このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年9月30日土曜日

追憶 1819

光の十字架によって、彼等の抱える破滅的な意識が取り除かれていく。
それは、破滅的な意識が彼等の可能性を奪っているからであろう。
光の十字架は、彼等にとっての希望の光である。
希望とは可能性のことであり、それを見出すためには、破滅的な意識が足枷(あしかせ)となっているのだ。
破滅的な意識とは、自動車でいうところのブレーキと同じ働きをしている。
それは、止まる力である。
道を進むためにはブレーキの働きは必要であるが、強く踏んでしまえばその場に停滞してしまう。
大切なのは、アクセルに対してブレーキは弱く使うことである。
破滅的な意識は必要不可欠な感情ではあるが、可能性を見失っている時には、それを弱める必要があるのだ。

2017年9月29日金曜日

追憶 1818

わたしは光の十字架を掴むと、それを自らの胸に突き立てた。
光の十字架は、新雪を踏み締める時のような抵抗を伝えながら、胸の中に収まった。
すると、光の十字架はわたしを無視して、老女の胸に突き刺さったのである。
鋭い悲鳴がわたしの頭蓋(ずがい)に響いた。
それに続いて、黒い人影達も同じように叫んだ。
彼等の全身からは、黒い煙のようなものが立ち上っている。
それは、彼等の抱える破滅的な意識であるだろう。

2017年9月28日木曜日

追憶 1817

悲しみに従って行くと、間も無く哀(あわ)れみに辿り着いた。
わたしの心は、老女と黒い人影達を哀れんだのである。
すると、わたしの意思に関係なく、右手が目の前の空間に十字を描いた。
目の前には金色に輝く光が現れたが、それはやがて十字架の形を成した。
わたしは光の十字架を老女と黒い人影達に届ける必要があると感じた。
これは、彼等にとっての希望の光となるであろう。

2017年9月27日水曜日

追憶 1816

死後の可能性とは、”あの光”を得ることだろう。
あの光とは、天に輝く光のことである。
満たされない霊的な存在が満たされた時には、必ず天に輝く光が現れ、彼等は例外なくそこへ向かう。
光の先には”天国”があるかも知れないし、転生があるかも知れない。
光の先に何があるにしても、停滞を免れることは確実である。
暗闇で苦しむよりも、光に向かって進む方が良いと思えるのは、偏見であるかも知れないが、わたしにはそう思えるのである。

2017年9月26日火曜日

追憶 1815

心の整っていない人は、人生が思い通りに展開しないことが自然であることを理解しない。
それは、自分自身が歪んでいるという事実を受け入れることが出来ないからだ。
そのため、人生(や他人)が自分の期待に応えてくれないと嘆(なげ)き悲しむのである。
それは結果として、心に執着を生み出してしまう。
悲しみの感情によっては、心が満たされることがないからである。
心が満たされない人は、それを満たそうとして不満に執着してしまうのだ。
その不満とは、生前に生じたものである。
そのため、多くの人は死後にも生前(の感情)に執着することになる。
死後にも生前に執着するということは、死後の可能性を否定するということなのである。

2017年9月25日月曜日

追憶 1814

人生は、思い通りにいかないことばかりである。
わたしは今までに、人生が自分の思い通りに進んだことなど一度も無かったと記憶している。
わたしの目の前には、いつも思い通りにいかない現実が存在していたのである。
これは、他のすべての人にも言えることだろう。
誰も、自分の思い通りに人生を展開させることは出来ない。
残念ながら、人生は思い通りにいかないものなのである。
心の整っていない人には、それを人生の裏切りだと考えることだろう。

2017年9月24日日曜日

追憶 1813

それは、彼等の本質が悲しみにあるからだろう。
人は、悲しみによって苦しむのである。
例えば、怒りの感情の本質も悲しみであるだろう。
初めから怒りの感情を所有している人はいないのではないだろうか?
期待を裏切られた(自分勝手に期待したのだが)悲しみの積み重なりによって、怒りの感情が形成されるのではないかと思うのである。
怒りの積み重なりは、やがて苦しみとなる。
そのため、苦しんでいる人は怒りを抱えており、怒りを抱えている人は悲しみを抱えているのだ。
老女や黒い人影達も、その本質には悲しみを抱えているのである。
そのために、わたしは悲しみを感じているのだろう。

