このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年3月31日木曜日

追憶 1298

そこで、”頼れるお兄ちゃん”のわたしに白羽の矢が立ったという訳である。
わたしは手始めに、Yについて知らなければならなかった。
わたしは会話の中からYのことを理解しようと試みた。
霊感を使えば良いという指摘が出るだろうが、自分勝手に使えるような都合の良いものではない。
他人のことは分からないが、わたしの場合は許しがなければ使えないのである。
TVなどで自称霊能力者という人が出てくるが、その人達は自力によって霊能力を使っている。
残念ながら、自力によって霊能力を使うことは出来ないだろう。
なぜなら、霊能力とは霊的な力であり、霊的な領域に存在している。
それは、霊的な理(ことわり)である”神”を無視することが出来ないのである。
すべての霊能力は”神”の許しによって使うことが許される。
人間の自力が支配するところではないのだ。

2016年3月30日水曜日

追憶 1297

Hは十代特有の無鉄砲なところがあるが、人の気持ちを酌(く)むことができる優しい子である。
話を聞くと、自分の置かれている状況をある程度は客観視することができているようである。
彼女は、自分の気持ちと家族の気持ちの間を彷徨(さまよ)っていた。
家族が反対しているために、苦しんでいるのである。
HにとってはYとお腹の子ども、家族のどちらも大切なのだ。
当然のことである。
しかし、19歳の小さな胸は、押しては返す波のように永遠を彷徨っている。
彼女にとって、決断は余りにも強大なものであった。


2016年3月29日火曜日

追憶 1296

ある日、Hから連絡があった。
それは、わたしの知恵を借りたいというものであった。
当事者のみの話し合いでは、どうしても感情的な問題が生じて話が拗(こじ)れるのであろう。
わたしは、出来ることがあれば協力することを伝え、後日三人で会うことになった。

約束の日、二人はばつの悪い顔でわたしに会った。
Yとは初対面であったが、直感通りの印象を受ける。
二人を部屋に通して話を聞くことにした。

2016年3月28日月曜日

追憶 1295

それに加え、Hの相手であるYの借金問題なども発覚し、亀裂は更に大きなものとなった。
Yから受けた印象は、無責任な男であった。
彼は酒、煙草、パチンコに興じていた。
その辺に良くいる男である。
それが悪いとは言わないが、わたしには縁の無い世界であった。
それは、育った環境の影響が強いであろう。
母子家庭で育ち、環境的にも心境的にも複雑だったのであろう。
簡単に話を聞いただけではあるが、わたしにはYが愛情不足であると思えた。
男性的な愛情(父性愛)が足りないと感じたのである。

2016年3月27日日曜日

追憶 1294

Hの相手は10歳程歳上である。
Hの家族は、30歳に成ろうかという男と、自らの娘の無責任で軽率な行為に対して憤慨(ふんがい)していたのだ。
話し合いは話し合いにはならなかった。
特に祖母は頭が硬い。
所謂、昔人間である。
彼女は礼儀作法を重んじた。
H達の行為は祖母にとっての不実である。
それは、学校や生活における援助にも携わっていたからだ。
祖母はHに学校を卒業して欲しかったし、ある種の真っ当な(責任感のある)生き方をして欲しかったのである。
しかし、結果は真逆なものとなった。
彼女がそのような裏切りを認められるはずがないのだ。


2016年3月26日土曜日

追憶 1293

Hはわたしの従兄妹である。
わたしは三人兄弟の次男、Hは兄を持つ長女である。
わたしは五つ年下の彼女を妹のように、彼女はわたしを兄のように思って育った。
Hが高校を卒業し、親元を離れて専門学校へ通い始めて一年間が経った頃、わたしは吉報を得た。
それは、Hが懐妊したというものであった。
わたしはそれを喜んだが、Hの家族はそれを喜ばなかった。
なぜなら、専門学校に在学中のことであり、卒業までに後一年の期間を有していたからである。
祖父は他界しているが、Hの両親、祖母は怒りを現し、結婚に対して否定的であった。
恥ずかしい話ではあるが、堕胎の話しさえ出た程である。
彼等はそれ程までに動揺したのであろう。
普段は決してそのようなことを考える人達ではないからである。

