このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2014年3月31日月曜日

追憶 569

わたしは幸せになりたいのである。
この霊もそう思っていたに違いないが、今は幸せの方向性が違っているように思える。
幸せとは人それぞれに違うものであるが、思いやりや優しさなどの愛情から離れるのは本当の幸せではないのではないだろうか?
しかしながら、争いや苦しみを幸せと思い込んでいる人もいるのも事実である。
苦労は買ってでもしろという人がいるが、そのような人は苦しみを幸せだと思っているに違いない。
わたしの中にも苦労しなければならないという考え(教育)があるが、この霊を見ているとこのようになってはいけないのだと痛感する。

2014年3月30日日曜日

追憶 568

しかしながら、幸せになりたいという願いよりも強い何等かの感情によって、その願いは吹き消されたのだろう。
人生は決して楽な場所ではない。
人生には問題や壁が付き物である。
人は問題や壁から逃れることはできない。
すべての人が自分なりの問題や壁を抱えているのである。
この霊も、何等かの問題や壁によって苦しんだに違いない。
それは心を傷付けるほどの苦しいものであったのだろう。
もしも、心が満たされていて楽しいのであれば、こんな所でこんな姿ではいないのである。
この霊の姿は、自らの状態を如実に現しているのである。
この霊は、その姿と行いを見せることによって、自らの状態をわたしに伝えているのである。

2014年3月29日土曜日

追憶 567

わたしは心が葛藤するのを見た。
怒りと喜びの間で揺れていたのである。
怒れば地獄、喜べば天国である。
どちらかを選ばなければならないのであれば、わたしは天国の方が良い。
苦しいのは嫌である。
黒い姿をした破滅的な霊たちは、きっと苦しいのが好きなのである。
だから、自身も苦しんでいるし、わたしにも苦しめと言うのだろう。
苦労が好きな人がいるが、わたしは嫌いだ。
苦しいのはどうも好きになれない。
苦しいのが嫌だと言う割りには、自らを苦しめている人がいる。
そのような人は喜ぶ方法を知らないか、自らの思考や行為が矛盾していることに気が付いてはいないのだろう。
目の前の霊も、元は人間である。
人間は誰もが幸せになりたいと考えている。
この霊もわたしと同じように幸せになりたいと考えていたに違いない。


2014年3月28日金曜日

追憶 566

口元が引き締り、歯ぎしりが始まった。
先程まで笑っていたのに、今度は怒りを覚えているようである。
計算違いがあったのだろう。
この霊は、わたしが苦しむと思っていたに違いない。
まさか、わたしが喜ぶだなんて思ってもみなかったのだろう。
思い通りにいかなければ怒りによって何とかしようとするのは、人間も霊も同じことである。
わたしは自らの喜びの感情の上に、更なる怒りの感情が覆い被さるのを感じた。
喜びが掻き消され、怒りが込み上げてくる。

「苦しめ…苦しめ…苦しめ…」

霊はまた、同じことを繰り返し始めた。

2014年3月27日木曜日

追憶 565

背筋に冷たいものを感じて、わたしは動揺した。

「苦しめ…苦しめ…苦しめ…」

髪の毛の中からは嗄(か)れた声が延々と聞こえてくる。
わたしは自らの中に怒りや恐怖といった感情が膨れ上がるのを感じていた。
しかしながら、わたしは自らの心の中に、なぜか喜びの感情が沸き起こってくるのを感じていた。
わたしの目の前に存在しているのは霊である。
わたしは本来、霊に会いたかったのだ。
霊が嫌いでこんなことをしているのではい。
わたしは霊が好きだから、ここにいて、こんなことをしているのである。
わたしにとっては、霊を見て喜びの感情が沸き起こるのはごく自然なことであった。
それは、本能的な感覚なのかも知れない。
わたしが喜びの感情を抱くと、髪の毛の中の口が引き締まるのを見た。

2014年3月26日水曜日

追憶 564

「ふふ…」

その時、わたしは笑い声を聞いた。
わたしを笑うのは誰だ。
人が苦しんでいるのにそれを笑うという態度に、わたしは更なる怒りを覚えた。
馬鹿にしている。
わたしは笑い声の主を探した。
すると、目の前の黒い靄のようなものから、再びあの笑い声が聞こえたのであった。
わたしは驚いた。
目を凝らして見ると、それは髪の毛だった。
髪の毛の間から黄ばんだ歯と、やけに赤い歯茎が覗いていた。
そして、通常の位置では考えられない位置に白目を無くした黒い目のようなものがあった。
わたしはなぜか穴が空いただけのようになった目に睨まれていると感じた。
髪の毛の塊は黄ばんだ歯をカチカチと鳴らせながら、大声で笑った。

