光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2018年12月31日月曜日
追憶 2276
意思が行為を司(つかさど)るように、霊が肉を決めている。
人生の原因が霊であるということを知らなければならないだろう。
霊を磨かなければ、肉が磨かれず、肉が磨かれなければ、人生は輝かないのである。
しかしながら、多くの人にはこのことが分からない。
多くの人は、人生を輝かせるために、懸命に肉を磨いているのである。
目の前の快楽や欲望や苦悩に執着するのは、肉の性質である。
それは、豊かな生を求める性質が歪んだものに過ぎないだろう。
2018年12月30日日曜日
追憶 2275
価値があるのは、肉ではなく霊であるということだ。
しかしながら、多くの人は、電源よりも機械の方に価値を見出している。
霊よりも、肉体に価値を見出しているのである。
肉体に価値を見出している人は、肉に従って行動する。
肉の目的は生存である。
肉は、生存することを求めるのだ。
それは、霊の目的とは異なる。
完全に異なる訳ではないが、最終的な目的は異なっている。
肉は豊かな生を求め、霊は豊かな死を求めるのである。
肉は豊かに生きるために存在し、霊は豊かに死ぬために存在しているのだ。
2018年12月29日土曜日
追憶 2274
どのように優れた機械も、電源が無ければ動かない。
動かない機械は、鉄の塊(かたまり)に過ぎない。
それでは、優れてるとは言えないのである。
肉体は、霊を失えば肉の塊である。
多くの人が口にしているのは、牛や豚や魚の霊が抜けた肉であるのだ。
霊が抜けた肉体は、肉の塊以上でも、以下でもない。
しかしながら、肉の塊に霊が宿れば、それは愛する存在になるのである。
屍(しかばね)と共に暮らしたいと思う人は少数派であるだろう。
大抵の人は、屍に価値を見出さない。
なぜなら、そこに霊が存在しないからである。
2018年12月28日金曜日
追憶 2273
多くの人は、脳が肉体を動かしていると考えているだろうが、脳を動かしているのは何か?ということを考えなければならないだろう。
肉体は、やがて機能を停止する。
それは、命を失ったからである。
命とは、霊のことであろう。
命という目には見えない何かが、肉体を動かしているのは否定することの出来ない事実であるように思える。
やがて機能を停止するのであれば、元は機能が停止していたはずだ。
機械は、電源を必要とするが、命と繋がらなければ肉体は動かないのである。
乾電池で動く機械のようなイメージであろうか?
機械が電源を必要とせずに動くことがないように、肉体も命(霊)がなければ動かないのだ。
2018年12月27日木曜日
追憶 2272
恐らく、それは意識という目には見えないものであるだろう。
意識とは、霊であると思える。
霊とは、肉体の原動力であるだろう。
それは、肉体が母親を離れる時までに、どこかからやって来て肉体と融合する。
そして、肉体という乗り物で人生を旅するのである。
肉体は、霊の働きが無ければ動かない。
肉体は、霊に従っていると考えた方が自然であるだろう。
肉体は、人の意思に関係の無い挙動を見せる。
手足は思い通りに動くように思ってはいるが、思い通りに動かないから失敗する。
思い通りに動かないから、練習に多くの時間と労力を費やさなければならないのである。
2018年12月26日水曜日
追憶 2271
黒い大蛇は、白蛇が老女の吐き出す不平不満や泣き言を食べて歪んだ姿である。
人生というものを考える時には、霊的な働きが重要だ。
人のすべての言動は、霊的な働きから生じている。
わたし達の思考は、霊的な働きであることを理解しなければならないだろう。
多くの人は、思考を当たり前のものとして考えているために、それが何であるか?を考えない。
多くの人は、脳が思考していると考えているが、脳という肉の塊(かたまり)は、どうやって思考しているのだろう?