2016年3月25日金曜日

追憶 1292

わたしの役割の一つとしては、人に少しでも多くの霊的な真理を伝えるというものがある。
大層に聞こえるが、要は霊的な檻の中に閉じ込められているということに気付いてもらえれば良いのである。
自分が霊的な檻の中に閉じ込められているということに気が付いた人は、抱えている問題や苦しみがそこに起源しているということに思い至るであろう。
わたしの仕事とは、そのようなことなのだ。
檻の中から出るかどうかはその人によるのである。
わたしはただ、自分の経験をここに記すことで、これを読む人の役に立てれば良いと思うのである。
今回は、人の転生に関係する話をしよう。



2016年3月24日木曜日

追憶 1291

わたしが転生を信じるのは、前世の記憶だと”思われる”ものを思い出したからである。
そして、その記憶と現在に符合(ふごう)する点がいくつか垣間見えるからだ。
それに、何人かの前世の記憶だと思われるものを見た。
もちろん、これだけでは確証とはならない。
まぁ、どのような根拠を以てしても、証明することは難しいだろう。
しかし、証明することができない転生についてこのように記すのには理由がある。
それは、”転生は無い”という考えを壊すことだ。
”人生は一度切り”、”死の先は無”…
このような考えが人を霊的な真理から遠ざけて、見えない檻の中に閉じ込めているのである。

2016年3月23日水曜日

追憶 1290

どちらにしても、輪廻転生の考え方は人類への霊的な抑圧と、奴隷制度のための政治利用のために用いられた。
これは、人類を見えない檻(おり)に閉じ込める一因となっただろう。
 西洋では、輪廻転生は無いとして霊的な真理を隠し、無知を蔓延(まんえん)させた。
これは歪んだ唯物論を導いて、資本主義を加速させた。
 東洋では、輪廻転生の存在を植え付けて、カースト制度を押し付けた。
これは歪んだ唯心論を導いて、宗教(偶像礼拝)に対する信仰心を育てた。
 どちらにしても、時の権力者は、宗教を利用して民衆を操ろうとしたのである。
その結果、教義は多岐(たき)に渡り、霊的真理は分散し隠されてしまった。
その結果、多くの人は霊的な迷いを覚え、彷徨(さまよ)っている。
自分が何者かも知らず、人生が何のためにあるのかも知らないでいる。

2016年3月22日火曜日

追憶 1289

転生とは、生まれ変わることである。
人は何者なのであろうか?
それはどこから来て、何処へ向かうのか?
人にとって、これは生涯に渡る課題であろう。
四世紀頃に、時の皇帝コンスタンティヌスによってキリスト教がローマの国教になる以前(古代メソポタミア、エジプト
、ゾロアスター教、ミトラ教、ユダヤ教など)、霊的、宗教的解釈において、輪廻転生は当たり前の考え方であった。
しかし、霊的な抑圧と政治利用のために教義は書き換えられ、現在では輪廻転生を支持するキリスト教の派閥はなくなった。
バラモン教の派生であるヒンドゥー教や仏教には、今日でも輪廻転生の考え方は根強く残っている。


2016年3月21日月曜日

追憶 1288

しかし、これは現時点においてのわたしの未熟な解釈に過ぎない。
そのため、一つの可能性として魂の名前であるかも知れないというところにとどめておこう。
魂に名前があるにしても、それが何の役に立つのかは分からない。
それは、わたしという樹木に一つの新芽が出たくらいのことだろう。
”ラーシャ”という名前を知ったことによって、人生における様々な経験が、わたしを”自分”の名前の意味に導いてくれるかも知れない。
新芽も成長すれば、やがて花を咲かせ実を付けるのである。
その時には、わたしは”自分”の名前に満足しているだろう。

2016年3月20日日曜日

追憶 1287

前世の名前を知る必要があるとは思えない。
わたしが前世においてどのような名前であったとしても、それが何かの役に立つのだろうか?
わたしの前世の名前を知ったことろで、それが何になるというのだろう?
それは複数あるはずであり、名前を一つに限定するのはおかしい。
わたしは”ラーシャ”という名前に対して、前世よりも深い意味があるのではないかと思った。
例えば、魂の名前である。
生まれ変わって来るものが一つの魂であるのならば、名前が限定されることにも納得することができる。
”ラーシャ”という名の魂が転生を繰り返し、経験を重ねているというのであれば、納得することもできるのである。

