このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年1月31日水曜日

追憶 1942

それが出来ない者は、不満や乏しさを我慢しなければならない。
人生に満足や豊かさを得る者は皆、自分の仕事に挑戦しているのである。
特定の誰かや、時流に流されるのであれば、自分の仕事を果たすことは出来ない。
柔軟性は必要ではあるが、同時に信念も大切である。
肉だけでは身体を支えることが出来ないが、骨があれば支えることが出来る。
骨だけでは生きられないが、骨に肉が巻けば生きられるのである。
肉は柔軟に変化し、骨は堅固(けんご)に守るのである。
わたし達は信念を守り、方法は改めるのが良いだろう。



2018年1月30日火曜日

追憶 1941

意欲も欲に違いないが、怠慢(たいまん)も欲に違いない。
人は、何が正しいのかを知らないのだから、挑戦することに価値があるのだ。
わたし達は、自分の仕事に挑戦しなければならない。
人生においては、余計な考えを巡らすことをせず、一つの決意に絞ることである。
どのような結果が導かれようとも、それを気にしてはならない。
頑固であれということではないが、自分が決めた道に対しては信念を貫(つらぬ)き、簡単に態度を変えないことである。
そうすれば、自分の仕事を果たすことも出来るだろう。

2018年1月29日月曜日

追憶 1940

人が失敗を繰り返すのは、自然の理(ことわり)である。
自然の流れである失敗を恐れる必要はないが、自我意識の持つ欲がそれを嫌う。
人は、誰もが自我意識による欲の影響を受けている。
例えば、失敗したくないというのも欲の形である。
欲深い人は失敗を恐れるのだ。
しかしながら、世間の認識は逆転している。
失敗を恐れずに挑戦し、自分の仕事を成し、何かを手に入れた人のことを欲深いと言うのである。
それは、"出る杭は打たれる"という諺(ことわざ)の通りである。



2018年1月28日日曜日

追憶 1939

しかしながら、人は未熟な状態である。
無知で歪んでいるのが普通なのだ。
そのため、簡単に答えに辿り着くことは出来ない。
未熟な者は、未熟なりに答えを求める必要がある。
それは、失敗を繰り返すという方法である。
"天"はわたしに"自分の仕事をしなさい"と言ったが、わたしの選択が正しかったかどうかは分からない。
今回は、結果的に満足できる選択ではあったが、大抵の場合は不満の残る選択をするのである。
不満の残る選択とは失敗のことだ。
人は、失敗するのが自然であるとわたしは思っている。

2018年1月27日土曜日

追憶 1938

人生が学びの場所であることは、疑いようのない事実であるだろう。
人は、人生において自分という存在を学び、その在り方を決める必要がある。
人は道を見失った状態で生まれる。
すべての人は、自分が"何"であるのかを知らない。
自分が"何"であるのかを知らなければ、どうすることも出来ないのである。
人生を豊かに生きるためには、自らに与えられた人生の目的を果たさなければならないが、その目的を果たすためには、先ずは自分を知る必要があるとわたしは思っている。
自分を知るためには、自分の目の前の仕事を賢明な判断で、懸命に行う必要があるだろう。



2018年1月26日金曜日

追憶 1937

出荷作業が終わったのは、電話を終えてから一時間程後のことであった。
わたしはその足で病院へと向かった。
それは、父親も救急車に同乗したために、迎えを頼まれていたからである。
駐車場に車を停めるのと、奇遇(きぐう)にも両親が病院から現れた。
母親は自分の足で歩いている。
遠目から見ると、普段と変わらないように思えた。
車を降りて二人の元へ向かうと、母親が恥ずかしそうに手を振った。
どうやら大丈夫であったようだ。
やはり、"天"の判断は正しかった。
わたしは心の中で、"天"に向けて感謝を述べた。
母親が無事であったことに対しても感謝はしたが、わたしに道を示してくれたことへの感謝を述べたのである。
母親の詳しい話は車の中で聞くことにして、わたしは二人を車へ促(うなが)した。

