光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2019年4月30日火曜日
追憶 2396
手術が恐いとか、費用がかかるとか、手術して痛みが取れるか分からないなどの考えは言い訳に過ぎない。
もしも、足の痛みを取り除きたいと本気で考えているのであれば、手術という選択をしているはずなのである。
老女が手術をしないのは、今の自分にとって足の痛みが必要であることを、思考や感情よりも深い場所の何かが知っているからであろう。
それは、霊というものかも知れないし、魂というものかも知れないが、何かが足の痛みと共に生きることを選択しているのである。
2019年4月29日月曜日
追憶 2395
老女は、現状に対して不平不満を吐いているが、それでもその状況を学んでいる。
足の痛みを手放したいのであれば、安易に考えるのであれば、手術すれば手っ取り早いだろう。
手術をして痛みが取れるかは分からないが、痛みが取れる人が多くいるからこそ、その手術は行われているのではないだろうか?
しかしながら、現状において老女はそのような選択をしていない。
それは、足の痛みに対して不平不満を吐くという選択をさせる何かがあるからであろう。
わたしに対して助けを求めるのは、肉体的な動機を上回る精神的な動機が存在するからではないだろうか?
2019年4月28日日曜日
追憶 2394
苦しみながらも泳ぐのは、命が惜しいからではない。
肉体の感覚を主体としている多くの人達には、そのように思えるかも知れないが、人が苦しみながらも泳ぐのは、肉体的な感覚を超えた目的があるからである。
命の継続のために泳ぎ続けることの出来る人はいない。
それは大切なことであるが、そのような動機は、苦しみを前にして簡単に折れてしまうのである。
本能的な動機が強そうに思えるが、本当に強いのは精神的な動機なのだ。
目の前の快楽や欲望を貪(むさぼ)り、苦悩を恐れる子どものような者の動機は、苦しみを前にして簡単に折れてしまう。
2019年4月27日土曜日
追憶 2393
人が意識の段階を登ることには価値がある。
それは、繰り返しを離れることが出来るというだけでも価値のあることだ。
人生における最大の苦しみは停滞である。
繰り返しとは停滞のことなのだ。
意識の段階を登ることによって、停滞という最大の苦しみを離れることが出来る。
それは、息継ぎをしながら泳いで行くようなものだ。
息継ぎをせずに泳ぎ続けることの出来る人はいない。
なぜなら、それは苦しいからである。
泳ぐことは容易ではないが、わたし達は泳がなければならない。
それは、泳がなければ溺れ死んでしまうからである。
2019年4月26日金曜日
追憶 2392
人が苦悩を避けることは出来ないだろう。
人は、どのような意識の段階においても苦悩しなければならないのである。
しかしながら、苦悩の形は変わっていく。
それは良いことだ。
新たな苦悩に出会うということは、前進しているということだからである。
苦悩の形が変われば、同じように幸福の形も変わる。
人は、意識の段階を経ることよって、より本質的な人生を得ることが出来るのだ。
2019年4月25日木曜日
追憶 2391
とはいえ、意識の段階を登れば、別の種類の苦悩に会わなければならない。
それは、人が人である以上は、未熟を生きなければならないからである。
多くの人は、成長することによって苦悩を避けることが出来ると考えているだろう。
しかしながら、人がどれだけ成長しようとも、苦悩を避けることは出来ないということを理解しなければならないのだ。
子どもの頃の苦悩は、大人になった時には消え去っている。
多くの人は、成長した時には、過去の苦悩を克服しているものである。
しかしながら、大人には大人の苦悩が存在する。
子どもの頃には思い付きもしなかった苦悩が、大人になった時には目の前に存在しているのである。
2019年4月24日水曜日
追憶 2390
人が意識の段階を登るためには、現状を受け入れなければならない。
センダングサを手放すためには、洋服に付着したセンダングサの種子と向き合い、それを取り除かなければならないのである。
指に刺さった棘(とげ)の痛みは大したことはないが、その痛みが続くことには耐えられないのである。
棘の痛みに耐えられなくなった時、人は棘を抜く。
同じことの繰り返しは、人の精神を疲弊(ひへい)させてしまうのだ。
繰り返しに耐えられる人はいないだろう。
意識の段階を登ることがなければ、人は苦悩を生きなければならないのである。
2019年4月23日火曜日
追憶 2389
多くの人は目の前の現状を否定して、より良い現状を求めている。