2014年3月25日火曜日

追憶 563

肩の辺りにまとわり付いている黒い靄のようなものからは、破滅的な意識が溢れていた。
それに意識を合わせると、わたしは力が抜けていくのを感じて苦しかった。
気力を奪われ、虚脱感に襲われる。
わたしは何と無く、仕事をするのが嫌になってきた。
Yさんの心の中を覗くことが苦痛に感じ始めたのである。
頭の中には「嫌だ」という言葉が渦巻いていた。
わたしは溜息を吐いて気を紛らわせようとするが、その程度のことでは意味を成さなかった。
すべてに嫌悪感を感じ始め、怒りの感情が心を揺さぶる。
わたしは心を乱してイライラしていた。

2014年3月24日月曜日

追憶 562

気が付くと、わたしはYさんの背中を眺めていた。
しかしながら、それを視界によって捉えているのではなかった。
わたしが見ているのは現実の光景である。
しかしながら、わたしには瞼(まぶた)を閉じているという感覚が存在していた。
これは意識的な視点から捉えた現実の光景であるだろう。
目には見えない世界から、目に見える世界を覗いているのである。
きっと、これは霊や神からの視点であるだろう。
Yさんの背中を見ると、肩の辺りに黒い靄(もや)のようなものがあるのが分かった。
これは何であろうか?
わたしはそれがとても気になったのである。
背中の黒い靄に対して意識を集中してみることにした。

2014年3月23日日曜日

追憶 561

更なる気分の悪化を得たが気にしなかった。
その時には、気分が悪いのが当たり前だと感じるようになっていたからである。
わたしは感覚が麻痺しているのだろう。
きっと慣れてきたのである。
不快なことも、長くそれと触れ合っていると不快ではなくなる。
皮膚にメスを入れ、臓器を覗く医者は、慣れているからこそ臓器を前にしても臆することなく自らの仕事を進めることができるのである。
医者が初めから臓器を前にしても平気だった訳ではないだろう。
個人差はあれど、慣れによって不快を取り除いたのではないだろうか?
わたしは冷静であった。
気分は悪かったが、頭は冴えていた。
しかしながら、それよりも気分が悪くなるのと同時に、わたしは視界を失った。

2014年3月22日土曜日

追憶 560

わたしの目の前には破滅的な感情があった。
それはコールタールのように、黒くて粘着質のあるものである。
それを眺めていると、それだけで気分が悪くなるのを感じた。
遠くに見えるのは喜びや楽しみなどの建設的な感情であるが、わたしには遠くにあるものをどうすることもできなかった。
現状のわたしには自らの手の届く範囲のことしか動かせないのである。
わたしが対応しなければならないのは、遠くに見える建設的な感情ではなく、目の前に存在している破滅的な感情なのだ。
そこに降り立ったのだから、仕方のないことなのである。
わたしは目の前の破滅的な感情に対して意識を集中した。

2014年3月21日金曜日

追憶 559

人の心の中にある感情は、人の人生の原因となるだろう。
人は自らの感情によって人生を築くのである。
わたしたちは自分自身で人生に色を塗っているのである。
悪いことや嫌なこと、苦しいことを考えている時にはそのようなことが起き、そのようなことを起こすものである。
楽しいことを考えている時には、苦しい状況も軽減されて楽なものになるだろう。
苦しいという破滅的な感情が心の中に残っているのであれば、状況に対してそのように色を塗る可能性があるということなのである。
わたしたちは忘れているだけなのだから、苦しい状況に至ればまた同じように苦しむということを覚えておく必要があるだろう。
Yさんの心の中を眺めていると、わたしの頭の中にはこのような考えが浮かんできた。
それは、わたしの感想ではない。
これは、大天使ミカエルからのメッセージであるだろう。

2014年3月20日木曜日

追憶 558

忘れているだけで解消された訳ではない。
時間が解決してくれるという価値観があるが、わたしはその言葉が好きではなかった。
時間が解決してくれるのであれば、わたしたちのやっていることはすべて無駄である。
時間が解決してくれるのであれば、悩むことも苦しむことも努力することも必要ないのである。
わたしの少ない経験からでも、「何もしなければ何も変わらない」ということは分かる。
原因が結果を導くということは、当たり前のことなのだ。
傷口が勝手に治るのは、時間が解決してくれている訳ではない。
身体が傷口を治すために働き続けているからこそ、傷口は治るのである。
それを当たり前としている人は、時間が解決してくれるなどという人任せ(時間任せ)な考えに至るのである。