わたしには、脳というものが自発的に働いているとは思えないのである。
何かが、脳を使っているというか、脳が何かに動かされているように思えて仕方ないのだ。
2018年12月25日火曜日
追憶 2270
不平不満を吐くことや何かに縋(すが)ることによって自分の気は晴れたとしても、霊的な存在がその苦しみを引き受けているに過ぎない。
霊的な存在は、矢面に立って人を守る。
霊的な存在が限界を迎えるまでは、不平不満を吐いたり、何かに縋ることは実害にはならないだろう。
しかしながら、霊的な存在が限界を迎えてしまえば、鉄砲水のように、大きな実害が生じてしまうのである。
それは、急に目の前に現れるために、本人にとっては驚愕(きょうがく)の事態であるに違いない。
しかしながら、それは、当然の結果であることを知らなければならないのである。
2018年12月24日月曜日
追憶 2269
自己を正当化するのであれば、破滅的な意識に対して恍惚(こうこつ)な表情を浮かべている黒蛇のように、苦しみであるはずのものを喜んでしまうようになってしまうのである。
自らを磨き、成長するために始めた信仰が、利得を求め、損失を恐れる守銭奴(しゅせんど)のような価値観に変わるのは簡単なことであるだろう。
多くの人が、幸福を求めながらも、実際には不幸を選択している。
豊かさを求めながらも、乏しさを選択しているのである。
不平不満を吐いたり、何かに縋(すが)ることは、幸福や豊かさの道ではないだろう。
幸福や豊かさを実現するためには、不平不満を吐かず、何かに縋ることなく歩まなければならないのである。
2018年12月23日日曜日
追憶 2268
しかしながら、宗教に縋ることでは、問題は解決しないだろう。
なぜなら、お互いの傷を舐め合う集団だからである。
慰め合うことは、偏見と誤解を強化してしまうのだ。
人は、自分に都合の良い集団に縋る。
それは、自分の願いを叶えてもらおうと考えるからである。
自分の思想に近く、居心地の良い集団を好むのだ。
それが悪いということではないが、自己を正当化するのには都合の良い条件が整ってしまうために、歪みは強くなってしまうのである。
宗教に縋る人の多くは、自己を磨いていると思っているだろうが、実際には自我を強化しているのである。
2018年12月22日土曜日
追憶 2267
残念ながら、因果は都合に関係なく実現する。
どちらかと言えば、都合の悪い時に実現することの方が多いだろう。
一つ問題が生じれば、次々に問題が生じるものである。
それは、一度嘔吐(おうと)すれば、続けて二度三度と嘔吐するのと同じであるだろう。
泣き言や不平不満を吐いている人は、その行いに相応しく、苦しみが連鎖(れんさ)してしまう。
それに耐えることが出来ない多くの人は、宗教に縋(すが)るのである。
多くの人が宗教に縋るのは、自らを磨き、成長するためではない。
苦しみから逃れるために、縋っているのである。
2018年12月21日金曜日
追憶 2266
しかしながら、吐き続けることの苦しみを忘れてはならないだろう。
吐くことで心地好いのは一時のことである。
苦しみは直ぐに襲ってくるのだ。
それに、吐いたものは自分で片付けなければならない。
それも、苦しみなのである。
多くの人が、泣き言や不平不満を吐くことを軽んじている。
目の前の快楽に逃げることの恐ろしさを知らないのである。
この世界には、因果の仕組みが存在していることを忘れてはならないだろう。
泣き言や不平不満を吐く程に、人生は汚れ、悪化してしまうのである。
多くの人は、そのことを忘れて泣き言や不平不満を吐き続けている。
代償は、忘れた頃に請求されるのである。
2018年12月20日木曜日
追憶 2265
老女も弱い心を抱えている。
弱い心を抱えているために、破滅的な意識に魅了されてしまうのだ。
老女が泣き言を並べるのは、破滅的な意識に魅了されているからである。
わたしも、以前には老女と同じように、不平不満を吐いていた。
それは、弱い心を好きにさせていたからである。
弱い心を制御することが出来ず、破滅的な意識に魅了され、翻弄(ほんろう)されることは苦しい。
泣き言を並べ、不平不満を吐くことは、とても辛いことなのである。
胃の中身を吐き出す時には、苦しみから解放されるような心地好さを感じられる。
不平不満を吐くことを喜んでいる人達というのは、この段階にある。
2018年12月19日水曜日
追憶 2264