それは、人として当然のことであるが、人生を考える時にはそれが最善とは限らないであろう。
なぜなら、否定した現状は、別の形で同じように与えられるからだ。
その時は、逃れたように思えるが、人生はあなたを決して逃さない。
それは、センダングサの様に、本人はその"バラ(種子)"を逃れたつもりでいても、洋服のどこか見えないところには、必ず無数の種子が付着しているのである。
それは、あなたがどこに行こうとも付いてくる。
そして、あなたの近くに再びセンダングサを実現させるのである。
2019年4月22日月曜日
追憶 2388
子どもとは、現状を受け入れることの出来ない人物のことである。
そして、大人とは、現状を受け入れることの出来る人物のことだ。
子どもは我慢することが出来ない。
そのため、自分のことを優先してしまう。
それは決して悪いことではないが、人が人生の目的を考え、真(まこと)に生きるためには、自分のことよりも、人生を優先しなければならないのである。
自分とは、小さな事柄である。
それに比べて、人生は大きな事柄であるということを理解しなければならないだろう。
2019年4月21日日曜日
追憶 2387
人は、意識の段階を生きている。
人は、意識の段階を経なければならないのである。
それは、階段を一段一段と登るようなものだ。
次の段に歩みを進めなければ、当然のことながら、次の段階には進むことが出来ない。
しかしながら、多くの人は、次の段に足を掛ける前に次の段にいることを望んでいる。
それは、自分の足で歩むことをしないで、次の行き先に運んでもらおうとする子どものような状態なのである。
2019年4月20日土曜日
追憶 2386
目の前の思い通りにならない現状を受け入れることが出来なければ、生きることは叶わない。
人生の目的を果たすためには、人生に向き合わなければならないからである。
人生とは、目の前の思い通りにならない現状のことだと理解しなければならないだろう。
他に良いものがあると考えるのは間違っている。
なぜなら、現状を乗り越えなければ、より良い現状など存在しないからだ。
2019年4月19日金曜日
追憶 2385
人生は、思い通りにならないのが常(つね)である。
未熟に生まれるすべての人間は、最善を知ってはいない。
最善を知らない者の思い通りに人生が展開することは、決して良い結果を導かないのである。
人生に良い結果を導くためには、最善を得なければならないが、最善を知っているのは人生だけである。
最善を得ようとする者は、人生の提案を受け入れなければならない。
人生の提案とは、目の前の思い通りにならない現状のことなのである。
2019年4月18日木曜日
追憶 2384
生まれたばかりの赤ん坊が産声を上げるのは、人生の意義を覚えているからである。
自分が何のために生まれたのか?その時は覚えているのだ。
しかしながら、人生を経験していく中で、生存のために覚えなければならないことや、義務や快楽や欲望や苦悩によって、人生の意義は覆い隠されてしまうのである。
大抵の人は、義務や快楽や欲望や苦悩に従って生きている。
“有利”な生存のために生きているのだ。
そのため、不利な状態を嫌う。
そのような背景によって、多くの人は思い通りにならない現状に対して、否定的な考え方と生き方を選択してしまうのである。
2019年4月17日水曜日
追憶 2383
生まれた不幸を受け入れることの出来る者だけが、産声を上げるのである。
生きる不幸を受け入れることの出来る者だけが、生きることが出来るのだ。
何かに対して不平不満を吐き、否定的な選択をしている人は生きてはいない。
そのような者は生存はしているが、生きてはいないのである。
ここでいう生きるというのは、呼吸をすることでも、食事をして排泄をするということではない。
人生に意義を見出すことが、生きるということなのである。
2019年4月16日火曜日
追憶 2382
何かが出来るということは素晴らしい。
それが、どん底で這(は)うようなことであってもである。
不幸を受け入れることの出来る人というのは、勇気の持ち主である。
不幸を受け入れることが出来るのであれば、自力で歩むことが出来るだろう。
不幸を受け入れることが出来るというのは、強さの証(あか)しなのだ。
生まれたての生物は、とても無力である。
それは、この世界で最も弱く、繊細(せんさい)な存在であるだろう。
しかし、生まれたての生物は無力という不幸を受け入れている。
生まれたての生物は”どん底”である。
あなたが生まれた時、自力で呼吸をしなければ命を存続することは出来なかったのである。
2019年4月15日月曜日
追憶 2381
不幸には救いがある。
