このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2015年9月30日水曜日

追憶 1115

推測と同時に身体(この場合、意識的な身体)が動くのはいつものことである。
これは、高次の存在から受け取った情報をわたしが認識、理解するのに時間が掛かるためだ。
わたしの魂は何をするべきであるのかを知っているが、わたし(顕在意識)は知らないのである。
右手が人差し指と中指を使って空中に十字を描いた。
光の十字架は金色の美しい光を放っている。
それは、黒い女の姿を一層暗いものとした。
光の十字架を掴むと、そこから意思が流れ込んでくる。
その意思によって、わたしの推測は確信へと変わった。
わたしは深く息を吐いて、光の十字架を黒い女に投じた。

2015年9月29日火曜日

追憶 1114

怒りと不安に歪む表情の女は、彼女自身の心の一部であるだろう。
それは、やがて一つの人格として心の中に形成される。
一卵性の良く似た双子であっても、環境や経験の違いによって違う顔(容姿)になるだろう。
それは、心の状態によって後天的な違いが生じるからではないだろうか?
彼女の心の中に怒りや不安などの感情が固結し、やがて一つの人格と成れば、それが身体的な特徴に影響を与えることも、人生に対しての決定権を持つことも考えられるのである。
人生とは、心の選択であるだろう。
一般的には脳みそで生み出されていると解釈されている思考でさえ、突き詰めれば心(精神)の選択なのである。
そのため、この黒い女をこのままの状態にしておくのであれば、彼女の人生設計に対して何等かのネガティブな影響を持ち込むことが予想される。
わたしに”これ”を見せたのは、この状態を解決する必要があるためであると推測することができる。

2015年9月28日月曜日

追憶 1113

彼女が自らの感情をどのように認識していたのかは分からないが、それが過剰に反応することによって、ある種の障害になるということがあるのだろう。
わたしには分からないことも、天使たち高次の存在には分かるのであろう。
彼女の中の不安は、次に怒りとなった。
怒りは争いを導き、やがて拒絶となった。
わたしがそこまで理解した時、コールタールのような黒いものが人の形を成した。
それは、怒りの表情を浮かべた女性である。
この女性は彼女の心の一部であると感じたが、彼女とは似ても似つかぬ姿をしていた。

2015年9月27日日曜日

追憶 1112

彼女が当たり前に飲み込んでいるものは”薬”なのだろうか?
わたしたちは、怒りや悲しみなどの感情を当たり前のこととしている。
それ等の感情を批判しているのではない。
それ等の感情がバランスを崩せば危険であるということを言いたいのである。
ネガティブな感情は、ポジティブな感情と対になって心の安定を実現させている。
怒りや悲しみの感情を抱くことによって、心はストレスを逃がしているのだろう。
心にとっては、怒りや悲しみの感情は免疫(めんえき)としての役割を持っていると言えるのではないだろうか?
そのネガティブな感情が強過ぎれば、自己免疫疾患(じこめんえきしっかん)と同じ状態を得ることになり、却(かえ)って自らを損なうことになってしまうのであろう。

2015年9月26日土曜日

追憶 1111

毒が身体を損なうことは誰であっても知っている。
赤子であっても、毒は吐き出すのである。
しかし、それは身体の持つ生存本能の成せる技であり、人の意思ではない。
人には、それが毒であるのか、薬であるのかを判断することは難しいのである。
その証拠に、既に心の中には様々な”毒”を飲み込んでしまっている。
それを”毒”とも思わずに。
多くの人は自分自身を中心とした世界観の中に生きている。
正義は自らにあり、自分自身を正当化するのである。
正当化することによって”毒”であるそれを”毒”と認めない。
そうやって、心の中には”毒”が蓄積されていく。

2015年9月25日金曜日

追憶 1110

彼女の心の中には、様々な感情が溢れていたが、その中で最も強く感じられたものは不安であった。
彼女は不安を抱えながら生きている。
それは、何から生み出されるのであろうか?
わたしは彼女の心の中に入り込み、コールタールのようなものに触れた。
すると、次の瞬間には様々な声がわたしに突き刺さった。
それは、聞くに耐えない罵(ののし)り言葉であった。
罵詈雑言(ばりぞうごん)を聞いていると、それがわたしに向けられたものではなくても気が滅入(めい)る。
彼女はこのような”毒”を心の中に抱えながら生きているのである。