2016年3月19日土曜日

追憶 1286

そのため、咄嗟(とっさ)にしろ、無意識にしろ、思い付くのは簡単ではないだろう。
わたしには外国人に対する憧れはない。
大きく分けて、白人や黒人の骨格には憧れもあるが、自分がそうなりたいかと言えばそうでもない。
わたしは黄色人種の肉体に対して不満はない。
それとして生まれたのであれば、それで良いのである。
理由は分からないが、大天使ミカエルを始め、わたしには西洋風の霊的な存在に縁が深い。
日本に生まれ育ったのだから、東洋風の霊的な存在に縁が深くても良さそうなものだが…
もしかすると、これは地球に来る?前の名前なのかも知れない。



2016年3月18日金曜日

追憶 1285

わたしは携帯電話を取り出し、名前を忘れないようにメモに残した。
夢のように忘れてしまうような気がしたのである。
それにしても、この名前は何を示しているものなのであろう?
”ラーシャ”という名前は西洋風である。
男性的でもあり、女性的でもあるように思える。
わたしの無意識の内の発想であれば、もっとスタンダードな名前が出ても良いはずだ。
例えば、ジョンとかボブとか、映画などで良く聞く名前であれば思い付くのも簡単だろう。
しかし、わたしは”ラーシャ”という名前を聞いたのである。
それは、わたしには聞き覚えのない名前であり、考えたこともないものであった。

2016年3月17日木曜日

追憶 1284

声に対して、わたしが名前をせがむのは当然の流れであった。
”自分”の名前を通じて、この世界のことが少しでも分かるかも知れないからだ。
すると、囁(ささや)くようでもあり、轟(とどろ)くような声が告げた。

「あなたの名は”ラーシャ”」

次に気が付いた時には、わたしは瞑想が解かれていた。
視線を落とし、両の掌(てのひら)を眺めた。
何故だかは分からないが、掌が”自分”を教えてくれているかのように思えたのである。
手相占いというものがあるが、あれは”自分”を知るヒントになるのかも知れない。
ただし、高水準での話である。


2016年3月16日水曜日

追憶 1283

突然届いた問いに対して、わたしは困惑していた。
それは、声がしたことにではない。
霊的な世界に触れてからは、突然の声など日常茶飯事である。
わたしが困惑したのは、わたしには”松岡 真”という名前があるにも関わらず、どうして名前を問うのだろう?というところにであった。
わたしは名前を知っているはずだ。
本当は違うのであろうか?
霊的な働き掛けには、いつもわたしの考えを凌駕(りょうが)する意図がある。
そのため、わたしは素直に自分が名前を知らないのだと悟った。
わたしは霊的な存在に対して抵抗しない。
それは、いつもわたしが無知であって未熟であり、彼等が知恵を以て正しいことは毎回証明されていることだからだ。

2016年3月15日火曜日

追憶 1282

わたしにとって、”自分”を知るための機会の多くが瞑想にあった。
20年間、唯物世界に生きていたが、わたしは”自分”を知ろうともしなかった。
きっと、そこにはヒントすら少ないのではないだろうか?
瞑想を始めてから、わたしは少しずつではあるけれども、”自分”を探し始めた。
そして、ある時、わたしは”自分”のヒントを得たのである。

それは突然のことであった。
ある日、いつものように瞑想していると、どこからともなく急に声がした。

「あなたは名前を知りたいと思いますか?」

2016年3月14日月曜日

追憶 1281

職を失い、立場を失ったとしても、その人が”自分”を失った訳ではない。
ただ、立場が変わったに過ぎないのである。
”松岡 真”は以前は違う人間であった。
生まれた場所も、両親も、肉体も、性別も、性格も、生き方も…
何もかもが違う人であった。
しかし、”松岡 真”はそれ等の過去を糧(かて)にしている。
”松岡 真”ではない何かが、存在しているはずだ。
それが”自分”なのだとわたしは考える。
そこには、人生の意味が存在しているはずだ。
それこそがわたしを満足させるだろう。
だから、わたしは”自分”を探しているのである。

2016年3月13日日曜日

追憶 1280

わたしは”自分”を知らない人達の中で育った。
わたしに”自分”を教えてくれる人はいなかった。
誰もが”自分”を名前だと思っていたし、人間だとか、肉体だとか、脳だとか、心だとか、男だとか女だとかと言った。
それ等は、生後の立場に過ぎない。
それは、わたしは部長です、わたしは社長です…
このように言っているに過ぎないのである。
会社を辞めたり、潰れたら職を失う。
それは、立場を失うことであるが、それは”自分”を失うことになるのだろうか?