それは、不幸には学びが存在するからだ。
多くの人は、不幸を最悪なことだと考えているだろう。
しかしながら、不幸というものは、決して悪いものではない。
寧(むし)ろ、不幸とは良いものなのである。
不幸とは、例えば、底に到達しているような状態のことである。
不幸に成り切れていない人は、宙吊りにされているようなものなのだ。
底に到達していれば、何かしらの行動を起こすことが出来る。
しかしながら、宙吊りの状態では、何も出来ないのである。
人間にとっての最大の苦しみは、何もしないこと、何も出来ないことであるだろう。
不幸であれば、最大の苦しみを避けることが出来るのである。
2019年4月14日日曜日
追憶 2380
多くの人は、幸福が難しいと考えているだろう。
しかしながら、それは誤解である。
この誤解に気が付かなければ、苦しみはいつまでも続いてしまうだろう。
多くの人は、自分を不幸だと考えているだろうが、不幸とは、それを受け入れることの出来る人だけが実現することの出来る状態のことである。
自分にとって都合の悪い状態を受け入れることの出来ない人は、不幸にすらなれないのだ。
そのため、自分を不幸だと考えている人の多くは、不幸にすらなっていない人達なのである。
2019年4月13日土曜日
追憶 2379
難しいのは、不幸を受け入れることだ。
人生を完成させるためには、どうしても不幸を受け入れる必要がある。
なぜなら、不幸を受け入れることが出来なければ、気付きを得ることが出来ないからだ。
気付きを得ることが出来なければ、成長を実現することも出来ないのである。
不幸とは、自分にとって都合の悪い状態や状況のことである。
自分にとって都合の悪い状態や状況を受け入れることは、誰にとっても難しいことなのだ。
そのような意味で、幸福になることは簡単なのである。
2019年4月12日金曜日
追憶 2378
しかしながら、人生というものは、幸福であれば良いというような簡単なものではない。
人は、時に幸福でなければならないし、時に不幸でなければならないのである。
それが、人生の難しいところなのだ。
幸福を手にするだけで良いのであれば、誰にとっても人生は易(やさ)しい。
幸福を手にするのが難しいと主張する人達がいるが、幸福とは思い込みに過ぎないために、思い込むことの出来る人であれば誰にでも手にすることが出来る。
自分に都合の良いことを受け入れることは容易(たやす)いのである。
2019年4月11日木曜日
追憶 2377
自分の都合で考えるのであれば、人生程苦しい場所はないだろう。
なぜなら、人生は決して自分に都合良くは展開しないからである。
人生というものは、目の前の状況のことではない。
人生が終わる時までが人生なのである。
人生は、マラソンのようなものであろう。
最終的にどうか?ということが重要なのである。
多くの人は、短絡的に生きている。
シンプルに生きるのは良いことだとは思うが、安易(あんい)に生きてはならないだろう。
多くの人は、現状が良ければ満足である。
幸福であれば良いと考えているのである。
2019年4月10日水曜日
追憶 2376
多くの人が、老女のように不平不満に陥(おちい)っている。
それは、以前のわたしも同じであった。
誰もが、自分の状態や状況を“恨(うら)む”のである。
それは、自分の状態や状況を受け入れることが出来ないからだ。
なぜ、受け入れることが出来ないかといえば、自分の状態や状況が悪いものだと思い込んでいるからである。
悪いと思い込んでいるからこそ、受け入れることが出来ない。
それは、自分の都合で人生を考えているからであろう。
2019年4月9日火曜日
追憶 2375
そのため、青虫は効率的にエネルギーを蓄えなければならない。
足元の葉っぱを食べ尽くす前に、蛹(さなぎ)に成らなければならないのである。
それは、人が目の前の状況に対して、効率的に学ぶことが求められているのと同じであるだろう。
人は、自らの思考の中に学ぶ意欲が存在する間に成長を実現しなければならない。
苦しみに会うと、少しずつ学ぶ意欲は薄れてしまうものである。
そうすると、葉っぱを食べ尽くしてもまだ蛹に成ることが出来ない青虫のように、途方(とほう)に暮れなければならないのである。
2019年4月8日月曜日
追憶 2374
老女の思考は、苦しみの不自由によって停滞している。
老女は、苦しみの中に閉じ込められているのである。
そのため、自由を感じることが出来ない。
それは、青虫が自分の足元の葉っぱを食べ尽くしてもまだ、青虫のままの姿でいるようなものであろう。
青虫にとって、それ以上に食べることの出来る葉っぱが無くなることは苦しみなのではないだろうか?