2014年3月19日水曜日

追憶 557

Yさんの心の中には様々な感情が入り混じっていた。
わたしが感じていたのはその中の一部であったようだ。
地球上に大海があり、山脈があり、砂漠があり、大河があり、森林があり、地平があるように、人の心の中にも様々な感情の場所がそれぞれにあるのだろう。
様々な感情は、一緒くたに存在している訳ではないのだと感じた。
わたしは怒りや悲しみといった破滅的な感情に降り立ち、そこからYさんの心を眺めたのである。
これは、今のYさんが忘れている、もしくは隠している感情であるだろう。
隠していても、それを所有しているのであれば同じことである。
その原因の持つ結果が現れるのが遅いか早いかというだけの違いであるだろう。

2014年3月18日火曜日

追憶 556

人の感情は、その心の中に履歴として残る。
「トラウマ」という言葉があるが、普段は忘れていることであっても、何らかのタイミングでその感情が表立って苦しむ。
思い出すということは、所有しているのである。
心というものは感情を記憶しているのではないだろうか?
それを脳と言っても良いだろう。
Hさんの心の中に扉があり、その奥にも空間があったのは、心というものが一つの空間ではないからだろう。
わたしたちの心は広くて複雑なのだと思える。
わたしは乱れた心を引き摺(ず)るようにして、Yさんの心に向かった。

2014年3月17日月曜日

追憶 555

Yさんの心からは、破滅的な感情が伝わってくる。
それは、黒い煙のようにわたしにまとわりついてくる。
それに巻かれると、わたしは気分が悪くなり、心が乱れる。
怒りが込み上げてきて、どうやったって冷静ではいられなくなるのだ。
破滅的な感情は人の心を狂わす。
わたしはこのような霊的な感覚を得るまでは、嫌なことは忘れたらそれで終わりだと思っていた。
しかしながら、それは浅い考えであったと理解した。
目の前のYさんは笑顔であり、わたしが感じているような怒りの感情などは微塵も持ってはいないのである。
しかしながら、Yさんの心から感じるのは、怒りなどの破滅的な感情なのである。

2014年3月16日日曜日

追憶 554

気分が悪くなるということは、わたしにとっては破滅的な性質を持った何かである。
人間の身体は体内の異物を様々な方法によって排出しようとする。
それが発熱だったり、下痢だったり、嘔吐だったりするだろう。
身体にとって破滅的なものが体内に入り込み、それを治そうとする時に病気になる。
破滅的な性質を持ったものに対しては、何らかの拒絶反応を起こすのである。
わたしが感じているこの気分の悪さというものは、わたしの心が得体の知れないそれを異物(破滅的な性質を持ったもの)だと認めたからに他ならないだろう。
わたしは、自らの心に従って行動しなければならない。
気分が悪く感じるものは、取り除かなければならないのである。


2014年3月15日土曜日

追憶 553

そのように考えた時、わたしは迷うのをやめた。
ネガティブに考えても埒(らち)が明かないのである。
思考をやめると、わたしは自分自身がしなければならないことが分かった気がした。
わたしは身体が動くままに任せ、自我を手放した。
すると、右手が伸びてYさんの背中に天使文字を描き始めた。
金色に輝く文字を三行書き記したところで、それを囲うように線を引いた。
天使文字が背中の中に溶けると、わたしは気分が悪くなってくるのを感じるのであった。

2014年3月14日金曜日

追憶 552

わたしは何に対して緊張しているのだろう。
わたしはなぜ恐れているのだろうか?
実体の無いものに怯えているのは、わたしの悪い癖であると言える。
わたしには未来は分からない。
分からないにも関わらずにそれに恐れているのだ。
それはわたしの中の弱さであると痛感した。
考えていることがネガティブなことだから、無意識の内に分からないものをネガティブなものとして決め付けているのである。
Yさんはわたしに笑顔を見せてくれた。
大天使ミカエルを初め、わたしよりも優れた霊的な存在がわたしを支えてくれているのである。
わたしが何を恐れる必要があるというのだろう?
わたしが恐れる理由など無いのである。

2014年3月13日木曜日

追憶 551

不安が入り混じる心で待っていると、わたしは直感によって時が満ちたことを知った。
ゆっくりと瞼(まぶた)を開き、Yさんに視線を投げる。
すると、Yさんはハッとした様子でわたしの視線に気が付いたようだった。

