このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年12月31日日曜日

追憶 1911

心に対して、"どちらでも良い"という状態を与えることによって、人は豊かな人生を得ることが出来るのである。
死を意識した時、人は執着を離れる。
しかしながら、生を意識した時、人は執着を得るのだ。
多くの人は、執着によって死後に苦しむ。
生きている状態においては、死後の苦しみのことなど考えもしないだろう。
生きている人にとっては、生きることで精一杯なのである。
しかしながら、人は必ず死を得る。
人生の目的地は誰にとっても死なのである。
死を否定することの出来る人は存在しない。
人が死を得ることは自然の理(ことわり)なのである。

2017年12月30日土曜日

追憶 1910

何かに執着する心が平穏を得ることはない。
心は、一つの状態に止まるのである。
生きることに執着する心が死を得ることはなく、死に執着する心は生きることが出来ないのだ。
それは、自動車のマニュアルトランスミッションのようなものである。
1速に入れた状態で、リバースに入れることは出来ない。
それは、構造上不可能なことなのである。
人の心というものは、自動車でいうところのトランスミッションであると言えるだろう。
1速が生きることだとすれば、そこに執着した状態であっては、リバースという死を得ることは出来ないのである。
大切なのは、"どちらでも良い"というニュートラルの状態に心を落ち着かせることなのである。

2017年12月29日金曜日

追憶 1909

死ぬために生きるという状態を得るためには、何事にも執着することなく生きる必要がある。
執着しない生き方とは、"どちらでも良い"という生き方のことだ。
財産が有っても無くてもどちらでも良い。
健康で有っても無くてもどちらでも良い。
幸せで有っても無くてもどちらでも良い。
友人が居ても居なくてもどちらでも良い。
思い通りに生きても生きなくてもどちらでも良い。
という心の状態を実現するということなのである。

2017年12月28日木曜日

追憶 1908

晩年の彼は、死ぬために生きていたのではないだろうか?
推測(すいそく)でしかないのだが、死が避けられないと悟ったのであろう。
死ぬために生きる人は、死後に命を受ける。
しかしながら、生きるために生きる人は、死後に命を失うのである。
わたしは多くのネガティブな霊体に出会ってきたが、彼等は皆、生前の何かに対しての執着を所有していた。
それは、命であったかもしれないし、人生であったかもしれない。
仕事であったかもしれないし、家族であったかもしれないし、肉体や財産であったかもしれない。
生前の何かに対して執着するということは、生きるために生きる必要があるということなのである。

2017年12月27日水曜日

追憶 1907

彼は60歳を超えていたが、人生に対する満足に年齢は関係ないであろう。
例え100年生きたとしても、人生に満足することが出来ずに、健康と長寿を求める人はいるのである。
彼は、癌のおかげで死に向き合う時間を与えられた。
死に向き合うことによってそれに満足し、人生に満足を得たのではないかと思えるのである。
もしも、彼が癌ではなく、他の事で突如(とつじょ)として死を得ていたのであれば、葬儀の時に笑顔で挨拶して回ることもなかったのではないだろうか?
避けられないことを知ったので、死を受け入れる心構えが整ったのである。

2017年12月26日火曜日

追憶 1906

しかしながら、人生においては、病気を避けることは出来ないし、短命を退けることも出来ない。
生まれながらに病気や障害を抱えている人も多くいるし、長く生きることの出来ない人もいるのである。
そのような人たちは幸福を得ることが出来ないのであろうか?
そのようなことは有り得ないだろう。
人は、健康であろうが、病気を抱えていようが、長く生きようが、短く生きようが、幸福にもなれるし、不幸にもなれるのである。
人の幸福に、状態や状況は関係ないであろう。
病気や短命に対して、そこに情緒を感じることが出来る人は、人生に満足を得るのである。