2016年3月12日土曜日

追憶 1279

多くの人は”自分”というものを、他人の認識の中に探している。
目覚める前のわたしは、自分のことを他人が呼ぶ”松岡 真”だと思い込んでいた。
しかし、わたしは”自分”のことを”松岡 真”とは呼ばない。
それは、他人が呼ぶのである。
他人がわたしの所有する”自分”を知っているだろうか?
残念ながら、それは有り得ないことである。
なぜなら、”自分”のことすら知らないのである。
どうして、他人の所有する”自分”を知ることができるのであろうか?

2016年3月11日金曜日

追憶 1278

瞑想とは、”自分”と向き合う時間である。
”自分”と向き合う程に、新たな発見がある。
瞑想をする度に、わたしは”自分”を知らないのだと痛感する。
”自分”とは、わたしのことではない。
わたしというのは”松岡 真”のことである。
わたしは今回の人生を”松岡 真”として生きている。
真という名前にしたのは、真を生きるためだ。
わたしは真を見る。
真を聞く。
真を知る。
真に触れる。
真を所有し、真を与える。
そして、真と成るのである。
これが、わたしの人生の目的の一つである。

2016年3月10日木曜日

追憶 1277

家の主人はどこへ行ったのだろう?
わたしが前世で人を殺し、人に殺されたことを考えても、悪いところには行っていないのではないだろうか?
時代背景が違うので、善悪の判断が難しいが、彼が悪人であるようには見えなかった。
善人が益(えき)を得て、悪人が損を得るかは分からないが…
霊となって彷徨(さまよ)っているか?
別次元に向かったか?
転生したか?
消滅したか?
わたしには分からないことだが、彼と彼の死に関わるすべての人達が気に病まないことを願う。

2016年3月9日水曜日

追憶 1276

それが”天国”なのか、別次元なのか、来世なのかは分からない。
しかし、ここにはいたくないという本人の気持ちか、霊界の働き掛けによって人はどこかへ行くのである。
わたしは以前に前世の記憶を見せられたことがある。
それは、恋人であるNにも行われたことだ。
わたしたちが同じものを見たのかは分からないが、その記憶によって今の自分を以前よりも納得することができたのは事実である。
わたしが見せられた最古の記憶は、Nと共に青白い光に包まれて地球に降り立ったところである。
青白い光はUFOであろうか?
それとも、何かしらのエネルギーのようなものであるのかも知れない。
わたしたちは別の星から来た生命体、もしくは魂であろう。
それから、地球での転生を繰り返して今に至るのだと思う。

2016年3月8日火曜日

追憶 1275

人生が一度切りであるのならば、自ら命を絶たない方が”お得”であろう。
目の前の辛い状況から逃げたいのであれば、夜逃げでもすれば良いのである。
わざわざ死ぬ必要はないだろう。
人に迷惑をかけることを気にしているのであれば、生きている方が良い。
死ぬことが迷惑となるし、挽回も出来ないのである。
しかし、人は死を選ぶ、それは、潜在的に死の先の世界が存在しているということを知っているからなのではないか?
家の主人がどのように考えていたのかは分からないが、死ねば楽になるという考えは、そこに楽を与えてくれる対象があるからなのではないだろうか?

2016年3月7日月曜日

追憶 1274

人が理性的に生きるのは何のためであろうか?
一度切りの人生であるのならば、自分勝手に感情や欲望に従えば良いではないか?
多くの富を集めること、人から騙(だま)し取ることに罪悪感を覚える必要もないのである。
しかし、それは許されない。
人に嫌われるからそうするのであろうか?
贅沢をして、楽に生きるためであろうか?
どのように生きても敵はいるだろう。
ではなぜ、黒いチンパンジーは家の主人のところで”神”の仕事をしたのだろうか?
なぜ、家の主人は自ら命を絶ったのであろうか?

