このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年6月30日金曜日

追憶 1727

黒い煙のようなものは、光の十字架によって光る霧のようになり、吸い込まれるようにして天へと向かった。
次にわたしは動かなくなった男を引き寄せて抱き締めた。
すると、男の身体が輝きを放った。
光が収まると、鎧は白い着物に変わり、痩けた頬は膨らみ、汗や血に塗れた身体も綺麗になったのである。
わたしの腕の中には立派な青年の姿があった。
青年は静寂に包まれて眠っているように沈黙している。
すると、わたしの腕を離れて、先程の霧と同じように天へと向かって見えなくなった。
彼はずっと戦い続けていたのだろう。
それは、戦(いくさ)や敵とではない。
彼は自分自身と戦い続けていたのである。
彼は自分を許すことができたのだろう。
それは、わたしが彼を許したからである。

2017年6月29日木曜日

追憶 1726

男は所謂(いわゆる)、落ち武者というものであろう。
男が既に他界しており、霊体として彷徨(さまよ)っていることはすぐに理解できた。
男は恐ろしい形相で迫ってくるが、わたしの心の中は悲しみで満たされていた。
わたしは男を哀(あわ)れんだ。
すると、右手が宙に十字を描いた。
光の十字架は、彼を救ってくれるだろう。
わたしは身体に任せて、光の十字架を男へ投じた。
光の十字架は真っ直ぐに飛んで、男の薄い胸を射抜いた。
男が苦しそうに倒れると、わたしは吐き気に襲われて、黒い煙のようなものを吐き出した。
これは、男の抱える苦悩の意識である。
黒い煙のようなものに対して、わたしは再び光の十字架を投じた。

2017年6月28日水曜日

追憶 1725

わたしはあの猪がただの動物には思えなかった。
わたしを監視するために遣わされた、化けた獣のように思えるのである。
猪は、生命体としての存在であるだろうが、何かが猪を通じてわたしに会いに来てくれたように思えてならなかった。
霊的な存在が猪に乗り移っているような
、そんな不思議な感覚を得たのである。
それが、白い象なのかは分からないが、わたしにとっては不思議な出来事だった。

それから、周辺の清掃をした。
しゃがんでゴミを拾い上げようとした時、渓流を挟んだ反対側の斜面から、鈍い足音のようなものが聞こえてきた。
わたしは音の出処(でどころ)を探した。
すると、木々の間に男が渓谷を下っているのが見えた。
男は襤褸(ぼろ)の着物と、朽ちた鎧(よろい)を着けていた。
頬(ほほ)は痩(こ)け、ひん剥かれた目の玉が異様な輝きを放っていた。
男の目の玉を見れば、彼がわたしを目指していることは一目瞭然であった。


2017年6月27日火曜日

追憶 1724

猪を見送った後に、渓谷に独り取り残されたわたしは、以前にネットで読んだ怖い話を思い出していた。

それは確か、東北の話だったと記憶している。
主人公の少年(投稿者)が、祖母に疑問を投げ掛けることで話が始まる。
少年は、狐や狸などの動物がなぜ人を化かすのか?という疑問を抱えていた。
それを祖母に聞いてみたのである。
すると、祖母は少年にとっても、わたしにとっても興味深い話をしてくれた。
それは、山で遭遇する怪異をもたらす狐や狸を初めとする動物は、祖母曰(いわ)く神様(人にとっての善悪は関係無い)の遣(つか)い、もしくは、神様が化けた姿なのだという。
化け物とは、化けた獣のことであり、神様が化けた動物ということである。


2017年6月26日月曜日

追憶 1723

しばらくの間、わたし達は緊張感で結ばれていた。
わたしは猪から視線を離してはいけないような気がして、見詰め続けていたのである。
その時、葉先を揺らす優しい風が渓谷を吹き抜けた。
それを合図としたように、わたしと猪を結ぶ緊張の糸が切れたように感じた。
不意に力が抜けた時に初めて、わたしは自分が力んでいたのだと知ったのである。
すると、わたしはこの状況が面白くなって笑った。
わたしが笑ったのを見て、猪は興味を無くしたかのように鼻を鳴らし、絶壁を駆け上がって行ってしまった。

2017年6月25日日曜日

追憶 1722

刺すような視線に対して、わたしは反射的に視線を返した。
すると、絶壁の岩壁の高い位置に、一頭の大きな猪がわたしを監視するように睨(にら)み付けていたのである。
わたしは猪の視線に射抜かれて動けなくなった。
猪もまた、わたしと同じように微動だにしなかった。
わたしは心臓の鼓動が素早くなるのを感じた。
緊張しているのである。
しかしながら、呼吸が深く、弱くなっていることにも気が付いた。
肉体(本能)は危険を感じてはいないのであろう。
この緊張感は、知らないことを学んでいる時に味わう、心が弾(はず)むような高揚感である。
わたしは猪に会ったのを、なぜか喜んでいたのであった。