「Yさん、どうぞ」

そう促すと、Yさんは柔らかな笑顔を讃えて挨拶をした。
わたしもそれに挨拶で返した。
Yさんの背中に対峙することは、その心に対することである。
一度始めたらやめられない。
わたしは覚悟を決めた。

2014年3月12日水曜日

追憶 550

目を閉じて心を静めると、精神力が少しだけ回復してくるように感じた。
何より、大天使ミカエルに加え、ラミエルが見守ってくれているという安心感があった。
しかしながら、わたしには多くの不安があるのも事実である。
わたしが見ているものが真実であるのか?
わたしが聞いているもの、わたしの解釈。
それらがその人に役立っているのかも分からないのである。
それに、次に触れるYさん心に対する仕事が上手くいくのか?という疑問もあったのだ。

2014年3月11日火曜日

追憶 549

Hさんに必要であると思うことをすべて伝えると、わたしのHさんに対する熱意が収まっていくのを感じた。
わたしはHさんに感謝の気持ちを伝え、元の位置に戻ってもらうように促した。
Hさんは振り向いてわたしにお礼を言って元の位置に座った。
Hさんが座ると、その頭上にはラミエルが後光と共に輝いていた。

わたしは自らの使える体力と精神力が残りわずかであるように思えた。
疲労感と共に強烈な睡魔が襲ってくるのである。
しかしながら、わたしはYさんのことを見なければならないのである。
目を閉じて心を静め、意識を集中するように努めた。

2014年3月10日月曜日

追憶 548

それが敵であっても、不満や恐怖などの破滅的な感情を抱けば、それは自らの心の中に溜まる。
それによって苦しむのは自分自身なのである。
わたしたちはそのことを理解しておかなければならないだろう。
わたしの心の中にもHさんと同じように、破滅的な感情を納めてある場所が存在する。
わたしはこれからの人生という時間を使って、それを少しずつでも解消していかなければならないのである。
今日、Hさんがわたしに会って自らの心を省みるチャンスを得たようにである。
わたしたち人間は自分を直さなければならないのだ。
不満や恐怖などの破滅的な感情を抱く心を。

2014年3月9日日曜日

追憶 547

わたしたち人間は、良い欲を持つようにしなければならない。
ネガティブで破滅的な欲を持つようではならないのだ。
幸福を得るためには、どのようなことに対してもポジティブで建設的な反応を示さなければならない。
そのためには、普段から「幸せになりたい」「幸せにしたい」という欲を持つようにしておかなければならないのだ。
自分自身に対しても、他人に対しても同じように思うことが重要であるだろう。
Hさんは家族想いの人である。
家族や仲間に対する愛情はたくさん持っているだろう。
しかしながら、他人や敵に対してはどうであっただろう?
きっと、ポジティブで建設的な感情を持つことはできなかったのではないだろうか?

2014年3月8日土曜日

追憶 546

喜びは多い程良いだろう。
わたしたちは日常において、不満や心配などの破滅的な感情に対する欲を持っている。
人は欲によって生きるものである。
わたしたちは欲を断ち切ることはできない。
欲のない人間とは、人間ではないのである。
幸せになりたいという欲を持たなければ、不幸になりたいという欲を持たなければならないのだ。
欲を持ってはいないという人がいるが、それは間違いであろう。
Hさんの心の中に破滅的な感情が詰め込まれていたのは、破滅的な感情を集める欲があったからである。
欲があるから手に入れるのだと理解しなければならないだろう。
自分自身で集めたのである。

2014年3月7日金曜日

追憶 545

ラミエルという女性は言葉によって直接的にわたしに教えた訳ではない。
しかしながら、なぜかそのように学んだのである。
わたしたち人間は、言葉や行動などの直接的な条件だけで学んでいるのではない。
目には見えないものが存在しているように、目には見えない学びもまた存在しているのである。
人はすべての時間に学んでいるのだ。
しかしながら、愚かなわたしたち人間はそのことに気が付かない。
時間が常に進み、世界が常に動いているように、わたしたちに向けられる学びも溢れ続けているのである。
人生を無駄にしてはならない。
怒りによって喜びを倒してはならないのである。
地球上の樹木をすべて切り倒してしまえば、当然、地球は酸素不足に陥る。
そうなれば、人間のほとんどが滅びてしまうだろう。
わたしたちは豊かさである樹木を切り倒すように、怒りを持って喜びを倒してはならないのである。