2018年1月25日木曜日

追憶 1936

人には、それぞれの仕事がある。
そして、それぞれの場所が与えられている。
他者のことを思うのは立派なことではあるが、それが過ぎれば問題を引き起こす。
結局は、人生は自分のものなのである。
自分のことを大切に考え、行うことの出来ない者には、必ず後悔が導かれるように出来ているのだ。
誰と、どこで、何をするのか?
わたし達はそのことを常に考えなければならないのである。
人は、自分にとって有益な相手と、有益な場所で、有益なことをしなければならない。
もちろん、それは利己的な考えから導かれる偽りの利益のための判断ではなく、利他的な考えから導かれる真の利益のための判断でなければならないのである。

2018年1月24日水曜日

追憶 1935

人生には、制限時間が設けられている。
努めたからといって、寿命が延ばせる訳ではない。
願っても同じである。
わたし達は皆、減り続ける時間の中で生きなければならない。
わたし達は皆、限られた財産を有益に使わなければならないのだ。
人生の質は時間の使い方で決まる。
時間の使い方は、自らの選択によって決まるのである。
だから、何を選ぶのか?ということが重要なのだ。
その動機は、後悔の少ない方を選ぶということで良いだろう。
わたしにとっては、仕事(責任)を放り出すことの方が後悔が大きいと思ったのである。
だから、わたしは"ここ"にいるのである。

2018年1月23日火曜日

追憶 1934

母親が死を得るのであれば、母親の人生はそれまでのものである。
母親が生を得るのであれば、母親の人生は再び死に向かって進むのである。
生きていることに価値があるのではない。
生きていようが、死を得ようが、そこから学ぶことに価値があるのだ。
母親が死を得るのであれば、その事実を受け入れて、そこから対策を練れば良いと思う。
母親が生を得るのであれ、その事実を受け入れて、同じように対策を練れば良いだろう。
やってしまったことや、起きてしまったことに悩んでいても仕方がない。
人生に与えられた時間は限られている。
それは常に減り続けている財産なのである。



2018年1月22日月曜日

追憶 1933

そのことを理解すれば、慌てることはない。
後は、自分の仕事を果たせば良いのである。
自分のやるべきことをすれば、結果は気にしなくても良いのだ。
多くの人は、自分のやるべきことをせずに結果ばかりを気にしているが、そのような方法で良いものを得ようとは痴(おこ)がましいことなのである。
果報は寝て待てという言葉があるように、わたし達は、自分の仕事を果たしていれば良いのだ。
心配に陥(おちい)ることで気が散ってしまえば、自分の仕事を果たすことなど出来ないのである。
人は覚悟を決めなければならないのだ。
わたしは自分の仕事を果たすまでは病院には行かないと決断した。
後のことは、その時になって考えれば良いのである。
結果が分からないのに、あれやこれやと考えたところで良いことなど何も無いのである。



2018年1月21日日曜日

追憶 1932

これは、欲の話ではない。
自分の利益のためではない。
人は、誰かや何かに貢献(こうけん)しなければならないのである。
わたしは自分が誰かや何かの役に立つことがなければ、生きている価値はないと思っている。
未熟であり、失敗ばかりを繰り返してはいるが、それでも役に立つ気持ちを忘れてはいない。
自分に出来ることは小さなことであるから、自分に出来る小さなことを懸命に行わなければならないのである。
そうすれば、失敗を繰り返す中でも、多少は役に立つことがあるかも知れないのだ。
わたしが貢献出来る場所は病院ではない。
わたしが貢献出来る場所は、出荷場なのである。



2018年1月20日土曜日

追憶 1931

わたしの仕事とは、目の前の責任のことである。
わたしのやっていることなど大したことではない。
代わりはいくらでもいる。
わたしの代わりなど、誰にでも務まるのである。
しかしながら、わたしの責任感を誰かに代わってもらうことは出来ない。
わたしが仕事を投げ出して病院に向かうことは、誰にとっても利益とはならない。
しかしながら、母親のことは母親自身や病院に任せて仕事を続けることは、最低でも仕事仲間の利益に繋がるのである。
利益を生み出さないことと、利益を生み出すことであれば、利益を生み出すことを選択する方が良いと、わたしは思うのである。

