えたいという願望はあっても、それを実現する力はない。
人は誰もが、自分で自分を変えるのである。
彼女がどうするのかは、今後の彼女次第である。
一通りの話を終えると、彼女はわたしに日常の中に潜んでいる不満や不安を教えてくれた。
それは誰かに対する不満であり、現状に対する不安であった。
わたしは彼女の告白に対して、それを理解することができる。
それは、わたしにも同じような状況が多々あるからである。

2013年12月19日木曜日

追憶 467

わたしは彼女に対して、自身の失敗を話した。
それは、わたしの失敗を聞くことによって、自身の選択に客観性を持たせ、それによって違う道を選んでもらいたかったのである。
わたしの失敗談に対して彼女がどのような感想を覚えたのかは分からないが、不満の感情から遠ざかることができれば良い。
今のわたしが彼女に対してできることといえば、彼女の心の中に客観性を持たせることくらいである。
わたしは何とかして彼女を変えたいと考えていたが、後にこの考えは傲慢であったと気が付くのである。
それは、これより何年も後の話である。
今のわたしには彼女を変えたいという考えはあっても、その理想を実現する力はなかった。

2013年12月18日水曜日

追憶 466

自分自身を正当化する状態から抜け出すためには、自分自身の非を認め、反省する必要がある。
自分自身の非を認め、反省するためには広い視野と見識が必要であるだろう。
それが非であると認識することがなければ、反省することもできないのである。
わたしの話を聞いた彼女の中には半信半疑が見て取れた。
その時、わたしは脳裏にこれまでの実体験が思い浮かぶのを見た。
自分自身で思い起こしたのではなく、導かれるようにして浮かんできた思い出は、自身の苦い体験であった。
それは、高校生だった頃のわたしが友人に対して怒りを覚え、そのために苦しんだという記憶である。

2013年12月17日火曜日

追憶 465

わたしの説明に対して、彼女は自分なりの解釈によって納得し、また疑問を持った。
それは良いことである。
わたし自身がそうであるように、人は自分自身を正当化している。
それは、自分自身が可愛く、自分自身を守りたいという気持ちから生じる自己防衛であるが、彼女もそのような状態を所有しているだろう。
人が正しく物事を理解するためには、自らを正当化するという歪んだ見識を捨て去る必要がある。
それを捨て去るまでは、正しい理解は導かれないであろう。
彼女の疑問は、自分自身を見つめ直し、考えるという結果に繋がるはずである。
もちろん、それは希望的観測である。
どうするのかは常に自分次第であるということを忘れてはならないだろう。

2013年12月16日月曜日

追憶 464

体験したことを話している最中、彼女は何度もうなづいていた。
わたしには彼女の背中しか見えないが、何か思い当たる節があるのではないだろうか。
わたしが体験したことはわたしにとっても彼女にとっても抽象的なものである。
それを自分なりの解釈によって理解する必要があるが、それを彼女がどのように理解するかということは、わたしにも分からないことである。
わたしが彼女に伝えなければならないことは、過去と現在における誰かや何かに対する不満の感情を捨て去り、心の中に平和を実現しなければならないということである。
その目的を念頭に置いて話し、彼女からの反応に対して道筋をつけることがわたしの仕事であるだろう。

2013年12月15日日曜日

追憶 463

気が付いた時には、わたしは目覚めていた。
まぶたを開いて彼女の背中を見つめていたのだ。
わたしはいつの間にかに彼女の心の中から抜け出し、自己の現実に戻っていたようである。
意識は鮮明であるが、強い疲労感があった。
思考回路が混線しているのか、または機能していないような感覚である。

わたしが彼女の心の中で体験したものは、彼女が豊かな人生を生きるために必要な情報であるような気がする。
彼女がどのような不満や不安を抱えているのかは分からないし、それらの感情を所有しているのかどうかも分からない。
しかしながら、何の脈絡もなくあのような光景を見たり、あのような感情を抱くだろうか?
そう考えた時に、わたしは彼女に対してできる限り詳細に自分の体験とそこから読み取ったことを伝えるべきだと判断したのである。

2013年12月14日土曜日

追憶 462

人は、自らの心の中に抱えている思考や感情を無意識の内に選択し、実現しようと日々努める生き物である。
しかしながら、多くの人は自らの心の中に抱えている思考や感情がどのような結果をもたらすのかを理解してはいない。
しかも、自分自身を正当化してしまうために、自分自身がどのような思考や感情を抱いているのかも既に曖昧(あいまい)になってしまっている。
自分自身が認識していようがそうでなかろうが、心の中では過去の思考や感情が道を進み続けている。
わたしが彼女の心の中に歩んだ道がそれである。
それを食い止めるためには、本人が過去の思考や感情を自身を正当化する気持ちから解放し、自らを省みることによって改善する必要があるだろう。
自分自身の考え方や価値観を改めることができなければ、心の道のりは変わらないのである。