2015年9月24日木曜日

追憶 1109

部屋の中央には虎柄の座布団を置いてある。
光の仕事での来訪者にはここに座ってもらう。
彼女の誤解と緊張が少しだけほぐれたところで、座布団へ導いた。
それは、そのようにとの指示があったからである。
彼女の背中は平凡なものであったが、わたしにはとても懐かしく思えた。
不思議な感覚である。
彼女には気楽にしてもらうように告げて、わたしは静かに目を閉じた。

すぐに気持ち悪くなって嘔吐(おうと)しそうになった。
これはいつものことである。
彼女の心の中や、身体の周りに立ち込めている黒い煙のようなものがそうさせるのだ。
これは、破滅的な意識である。
怒りや悲しみ、不安などによって生み出されるのか、引き寄せているのかは分からないが、それ等の感情が結果的にそのような状態を導くのである。

2015年9月23日水曜日

追憶 1108

霊能力とは、ただの感覚である。
それは、五感の延長でしかない。
これを特殊能力と呼ぶのは無理があるだろう。
実際に、霊能力というものを扱ってみれば分かるが、霊や他人の心が見えるからといって、それだけでわたしが特別な変化を得たという事実はないのである。
それは、今までには興味の無かったことを知るようなものだ。
今までには興味がなく、聴いたことのない音楽を嗜(たしな)む程度のことなのである。
しかし、聴いたことのない音楽は、既に存在していた。
それ以上でも、それ以下でもない。
それだけのことで特別扱いなどしてはならないのである。
他人よりも少しだけ歌が上手い、走りが早い、絵が上手い、腕力がある・・・
これ等と霊能力が扱えるには、何の変わりもないのだ。

2015年9月22日火曜日

追憶 1107

だから、わたしを尊敬してはならない。
わたしを信仰してはならないのである。
わたしは誰とも平等であり、誰よりも優れ、誰よりも劣っているのである。
わたしたちは礼儀を以て友情で結ばれなければならないのだ。
わたしはどのような人も対等に扱うし、対等に扱って欲しい。
わたしは友達でありたいのである。
そのため、わたしは光の仕事の時には大抵の場合、友達口調で進める。
(相手の状態(自尊心)を見て判断する)
その方が心にまとった余計な力みや隔(へだ)たりが取れるような気がして仕事が捗(はかど)るのである。
相手の心と向き合う時には、余計な力みや隔たりは邪魔なのだ。
それは、電波障害を引き起こす。

2015年9月21日月曜日

追憶 1106

わたしは誰かに尊敬されたいとは思わない。
誰かを従えようとか、集団の中にいようとも思わない。
わたしが”人間”であった頃ならば、そのように思ったであろうが、霊的な世界に触れることによって”魂”に近付いたわたしは、そのようには思えなくなった。
だから、彼女がわたしに抱く勝手なイメージと対応は間違っているのである。
これは、わたしだけに当てはまることではない。
霊能力が少し扱えるからといって、ただそれだけの理由で特別視するのは危険である。
霊能力が扱えなくても尊敬に値する素晴らしい人はたくさんいる。
霊能力者、宗教家を自称し、尊敬する要素がどこにも見当たらない人はたくさんいるのである。

2015年9月20日日曜日

追憶 1105

世間一般で言われている霊能力者という人たちは宗教観が強く、その枠組みの中で生きている。
正義感というものが強過ぎて、敵と味方を作り出しているのである。
敵を作り出すことによってそれと戦う(争う)姿は、客観的に捉えると大したことをしているように見える。
そして、「これはあなたを守るためです」などと言われると、純粋な人ならば感動を覚えるものである。
大抵の場合は、そこに尊敬の気持ちが生まれる。
しかし、それは大抵の場合歪んでいるのである。
わたしは宗教に属していない。
だから、特別な宗教観も持たない。
個人的には、宗教の始まりは歴史を伝える文化であり、聖書や経典は歴史書であると考えている。
もう一つの側面(こちらが本質だと思っているが)は、宇宙人種族による教育である。
それが、様々な人の思惑(おもわく)が入り込んだせいで大きく歪み、それに属している人たちの思想も同じように歪み、本来の目的を見失っているのが現状であると考えている。

2015年9月19日土曜日

追憶 1104

部屋に通し、楽に座ってもらった。
気さくに話し掛けると、彼女の抱えている緊張が少しだけ和らぐのが見て取れた。
彼女はわたしのことを特別な人間だと誤解しているところがあるようだ。
それは、世間には権威(けんい)に対する信仰が存在し、一般で言うところの霊能力者というものに対しても、一目置くような感覚がある。
わたしのことを一般的には霊能力者と呼び、その立場や人物を特別視する傾向は根強く残っている。
彼女はわたしのことを知らないので、そのような認識を当てはめているのであろう。
わたしは残念ながら、所謂(いわゆる)霊能力者ではない。
と思っている。
わたしは”ファンタジー”に対して興味がないのである。
どちらかと言えば現実主義であり、説明することができない事象に対して疑惑と嫌悪を抱く。
そんなわたしは科学が大好きである。