2018年1月19日金曜日

追憶 1930

わたしは自分なりに日々を賢明に生きていると思っている。
物事の本質を探りながら、努めて生活しているつもりである。
そのように生きる中でわたしの心は盤石(ばんじゃく)となっていくのだ。
わたしには、不測の事態は有り得ない。
すべてが意味を持つ出来事であり、すべてが最善であることを知っているのである。
そのため、母親が生死の境を彷徨(さまよ)おうが、父親や自分自身が同じ状態に陥ろうとも、動揺することはなかったし、これからも無いだろう。
去るものは去り、来るものは来るのである。
それを決めるのは"神"ではない。
それを決めるのは、自分自身の日々の生き方に他ならないのである。

2018年1月18日木曜日

追憶 1929

多くの人は、すぐに結果を求める。
しかしながら、この世界においてすぐに結果が導かれるものというのは、大抵の場合、強い副作用も導く。
その時に良いものは、後に悪いのである。
大切なのは、結果が徐々に導かれるということを理解して、早めに原因を準備しておくことである。
日々を賢明に生きている者が、"困った時の神頼み"をするはずがないのだ。
なぜなら、日々を賢明に生きていれば、不測の事態に陥ることがないからである。
問題は、因果の状態を受けて最善の形で導かれる。
日々を賢明に生きている者には、一か八かの勝負をする必要がないのだ。

2018年1月17日水曜日

追憶 1928

そこでわたしは、父親に対して出荷作業が終わり次第病院へ向かうと告げて電話を終えた。
わたしが早く病院に到着したからといって、母親の状態が早く回復する訳ではない。
母親の状態を決めるのは、母親自身なのである。
医者が決めるのでもないし、"神"が決めるのでもないのだ。
多くの人は、危機的な状態に陥ると"神"に祈る。
"神"のことなど信じてはいないのに、"神"に祈るのである。
"神"に祈ることは謙虚(けんきょ)さの現れであり、それは良い果報(かほう)を導くに違いない。
ただし、これは、"神"に祈ることで良い果報が導かれるということではない。
謙虚であることによって良い果報が導かれるのである。
しかしながら、それがすぐに導かれるとは限らないのである。



2018年1月16日火曜日

追憶 1927

多くの人は思い掛けない事態に対して安易に心配を用いる。
それは、アドラーでいうところの"課題の分離"が出来ていないのである。
多くの人は、共感することによって心配を用いるのではない。
表面的には、相手を思いやっているように見えるが、相手がいなれば自分が困るために、深い所では自分の立場が脅(おびや)かされることを心配しているのである。
母親が大変な状態であることは理解しているつもりである。
しかしながら、わたしはその状態が母親にとって最善の学びであることを知っていた。
そして、母親にとっての最善の学びとなることも知っていたのである。

2018年1月15日月曜日

追憶 1926

わたしは父親と話しながら、同時に"天"とも話をしていた。

"自分の仕事を果たしなさい"

"天"から言葉が下(くだ)った。
初めから大した心配はしていなかったが、その時点において、わたしは心配を完全に手放した。
わたしが母親の死を気にしていないのは、わたしが冷酷な人間だからではない。
わたしは母親に対する依存心を持っていないのである。
母親が生と死のどちらを受けようとも、わたしの人生は続いていくのである。
それに、生死は母親の因果の決めることなのだ。
わたしが心配したところで、母親の因果に影響がある訳ではない。
わたしが心配すれば、それはわたしの因果に影響を与えることになるのだ。
それも、心配による破滅的な影響を与えることになるのである。

2018年1月14日日曜日

追憶 1925

父の声色(こわいろ)は穏やかなものだったが、内容は穏やかなものではなかった。
それは、母親が救急車で運ばれて、病院のICU(集中治療室)に入っているという内容であった。
父親の話によると、寝ている時に百足(むかで)に噛まれたらしく、そのせいでアナフィラキシー反応を起こしているというのだ。
アナフィラキシーを侮(あなど)ることは出来ない。
それは、アナフィラキシーによって死に至ることもあるからだ。
母親は金属アレルギーを持っている。
薬剤に対するアレルギーも持っている。
そのため、百足の毒がアナフィラキシー反応を引き起こすことは容易に想像することが出来た。