2017年12月25日月曜日

追憶 1905

それは、働くことに対しても、休むことに対しても、そこに感慨(かんがい)を覚えることである。
人は心を使って生きなければならない。
機械のようにただ作業をこなしている訳にはいかないのである。
生きるために生きている人には、人生に疑問を持たずに突き進んでいる人が多いだろう。
与えられたものに従って生きるのである。
それは、常識的な価値観を自分の幸福だと思って生きるようなものである。
常識的な価値観とは、平均的な価値観と言い換えることが出来るだろう。
平均であるために、疑問を持たずに生きる人にとっては、受け入れ易い幸福の形である。
そのため、多くの人は常識的な価値観である健康や長生きをすることを幸福だと思うのである。

2017年12月24日日曜日

追憶 1904

すべての人は、今この瞬間に失うかも知れない人生を生きている。
大抵の人は、人生が終わる時を知らない。
今この瞬間に心臓が止まり、死を得てもおかしくないのである。
人生には、詰まらないことに悩み、詰まらない不満を吐いてだらだらと無益な時間を浪費するようなことはあってはならないはずである。
ただし、わたしはがむしゃらに生きることが良いなどとは思わない。
馬車馬のように忙しく働き、一心不乱に突き進むような生き方が良いとも思えないのである。
死ぬために生きるというのは、働くことに対しても、休むことに対しても、そこに情緒を感じることだと思うのである。

2017年12月23日土曜日

追憶 1903

死を考える人は、熱意を以(もっ)て益々力強く生きる。
それは、自分がいつか死ぬことを考えているからだ。
そのような人は、今この瞬間に死を得ても良いように生きているのである。
しかしながら、生きていることを当たり前のことだと考え、死を考えることもなく生きている人は、詰まらないことに悩み、詰まらない不満を吐いてだらだらと無益な時間を浪費する。
そのような人は、自分がいつまでも生きるとでも考えているのだろう。
人生を逆算しないために、懸命に生きることが出来ないのである。

2017年12月22日金曜日

追憶 1902

癌は、自分が死を避けられないという事実を教えてくれる。
人は普段、死を遠ざけて生きている。
死が自分には関係のないものだと思っているのだ。
癌になったからといって、必ずしも死を得る訳ではないが、死を意識して生きるようにはなるだろう。
死を意識して生きることによって、人は人生を逆方向から考えることが出来るのである。
それが、死ぬために生きるということだ。
計画を実現したい時には、完成から逆算するのが良いだろう。
完成を考えずに作り始めるのであれば、熱意もやがて冷めてしまう。
しかしながら、完成から逆算していれば、熱意は増していくのである。

2017年12月21日木曜日

追憶 1901

わたしには、本来ならば恐れる必要のないものを恐れるように仕向けているように思えてならないのである。
金儲けをしたければ、人の恐怖心を操作することである。
恐怖心を煽(あお)れば、人を簡単に支配することが出来る。
病気や死を恐ろしいものにしたのは、自分自身の未熟さに違いないが、それを煽るのはテレビなどのメディアである。
それに医療と保険がぶら下がっているように思えてならない。
それが悪いということではない。
それによって助かったと"思っている"人もいるのである。
それはそれで良いのだ。
しかしながら、病気や死に対する誤解を手放さない限りは、豊かに生きることは出来ないのである。

2017年12月20日水曜日

追憶 1900

彼は癌を患(わずら)ってから死を得るまでの期間に、痩せ細っていく肉体を目の当たりにしながら、生と死について考えたに違いない。
多くの人は癌を恐れているが、それは、死をネガティブなものだと考え、その部分だけを抽出しているからであるだろう。
死のポジティブな部分も考えなければ、癌の意味を理解することには至らないのである。
例えば、癌は人が死を得るための準備をさせてくれる病気である。
きっと、癌によって即死した人はいないだろう。
個人差はあれ、現代においての癌は、死を得るまでにある程度の時間を与えてくれるのである。
その時間を使って、身辺整理や思考や価値観の再構築を行うことが出来るのだ。
癌によって苦しむのは、テレビや現代医療や保険屋などの商売による弊害(へいがい)であるとも思っている。