2017年9月23日土曜日

追憶 1812

わたしは老女と一体化し、苦しみの炎に焼かれた。
痛みを感じることはないが、強烈な苦しみを感じる。
わたしは自分の肉体が、地響きのような唸(うな)り声を上げているのに気が付いた。
わたしの喉(のど)は、低、中、高音の唸り声を同時に出している。
それは、老女を含(ふく)めた黒い人影達の呻(うめ)き声であるだろう。
彼等の呻き声を聞いていると、わたしは悲しくなってきた。
霊的な存在と対峙すると、わたしはいつも悲しみの感情に出会うのである。


2017年9月22日金曜日

追憶 1811

言わば、人生とは、死後のための練習なのである。
練習で出来ないことは、本番にも出来ないだろう。
生前にやっていないことを、死後にやるというのは無理な話なのである。
人が死後に黒い腕に掴まれて、恐怖に沈まないためには、生きている時に死への恐怖を克服している必要があるだろう。
それから、様々なものに対する執着を手放すことが重要だと思うのである。
脅(おど)す訳ではないが、わたしが黒い腕に掴まれているように、生きている人であっても、老女と同じような状態を得る可能性が十分に考えられるのだ。
生前の練習(思考や行為の習慣)の成果が、死後に実を結ぶということである。


2017年9月21日木曜日

追憶 1810

生前に心を腐らせていた人は、死後にも心を腐らせている。
生前に不満を打開して来なかった人は、死後にも不満を打開することは出来ない。
生前に苦しんでいた人は、死後にも苦しむことになる。
死後の世界を否定する人もいるが、それはそれで良い。
わたしは、誰かに死後のことを考えろと言いたい訳ではない。
しかしながら、満足の出来る死というものを迎えるためには、満足の出来る人生を生きていないといけない訳である。
死後の世界を否定する人にとっても、死を迎えるまでの時間を否定することは出来ない。
死後の世界とは、死に際の心境といっても過言ではないだろう。



2017年9月20日水曜日

追憶 1809

現状に対して恐怖心を抱くということは、それを拒絶しているのである。
拒絶すれば、何事も上手くは進まない。
拒絶は現状に停滞を導き、現状の停滞は心を腐らせてしまうのである。
心が腐るということは、苦しむということなのだ。
老女も黒い人影達も、死という現状を否定することによって心が腐った状態であったのだろう。
そのために、現状を打開することが出来ないのである。
心が腐っていない人は、どのような現状に対しても建設的な心で向き合うことが出来る。
それは、現状を打開する唯一の力であるだろう。

2017年9月19日火曜日

追憶 1808

生前でさえ、現状は心の状態を現す。
死後には、それが肉体や自然法則の影響を受けない。
そのため、霊(意識)的な存在となった死後には、何の障壁も無く、直接的に心の状態に左右されるのである。
多くの人は、心の重要さに気が付いてはいない。
心の状態こそが人生を築き、心の状態によって死後の状態が決まるのである。
心とは、現状の原因である。
これを考えずに現状に対してアプローチしたところで、現状に対して変化を導くことは出来ない。
それは、現状が心の状態だからだ。
現状に変化を導くためには、心根を変えるだけである。


2017年9月18日月曜日

追憶 1807

満足している者が苦しむだろうか?
残念ながら、そのような矛盾は生じないであろう。
目の前の状況に対して満足している者は、喜んでいるのである。
喜んでいる者は苦しんではいないのである。
人は、その心の中に一つの感情しか抱くことが出来ない。
同時に様々な感情を抱いているように思えることもあるが、刹那(せつな)を観察してみると、そこには一つの感情だけが存在していることに気が付くだろう。
生きている時には知り難いことではあるが、人生というものは、心の中で最も強い感情によって築かれている。
現状というものは、自分自身の心の中で最も強い感情に従ってそのようになっているのである。