2015年9月18日金曜日

追憶 1103

わたしは以前にどこかで彼女と会っている。
そのような考えが膨大な記憶の図書館の中から、目の前の彼女に関する情報を探す。
しかし、見付からなかった。
わたしは複雑な思いを押し殺して、初対面を装った。
彼女はそれに何の抵抗も示さず、初対面のわたしに対して緊張感を抱えているようであった。
これは、記憶違いであろうか?
わたしの思考が記憶を複雑に繋ぎ合わせ、目の前の彼女に似せた人物を作り出し、その想像上の人物と混同して彼女を見ている?
考えても分からないので、わたしは彼女とは初対面だという状況的な事実を受け入れ、目の前の仕事に専念することにした。

2015年9月17日木曜日

追憶 1102

ある日、わたしを一人の女性が訪ねた。
その頃には、わたしの噂(うわさ)は自分自身が想像しているよりも広範囲に伝わっていた。
知らない人からの連絡が増えていたのである。
その日、わたしを訪ねた女性も、口づての噂を聞いて興味を抱いてくれたようだった。
玄関で出迎えた時、わたしは彼女と始めて会ったが、初見であるとは思えなかった。
わたしは目の前の中年の女性を知らない。
電話で一度だけ話しただけである。
しかし、わたしは彼女を知っている…
心の中で様々な憶測が火花を散らした。

2015年9月16日水曜日

追憶 1101

20歳の頃には、唯物的な生き方には
限界を覚えた。
自分なりに懸命に、常識的な生き方に慣れようとしたが、どうしても満足することができなかった。
どうしても、このような生き方をするために生まれたのでも、生きているのでもないという思いが生じ、現状の自分に対しては強い違和感を感じていたのである。
わたしにとっては、”普通”という状態こそが苦痛であった。
その苦痛から逃れるために、わたしは心が魅(ひ)かれる対象を強く求めた。
それが霊的な世界だったのである。
霊的な世界に対する研究は、大いににわたしの心を刺激した。
霊的な世界と触れることによって、わたしは人生を通じて始めて、本当の意味での満足に出会えたのである。

2015年9月15日火曜日

追憶 1100

人は何のために生まれたのであろうか?
わたしたちはこの人生において、何をしているのだろう?
わたしは20歳の頃からこのような疑問を抱き始めた。
それまでは、このような疑問を覚えたこともなかった。
ただ、楽しく、ただ、興奮することができる刺激を求めて生きていた。
人間社会における20年という歳月がわたしに唯物的(例えば資本主義)な価値観を植え付け、わたし自身もそれで良いのだと思っていたし、それ以外の生き方を知ら(教わら)なかった。
そのような価値観では、自分が何のために生まれたのか?人生が何のためにあるのか?そこで何をしているのか?どこへ向かうべきなのか?という人生の本質の部分には関心すら抱けなかったのである。
今にしてみれば、わたしは刹那的(せつなてき)な日々を過ごしていた。
当時のわたしの意識のレベルでは、そのような生き方しかできなかったのである。

2015年9月14日月曜日

追憶 1099

わたしは経験を通じて、霊と心には共通点が多いように感じている。
心というものは意識体であるから、霊に近いものでもあるだろう。
そして、原子の働きも、霊や心の働きに近いものを感じる。
何処と無く似ているように思えるのである。
そのため、量子力学への理解が深まることによって、霊や心に対する理解も深まるのではないかと期待するのである。
量子の世界、心の世界、霊の世界…
これ等の様々な世界への理解によって、わたしたちは自分自身を知り、人生というものを知るのではないだろうか?
わたしはそのように期待しているのである。
わたしは毎日自らの心(意識)と向き合っている。
その不思議な働きを自分なりに研究することが、わたしにできる人生に対する理解を深める方法であるだろう。
これを読んでいるあなたにも、是非自分自身の心の働きを通じて、人生というものを研究して欲しいと願う。