2017年12月19日火曜日

追憶 1899

生きるために生きることには限界があった。
それは、生きるためには争わなければならなかったからだ。
生きるためには有利な立場を得なければならない。
有利な立場を得るためには、嘘を吐く必要がある。
それは、見栄を張ることでもあったし、相手や自分を裏切ることでもあったし、無理をすることでもあったのだ。
生きようとすればするほど、わたしは罪悪感に襲われたのである。
その積み重ねによって、わたしは自分自身が嫌いであったし、他者を嫌うようにもなった。
誰にでも好き嫌いはあるが、それが不自然であることには気が付かないのである。

2017年12月18日月曜日

追憶 1898

すべての人は生きることに懸命である。
その中の多くの人は、生きるために生きるのである。
そこには、死に対する配慮はない。
多くの人は死を恐れているために、無意識の内に死について考察することを拒んでいるのだ。
そのため、必然的に生きるために生きることになるのである。
もちろん、生きるために生きることが悪いということではない。
それはそれで良いのである。
これは、わたしの個人的な見解ではあるが、霊的な存在達と触れ合う中で、わたしの考えは大きく変わってきた。
わたしも以前には、生きるために生きていたのだが、霊的な存在達と触れ合う中で、わたしは死ぬために生きるという考えに変わったのである。

2017年12月17日日曜日

追憶 1897

死は、必ずしも苦しいものではない。
死とは、特別なものでもないのだ。
死とは自然である。
それは、喜怒哀楽のすべての性質を備えている。
そこから、何を引き出すかを決めるのは、自分自身である。
彼は、死を前向きに捉えたに違いない。
そのため、結果として死を満足することが出来たのであろう。
中には、死を後ろ向きに捉えることによって、死を得たにしても、それに不満を抱き続ける者もいる。
そのような者は、死に対して不満を抱き続ける。
そのような態度が、破滅的な状態の霊を生み出しているのだ。

2017年12月16日土曜日

追憶 1896

それをわたしに伝えるのは天使である。
わたしは、相手に最善を導く。
相手はそれを最善だとは思わないかも知れないが、わたしはそれが最善であることを知っている。
それはわたしの身勝手によって導くものではないからだ。
そのため、それは相手にとっての最善なのである。
わたしが幼馴染に本当のことを伝えないのは、彼女にとっての真実は他に存在しているからだ。
人は、自分の速度で歩むのが良いだろう。
より良い方法を知ってはいても、それが却(かえ)って足並みを乱す可能性もあるのだ。
ゆっくりであっても、確実に歩む方が良い。
走ることの出来ない人に走れと言うのは良くない。
相手が歩むことが出来るのであれば、歩めと言うのが良いのである

2017年12月15日金曜日

追憶 1895

押されるようにして、わたしは幼馴染の前に立った。
幼馴染は、悲しみを秘めた笑顔でわたしを労(ねぎら)った。
わたしは何も言えなかった。
幼馴染に控え目の笑顔だけを贈り、会場を後にした。

わたしは今でも、幼馴染に対して、父親である彼が自らの死を満足していることを伝えてはいない。
それは、幼馴染が聞いても受け入れないからである。
受け入れてもらおうとは思わないが、反発することによって、霊的な事象に対して否定的な感情を生み出して欲しくはないのだ。
それは、わたしの自我の要求ではない。
わたしは、自分勝手に決めてはいないのである。
幼馴染には、それを聞く準備ができていないのである。

2017年12月14日木曜日

追憶 1894

お焼香の時に彼の遺影の笑顔が説得力のあるものに思えて嬉しくなった。
しかしながら、わたしが笑顔を作ることは、彼との別れを悲しんでいる人たちにとっては不快なものとして受け取られる可能性があると考えて、自重(じちょう)することにした。
席に戻ってからも彼の姿を探したが、どこにも見当たらなかった。
葬儀が終わると、親族が参列者を見送る。
わたしが最後に到着したので、最初に会場を出て行くことになる。
係員に促(うなが)されて、わたしは席を立った。
しかしながら、足取りは重たかった。
わたしは頭の中で、幼馴染に対して、彼のことを話そうか迷っていたのである。