2017年9月17日日曜日

追憶 1806

そして、何よりも、わたしの目的は死後に天使に成ることにある。
わたしは死後に天使に成りたいのである。
わたしは豊かに死ぬために生きているのだ。
豊かに死ぬためには、豊かに生きる必要がある。
わたしの場合は、死ぬことから逆算して生きている。
わたしの命は、死のために存在している。
死ぬことは、わたしの目的である。
そのために、死ぬこと自体に恐怖心を抱いてはいない。
寧(むし)ろ、死ぬことを楽しみにしていたりもするのである。

2017年9月16日土曜日

追憶 1805

わたしには、死に対するネガティブな感情はない。
20歳頃には自殺を”前向き”に検討(けんとう)していたし、いつも、わたしを殺してくれる霊的な存在を探している。
厳密には、わたしを殺すことのできる霊的な存在は存在しない(霊的な存在(他人でもそうだが)が人を不幸にしたり、呪い殺すことなど不可能である)が、それ程のネガティブなエネルギーを抱えている霊的な存在と対峙するのは、刺激的で楽しいに違いないからだ。
”普通”の霊的な存在との対峙も楽しくはあるが、命を掛けた対峙の方がより楽しいに決まっているのである。

2017年9月15日金曜日

追憶 1804

老女と悲鳴の中で、少しずつ身体と心の制御が失われていく。
わたしは鉛となって深い海の底へ沈んでいくような感覚を得た。
これは、恐怖の感情を引き起こすには十分である。
老女は、強い恐怖に溺れたのであろう。
わたしは老女の強い恐怖心と共に沈んでいくのであった。
黒い人影達も、同じように恐れたに違いない。
生前も死後も、人の道を分けるのは、恐怖心であるということなのだろう。
老女と黒い人影達は、恐れたのである。
そのために、苦しみの道を進んだのだ。

2017年9月14日木曜日

追憶 1803

すると、地鳴りのような音が聞こえてきた。
それは、車酔いの絡み付いて離れない不快感のようにわたしを襲った。
地鳴りのような音を聞いていると、黒い腕がわたしに触れた。
それは何本も伸びてきて、わたしの身体を掴むのである。
その時、地鳴りのような音が、黒い人影達の呻(うめ)き声であることを理解した。
黒い人影達は、わたしに絡み付いて離れない。
わたしは、老女のように成るのだろうか?
いや、既にわたしは老女であった。
わたしはわたしの内側に、老女の悲鳴を聞いた。

2017年9月13日水曜日

追憶 1802

車への足取りは重たいものであった。
会場を出た瞬間から、わたしは強烈な倦怠感(けんたいかん)に襲われていたのである。
会場を出た瞬間に、何かがのしかかってくるような感覚によって、わたしは車への道のりを遠くしたのであった。
身体は鉛(なまり)のように重くなり、視界は揺れた。
それでも、なんとか車へと辿り着き、シートに身体を投げた。
瞼(まぶた)を開けているのが辛かった。
光を見るのが苦しいのである。
わたしは反射的に瞼を閉じて、そのままシートに溺れた。

2017年9月12日火曜日

追憶 1801

霊的な力は、自分の意思で扱えるものではない。
わたしは老女と黒い人影達を見せられたが、それを観察することは許されたが、それ以外は許されなかった。
個人的には、なんとかしてあげたいが、私情で扱えるような力ではないのだ。
頼まれたから扱える力でもない。
すべては、わたしを”使う”霊的な存在が、その人の因果に従って決めることなのである。

会場を出る時に、遺族が見送りをしてくれる。
その中に友人の姿を認めた。
わたしは、自らの体験を友人に話さなければならないと感じた。
そこで、別れ際に話したいことがあることを告げて会場を出た。