2015年9月13日日曜日

追憶 1098

唯心的な見方をしなければ、納得することができない事象というものは多いだろう。
しかし、この物質世界において、物質以外の物体が存在しているか?と言えば難しいところであるだろう。
アインシュタインは古典物理学において「神はサイコロを振らない」と言ったし、ボーアなどの量子力学者は通常は知覚することができない領域(原子、素粒子など)の物質の存在とその働きを追求している。
そのため、現時点においては説明することができない事象であっても、人類の理解と意識レベルの上昇によって、これ等を説明することができるようになるのかも知れない。
アインシュタインは古典物理学を用いては説明することができなかったが、量子力学や素粒子物理学(高エネルギー物理学)などがそれを説明するかも知れない。
霊が瞬間移動することや、同時に存在することや、物質を貫通することや、次元間を移動することなども説明することができるかも知れない。

2015年9月12日土曜日

追憶 1097

”自分”という存在を理解することができれば、この世界のことも少しは分かるかも知れない。
唯物的な生き方(α波、β波)の中に答えを求めても、最終的には半分の答えを得るだけなのではないだろうか?
唯心的な生き方や世界(θ波、δ波)への理解と合わせる必要があるように思える。
唯心的な生き方に対しての理解が浅いために、頭(唯物論)では理解することのできない事象に対して心を閉ざしてしまうのではないだろうか?
唯物論者にとっては、わたしの体験が信じられないかも知れない。
わたしもそれを説明することはできないが、人知を超えた情報や状況が存在していることは確かなのではないだろうか?

2015年9月11日金曜日

追憶 1096

わたしには答えを導き出すことはできないが、その経緯は事実である。
他人がわたしと同じような経験をするかは分からないが、忘れているか認識することができないだけで、振り返ってみると同じような経験があるかも知れない。
意識の世界は、現在のわたしには広くて果てしない。
”自分”という存在を証明するためには、この世界に対する研究が不可欠であるだろう。
意識の世界に対する研究が進めば、直感や”神の思(おぼ)し召(め)し”という意識の働きに対する見解も核心に迫ることができるはずである。
そこには、五感を超える感覚(もしくは、五感を拡張した感覚)の理解と応用も存在しているのではないだろうか?

2015年9月10日木曜日

追憶 1095

約八ヶ月という歳月をかけて「プリウス」という言葉が実現した。
これは、わたしの意思によって導かれた未来ではない。
しかし、これはわたしの選択した未来である。
少しだけ話が逸れるが、これは未来からの情報であると言えるだろう。
「プリウス」という言葉がなければ、わたしは”ここ”にいないのである。
それが違う言葉であれば、わたしは違う未来に存在したのではないだろうか?
話を戻そう。
意識というものは不思議である。
この未来が誰によって導かれたのか?それはわたしには分からない。
”神”の意思かも知れないし、天使や宇宙人などなのかも知れない。
自分自身の潜在意識や無意識による働きかも知れないし、未来の自分自身かも知れない。

2015年9月9日水曜日

追憶 1094

ディーラーの方の話によるとプリウスは受注生産であるらしく、注文が確定してからの生産になるということだった。
メーカーとしては客を待たせることになるが、無駄が無いシステムではあるだろう。
しかし、発売されたばかりのプリウスは、低燃費を売りにしており、地球温暖化”ゲーム”とエコカーブームというマスコミの煽(あお)りを受けて、注文が殺到しているということであった。
わたしが注文したのは、発売日の約三ヶ月後であったが、そこから実際に手元に届くまでは約八ヶ月という期間を待たされることになった。

2015年9月8日火曜日

追憶 1093

翌日、先日の知人がトヨタのディーラーに知り合いがいるとのことで、プリウスを持って来させるので見に来いという話があった。
わたしは早速出向き、実際にプリウスを目の当たりにした。
わたしはその姿が気に入り、その場で購入することを決めた。
これは、そこまで車に対して興味が無かったので、他の車と比較する必要が無かったことと、やはりあの”言葉”に従うべきなのではないかと思ったからである。
元々、何かを悩んで決断する性格ではないために、わたしにとっては違和感のない選択ではあったが、知人とディーラーの方は多少なりとも驚いているように見えた。


2015年9月7日月曜日

追憶 1092

プリウスというものをわたしは知らなかった。
努めてはみたものの想像すら付かなかった。
そこで後日、会話の途中でプリウスという単語を思い出したので、何の気なしに知り合いに聞いてみると、それが発売されたばかり新型車(30型プリウス)であるということが分かった。
インターネットで調べた姿を見て、なぜだかわたしは親近感のような感情を覚えたのである。

日に日にプリウスに対する意識が大きくなるのを感じていた。
それを育てようなどとは考えてはいなかった。
それは自然の流れであり、わたしの知るところではなかった。
それを不思議に感じていた。