2016年3月6日日曜日

追憶 1273

霊界には意向がある。
そうでなければ、わたしたちが生じたことには何の意味も無く、すべてが無駄になってしまうからだ。
どれだけの経験を重ね、どれだけの財産を集め、どれだけの絆を築き、どれだけの名を残しても、それが自然界のみの意向であるのならば、そのすべてが無駄であろう。
霊界の意向が存在しなければ、人が苦悩する必要もないのである。
獣のように生きても構わないだろうし、すべての努力、克己心も、羞恥心も必要ない。
しかし、わたしたちの心はそれを許さない。

2016年3月5日土曜日

追憶 1272

それは、そうでもしなければ人の心は怠慢(たいまん)や傲慢(ごうまん)を楽しむからである。
人が人生の意味や自分の”仕事”を知るためには、残念ながら苦しみが不可欠なのである。
苦しみがなければ、人は大抵のことには気が付けない。
本当ならば、喜びによって気が付くことが理想ではあるが、人の心はそこまで強くないのだ。
放っておけば、快楽を貪(むさぼ)り楽しむのが普通なのである。
そのため、必要に応じて苦しみが導かれ、その心が道を見失わないようにしているのであろう。

2016年3月4日金曜日

追憶 1271

家の主人が自殺することによって、それに関わる人達の思考や感情からは歪みが取れるであろう。
しかし、正しく理解すればの話である。
例えば、様々な自然災害がある。
これによって、人々の生活が深刻な被害を受けることがある。
多くの人はこれを歪めて見てしまう。
例えば、毎年日本を訪れる台風は多くの水をもたらしてくれる。
台風が無ければ、日本には豊かな自然環境が存在しないと言えるかも知れない。
台風がもたらす雨がなければ、”普通”の生活を営むことすら出来ないのではないだろうか?
地震や津波は、価値観や生き方を根本から覆す。
そこには、多くの痛みや悲しみがある。
個人的には、地震や津波が無い方が良いに決まっている。
しかし、そうはいかないのだ。


2016年3月3日木曜日

追憶 1270

しかし、このように考えることのない人は苦しむであろう。
それは、自殺や死を悪いものとして(教えられた結果)考えているからである。
もちろん、自殺はしない方が良い。
なぜなら、自殺という(ある意味では)問題からの逃避は、必要な学びを遅延(ちえん)させてしまうからである。
(自殺によって学ぶこともたくさんあるので、どちらに転ぶかは分からないが…)
自殺をしても生まれ変わるだろうが、その時には前世の問題を引き継いだ状態から始めなければならないだろう。
それは、何かしらの影響(身体、精神的特徴、状況や環境など)を以て現れるはずである。
人生の目的は成長にあり、その本質は魂の浄化にある。
すべての問題は思考(顕在、潜在意識)の歪みを取り除く作業なのである。

2016年3月2日水曜日

追憶 1269

自ら命を絶った家の主人がどのような結果(死後の状態)を得たのかは分からない。 
しかし、死は決して悪いことではない。
黒いチンパンジーは”神”の仕事だと言った。
家の主人は決して悪いようにはなっていないだろう。
それは、家の主人のための死であり、残された家族のための死であり、わたしのための死であり、Sさんのための死であり、その死に関わるすべての人のための死なのである。
建設的に捉えなければならない。
そうでなければ、彼の死には何の益(えき)もないのである。

2016年3月1日火曜日

追憶 1268

光の仕事の依頼によって、わたしには何の問題も無いことが保証された。
わたしの中には病気や死に対する塵(ちり)ほどの考えがあったが、それも葦(あし)を揺らす程の風によって吹き飛ばされたのである。
わたしは席に戻り、その時丁度運ばれてきた食事を味わい、満足を抱えて帰路へ着いた。

この体験によって、わたしは死を悪だとは見なさないことを証明しよう。
死を感じることによって、わたしが生に対してより懸命になったことは明らかである。
しかし、それは死を恐れてのことではない。
それは、生という時を疎(おろそ)かにしたくないという気持ちが高まったためである。
わたしの死後の第一希望である”天使”という職を得るためには、まだまだ足りないような気がしたのだ。