2017年9月11日月曜日

追憶 1800

和尚達の”演奏会”が終了し、葬儀も終わりを迎えようとしていた。
それは、同時に老女が老女であることの終わりを意味しているようでもあった。
わたしには見ていることしか出来なかった。
それ以外は許されなかったのである。
わたしが老女に対してどのような形で関わるかを決めるのは、わたし自身の意思ではない。
それは、老女の因果やわたしを”使う”霊的な存在が決めることであろう。
何度も言うが、わたしは自分勝手に力を使うことは出来ない。
もしも、自分勝手に使える力があるとすれば、それは偽物であるだろう。
先程の和尚達の”演奏会”もそうだし、俗に言うお祓(はら)いなどもそうだが、残念ながら偽物の力である。

2017年9月10日日曜日

追憶 1799

わたしは”見よう見まね”の焼香を済ませて、黒い人影が群がり、既に頭を残して黒く染まっている老女の前に立った。
老女は相変わらず苦しそうな表情をしているが、やはり声は聞こえなかった。
わたしは、古いサイレント映画を思い出しながら、老女も黒い人影に成るのだと考えて切なくなっていた。
後ろに人の気配がするのは、わたしの次の順番の人が焼香を済ませたからである。
わたしは押し出されるようにして老女を離れ、自分の席に戻った。

2017年9月9日土曜日

追憶 1798

友人は、喪主(もしゅ)を務める主人の後に続いている。
友人の主人は、故人の長男であり、恐らくは強い絆で結ばれた人物であるだろう。
長男である主人ならば、老女の声が届くかも知れない。
そう思って、わたしは観察を続けた。
しかしながら、焼香を済ませた主人は、炎に焼かれる老女の前を平然と素通りしてしまった。
その足取りは自然なものであり、その挙動には何の違和感も見られなかった。
そして、友人も同じように通り過ぎてしまったのである。
彼等にも、老女の声は届いていないのだろう。
誰も何の反応も示さないまま、わたしの順番が回ってきた。

2017年9月8日金曜日

追憶 1797

彼等はきっと、友人の母と同じように、この会場で葬儀をされた人達だろう。
そもそもの原因は分からないが、この場所には、特定の故人の霊を引き込むシステムが出来上がっているのだと思えた。
もちろん、そこに引き込まれるのは、それに相応しい原因を所有している者だけであるだろう。
友人の母は、その原因を抱えているために、わたしの目の前で引き込まれようとしているに違いない。

和尚達の”演奏会”が終盤に差し掛かると、焼香の案内があった。
焼香を済ませて席に戻る時に、誰もが炎に焼かれる老女の前を通ることになる。
焼香は親族から始めるが、そこに友人の姿があった。

2017年9月7日木曜日

追憶 1796

どうやら、人生の目的は、良心的な人物であることだけではなさそうである。
多くの人が良心的な人物であるが、それだけでは解決されない問題があるのだろう。

老女の下半身が黒く焦げ始めた。
老女はやがて、彼等のように黒い人影となり、他の人に縋り付くようになるのであろう。
まるでネズミ講のように、次から次へと”仲間”を増やしていくのだと思える。
老女が黒い人影になるのであれば、黒い人影は元は普通の人間であったに違いない。

2017年9月6日水曜日

追憶 1795

歪んだ感情は、歪んだ状況を導く。
彼等が炎に焼かれて苦しんでいるのは、その心が歪んでいたからであろう。
しかしながら、彼等が悪人であったかといえば、そうではないだろう。
恐らく、彼等は”普通”の人達である。
信条に偏りはあったであろうが、良心的な人達であったに違いない。
それは、炎に焼かれている老女が、友人の義理の母だと思えるからである。
葬儀には、たくさんの人達が参列している。
このような人が悪人であると考えるのには無理がある。
友人の義理の母が良心的な人物であったが故(ゆえ)に、多くの人達が見送りに出向いているのである。