2015年9月6日日曜日

追憶 1091

移動にはトラックを使った。
仕事で使うためのトラックが余っているのである。
ある時、わたしがトラックを運転していると、急に頭の中に声が響いた。

「プリウス」

頭の中に響いた声は確かにそう言った。
それは、明確な言葉であり、力強い意思であるように感じた。
わたしは驚いて周囲の状況を確認したが、オーディオはつけていなかったし、一人で運転していたのである。
外部からの音にしては異常なまでに鮮明であるし、経験上このような体験は初めてであった。

2015年9月5日土曜日

追憶 1090

”自分”というものを構成しているのは様々な意識の領域であり、わたしにはそのすべてを認識することはできない。
大まかなことしか分からないために、”自分”という存在を考察する時には途方も無い感覚を得るのである。

先日の事故によって、愛車のハイラックスサーフは廃車となった。
わたしは車に乗る気にはならなかったが、今日の車社会においてそれを否定することは難しく、車を購入することと、それを否定する考えを天秤にかけていた。
実生活が投げ掛ける必要性と反省から導かれる思想が葛藤するのであった。
免許停止の期間が過ぎても、車についてはあまり考えられなかった。

2015年9月4日金曜日

追憶 1089

また、”自分”という存在を考察する時、わたしは高揚を覚える。
”自分”という存在は、様々な意識の領域によって構成されているように感じるからだ。
それは、脳波として置き換えても良いだろう。
α(アルファー)波、β(ベータ)波、θ(シータ)波、δ(デルタ)波…
それぞれの領域で、働きが違うようである。
その体系がわたしには面白いものに思えるのである。
思考とは、最も扱い易い意識である。
それは、殆(ほとん)どの領域を制御することができるだろう。
それに比べて、感情というものは制御が難しい。
それは、半分は制御することができても、半分は制御することができない。
多くの人は、日々自らの内に存在している感情に手を焼いているのではないだろうか?
無意識は認識の及ばない領域である。
人がそれを認識するとすれば、事が起こった後のことである。
事が起こったとしても、認識の及ばないこともある。
これは意識の領域でも扱うことは困難である。

2015年9月3日木曜日

追憶 1088

”自分”という存在を考察する時、わたしは密林の中を彷徨(さまよ)うような気分になる。
それは、霊的な存在を認識するまでは思い付きもしなかった疑問である。
”自分”という目的地は、今(当時)のわたしにとっては途方も無い旅路であったことは明確な事実だ。
霊的な存在は、肉体を持たずに存在している。
それも、わたしの存在する時空と重なるようにして。
認識することができない人には、彼等を理解することができない。
わたしは20歳の頃に自らの意思によって霊的な世界を探求することによって、霊的な存在とのコンタクトが成功した。
しかし、これは想像することによって作り出した幻想ではないことは、実体験の中で、他人との認識の符合によって証明することができるだろう。
わたしは、自分勝手に霊的な存在を主張
しているのではなく、他人との共通認識を通して主張しているのである。

2015年9月2日水曜日

追憶 1087

霊的な存在達(霊や天使、自然の神々)と共に生きるということは、既成概念が崩壊するということである。
霊的な存在達と共に生きる中で、わたしの考え方や生き方は大きく変わった。
その中でも最も大きな変化というのは、

”人生というものは自分勝手に生きるべきではない”

と考えるようになったことだろう。
20歳を迎えるまでのわたしは、幼心に輪をかけて自分勝手に生きていた。
すべてを自分で選び、理想通りに事が運ばなければ不満を覚えた。
当時のわたしには当たり前だったその生き方は、今のわたしには多少なりとも不自然に思える。
とはいえ、自己中心的な考え方や生き方が消えた訳ではない。
現時点においては、それ等は少しだけ改善された程度である。

2015年9月1日火曜日

追憶 1086

それからしばらくして、男性が無事に退院したことを保険会社の担当者を通じて聞かされた。
それを聞いて、わたしは胸を撫で下ろした。
男性が無事であって本当に良かったと、心の底から思ったのである。
これから、男性がどのような人生を歩んでいくかは分からない。
しかし、学びの中で様々な経験を得ることは確かであろう。
今回の事故のように、人生には様々な学びが待っている。
それ等はすべて、自らを顧みるための大切な学びなのである。
わたしもこの学びを通じて様々なことを学び、少しだけ成長したような気がする。
わたしでさえそう思うのだから、男性も何かの実感を得たのではないだろうか?
わたしたちの学びはきっと終わりである。
だから、今後わたしが男性と会うことはないだろう。
わたしが言うのはおこがましいが、強く生きて欲しいと願う。