2017年12月13日水曜日

追憶 1893

お焼香の順番が回ってくるに連れて、わたしは遺族と近付いた。
そこには、わたしとは幼馴染である彼の娘がいた。
彼女は、父親との別れをどのように思っているだろうか?
わたしは彼が死を満足していることを知っていたので、それを知らせるべきなのか?と考えていた。
しかしながら、考えがまとまらないままにわたしの順番が来てしまった。
わたしが遺族に向かって頭を下げると、幼馴染がわたしの名前を呼んだ。
わたしが葬儀に参列しているとは思わなかったのかも知れない。
彼女は、わたしの名前の中に感謝の意を込めていたのである。
わたしは幼馴染に頷(うなず)くことで言葉を返した。

2017年12月12日火曜日

追憶 1892

それから、彼はわたしを離れた。
そして、何席か離れた人の前に立って、その人を優しい眼差しで見詰めていた。
きっと、彼なりの別れの挨拶なのだろう。
親しい人を回っているのであろうか?
何か意味があるとは思うが、わたしには選別の基準が分からなかった。
しばらくして、また別の人の前に立っては微笑んでいるのである。
彼はそれを繰り返していた。
お焼香の順番が回ってきたので、わたしは同じ列の人たちと共に立ち上がった。
その時には、彼を見失っていたのである。

2017年12月11日月曜日

追憶 1891

そこでわたしは、彼が死を満足していることを悟った。
そして、彼の死を祝福したのである。
すると、彼がわたしに向かって手を差し出した。
握手を求めているのである。
そこでわたしは彼の掌(てのひら)に自分の掌を重ねた。
暖かで穏やかなエネルギーが掌を伝って胸に届いた。
わたしは良い気分に包まれた。

"ありがとう"

わたしが心で伝えると、彼は僅(わず)かにお辞儀をして言葉を返した。

2017年12月10日日曜日

追憶 1890

彼は、癌によって痩せ細る前の懐かしい姿で現れた。
それは、わたしの中のイメージに合わせてくれたのかも知れない。
そして、その微笑みは幸福感に溢れていたのである。
彼は、死を得ることによって威厳(いげん)に満ちていた。
その姿は生前よりも逞(たくま)しく、更には美しく感じられた。
彼の言葉は、穏やかな微笑みであった。
彼は何も言葉を紡がずに、わたしをただ優しい眼差しで見詰めているのである。

2017年12月9日土曜日

追憶 1889

時が過ぎ、司会の女性が彼の人となりを参列者に紹介していた。
それを聞きながら、わたしは彼との記憶を思い出していた。
すると、急に暖かい空気のようなものに包まれたような感覚を得た。
それはとても心地好いものであった。
気が付くと、目の前に人が立っていた。
突然のことではあったが、それが余りにも自然であったために、わたしが驚くようなことはなかった。
それは、わたしが目の前の人が霊体であることを悟っていたからである。
見上げると、それは亡くなった彼であった。

2017年12月8日金曜日

追憶 1888

わたしは彼の死を喜んだ。
彼は、死という新しい道を得たのである。
それは、祝福されるべきものだと思えるのだ。

後日、わたしは彼の葬儀に参列した。
いつものように、わたしが会場に到着した時には既にたくさんの人が着席しており、廊下に並べられた椅子にも多くの人が座っている。
わたしは一つだけ空いていた最後の椅子に腰を下ろした。
いつものように何事も無く葬儀が進行していく。
彼のキャラクターのためか、会場には明るい雰囲気が漂っているように思えた。

2017年12月7日木曜日

追憶 1887

彼は死を迎え入れなければならなかった。
ただ、それだけのことである。
生まれた者で、死を得ない者は存在しない。
生まれた時点において、死に辿り着くことは決まっているのである。
人が死ぬことは自然の摂理(せつり)であり、決して不自然なことではない。
不自然なことではないのだから、苦しいものでもないのである。
多くの人が、死に対するネガティブな印象を抱えているのは、その人が不自然な状態を生きているからに他ならないのである。
不自然な状態から見れば、自然は歪んでいるのである。