2017年9月5日火曜日

追憶 1794

欲深かったとか、死を恐れて生に執着したとか、利己的な生き方をしたとか、人生というものを考えなかったとか…
彼等が炎に焼かれて苦しんでいる理由は様々であるだろう。
死後に苦しむのには、様々な理由があるのだろうが、それは個人的なことだ。
それぞれの立場があり、それぞれの学びがあり、それぞれの必要が存在しているのである。
そのため、彼等が苦しんでいる原因を一様に述べることはできないが、彼等の心が豊かではなかったのは共通していることなのではないかと思える。
不安や心配、利己的な怒りや悲しみ、焦りや怠慢(たいまん)、妬(ねた)みや僻(ひが)み…
このような歪んだ感情を克服することができずにいたのではないだろうか?


2017年9月4日月曜日

追憶 1793

黒い人影は、炎に焼かれて焦げた人の姿なのではないかと思った。
その人達が、老女に助けを求めて縋(すが)っているか、老女を炎の中に引き摺(ず)り込もうとしているように見えたのである。
そして、経に誘われるようにして、どこからともなく黒い人影が這(は)いずるようにして集まってくるのが見えた。
黒い人影は、次から次に老女に縋り付くのである。
この黒い人達は、死後も苦しみの炎に焼かれている霊であるだろう。
何等かの理由によって、苦しみの炎に焼かれているのではないだろうか?
それは、生前の考え方や生き方に起源しているように思える。
それは、彼等が死後に苦しみの炎に焼かれなければならないという因果を所有していたからである。

2017年9月3日日曜日

追憶 1792

葬儀が、”残された”者たちへの慰(なぐさ)めであるというのであれば、わたしは納得することができる。
それならば、遺影に向かってではなく、参列者に向かって経を唱えるのが正解だと思うのだ。
わたしには、葬儀という儀式が、それを執(と)り行う者たちの自己満足に過ぎないと映ってしまうのである。

和尚達の合唱を聴きながら、わたしは炎に焼かれる老女を観察していた。
すると、赤い炎が黒く色を変えているのに気が付いた。
そして、炎の形をしていたものは、人の姿のように変化していく。
ついには、それはたくさんの黒い人影が老女に縋(すが)り付くような構図になったのである。

2017年9月2日土曜日

追憶 1791

彼等は列席者に対して軽く会釈をし、最も派手な者が中央の豪華な椅子に、派手ではあるが中央に座る者よりは控え目な者たちは左右の椅子に腰を下ろした。
中央に座る派手な和尚が木魚を鳴らしながら経を唱えると、左右の和尚が小さなシンバルのような楽器を鳴らしながら続いた。
葬儀に出席すると、いつもこうである。
宗派によって多少の違いはあるのだろうが、皆同じようなことをしている。
彼等にとっては仕方の無いことだが、わたしはこれを歪んでいると感じてしまう。
なぜなら、目の前には炎に焼かれて苦しんでいる老女の姿があるからである。
彼等には見えていないのかも知れないし、わたしだけが見えているのかも知れない。
そして、わたしが歪んでおり、おかしいのかも知れないが、納得することができないのである。

2017年9月1日金曜日

追憶 1790

そして、炎の中であの老女が、悪夢の中と同じように焼かれているのである。
老女は炎から逃れようとして、身を捩(よじ)り、腕を上げて暴れた。
溺れてはいないが、藁(わら)をも掴むとはこのことだろう。
叫び声を上げているのであろうが、わたしには何も聞こえなかった。
わたしは周囲を見渡した。
それは、わたし以外にも老女が焼かれている姿を見ている人がいるかも知れないと思ったからである。
しかしながら、皆平然としていた。
皆には見えていないのかも知れない。

司会の女性からの会場内に響き渡る豪勢な紹介を受けて、金糸の派手な着物をまとい、頭には立派な被り物を乗せ、手には白く長い房(ふさ)のようなものを持った和尚が、皆からの礼拝を受けながら登場した。
同じような格好をして、楽器のようなものを抱えた和尚が二人、それに続いた。