2014年3月6日木曜日

追憶 544

人生は、その心に起源しているのである。
豊かな心こそが豊かな人生を導く。
幸福感こそが幸福なのである。
わたしたちは豊かな心と幸福感を実現するために他人を許さなければならない。
他人を許すことができないから怒りを所有するのである。
怒らないためには許すことである。
許すことができたなら、心の中に破滅的な感情を溜め込む必要はないだろう。
心に破滅的な感情を溜め込んでいないのは、とても素晴らしいことだと言えるのだ。
人は何かしら気に食わないものである。
しかしながら、気分を害していてはならないのである。
素直に、純粋に生きることこそ、豊かな人生であると言えるのではないだろうか?

2014年3月5日水曜日

追憶 543

人が豊かな人生と幸福を望むのであれば、建設的な存在からの影響を受ける必要がある。
破滅的な影響を受けているのであれば、人生が豊かになることはないし、幸福を得ることもできないのである。
怒りや不安を抱きながら幸福を得る人はいない。
怒りや不安に感じることを喜びや楽しみに感じることができた時に幸福が得られるのだ。
建設的な存在は幸福な状態にある。
光り輝く霊は豊かなのである。
わたしたちの心がキラキラと輝いている時には、その心が豊かであるということが理解できるだろう。
ジメジメと湿っぽくなっている時には、その心は乏しいのである。


2014年3月4日火曜日

追憶 542

どのような人間も自分以外の存在に影響を受けているものである。
それが目に見えるものなのか?認識することができるものなのか?ということは関係ないのだ。
目に見えるもの、認識することができるものだけを信じて生きている人がいるが、そのような人の思考や人生は凝り固まり、総じて頑固で融通の利かない不器用な人である。
わたしたちは目に見えないもの、認識することができないものに囲まれて生活しているのである。
目に見えるものだけを信じて生きるのには無理があるのだ。
以前にも書いたが、紫外線や赤外線、超音波や低周波、遠くのものや小さなもの、近くても物陰に隠れているものでさえ、目では見えないし、わたしたちには認識することができないのである。
人に心(意識)が存在するなら、霊というものは存在するだろう。
霊が存在するのならば、天使や神も存在するはずである。
目には映らない霊や天使や神というものに影響を受けながら、人は人生を築いているのである。

2014年3月3日月曜日

追憶 541


「あなたの側には天使がいるよ」

このように言われ、それを意識するなら、素直な人間ならばその状況に恥じないように努めるであろう。
わたしは大天使ミカエルと出会ってからその名に恥じないように生きようと努めている。
Hさんもきっと、ラミエルという守護者の名に恥じないように生きようと努めてくれるに違いない。
わたしたち人間は愚かな存在である。
目指すべき目標がなければ歪んで堕ちる。
人が人として豊かに生きるためには、自分よりも崇高な存在を目標として生きなければならないだろう。
尊敬することのできる人物を知っている人は、自らが尊敬される人物を目指すものである。

2014年3月2日日曜日

追憶 540

ラミエルという存在は、Hさんがこれからの人生を豊かに生きるための手助けとして現れたのであろう。
もしかしたら、以前よりずっと一緒にいたのかもしれない。
しかしながら、Hさんがそのことを認識しているのとしていないのでは大きな違いが生じるであろう。
わたしたちは自分の頭の中に存在していないものを実行することはできないのである。
他人に優しくすることが良いことだという情報が頭の中に存在していない人は、他人に対して優しくすることはないであろう。
ゴキブリが不快な存在であるという教育を施されなかった人は、ゴキブリに対して嫌悪感もなければ、手を上げることもないだろう。
世の中には、嫌われ者のゴキブリを愛して飼育している人もいるのである。

2014年3月1日土曜日

追憶 539

汚れのない意識的な存在に触れることは、自らの抱える汚れを取り除くことに繋がる。
破滅的な性質の霊がいるのならば、建設的な性質の霊もいるだろう。
大天使ミカエルはわたしの守護者(一般的に言われている守護霊、指導霊)である。
これと同じように、ラミエルという女性はHさんの守護者というべき存在であるだろう。
ラミエルという女性がHさんのところに存在しているのは、Hさんの心の中の汚れを取り除くためである。
しかしながら、守護者によって汚れが取り除かれる訳ではない。
守護者はわたしたち人間が自力でそれを成すのを見守り、時には指導してくれるだけである。
わたしたちは、自力によって自らを改善しなければならないのである。
それが、生きるということだろう。