2018年1月13日土曜日

追憶 1924

ある日、わたしは仕事仲間と一緒に真鯛の出荷作業をしていた。
いつもの朝である。
すると、ポケットの中で携帯電話が騒がしく叫んだ。
合羽(かっぱ)を着ていることもあり、応答するのは後にしようかとも思ったが、思うところがあって携帯電話を取り出した。
画面には父親の名前があった。
父はわたしが出荷作業をしていることを知っているはずである。
急な用事でも出来たのだろうか?
なぜか気になって電話に出てみることにした。
作業を別の人に頼むと、わたしは喧騒(けんそう)から離れた。

2018年1月12日金曜日

追憶 1923

人は必ず死を得る。
命は必ず尽きるのだ。
あなたが死を得ることは、生まれた時点において決まっていることなのである。
死は避けられない。
避けられないのであれば、良いものとして受け入れなければならないのだ。
あなたは必ず死ぬ。
それは、人生において考えたくないことの一つであるだろうが、あなたは死について真剣に考えなければならない。
死について真剣に考えていれば、より良い生き方を見出すことも出来るだろう。
わたし達は彼のように、満足する死を得なければならないのである。



2018年1月11日木曜日

追憶 1922

人が幸福を得るためには、偽りに屈することのない勇気が必要であることを忘れてはならないのである。
死ぬために生きることにも勇気が必要である。
それは、死を受け入れなければならないからだ。
勇気のない者は、死を恐れて拒絶するのである。
そのような態度では、死を得たとしても、それを乗り越えることが出来ない。
その結果、暗闇に閉じ込められてしまう。
暗闇に束縛されないためには、勇気という輝きを失わないことなのである。

2018年1月10日水曜日

追憶 1921

勇気を持てば、自分の幸福を追求することが出来るのである。
勇気が持てない者は、自分の幸福ではない幸福に満足しなければならない。
そこには、自分を偽る態度が必要である。
それは、嘘を吐いて生きるということなのだ。
この世界には、因果の仕組みが存在しているが、嘘を吐いて生きる人が幸福を得ることは出来ない。
なぜなら、嘘を吐いて生きる人は、その行いによって偽りの幸福を得ることしか出来ないからである。

2018年1月9日火曜日

追憶 1920

誰もが、いつかは一般的な幸福に満足することが出来なくなる。
それが訪れる時期は人によって異なるだろう。
一般的な幸福に対して、素早く見切りをつける人もいれば、それをじっくりと観察している人もいる。
一般的な幸福を自分の幸福として一生を終える人も多くいるだろう。
幸福の形は、人それぞれであって良い。
大切なのは、自分の幸福を追求する勇気を忘れないことである。
勇気のない人が、死ぬために生きることは出来ない。
それは、死を意識して生きることには勇気が必要だからである。

2018年1月8日月曜日

追憶 1919

しかしながら、それが自分の幸福であるとは限らない。
大抵の場合、一般的な幸福を手に入れたとしても、幸福であり続けられる人は少ない。
なぜなら、それが自分の幸福である可能性が低いからである。
多くの人が求めている幸福とは、幸福の基本のようなものであるだろう。
基本を手に入れたとして、それに満足し続けられる人がどれだけいるだろうか?
車を買ったとして、何も手を加えない人がどれだけいるだろうか?
大抵の人は、使い勝手が良いように何かしらの手を加える。
お気に入りのステッカーを一枚貼っただけで、基本に満足することが出来ないということなのである。

2018年1月7日日曜日

追憶 1918

わたしから見て、彼は懸命に生きたのではないかと思う。
思い通りにいかないことの方が多く、一般常識に照らし合わせてみれば、豊かな人生ではなかったのかも知れない。
しかしながら、自分の人生に挑戦するということにおいて、彼はそれを行なった人だったのではないかと思う。
一般的な幸福を得たのかは分からないが、彼が自分の人生や死に満足したことは確かであるだろう。
そうでなければ、あのように屈託(くったく)の無い笑顔で自分の葬儀を迎えられるはずがないのだ。
大抵の人は、一般常識に照らし合わせた幸福を追い求めている。