破滅的な意識には魔力がある。
それは、不思議な魅力である。
誰もがその魔力に魅了(みりょう)されてしまう。
多くの人は、破滅的な感情を心地好く感じている。
多くの人は、不平不満が好きだし、過ぎたことをいつまでも悲しみ嘆(なげ)くことを好んでいる。
集まれば誰かや何かの悪口を言い、自分達の中で誰かや何かを蔑(さげす)むことで、情け無い自分を慰(なぐさ)めているのだ。
そうやって、弱い自分を守ろうとしているのである。
弱い心は、破滅的な感情を必要としている。
そのため、弱い心は、破滅的な意識に魅了されてしまうのである。
2018年12月18日火曜日
追憶 2263
白蛇が食べたのは、老女が生み出す破滅的な意識であるだろう。
白蛇は、この土地と老女を守っていたはずである。
霊的な存在にとって守るというのは、美しく保つということだ。
それは、わたし達が道具が錆び付かないように磨くのと同じことであろう。
霊的な存在は、そこに住む人が汚れないように努めているのである。
白蛇は、老女の心が汚れないように、老女の生み出す破滅的な意識を食べていたのだろう。
甘いお菓子や酒やタバコ、そして、麻薬などには依存性がある。
それ等が身体に悪いことを知っていながら、簡単にはやめられないのだ。
黒い大蛇が恍惚(こうこつ)な表情を浮かべていたのは、人が甘いお菓子や酒やタバコ、そして、麻薬などによってもたらされる快楽と同じようなものを得ていたからであろう。
2018年12月17日月曜日
追憶 2262
随分(ずいぶん)と太ったものだ。
あの白蛇は、破滅的な意識を食べてここまで太ったのであろう。
破滅的な意識とは、ネガティブな意識のことである。
それは、歪んだ意識であり、わたしには、黒い煙のようなものとして認識されるものであった。
破滅的な意識を取り込んだ霊体は、黒く歪んでしまう。
それは、破滅的な意識を取り込んだ心が歪んでしまうのと同じことである。
真っ白な半紙も、墨を垂(た)らせば黒く染まってしまう。
白蛇は、破滅的な意識を食べたことによって、黒く大きく歪んでしまったのであろう。
2018年12月16日日曜日
追憶 2261
黒い大蛇は、恍惚(こうこつ)な表情を浮かべていた。
何かに満足しているようであった。
しかしながら、わたしには、その表情が気持ちの悪いものとして認識された。
鳥肌が襲い、身体が冷えた。
身震いしたその時、黒い大蛇がわたしに気が付いたようであった。
重そうな鎌首をゆっくりとわたしに向けた。
わたしは、この蛇を知っている。
この蛇は、以前、老女のところにいた白蛇である。
姿は全く違うが、そうとしか思えないのである。
2018年12月15日土曜日
追憶 2260
瞼(まぶた)を閉じて心を静める。
すると、黒い煙のようなものが胸の中に入り込んで来るような感覚を得て気分が悪くなった。
原理は分からないが、内側に入り込んだ黒い煙のようなものは、ゲップによって光の粒に変えられた。
何等かの作用の結果、肉体レベルではゲップとして表現されるのかも知れない。
エンジンでいうところの、排気ガスのようなものであるのかも知れない。
わたしの意思に反して、止めどなくゲップが出ている。
黒い煙のようなものが光の粒となって、高い所で輝いている大きな光に向かって上昇する光景は、いつ見ても美しいと感じるものであった。
ゲップが治ると、水墨画のように滲(にじ)んでいた黒い影が輪郭(りんかく)を得ていた。
それは、黒い肌の大蛇であった。
それが、天井付近で身体を絡ませる様にして存在しているのである。
2018年12月14日金曜日
追憶 2259
そのために、わたしは老女の考え方を否定しなければならなかったのである。
しかしながら、わたしは自分勝手に否定するのではない。
天使や霊的な存在達からの言葉を伝えると、結果的には否定しているということなのである。
わたしが老女に対して言葉を伝えていると、老女の後方の天井付近に、黒い影のようなものが見えた気がした。
しかしながら、確信はなかったので、何事もなかったように話を続けた。
しばらく問答をしていると、やはり視界の隅、老女の後方の天井付近に黒い影のようなものが動いているように見える。
わたしは老女に断って、黒い影のようなものに対峙してみることにした。
2018年12月13日木曜日
追憶 2258
老女が求めているのは、共感と同情だろう。
老女は、哀(あわ)れんで欲しいのではないだろうか?