2017年6月24日土曜日

追憶 1721

捨てられたゴミを横目に見ながら、わたしは渓谷へ向かった。
それは、渓谷の清掃が優先だと感じたからである。
途中にあの記念碑があり、前回と同じように老人が座っていた。
老人は以前と何ら変わらない姿勢で座り、わたしの挨拶にも何ら変わらない対応をしてみせた。
わたしは彼の性格を納得して、それ以上を追求せずに先へ進んだ。

渓谷に辿り着くと、爽やかな風と渓流の美しい音色が出迎えてくれた。
その心地好さに導かれるようにして、わたしは瞼(まぶた)を閉じて深く呼吸をした。
それは、心が騒がしければ、霊的な存在には会えないからである。
わたしは白い象と会いたいと思っていたのである。
その時、わたしは左の崖の上から鋭い目線のようなものを感じた。

2017年6月23日金曜日

追憶 1720

それから、時間を見付けて山に向かった。
それは、約束を果たすためであった。
わたしは自分自身に対して、そして、白い象に対して山の清掃活動を約束していたのである。
今回はゴミを持ち帰るために車で向かうことにした。
通行の邪魔にならない場所に停車して、白い象に出会った渓谷まで歩いた。
歩いてみると、想像以上にゴミが捨てられていた。
ジュースの缶やペットボトル、弁当のケースやお菓子の袋、強いてはテレビなどの家電製品、そして、用途が不明な道具のようなものまで捨てられている。
バイクや車で走行している時には気が付かない。
それ等は、一段下の目立たない草むらに捨てられているのである。
人の目が届かないところに人の本性が現れる。
日本人もまだまだ成長が必要である。

2017年6月22日木曜日

追憶 1719

それは、白い象の山車(だし)を引く子ども達の姿であった。
子ども達は、楽しそうに笑っていた。
それは、山で見た光景そのものであった。
その映像を観た瞬間に、わたしは指先で静電気が火花を散らした時のような感覚を得たのである。
わたしが白い象と出会った山と、テレビで紹介された寺は遠く離れている。
そのお祭りが、その寺に限ったことなのかは分からないが、わたしが白い象と出会った地区ではそのようなお祭りを見たことはなかった。
何か関係しているのだろうか?
それとも、偶然であろうか?
あの白い象はどこの山にもいて、それに出会った人が祭ったのであろうか?
考えても分からないが、不思議な出来事であった。

2017年6月21日水曜日

追憶 1718

あれから、半月程が経過していた。
わたしは夕食を済ませようとしていた。
わたしは静かに食事を摂りたい性格なので、食事中に(限ったことではないが)テレビは点けない。
その時は、家族がテレビを観ながら食事をしていたのである。
だから、わたしは思い掛けずにテレビを視界に入れることになったのだ。
それは、地域の情報を提供する企画であった。
テレビには、あるお寺のお祭りの様子が映し出されていた。
わたしはなぜかその映像が気になり、何と無く眺めていたのだが、ある映像に目が奪われてしまったのである。


2017年6月20日火曜日

追憶 1717

わたしがこれ以上ここにいる必要はない。
いつの間にかに森は夜の準備を整えようとしていた。
わたしは姿の見えなくなった白い象と子ども達に、心の中で感謝をした。
そして、今度お礼に清掃活動をすることを約束してバイクに跨(また)がったのである。
気分も身体もバイクも軽く感じた。
わたしは生まれ変わったような気分であった。
少し走ると、前方にあの記念碑が見えたが、そこには、今だに同じ姿勢で座る老人の背中があった。
速度を落として近付き、老人を少し過ぎたところでバイクを停めた。
わたしは老人に対して、白い象に世話になったことを伝えて礼をした。
しかしながら、相変わらず老人はわたしには何の興味もないようである。
老人からは何の反応も引き出せなかった。
仕方ないので、わたしはバイクを走らせた。



2017年6月19日月曜日

追憶 1716

これは、”普通”になれなかった自分への慰(なぐさ)めであり、賞賛(しょうさん)でもある。
もちろん、これが誰かの役に立つかも知れない。
もしも、”普通”であることにストレスを感じている人がいるのであれば、思い切って自分を生きることを勧(すす)める。
自分を生きることにも様々な苦労はあるが、”普通”を生きる苦労にくらべれば随分と容易(たやす)いのである。
”普通”を生きることで得られるのは、偽りの苦しみと、偽りの喜びであるだろう。
自分を生きることで得られるのは、本当の苦しみと、本当の喜びだと思えるのである。