2013年12月13日金曜日

追憶 461

わたしが歩んでいるこの道は、彼女の心の道のりであるだろう。
辿り着く場所(未来)には、先程の女のように顔を歪めて苦しむ彼女の姿があるに違いない。
女の姿は未来(結果)からの警告であったのだと思える。
彼女が現在、過去、未来にわたって不満や不安などの破滅的な価値観と感情を抱き続けているなら、苦しみによる制裁を受けなければならないのである。
破滅的な感情によって選択された事柄は、どのような理由があろうとも苦しみという結果を導いてしまうのである。
彼女は過去や現在における、誰かや何かに対する不満や不安といった破滅的な価値観や感情を所有し続けている。
そのため、道を引き返すことも、変更することもできない状態にあるのだと推測することができるのである。

2013年12月12日木曜日

追憶 460

わたしは怒りに捕らわれた心が苦しいことを経験上知っている。
どのような理由があろうと関係ない。
その結果として心が怒りの感情に支配されるということが問題なのである。
誰が悪い、何が悪いということではない。
心がどのような状態にあるのか?
重要なのは、ただそれだけである。
わたしは怒りに支配され、その顔面を歪めた女をかわいそうに思った。
きっと、女は休むことなく怒りの感情が引き起こす「あの」苦しみを味わい続けていたのであろう。
想像しただけで血の気が引く。
彼女は、日常の中で誰かや何かに対して不満を感じているのではないだろうか?
もしくは、過去にそのような体験があって、それを依然として引きずっているのではないだろうか?

2013年12月11日水曜日

追憶 459

わたしは女が邪魔だと思い、力一杯に突き飛ばした。
すると、よろめいた女は後方に倒れるようにして闇の中に溶け込んで消えた。
その時、わたしは自我を取り戻した気がした。
我に帰り、自分自身の感覚が麻痺していたことを悟った。
わたしはこの道を進みたくはないのだ。
それがいつの間にかに進まなければならないという強迫観念によって支配されていたのである。
わたしが突き飛ばした女は、彼女の心の一部であったように思える。
女はわたしを食い止めようとしていたのだろうか?
それとも、わたしに理解を求めていたのか?
女の意向は分からなかったが、女に対して同情が生まれたのは事実である。

2013年12月10日火曜日

追憶 458

女は独り言のように「許せない…」と繰り返している。
どうやら、女の眼中にわたしの姿は無いようである。
女の歪んだ心からは執着が感じ取れた。
何かに対しての怒りの感情が溢れている。
女は何か気に食わないことを抱えているのだろう。
わたしはこの時、この女が道を塞いでいては先に進むことはできないと考えていた。
進みたくない道にもかかわらず。
きっと、わたしの感覚は麻痺していたのだと思う。
ずっと進んできた道であるため、それがいつの間にかに習慣となり、無意識の内に心地の好いものになっていたのかもしれない。

2013年12月9日月曜日

追憶 457

それでも進み続けていると、前方に女性だと思われる人の姿をした影が立っているのが見えた。
暗闇の中にある人影なので、それはかろうじて認識することができるような状態である。
しかしながら、わたしは人がいるという状況に対して微かな嬉しさを感じた。
歩みを進めるに従って人影の輪郭が鮮明になってくる。
そして、人影の前に辿り着いた時、わたしは驚愕(きょうがく)した。
そこには怒りの感情を露わにした女が立っていたのである。
女は憎しみを絞り出すかのように歪んだ表情を見せていた。

2013年12月8日日曜日

追憶 456

そのように感じながらも、わたしは道を進んで行く。
それを止めたい感情もあるのだが、突き進んで行こうとする感情の方が大きく、それに逆らうことはできなかった。
このままではいけない。
この道は間違っている。
わたしは悪いことをしている。
そのように考えながらも、足は確実に前進していた。
目の前には真っ暗な空間が見えるだけであった。
それは闇と言うよりはただの黒色である。
全く何も見えない。
ただ黒いのである。
この先は恐い。
この道には希望がない。
わたしは必ず苦しむ。
わたしは必ず恐れる。
わたしは必ず後悔する。
わたしはこの道を進みたくはないのである。