多くの人は、そのように期待している。
気持ちは分かるが、そうすることは出来ないのである。
残念ながら、天使がわたしに共感し、同情してくれたことはない。
わたしの考えは、天使によって否定されるのである。
しかしながら、わたしはそれで良いと思っている。
なぜなら、自分の考えよりも、天使の考えの方が本質的であると思うからだ。
共感されるのであれば、わたしは自分の考えに自信を持ち、自らを正当化してしまうだろう。
それでは、偏見や誤解が強まってしまうのである。
2018年12月12日水曜日
追憶 2257
そのために、わたしは老女の話を聞いているのだが、ある程度のところで、それを否定しなければならなかった。
わたしは老女の考え方を否定したくはない。
すべてを肯定(こうてい)することが出来れば、どれだけ気楽だろう。
頷(うなず)くだけで良いのならば、辛くはないだろう。
しかしながら、それでは老女の誤解を促(うなが)してしまうのである。
わたしは、老女を暗闇の中に閉じ込めるために来たのではない。
わたしは、老女を光へと導くために来たのだ。
そのためには、老女の考え方を否定し、新たな考え方を提案しなければならないのである。
2018年12月11日火曜日
追憶 2256
老女の精神も、ネガティブなものに耐えられないために、わたしにそれを吐き出しているのである。
他者に対してネガティブなものを吐き出さなければならない程に、ネガティブなものを吸収しているのだ。
それは、コップから溢れ出る水のようなものであり、コップには溢れ出た水を掃除する能力が無いのである。
コップから溢れ出た水を掃除するのは、台拭きの仕事である。
わたしの役割は、台拭きであるだろう。
台拭きの仕事は、溢れ出た水の掃除と、水が溢れ出ないような方法を提案することだ。
提案というのは、口煩(くちうるさ)く指導することではない。
溢れ出た水を掃除することを続ける姿を見せることによって、より良い方法を考える手助けをするということである。
2018年12月10日月曜日
追憶 2255
お茶を飲みながら、わたしは何度も聞いた老女の追憶と、それに関する愚痴(ぐち)と、現状における弱音を聞いた。
老女は、止めどなく言葉を吐いている。
これは、老人に特有のものなのか?この世代の人達に共通しているものなのかは分からないが、自分の話に集中してしまい、相手を放置しがちになってしまう。
わたしの目的は、老女の考え方を改善することである。
そのために、先ずは老女の話を聞くことに専念するが、その内容が昔話と愚痴と弱音であるために、いつまでも聞き続けることが出来ないのだ。
建設的であり、生産的な話であれば、いくらでも聞くことが出来るだろう。
しかしながら、破滅的であり、非生産的な話を聞くには限度がある。
人の精神は、ネガティブなものに耐えられないのだ。
2018年12月9日日曜日
追憶 2254
居間に通されて適当に腰を下ろす。
老女は、わたしにお茶を飲ませようとして、急須にお湯を注いでいる。
ポットから急須に注がれるお湯の音が、部屋の中に響いて聞こえている。
やはり、この家は老人の一人暮らしには広過ぎる。
それに、新築の今風の作りが、一人暮らしの老女とのバランスを欠いていて、それがわたしにいつも不思議な感覚を与えた。
お茶を淹(い)れるのも大変そうに見える。
わたしはいつも断るのだが、老女には世話をするのが喜びであるようだった。
わたしは、感謝の言葉を支払い、温かな湯呑みを受け取った。
2018年12月8日土曜日
追憶 2253
漸(ようや)く、わたしの前に老女が現れた。
わたしの顔を見て、老女は驚きの表情を浮かべた後に、旧友に会った時のような嬉しそうな笑顔を作った。
突然の訪問にも関わらず、老女はいつもわたしを喜んでくれる。
そして、必要以上にわたしを持て成そうと構えている。
わたしはいつも気持ちだけを受け取るのであった。
老女に促(うなが)されて、家に上がった。
老女は一人暮らしであったが、家の中はいつも片付いている。
足が不自由なので、散らかっていても良さそうだが、性分がそれを許さないのであろう。
わたしは良い気分で老女の後に続いた。
2018年12月7日金曜日
追憶 2252
しかしながら、それは、取り返しがつかないということではない。
必要な結果を受け取れば、済む話である。
新たな原因によって、新たな結果を導けば良いのだ。
その時に、恐怖や期待に左右されるような選択ではなく、思いやりに根差した選択をすれば良いだろう。
そうすることによって、真(まこと)へと近付き、愛による導きを得ることが出来るのである。
愛の導きによって、人は輪廻を外れることが出来るのである。