2017年12月6日水曜日

追憶 1886

一人の老人が死を迎えた。
彼は同級生の父親であり、わたしの友人でもあった。
癌(がん)であった。
彼は明るい性格によって、多くの人に愛された。
そんな彼を、わたしも愛していた。
闘病生活は、苦しいものであったかも知れないが、そんな素振りは見せない男であった。
しかしながら、日に日に痩せ細っていく様子は、彼の死を予感させた。
誰もが回復を願っていたが、それが難しいことは悟っていただろう。
人には、それぞれに分際が与えられ、それを否定することはできない。
因果は避けられないのである。

2017年12月5日火曜日

追憶 1885

始まったものは、終わらなければならない。
この世界には、永遠は存在しないだろう。
すべては変化の中に存在しているのである。
始まりはいつも突然に生じ、終わりもいつも唐突(とうとつ)に訪(おとず)れる。
人には、物事の始まりと終わりを制御する力は与えられていない。
人は誰もが、物事の始まりと終わりを黙って観察しなければならないのである。
物事の始まりと終わりの前では、人はそれを見守ることが義務付けられているのだろう。
しかしながら、その中でも心の自由だけは奪われてはいない。
物事の始まりと終わりに対して、どのような心でそれを迎えるのかは、人に与えられた最大の権利なのである。

2017年12月4日月曜日

追憶 1884

わたし達は、より良いものを見付けなければならない。
しかしながら、それは、わざわざ探すということではない。
興味関心を以(もっ)て生きることによって得られる知識によって、自然と見えてくるものなのである。
より良いものを見付けることによって、人は幸福を覚えることができる。
そして、その積み重ねこそが、人生の豊かさを感じさせるのである。
何も知らずに生きてはならない。
乏しく生きてはならない。
そして、何も知らずに死んではならない。
人は、豊かに死ななければならないのである。



2017年12月3日日曜日

追憶 1883

人は様々な知識に触れることによって、自らの道を見出していく。
無知な者には、道は見えない。
自分の興味や得意不得意を知らなければ、自分は何がしたいのか?自分に何ができるのか?ということは分からないのである。
人は比較によって相対的に理解を深めていく生き物であるだろう。
比べるものがなければ、それを最良だと思い込んでしまうのである。
しかしながら、所有物が最良であった試しが今までにあっただろうか?
そう思い込んでいる人は多いが、残念ながら、冷静に考えてみればそのようなことはなかったであろう。
人は、必ずより良いものを見付けるのである。

2017年12月2日土曜日

追憶 1882

人生は、自らの解釈に従って展開していく。
人生は、自らに相応しく存在するのである。
わたしの解釈は、わたしが生きる現実を作り出す。
あなたの解釈は、あなたの生きる現実を作り出すのである。
人生がどのようなものであっても、それは自己責任なのだ。
それを理解しなければならない。
無駄だと思えるような知識も、決して無駄にはならないというのは、それが解釈の材料となるからだ。
誰かに何と言われようとも、その言葉に左右される必要はない。
それを解釈の材料として考えれば良いのである。

2017年12月1日金曜日

追憶 1881

わたしは友人に対して、わたしの体験のすべてを伝えたが、わたしと友人の解釈は異なっているはずである。
学んだことも、それを活用する方法も異なるはずだ。
人生とはそれぞれの道であるが、それは、それぞれの解釈に従って築かれていくのである。
それが自然であり、最善であると思える。
そのため、目の前の状況の読み解き方は自由な発想に従って行えば良いだろう。
多くの人は、所謂(いわゆる)"正解"というものを求めるが、残念ながら、そのようなものはどこにも存在しないのである。
しかしながら、それはどこにでも存在している。
あなたの解釈こそが、あなたにとっての正解なのだ。