青虫の目的は葉っぱを食べることであり、それは、蛹(さなぎ)に成るためのエネルギーを蓄える必要があるためだ。
2019年4月7日日曜日
追憶 2373
苦しみの不自由によって、人生の可能性は奪われる。
人生の可能性が奪われるということは、停滞しなければならないということである。
停滞とは、思考の繰り返しのことだ。
人生の可能性が奪われた者は、同じことを何度も考え、同じことを何度も思うのである。
人生の可能性とは、思考が新たな状態を得ることだ。
それは、卵がやがて青虫となり、青虫が蛹(さなぎ)となり、やがて羽根を持つようなものである。
人生の可能性に従って、思考は自由を得るのである。
2019年4月6日土曜日
追憶 2372
屈辱を受ける者には、自由が無い。
それは、常に苦しみによって心の自由が奪われている状態なのである。
恥を知らない者は、苦しみによって不自由に屈服(くっぷく)しなければならないのだ。
残念ながら、これを避けることは出来ない。
なぜなら、人生というものは、自分の意識の状態に相応しい現実のみが実現するからである。
恥を知らない傲慢(ごうまん)な者にとっては、苦しみの不自由が相応しいのである。
2019年4月5日金曜日
追憶 2371
どのような人物にも、果たさなければならない人生の目的が与えられている。
しかし、残念ながら、多くの人はそのことを忘れている。
多くの人は、人生に目的が与えられていることすら忘れているのである。
人生に目的が与えられていることを忘れている人達は、傲慢(ごうまん)に振る舞う。
そのような人達は、自分が正しいと思い込み、恥を忘れてしまう。
恥を忘れた者に導かれるのは、屈辱(くつじょく)という苦しみなのである。
2019年4月4日木曜日
追憶 2370
絶望とは、自尊心の死である。
人は、絶望することによって自尊心を手放すことが出来るのだ。
絶望を得るまでは、自尊心は我が物顔で振る舞っている。
そのため、人は、自尊心を正しいと誤解してしまう。
しかしながら、絶望を得て初めて、人は自分の無力さに気が付き、歪んだ自尊心を信仰していたことに恥を覚えることが出来るのだ。
恥によって、謙虚(けんきょ)さが身に付き、自尊心を磨こうという気持ちが芽生える。
そこから、学びの道が始まるのである。
人生は、恥から始まるのである。
傲慢(ごうまん)な生き方は人生ではない。
人生とは、与えられた目的を果たす道程(どうてい)なのである。
2019年4月3日水曜日
追憶 2369
自尊心の歪みは、苦しみの大きさで理解することが出来るだろう。
苦しみが大きい程に、自尊心は大きく歪んでいるのである。
わたし達は、苦しみに向き合うことによって、苦しみに対するこつを掴むことが出来る。
多くの人は、苦しみに対した時に不満を抱く。
先ずは戦おうとするのである。
しかしながら、戦っている間に、それが太刀打ち出来ない相手だと気が付く。
残念ながら、どのような人物も苦しみに勝ることは出来ないのである。
苦しみに勝ることが出来ないことを悟ると、次に悲観する。
そして、悲観を蓄積することが絶望感を生み出してしまうのである。
2019年4月2日火曜日
追憶 2368
わたし達が自尊心を磨くためには、学ばなければならない。
学びとは、大抵の場合苦しみである。
なぜ、学びが苦しみであるかといえば、それは、未知の体験だからだ。
苦しみとは、簡単に言えば“不慣(ふな)れ”のことであるだろう。
もちろん、それだけが苦しみの本質ではない。
しかしながら、人は、単純に慣れていないことに苦しむのである。
どのような苦しみも、慣れると緩和(かんわ)される。
それは、経験を通じて苦しみとの向き合い方を理解するからである。
2019年4月1日月曜日
追憶 2367
苦しむというのも、自尊心が招く悲劇である。
目の前に差し出される状況(学び)に対して、否定を選択することによって、それは苦しみとなる。
謙虚(けんきょ)さとは、目の前に差し出される状況を学ぶ姿勢のことなのだ。
自尊心は、適切な状態にとどめなければならない。
それは、低くてもだめだし、高くてもだめだ。
歪んでいてもだめなのである。
球のように丸く、玉(ぎょく)のように輝きを放っていなければならない。
そのためには、磨くことである。
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