2017年6月18日日曜日

追憶 1715

どちらにしても間違っているのだから、開き直って自分の感性に従おうという程度のことである。
わたしの人生には、霊的な存在との共存が普通だ。
そのため、わたしの人生は、誰が何と言おうともそれで良いのである。
どのような人生にも、それに相応しい学びがあるが、それを決めるのは魂の状態であるだろう。
そのため、わたしは誰かにわたしの思う通りに生きることを求めはしない。
それぞれが、それぞれの感性に従って生きれば良いのである。

2017年6月17日土曜日

追憶 1714

それが誰に対しても有益なのかは分からないが、少なからずわたしには最善の道であった。
それは、わたしが人の世を不自然だと考えているという前提があるからだと思える。
人の世を謳歌(おうか)している人たちには、わたしのような考え方は良いものとは言えないだろう。
人の世を謳歌するためには、”当たり前”を享受(きょうじゅ)し、何も疑わずに生きることが求められるからである。
そのような人たちには、一般的な常識を外れた”冒険”はお勧(すす)めしない。
一般的な常識の中で幸せに生きれば良いと思っている。
わたしは自分が正しいなどとは思わないし、誰かが正しいとも思わない。
皆正しく有り、皆間違っているのである。

2017年6月16日金曜日

追憶 1713

学校の勉強もそうである。
わたしが真面目に勉強するということはなかった。
母親はわたしの為を思ってか、塾に通わせたりしたが、無駄なお金を使ったものである。
わたしは勉強が嫌いであった。
そのため、常識的な既成概念が育つのを免(まぬが)れたのであろう。
真面目に勉強していれば、誰かの思い通りの価値観によって生きることになったはずである。
それは、所謂(いわゆる)、量産型の常識人になり、”立派”に生きていたことだろう。
わたしは無知であったから、後に自分自身で勉強する必要性を感じて、独自の勉強法に至ったのである。
そのため、わたしの常識と一般的な常識は異なる。
わたしは自分自身で情報を収集し、一般的な常識を抱える人たちは、教えられたことを記憶したのである。

2017年6月15日木曜日

追憶 1712

わたしは田舎に住んでいるが、それでも不自然である。
祖父母の世代でさえ、少しずつ自然から遠ざかってきていた。
両親の世代では、不自然が極まったと思える。
家業が漁師や養殖業など、海に関わっていたこともあるが、畑を放棄して、基本的には野菜をスーパーなどで買うようになった。
買うことが悪いという訳ではないが、祖父母の世代では畑も田んぼもしていたのである。
若さもあってか、両親にはそういったことに興味を抱けなかったのかも知れない。
そのため、幼い頃にわたしが畑に触れる機会は皆無であった。
現在、わたしは自然農法での野菜作りに挑戦しているが、近代農法の影響を受けなかったという点では良かったと思っている。

2017年6月14日水曜日

追憶 1711

鬱病(うつびょう)を抱えていようが、自然の中で暮らせば治るのではないかと思う。
様々な動植物、昆虫や微生物、陽の光や風、温度差や匂いなど、様々な刺激が偏った人間の状態を正してくれるとわたしは信じている。
都市部では、人間関係や商業施設などの人工的な変化は激しいものの、自然環境の変化には乏しい。
本来ならば、人は自然環境の中に人工的な環境を築く。
しかしながら、都市部では、人工的な環境の中に自然環境を築こうとしているのである。
環境が反転しているのである。
環境が反転しているのであれば、人間も反転するだろう。
現代人が抱える様々な問題は、環境が反転し、不自然の中に生きていることに本質があるのだと思える。

2017年6月13日火曜日

追憶 1710

わたしは自らの心の歪みを取り除くために、無意識に山へ向かった。
そこで白い象に会うことによって、幾らかの歪みを吐き出したのである。
それは、自然環境や精霊の助力がなければ、成し得なかったことだろう。
人は成長を義務付けられている存在だと思える。
現代人は、文明の発達を望んでいるだろう。
そのため、都市部のような人工物によって覆われた住環境が形成される。
文明の発達も良いとは思うが、自然から離れて生きることなど、人間には出来ないことである。
自然から離れて暮らせば、必ず何かしらの問題を抱えることになるのだ。
自然には、人が道を間違えるのを正す力があるのだろう。

