光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2019年12月31日火曜日
追憶 2641
目の前に導かれる状況は、受け入れ難いものばかりであるかも知れない。
しかしながら、それを否定し、放置しているのであれば、いつまでも目の前の状況の形を変えることは出来ない。
形が変わらなければ、苦しみはいつまでも苦しいままなのである。
逃げたとしても、逃げた先で同じ状況が導かれる。
苦しみは解決しなければならない。
なぜなら、人は苦しむために生まれてはいないからである。
2019年12月30日月曜日
追憶 2640
目の前の状況は、それがどのようなものであったとしても宿命である。
それは、避けられないことだからだ。
すべての状況を受け入れる必要がある。
ただし、それは、一時的に受け入れるという意味である。
受け入れた状況をそのままにしておくということではなく、後に形を変えるのだ。
しかしながら、形を変えるためには、一旦(いったん)受け入れなければならない。
会計の終わっていない品物を好き勝手にしてはいけないのである。
2019年12月29日日曜日
追憶 2639
道具が道具として機能するためには、謙虚(けんきょ)でなければならない。
謙虚であるということは、素直であるということである。
道具は、素直でなければ使い勝手が悪いのだ。
使い手の思うままに反応してくれる道具こそが至高であるだろう。
“神”という存在は、宿命という形でわたし達を使う。
宿命に対して謙虚であることが、“神”の道具としての生き方なのである。
2019年12月28日土曜日
追憶 2638
鋼は、“道具”に成ることを求められている。
“道具”に成ることを宿命付けられて生まれた鋼も存在するのである。
鋼は、“道具”に成ることでこの世に生まれた目的に近付くのだ。
人も、“道具”と成るために生まれてくる。
すべての人は、“道具”に成ることを宿命付けられているのだ。
それは、“神”の道具としての宿命なのである。
2019年12月27日金曜日
追憶 2637
心にとっての鍛治(かじ)とは、目の前の状況であり、他者であり、自分自身である。
人生におけるすべてのものが、心を鍛える鍛治と成るのだ。
人生は、心を鍛える鍛冶屋のようなものであろう。
人生は、思い通りにならないことばかりである。
多くの人がそれを嫌うが、思い通りにならないことが心を鍛えるということを忘れてはならないだろう。
2019年12月26日木曜日
追憶 2636
どのような子どもも、他者(親)に期待するだろう。
それが悪いということではない。
人は、誰もが弱い存在だ。
他者に期待するのは当然のことである。
それは、仕方の無いことであろう。
しかし、いつまでも弱いままではならないのである。
わたしは今でも他者に期待してしまうところがある。
わたしの心も弱いのである。
そのため、心を鍛(きた)える余地(よち)は十分にあるのだ。
鋼(はがね)は、鍛治(かじ)に鍛えられることを求めている。
それは、鍛治に鍛えられることによって、鋼は、役に立つ"道具"に生まれ変わることが出来るからだ。
2019年12月25日水曜日
追憶 2635
心を鍛(きた)えるとは、他者に対して期待しないということである。
他者に対して期待することなく、目の前の現実を受け入れ、そこから力強く歩むことだ。
心を鍛えることによって、自力が備わるのである。
幼い子どもの心は、鍛えられてはいない。
それは、不純物を含(ふく)む鋼(はがね)のようなものだ。
そのままでは役に立たない。
それは、他者(親)に期待しているだけだからである。
幼い子どもには自力が備わってはいないのだ。
2019年12月24日火曜日
追憶 2634
それは、鋼(はがね)を鍛(きた)えるのと同じことであろう。
鋼は、熱して叩くことで不純物を取り除く。
熱することもなく、叩くこともなければ、不純物を取り除くことは出来ないし、それではただの鉄の塊(かたまり)である。