2013年12月7日土曜日

追憶 455

わたしはどこへ向かって歩んでいるのだろう?
わたしはどこに辿り着き、そこで何を得るのか知りたかった。
わたしは惰性的に、何かに急かされるようにして道を進んでいるが、これは自発的な意思ではない。
決して、歩みたくて歩んでいる訳ではなかった。
熱意を以て歩み始めたは良いが、今ではそこに熱意が感じられないような感覚がある。
この時、わたしは景気の良い時代に建設された山中の廃ホテルを思い出していた。
それは、経済の勢いによって建設されたが、計画性が無い為に経営が成り立たなかったことを彷彿(ほうふつ)とさせる。
実際にはその他の様々な理由があると思うのだが、単純に考えるとそのような推測が生じるのである。
わたしが進んでいる道は、山中の廃ホテルのように滅亡へと向かう道であるような気がしてならないのである。



2013年12月6日金曜日

追憶 454

怒りの感情が込み上げてくる。
わたしはそれをどうしても抑えることができなかった。
気に食わないものは気に食わない。
許せないものは許せない。
嫌なものは嫌。
心の中には否定的な考えが渦巻いているのだった。
わたしはとても不愉快な気分によってその道を進んだ。
こんな道を進みたくはないが、意志に反して足は勝手に歩を進める。
進む程に怒りが深まり、不愉快な気分も増した。
しかしながら、後戻りもできなければ、別の道も見えない。
わたしには進み続ける以外に方法はなさそうだった。
立ち止まろうとすると何かがわたしを急かすので、立ち止まって考える時間もなかった。

2013年12月5日木曜日

追憶 453

目の前には黒くて粘り気のある気体のようであり、液体のようなものが浮いている。
これは、彼女の心の中に存在している破滅的な意識、即ちこれまでに抱えた悩みなどの苦しみの感情である。
目の前に存在している破滅的な意識が、どのようなことを意味し、どのようなことを伝えるのかは、それに触れてからのことである。
わたしは何気無く、目の前に浮遊している破滅的な意識に対して手を伸ばした。
すると、車酔いのような感覚が迫り、目眩(めまい)と吐き気に強襲された。
わたしはとても不愉快な気分になった。
それは一瞬のことである。
わたしの感情は一気に乱れ、そして崩れた。

2013年12月4日水曜日

追憶 452

わたしには目の前の光景をただ見守ることしかできなかった。
しかし、それで良いのである。
それは、いつの時にもわたしには分からないことがそこでは行われているからである。
わたしが認識しようがするまいが、そんなことはどうでも良いことなのだろう。
未熟なわたしに合わせているのであれば、成すべきことも成されないのだ。
わたしは素直に受け取れば良いだろう。
余計な抵抗は必要ないのである。

天使の文字が彼女の背中の中に消えると、わたしの中に新たな認識が生じていることに気が付いた。
それは彼女の心の中に存在している苦しみであった。
わたしは彼女の心の中に存在している苦しみの場所に対して、今までの方法よりも簡単に、より素早く辿り着いていたのである。

2013年12月3日火曜日

追憶 451

それは何かを意味した文章であるに違いないが、わたしにはそれが何を意味しているのかを理解することはできなかった。
なんせそれは初めて目にする形状の文字だったのである。
わたしにはその文字が持つ意味を理解することはできなかったが、それが天使のものであるということは何となく感じていた。
根拠な無いが、この光る文章が大天使ミカエルの力であるだろうと推測することができるのである。
四角の枠によって囲われた天使の文字に触れようと手を伸ばすと、次の瞬間にそれは溶け込むようにして背中の中に消えてしまった。

2013年12月2日月曜日

追憶 450

わたしは、わたしを導く大きな感覚に従って三人の中から一人を呼んだ。
部屋の中央、わたしの目の前の座布団にわたしに対して背中を向けて座ってもらった。
彼女の背中からは微かな緊張が伝わってきた。
わたしは彼女にリラックスするように伝え、静かに目を閉じた。
大きな意思に導かれるようにして、わたしは彼女の背中に手を伸ばした。
すると、右手は人差し指と中指を伸ばし、彼女の背中を滑らかに走った。
それは、筆記体によって文章を綴(つづ)るようである。
三行の文章が描かれると、わたしはそれを直線によって囲った。
すると、その文字のようなものは金色の光を放って輝いた。

2013年12月1日日曜日

追憶 449

今のわたしにはそれで良かったのかもしれない。
わたしは暗闇の中に一筋の光を見た気がした。
その光はわたしの思考を紡ぎ、心を定めさせた。
わたしは自分自身のやるべきことを抽象的であるにしても理解したのだ。
これは不思議な感覚である。
自分自身よりも大きな意思によって導かれるような感覚なのである。
誰かに大切なことを教えてもらっているようで、そこには安心感や勇気という力が存在しているのであった。
わたしはこれを大天使ミカエルや白龍神やハクとコンなどの、わたしを手助けしてくれている意識的な存在の協力であると感じる。
そのような存在が手助けしてくれるおかげで、わたしは自分自身以上の力を引き出したり、扱うことができるのである。