愛は、どこにでも存在している。
どのような道にも、愛が存在しているということを理解しなければならないだろう。
どのような道を進んでも、愛による導きを得ることが出来れば、真へと近付き、輪廻を外れることが出来るのである。
2018年12月6日木曜日
追憶 2251
相手の顔色を伺(うかが)うことなく、相手に対して思いやりを以(もっ)て、相手の必要を満たすことが霊的な仕事である。
恐怖心や過度な期待を抱かせて、利を貪(むさぼ)ることは恥であり、罪なのだ。
この罪を犯した者は、相応の報いを受けなければならないのである。
どのような人物も、因果を避けることは出来ない。
すべての人は、自らが足を差し出した場所を踏み締めなければならないのである。
そこが泥濘(ぬかる)みだったとしても、崩れ易い岩の上であったとしても、一度差し出した足を引っ込めることは出来ないのである。
2018年12月5日水曜日
追憶 2250
輪廻を外れるためには、心を磨き、魂を純粋へと近付けなければならない。
そのためには、偽りの段階から、真(まこと)の段階へと移行する必要があるだろう。
真の段階に至るためには、自我による支配を超越(ちょうえつ)し、愛による導きを得なければならないのである。
愛による導きとは、相手のためを思う行為のことである。
それは、恐怖ではなく、勇気を動機とした選択なのだ。
相手のことを思うのであれば、相手の顔色を伺(うかが)う必要はない。
相手の気持ちに配慮(はいりょ)することはあっても、相手にどう思われるか?ということは気にしないのである。
2018年12月4日火曜日
追憶 2249
光と闇が接しているように、建設的な霊体と破滅的な霊体は同じ世界に存在しているのだろう。
天国と地獄が存在しているかは分からないが、ビルのように一つの建物の中の階層によって隔てられているような感覚と言えば良いのだろうか?別物ではなく、一つの世界のものに思えるのである。
そのため、天国へ至ったとしても、完全に地獄を避けることは出来ず、地獄へ至ったとしても天国を避けることは出来ないと思えるのだ。
地獄や終末を避けるというのは、それを手放すことではなく、そこから少しだけ離れたに過ぎないだろう。
地獄や終末があるのかは分からないが、それを手放すためには、インド思想でいうところの輪廻(りんね)を外れなければならないのではないだろうか?
2018年12月3日月曜日
追憶 2248
地獄の概念や終末論がそれに当たるだろう。
わたしは、地獄というものを見たことがない。
地獄というのは、東西問わず宗教画に描かれている地獄のことである。
多くの罪人が、鬼や悪魔などによって様々な責めを負う場所のことだ。
天国のようなものは何度か見たことがある。
天国のようなものがあるのだから、地獄のようなものもあるのかも知れない。
例えば、悪霊と呼ばれる黒く破滅的な霊体が存在するが、わたしには、彼等が地獄ではなく、この世界の別の次元?にいるような感覚を得る。
幸せな心と不幸な心が一つの肉体?の中に共存しているように、悪霊と呼ばれる破滅的な霊体も地獄ではなく、この世界に存在しているように思えるのである。
もちろん、仏や天使もこの世界に存在しているように思えるのだ。
2018年12月2日日曜日
追憶 2247
相手のために、相手に嫌われる可能性のある言葉を伝える時には、そこに自我は存在しない。
そこには、愛が存在しているのである。
愛とは、恐らくは、相手を思いやる気持ちのことだろう。
自分のための気持ちは、愛ではないと思うのである。
愛を以(もっ)て仕事をしなければ、霊的な仕事は完成しない。
宗教は、人々を脅(おど)している。
そのような自覚は無いのかも知れないが、宗教に携わる人達は皆、恐怖によって繋がれているのである。
宗教は、信者を確保するために、自分達に有利で耳障りの良い言葉を用いるだろう。
そうしなければ、信者はいなくなってしまうからだ。
2018年12月1日土曜日
追憶 2246
霊能者の仕事とは、霊的な存在と人間との仲介である。
それ以上のことは、霊能者の仕事ではない。
自らの意思で意見する必要も、相手に何かを信じさせる必要も無い。
相手は、自分の好きなように考え、自分の信じたものを信じれば良い。
霊的な必要をどのように扱うかは、霊能者の決めることではなく、相手が決めることなのである。
そのため、霊能者は、相手が信じようと信じまいと、霊的な必要を伝えなければならない。
それが、相手を傷付け、相手に嫌われる可能性がある言葉であったとしても、相手のために伝えなければならないのである。
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