鋼は、叩くことで形を変え、役に立つのだ。
人を叩くということではないが、人の心は打たなければならないだろう。
人の心を手付かずのままに放置していれば、不純物が取り除かれることはなく、鍛えられることも、形を変えることもないのだ。
鍛えなければ、鋼も心も役に立たないのである。
2019年12月23日月曜日
追憶 2633
自分を満たすためには、自分でなんとかするしかない。
愛情というものが、自分の内側にしか存在しないということに気が付く必要があるのだ。
例えば、愛情を伝えるために厳しく対応しなければならないことがある。
甘やかすことが愛情であるのならば、精神の育成は容易(たやす)いであろう。
しかしながら、実際にはそのように簡単にはいかない。
甘やかされた人間は、愛情から離れてしまう。
甘やかされた人間は、思惑(おもわく)も虚(むな)しく傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ってしまうのである。
2019年12月22日日曜日
追憶 2632
他者に対して、愛情を期待しても無駄である。
誰も、あなたの期待に応えてはくれないのである。
誰も、あなたの期待する愛情を持ってはいない。
そして、誰も、あなたの期待する愛情を与えることは出来ない。
誰も、あなたを満たすことは出来ないのである。
どれだけ努めても、他者を満たすことは出来ない。
どれだけ努めても、他者の期待に応えることは出来ないのである。
2019年12月21日土曜日
追憶 2631
しかしながら、それでも満たされないのである。
なぜなら、親を含めた他者からの愛情というものは、幻想に過ぎないからだ。
多くの人は、愛情を誰かや何かからもらえるものだと考えている。
多くの人は、愛情が外に存在すると思い込んでいるのだ。
残念ながら、愛情というものは外には存在しない。
愛情というものは、自分の内にしか存在しないのである。
それは、自分自身が愛情を認めるか認めないかということなのである。
2019年12月20日金曜日
追憶 2630
親に振り向いてもらえない子どもは、その対象を他人に移す。
無意識の内に、親に対する欲求を他人に対して要求しているのである。
傲慢(ごうまん)に振る舞う人は、愛情を欲している。
それが、親からの愛情ではなかったとしても求めているのである。
本当に欲しているのは親からの愛情であるだろう。
しかしながら、それが得られないために他人からの愛情で代用しようとするのである。
2019年12月19日木曜日
追憶 2629
注目され、愛情を実感している子どもは、振り返ることもなく遊ぶ。
それは、愛情を実感していることによって、見捨てられる心配が無いからである。
愛情を実感している子どもは、遊びに集中することが出来るのだ。
しかしながら、愛情を実感することが出来ない子どもは、親を振り返る。
そして、自分に注目してもらおうと大袈裟(おおげさ)に振る舞う。
しかし、それでも愛情を実感することが出来なければ、我儘(わがまま)に振る舞う。
それは、困らせることによって振り向いてもらおうとしているのである。
2019年12月18日水曜日
追憶 2628
傲慢(ごうまん)に生きる人は、利己的であり、偉そうである。
しかしながら、その原因が恐怖であることを理解すれば、傲慢に生きる人に対して、必要以上に恐れを抱くことはないだろう。
恐れを抱いていることを悟られないために、強がって利己的となり、偉そうに振る舞っているということを理解すれば、傲慢に生きる人も可愛く見えてくるだろう。
それは、一生懸命に虚勢(きょせい)を張る子どものように見えてくるのだ。
子どもが一生懸命に虚勢を張るのは、自分に注目して欲しいからである。
2019年12月17日火曜日
追憶 2627
気が弱そうで、優しそうに見える彼が腰を痛めた原因が、恐怖から生じた傲慢(ごうまん)であると考えれば合点(がてん)がいく。
彼は、何かしらの恐怖を抱えながら生きているのではないだろうか?