2017年6月12日月曜日

追憶 1709

自然環境こそが、わたし達人間の肉体を健やかに保ってくれる。
現代的な生活も良いとは思うが、自然環境から離れ過ぎてしまえば健康問題を引き起こすだろう。

自然界には、白い象のような精霊?も存在している。
人が、特に年齢を重ねる程に山に惹(ひ)かれるのは、若い頃の不自然な生活が祟(たた)ることによって健康を害したり、精神が歪んだのを正す必要性を意識的、無意識的に感じているからだろう。
人が自然を得るためには、人工物から離れて山に登るのが一番だと思える。
それは、山には自然環境が僅(わず)かながらに残っているし、里に比べると、多くの精霊が存在しているからである。
山が古代の切り株(米のデビルズタワーなど)だとする説もあり、わたしはその説を支持しているが、人は無意識の内にでも自然に惹かれるものなのである。

2017年6月11日日曜日

追憶 1708

とは言え、わたしもアニミズムを意識して育った訳ではない。
幼少の頃から自然の生き物達と共に暮らしてはきたが、それを大切に思うことはなかった。
ただ、幼心に楽しいという気持ちによって接してきただけであり、思春期を迎える頃には、それが嫌いで仕方なかった。
わたしがアニミズムを意識し始めたのは、霊的な存在に興味を持ったことに由来している。
人の形をした霊が入り口となり、徐々にアニミズムに至ったのだと思える。
わたしはアニミズムを合理的な思想だと思っている。
霊的な存在を意識するまでは、自然環境のことなど考えたこともなかった。
しかしながら、霊的な存在を意識することによって、生き物(動植物や微生物など)のことを意識するようになり、土や水や風や陽などの無機物(厳密には違うだろうが)のことも意識するようになったのである。

2017年6月10日土曜日

追憶 1707

医療や食事や生活が豊かになったのであれば、どうして病気は増え続けているのだろうか?
わたしにはどうしても解せないのである。
現実には、病気は増えているし、食事も生活も質は下がっているように感じてならない。
食料自給率も下がり続けている。
背景には様々な要因があるだろうが、自給も出来ない国になってしまった。
食料を輸入に頼っているが、干ばつや外交問題によって輸入が滞ればどうなるのだろうか?
現実的には考え難いことではあるが、そうなる可能性も無いとは言えないだろう。
人は自然から離れることによって多くの問題を生み出した。
現代人は自然から離れ過ぎていると思う。
現代人は、アニミズムをもう少し考慮しなければならないだろう。

2017年6月9日金曜日

追憶 1706

スーパーだろうが、自動販売機だろうが同じことである。
わたし達は自然から離れてしまった。
それが普通になってしまったのである。
微生物に触れないから免疫力が低下する。
植物に触れないからストレスが溜まる。
日光を浴びないから骨や血が弱る。
”細胞”を食べないから栄養不足に陥る。
わたし達人類は自然と共生してきた歴史を持つ。
人体は、長い時間をかけて作り上げられた自然そのものなのである。
(もしくは、人類創造の時に当時の自然環境に対応して造られたか?)
しかしながら、人は自然界のルールを破り、人工的に様々なものを生み出してきた。
それが不自然であるために、病気は増え続けているのだと思える。

2017年6月8日木曜日

追憶 1705

この世界に生まれた時から、わたし達に対する教育は始まっている。
人間の与えるものは、善意も悪意も総じて歪んでいる。
歪んだ教育を受けて育った人間は、やはり歪んでいる。
しかしながら、生まれた時から受け続けた教育が歪んでいることに気が付くことは難しい。
多くの人間は、その不自然さに気が付かずに偽善を生きることになる。
そして、偽りの幸福の中で、偽りの満足に首を絞められて死んでいくのである。
歪んだ人間が歪んだ人間を生産する。
それが、この世界の縮図である。
それは、工場で製造される弁当のようなものだろう。
見た目は不自然なまでに美しい。
そして、味も中身(栄養や”細胞”)も不自然である。
残念ながら、”あれ”は食べ物ではない。
”あれ”は工業製品なのである。

2017年6月7日水曜日

追憶 1704

最たる目的は、自分自身の歪みを理解するためだと思える。
そして、霊的な存在に出会うことによって、謙虚さを身に付けさせるためだとも思える。
わたしが生きる世界には、自分よりも優れた霊的な存在がいる。
そのため、わたしは自分が優れているとは思えない。
霊的な存在を知らない人たちは、人間や人間が生み出したものが優れていると思っているだろう。
科学に対する信仰が、その傲慢(ごうまん)さを物語っている。
もちろん、まともな科学者(どのような業種の人でも)であれば、科学が自然法則を発見しているに過ぎないことを理解し、謙虚な気持ちで研究を続けているだろう。
しかしながら、人間が優れていると思っている人は、自分が何者かも分からないのに、何かを分かった気でいるのである。