2018年1月6日土曜日

追憶 1917

過去世があろうと無かろうと、来世があろうと無かろうと、今世に満足していれば良いのである。
来世に何かを期待する必要はない。
今世に満足すれば、来世に期待する必要もないのである。
死ぬ覚悟で臨(のぞ)めば、何事においても満足することが出来るであろう。
それは、死を意識するということが、後先考えずに懸命に生きるということだからである。
懸命に生きた者が不満を得ることはない。
懸命に生きた者は、結果がどうであれ、そこに何等かの満足を得ることが出来るのである。
全力を尽くして敗北したとしても、そこには満足が導かれる。
しかしながら、全力を尽くすこともなく勝利したとしても、不思議とそこには満足が導かれないのだ。
人の心には不思議な性質がある。
人は合理的な存在ではないと言えるだろう。
そのため、生きるために生きるのではなく、死ぬために生きるという矛盾しているようにも思える生き方が必要なのである。

2018年1月5日金曜日

追憶 1916

それならば、人は再び生まれるのか?ということを知りたくなるだろう。
再び生まれる保証があれば、死を得ることにも恐れを抱かないで済む可能性が高まるのである。
残念ながら、人が再び生まれる保証はない。
わたしは、生まれ変わりの記憶を持っているが、それは巧妙(こうみょう)な思い込みかも知れない。
世の中には、前世の記憶を維持して生まれる人もいるが、様々な証拠を以(もっ)てしてもそれを証明することは出来ないのではないだろうか?
最終的には、それを受け入れ、信じるかどうかという問題に辿り着くのである。
わたしは生まれ変わりはあると思っているが、あなたはそう思わなくても良い。
なぜなら、生まれ変わりがあろうが無かろうが、それはきっと、取るに足らないことだと思えるからである。



2018年1月4日木曜日

追憶 1915

自己の利益を追求する人にとっての命とは、所有物を集めるために必要不可欠なものである。
そのため、命を失う訳にはいかないのである。
そのように、自己の利益を追求する人は、死から離れてしまう。
死を得ることが、人生における最大の悲劇だと考えるのである。
人は必ず死を得る。
今までに死を得なかった者がいるだろうか?
そのような者はいなかったし、これからもいないだろう。
そのため、死を得ることは自然の理(ことわり)であるのだ。
死を得ることが自然の理であるのならば、死は悲劇などではない。
それは、夏には茂っていた野草や木の葉が、冬には枯れてしまうようなものである。
誰もそれを悲劇だとは考えないだろう。
それは、春には再び芽吹くことを知っているからである。

2018年1月3日水曜日

追憶 1914

金儲けの魔力に引き摺られた人は、自己の利益を追求するようになってしまう。
もちろん、それは金儲けに限ったことではない。
自己の利益を追求するようになった人間は、生きることに執着し、相対的に死を恐れるようになってしまう。
それは、自己の利益を追求することによって所有物が増えるからである。
所有物が増えることによって、それを守ろうとする心が育つ。
それが執着なのである。
強欲な者は生き永らえたいと願う。
より多くの所有物を集めようとするからである。
自己の利益を追求する人は、自らの命も手放したくはないのだ。
それは、自己の利益を追求する人にとっては、最も貴重な財産だからである。



2018年1月2日火曜日

追憶 1913

もちろん、それは宗教の神や仏のことではない。
人が思いやりを持つ時に生じる心のことである。
心に神や仏の無い人は、自己の利益を追求するのに恐れがない。
現代ではそれを褒(ほ)め称(たた)える風潮があるが、それは、拝金主義(者)が広めたデマに過ぎないとも思っている。
様々な意見があり、わたしは金儲けが悪いとは思わないし、金儲けが持つ建設的な影響力もある程度は知っているつもりである。
しかしながら、人は弱い存在であることも知っている。
弱い存在である人は、欲望によって、金儲けの魔力に引き摺(ず)られてしまうのである。

2018年1月1日月曜日

追憶 1912

誰であっても、豊かな死を得なければならない。
豊かな死は、執着を離れた心に訪れるのである。

人が死を意識しながら生きることには価値がある。
それは、不義を犯す可能性を抑えられるということである。
死を意識している人は、霊や神などの死を得ても存在しているものを理解している。
それは、目には映らないこの世の理(ことわり)の存在を理解しているということでもあるだろう。
そのような人が不義を犯す可能性は少ない。
生きるために生きている人は、死後の世界や目には映らない存在を重んじることは出来ない。
生きるために生きている人には、神も仏も無いのである。