多くの人は傲慢に生きている。
大抵の場合、それは怒りの感情として現れる。
そのため、傲慢に生きる人に対しては、恐れの感情を抱くことが多いだろう。
しかしながら、そのような人たちの抱えているものの正体は恐怖なのである。
2019年12月16日月曜日
追憶 2626
恐れは、怒りを誘発(ゆうはつ)する。
恐れを抱く犬が牙(きば)を剥(む)いて威嚇(いかく)することや、今流行りの煽(あお)り運転をするような人たちも、心の奥底に恐怖を抱えているのである。
恐ろしいから防御しなければならず、防御は攻撃として現れるのだ。
それが傲慢(ごうまん)の成り立ちなのである。
恐らくは、彼も傲慢に振る舞った結果として腰を痛めたのであろう。
彼は何かしらの怒りを抱えているであろうが、それよりも先に恐怖を抱えていたということを念頭(ねんとう)に置いておかなければならないだろう。
2019年12月15日日曜日
追憶 2625
それは、見えないもの、理解することが出来ないものを恐れることと同じようなものであろう。
恐れることと、怒ることは同じようなことである。
テレビ番組で、箱の中に手を入れて中身を当てるというゲームがある。
中に入っているものは、何の変哲も無い無害なものであるが、それを当てる人は恐ろしさの余りに悲鳴を上げる。
中身を知っている人たちは、何の変哲も無い無害なものに対して悲鳴を上げる回答者の反応を見て笑う。
見えないものや理解することの出来ないものに対して、大抵の人は恐れを抱くことになるのだ。
2019年12月14日土曜日
追憶 2624
感謝することがなければ、心は歪んでしまう。
心を歪めないためには、感謝するしか方法はないのである。
目の前の現象に対して感謝するためには、その意味を探らなければならない。
意味を理解することがなければ、感謝にまで辿り着かないのだ。
意味が分からないものに対して、人は誤解を抱えることになる。
誤解は、例えば、その心に不平不満を生み出してしまうのである。
2019年12月13日金曜日
追憶 2623
傲慢(ごうまん)によって歪んだ心は、謙虚(けんきょ)によって戻さなければならない。
謙虚とは、弱気のことではない。
感謝することである。
目の前の現象に対して、不平不満を吐くことを傲慢という。
目の前の現象に対して、感謝することを謙虚というのである。
大抵の人は、傲慢である。
大抵の人は、目の前の現象に対して、不平不満を吐く。
それを言葉にしないとしても、心の中で吐いているのだ。
言葉にして吐いたものと、思いとして吐いたものは同じものである。
それは、どちらも心を歪めてしまうからである。
2019年12月12日木曜日
追憶 2622
毎日、少しずつ心を歪めた結果、動けない程の腰の痛みとして現れたのである。
偶然や急に現象が現れることなどないのだ。
例え、水面下であったとしても、そうなるように組み立てられたのである。
違う現象を引き起こすためには、違う材料と方法が必要であるだろう。
少しずつ歪めたのであれば、少しずつ戻さなければならない。
歪みを取り除くためには、同じだけ戻さなければならないのである。
2019年12月11日水曜日
追憶 2621
心は、思考の積み重ねでしか変えることが出来ない。
わたし達は、出来る限り頻繁(ひんぱん)に思考を意識して観察し、改める努力をしなければならないのである。
少しずつでも歪み続けるのであれば、やがては千切(ちぎ)れてしまうのだ。
それは、様々な問題や病であると理解しなければならないだろう。
彼の腰は偶然に痛んだのであろうか?
残念ながら、そのようなことはない。
彼の腰は急に痛んだのであろうか?
残念ながら、そのようなことはないのである。
2019年12月10日火曜日
追憶 2620
この世界においては、実際に行動し、動かしたものしか動かない。
懸命に念じたところで、塵(ちり)一つ動かすことが出来ないのである。
奇跡を願っても、奇跡など起きはしない。
なぜなら、奇跡というものは存在しないからだ。
この世界におけるすべての結果には、必ず原因が存在している。
原因が存在するのに、奇跡など存在するはずがないのだ。
車が曲がったのであれば、曲げたのである。
心が変わったのであれば、変えたのである。
2019年12月9日月曜日
追憶 2619
心を変えるためには、多くの時間と労力が必要である。
心は簡単には変わらない。
誰も、心を簡単に変えることは出来ないのである。
少しずつ時間と労力を掛けて変えていかなければならない。
心の方向を修正するのは、大掛かりな仕事なのである。
何かを成すためには、辛抱強(しんぼうづよ)くなければならないだろう。
多くの人は、一攫千金(いっかくせんきん)を夢見ているだろうが、それは現実的な方法ではないだろう。
速い速度で走行する車を曲げるのに、奇跡を願ってハンドルを切ってはならない。
道の形状や路面の状態を確認し、しっかりと減速し、荷重移動を考慮し、タイヤの接地を気にしながら、ゆっくりとハンドルを切らなければならないのだ。