2017年6月6日火曜日

追憶 1703

白い象は、子ども達の笑い声を引き連れて、渓谷を渡った。
子ども達の笑い声が聞こえなくなると同時に、わたしは束縛を解かれたような感覚を得た。
薄暗い森の中には、小さな虫の声だけが響いている。
わたしは独りで取り残され、しばらく呆然としていた。
滲(にじ)む視界の中で、様々なことを考えていたが、考えたところで答えが導けないのはいつものことである。
焦点が渓流の流れに合ったのを自覚して、わたしは目的を達したのだと、何の根拠も無く”理解”した。
わたしは今日、体調不良によって森へ向かい、白い象に会わなければならなかったのであろう。

2017年6月5日月曜日

追憶 1702

多くの人が誤解をしているが、他者とは自分自身なのである。
人は、他者を通じて自分自身を見る。
人は、他者によって自分自身を見せられるのだ。
他者と対峙した時には、様々な感情が湧き起こる。
それは、紛れも無く、自分自身の内側で起こっている現象なのである。
そのため、如何なる苦しみも外側には存在しない。
人は、独りで勝手に苦しんでいるのである。
喜びであっても同じことである。
すべてが独り善(よ)がりであることを知るべきであろう。
それぞれが独り善がりによって様々な感情を生み出し、独り善がりによって共感しているように思い込んでいるだけなのである。

2017年6月4日日曜日

追憶 1701

わたしは、苦しんでいる人たちのおかげで、自分自身を内省することができる。
多くの人は、他者の苦しみを厄介事(やっかいごと)だと思っているだろう。
しかしながら、実際には、喜びよりも苦しみを通じて学ぶことの方が多く、成長するためには苦しみが必要不可欠なのだ。
他者の苦しみを厄介事として否定するのであれば、人は自分自身を内省することも、成長することもできないだろう。
わたしが黒い煙のようなものを吐き出すことができたのは、苦しんでいる人たちのおかげなのである。
あなたが他者の苦しみを厄介事として否定しているのであれば、それは勿体無いことをしていると認識した方が良いかも知れない。
もちろん、限度はある。
相手が甘えてもいけないし、自分自身が疲れ果ててもいけない。
力量を見極める必要があるだろう。

2017年6月3日土曜日

追憶 1700

わたしは悩みを抱えている人と共に成長している。
悩み、苦しんでいる人に出会う程に成長することができるのだ。
少なからず、わたしはそのように実感している。
そのため、彼の主張はわたしには当てはまらないのである。
もちろん、彼の主張は真実であるだろう。
しかしながら、それは彼にとっての真実である。
彼は人の悩みによって(自分にとって都合の)悪い結果を導くであろう。

2017年6月2日金曜日

追憶 1699

知り合いは、わたしを気遣ってくれたに違いない。
彼は、彼なりの善意の言葉を投げ掛けてくれたのだろう。
しかしながら、わたしは彼のようには考えなかった。
なぜなら、人の悩みを聞くことは楽しかったからである。
もちろん、人が苦しんでいる姿を見るのが楽しいということではない。
人の悩みを聞くことによって、わたしは他者を疑似的(ぎじてき)に体験することができる。
それに、共に考えることもできるし、成長することもできるだろう。
苦しんでいる人が、その苦しみを手放す瞬間のあの高揚感は、他のどのような刺激にも勝る快楽なのだとも思える。
そして、苦しんでいる人の悩みを聞いている時、わたしは霊的な存在達と一層強く過ごすことができる。
それは、わたしが最も自分らしくいられる時間なのである。

2017年6月1日木曜日

追憶 1698

わたしは自分がどれだけ矛盾しているのかを誰よりも知っている。
それは他者に比べて知っているという意味であり、自分でも知らない矛盾は数え切れないほどに抱えているだろう。
そのため、わたしが何かの問題を抱える時には、それが自分自身の抱える矛盾であるということを理解することができるのである。
問題を短絡的に捕らえるのであれば、問題は誰かや何かのせいで生じているように思える。
以前、知り合いに言われたことで、今でも覚えている言葉がある。
それは、わたしがバイクで転けたり、家族の誰かが病気を患(わずら)ったりと、世間的に見ると悪いことが続いた頃のことだった。

”悩みを抱えている人の話ばかりを聞いているから、悪いものをもらうんじゃないのか?”

この言葉は今でもわたしの心に突き刺さっている。
それは、わたしがそのように考えたことが無かったからだ。