2019年12月8日日曜日
追憶 2618
考え方を改めるためには、冷静でなければならない。
あれこれと思考を忙しく働かせるのではなく、穏やかに考えるようにするべきなのである。
考え方を再構築するためには、考える時間が必要だ。
そして、考え方を再構築するためには、これまでとは異なる思考が必要なのである。
真っ直ぐに走っているだけなら、何の変更も必要ないだろう。
しかしながら、曲がるためには様々に考えなければならないのだ。
様々に考えなければ、安全に曲がることは出来ないのである。
2019年12月7日土曜日
追憶 2617
心の方向を修正するためには、考え方を改めなければならない。
心は、直接的に改めることが出来ないのである。
人に改めることが出来るのは思考だけだ。
思考も、改めることは容易(ようい)ではないが、それ以外に方法が無いのである。
思考を一気に改めることは出来ない。
急ハンドルを切っても、車は曲がらないのである。
横滑りをして、事故を起こすのが結末であろう。
車を安全に曲げるためには、十分に減速してから、余裕を持ってハンドルを切らなければならないのである。
2019年12月6日金曜日
追憶 2616
心が自我意識に支配されないためには、心の管理が必要である。
心の管理とは、心を気にして生活することだ。
ただ、それだけのことではあるが、それだけのことが大切なのである。
心は、人生という長い旅路を進んで行く。
心は、目的地を目指しているのだが、その歩みは不安定なものである。
酔っ払いの人のようによろめきながら進んで行く。
心というものは、迷いの中に存在しているのだ。
何か問題が起きれば、簡単に揺さぶられてしまうのである。
心を目的地に向けて進ませるためには、こまめに方向を修正してやる必要があるのだ。
2019年12月5日木曜日
追憶 2615
刃物は、錆(さ)びないように管理しなければならない。
使ったらすぐに水気を拭き取り、錆びないように気を付けなければならないのである。
そして、切れ味が落ちれば、研がなければならない。
放っておいても良いことはないのだ。
心の管理も、刃物と同じように気を付けなければならない。
自我意識は、刃物の錆と同じように内側から生じる。
心の中には、自我意識が存在しているのである。
どれだけ鍛錬(たんれん)された刃物も、放っておけば錆に覆(おお)われてしまう。
同じように、どれだけ美しい心も、放っておけば自我意識に支配されてしまうのである。
2019年12月4日水曜日
追憶 2614
自我意識は、小さなひび割れからでも侵入する。
大抵の場合、それは、少しずつ染み込んで来るので気が付くことは難しい。
気が付いた時には罪の虜(とりこ)に成っているのである。
小さな錆(さび)も放っておけば、やがて全体を覆(おお)う。
錆で覆われたら、切れ味の良い刃物も役には立たない。
錆で覆われた刃物に価値を見出すことは難しい。
錆で覆われた刃物は、古鉄として処分されてしまうだろう。
あなたが、どれだけ美しい心を持って生まれても、自我意識によって汚れてしまえば、役に立つことは難しいのである。
2019年12月3日火曜日
追憶 2613
小学6年生のわたしは、ガムを食べることに対して、背徳感や罪悪感を覚えた。
しかしながら、同じようにしている仲間がいると、背徳感や罪悪感は直ぐに消え去った。
自分一人が罪を犯している訳ではない。
仲間がいることによって、自分を正当化するのである。
背徳感や罪悪感を軽んじてはならない。
それは、どのように大きな船も、船底に小さな穴が開けば、やがては沈没してしまうのと同じことだからである。
2019年12月2日月曜日
追憶 2612
大抵の人は、罪の誘惑(ゆうわく)である、悪魔(自我意識)の導きに従ってしまう。
それは、背徳感(はいとくかん)を得るためである。
自我意識は、背徳感や罪悪感を好む。
それは、自我意識が支配するための侵入口のようなものであろう。
自我意識は、背徳感や罪悪感から侵入してくる。
人は、罪の誘惑に対して、初めは困惑(こんわく)する。
そして、背徳感や罪悪感を味わうことになる。
しかしながら、背徳感や罪悪感を乗り越えて開き直ると、直ぐに解放感のような清々しい感覚を得るのだ。
2019年12月1日日曜日
追憶 2611
罪の誘惑(ゆうわく)は、心にとってとても魅力的だ。
それは、それを自我意識が好んでいるからである。
小説や映像作品の表現に、自分の中の天使と悪魔が現れて葛藤(かっとう)するというものがある。
天使は客観的に良い方法を提示し、悪魔は主観的に良い方法を提示する。
客観的に良い方法とは、利他的な選択であり、主観的に良い方法とは、利己的な選択のことだ。
天使とは、非我意識(ひがいしき)のことであろう。
そして、悪魔とは、自我意識のことなのではないだろうか?
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